◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

日本の歴史を年表で知る!

最終更新日:2017年9月14日

 

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1.旧石器・縄文・弥生時代

 

 考古学によって列島の歴史を探る時代。

 

時代 事柄 根本史料 補足
弥生時代中期(紀元前2世紀後葉か) 環濠集落が巨大化し、高地性集落も造られる 環濠集落は南東北から九州まで約500ヶ所が知られている
前108年 前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼす 前漢は半島北部に楽浪(らくろう)・玄菟(げんと)・真番(しんばん)・臨屯(りんとん)の各郡を設置
前74年 朝鮮半島北部の4郡がまとめられ通称「大楽浪郡」が発足 『漢書』 楽浪郡には海のかなたから倭人が季節ごとに物を持ってやってきて郡の太守にまみえた
弥生時代中期後半(紀元前1世紀後半か) 三雲南小路遺跡一号甕棺(伊都国王が眠る)から漢鏡が出土 製作年代が紀元前後の鏡は奈良県では出土していない
弥生時代中期後半(紀元前1世紀後半か) 須玖岡本遺跡の王墓 奴国王の墓
中期後半(前1世紀後半から1世紀後半) 高地性集落の第一次ブーム 瀬戸内から大阪湾岸にかけて集中。北九州vs近畿などの広域な戦いは起きていない

 

 弥生時代前期 遠賀川式土器が東日本の各地から出土する。最初の発見1983年に旧南郷村の松石橋遺跡。

 

 高地性集落(『研究最前線 邪馬台国』P.146)
 ・弥生時代中期 瀬戸内から大阪湾岸にかけて集中
 ・弥生時代後期 大阪湾岸から奈良盆地東南部
 ・古墳時代初期 日本海沿岸の西方から東部(山陰・北陸)にも波及

 

2.プレヤマト王権時代

 

 文献によって日本列島の歴史を探ることが可能になった時代だが、文献史料はまだまだ限られている。列島各地にクニと呼ばれる政治単位が発生し、考古学的には弥生時代後期に当たる。日本列島各地で戦いが激化し「倭国大乱」と呼ばれる事態となり、環濠集落や高地性集落が作られる。やがて、環濠集落が終焉すると、大型の墳丘墓が築造される。

 

 この頃の地域の首長クラスの人物の名前には、最後に「ミ(ミミ)」や「ネ」で終わるものが多い。「ミ」は「御」、「ネ」は「根」。

 

 後に伊治城ができる伊治城遺跡から北大式の土器が出土している。

 

西暦 事柄 根本史料 補足
57 倭奴国王が後漢王朝の都洛陽に遣いを送り金印を賜る 『後漢書』 後漢初代皇帝・光武帝は遣いを引見した2ヶ月後に崩御
59 倭国が後漢王朝の都洛陽に遣いを送る 『後漢書』
107 倭国王帥升等が生口(奴隷)160人を献じて、後漢第6代皇帝・安帝に拝謁を願う 『後漢書』 帥升は史上初めて現れた日本人の名前。松木武彦氏は楯築墳丘墓は帥升の墓とする。寺沢薫氏は帥升を伊都国王とする
184 中国後漢王朝で黄巾の乱が発生し後漢王朝の衰退が進む 『三国志』
2世紀 吉備に楯築墳丘墓(岡山県倉敷市矢部)が、出雲に西谷3号墳(島根県出雲市大津町字西谷)が現れる 楯築墳丘墓は突如として巨大な墳墓として登場するが、四隅突出型墳丘墓は紀元前1世紀くらいから徐々に発達
2世紀後半 倭国大乱 『後漢書』では、「桓霊の間」(後漢第11代桓帝<在位147〜67>・第12代霊帝<同168〜89>)と伝えるが、「桓霊の間」は常套句としても使われる
3世紀 前方後円型の纒向古墳群が築造される この段階では葺石は無く、数十年後の箸墓古墳の段階で吉備あるいは出雲からの影響により葺かれる
238 魏が公孫氏を滅ぼす 『三国志』
239 倭の女王が魏に遣いし親魏倭王に叙されらる 『三国志』
247 この年か翌年、卑弥呼死去 『三国志』
3世紀半ば 箸墓古墳が築造される 前代までの纒向古墳群の墳丘墓は100m前後だったが突如として280mに巨大化。吉備や筑紫勢力の影響が濃厚
266 倭が西晋に遣いを送る 『晋書』

 

 倭国の王たちは後漢王朝と接触したことにより、鏡を授与される。当初は北九州の遺跡からの出土が多いが、3世紀後半以降の出土遺跡は北九州が激減し、近畿に集中。中国との外交窓口が畿内勢力(つまりヤマト王権)に移ったためか(『研究最前線 邪馬台国』P.162)

 

 金印の読み方についての説で「委奴国(いとこく)」があるが、魏志倭人伝に伊都国は代々王がいると明記してあることから、奴国王ではなく伊都国王が授かった印綬かもしれない。複数いる倭国の王たちの中でも金印を授けられるのは一人のはずで、この頃の北九州の王たちの代表者は伊都国王ではないか。帥升も伊都国王ではないか。

 

 古墳は西日本各地の首長墓を構成していた要素を総合したものとして出現(『古代国家と大化改新』P.154)

 

 弥生時代中期末以降の変動の要因は海面の上昇による低地(河内)の水没と大和盆地への移動(『古代国家と大化改新』P.156)

 

3.ヤマト王権時代

 

 4世紀末から5世紀にかけて、倭は朝鮮半島で高句麗と戦っている。卑弥呼の死から150年経ち、その間の列島内では、ヤマトを拠点としたヤマト王権が各地の王権を主導する立場となり、彼らはともに協力してヤマト政権を運営し、共通の墓制として前方後円墳を構築し、鉄の確保などのために朝鮮半島に繰り出して戦いを展開していた。

 

 応神天皇の頃から、部民の一つである名代・子代が設定され始めたことが各地に残る地名を見れば事実であったと思われる。ただし、彼らの系譜関係を復元するのは難しい。

 

 氏姓は5世紀末から6世紀初頭にかけて成立(『ワカタケル大王とその時代』P.129)
 5世紀は伴制の時代、6世紀は部制の時代(『ワカタケル大王とその時代』P.138)

 

 この頃の倭は中国を中心とした冊封体制の中にいて、中国から「倭」という姓をもらい、国内にも姓を拡げて行った。

 

西暦 事柄 根本史料 補足
4C前半 前方後方墳あるいは前方後円墳の造営地域が宮城県北部・山形県南部地域まで拡大 雷神山古墳(名取市)・会津大塚山古墳(会津若松市)など
369 百済王が倭王に贈ったとされる七支刀が鍛造される 七支刀 鍛造年代については異説あり
391 高句麗が倭・百済連合軍を撃破 広開土王碑  
399 再び、高句麗が倭・百済連合軍を撃破 広開土王碑  
404 帯方地方で百済・倭連合軍が高句麗の水軍に惨敗 広開土王碑 『古代を考える 雄略天皇とその時代』P.36  
413 倭国方物を献ず 『晋書』  
396〜418 安帝の時、倭王賛あり 『梁書』 安帝は東晋の第10代皇帝(382〜419<在位:396〜403・404〜418>)
421頃 高句麗が新羅を臣従させる 『古代を考える 雄略天皇とその時代』P.25  
421 倭讃朝貢し除授を賜う 『宋書』「倭国伝」 高句麗が新羅を従属化させたことが影響。宋(劉宋)は420〜479年
425 讃、宋に司馬曹達を遣わす 『宋書』「倭国伝」 讃は中国出身と思われる曹達を司馬に任じる権限を持っていた
429 倭国が百済の要請で半島へ出兵。これを最後に百済と倭とはしばらく交流しなくなる 『三国史記』
『日本書紀』「応神紀」39年条 「雄略紀」
『古代国家と大化改新』P.193
『古代を考える 雄略天皇とその時代』P.31
 
430 倭王讃宋に遣いを遣わせて方物を献ず 『宋書』「本紀」 この記述は「倭国伝」にはなく「本紀」にある
438 倭王讃死し、弟珍立つ。珍、遣使貢献す。珍を安東将軍倭国王とす 『宋書』「本紀」・「倭国伝」 『梁書』では珍は弥と記述。倭隋ら13人の除正を求める
443 倭王済、遣使貢献す。済を安東将軍とす 『宋書』「本紀」 この記述は「倭国伝」にはなく「本紀」にある
451 倭国済、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加う 『宋書』「本紀」・「倭国伝」  
458 雄略天皇即位 百済の武寧王陵墓誌には「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到」とある。癸卯年は523年なので武寧王の生年は462年となる。『日本書紀』「雄略紀」では、武寧王は雄略5年に誕生した。雄略の即位は丁酉(ひのととり)で457年となる。1年の誤差しかないので、雄略の即位は457年か翌年であろう
460 遣い 『宋書』「本紀」
462 倭国王済死す。世子興、遣使貢献す。興を安東将軍倭国王とす 『宋書』「本紀」・「倭国伝」
471 金錯銘鉄剣に115文字 金錯銘鉄剣
475 高句麗の攻撃によって百済が南遷
477 倭国遣使、方物を献ず 『宋書』「本紀」 この記述は「倭国伝」にはなく「本紀」にある
478 倭国王興死し弟武立つ。武遣使して方物を献じて上表す。武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王となる 『宋書』「本紀」・「倭国伝」
479 倭王武を鎮東大将軍とす 『南斉書』 この年建国した南斉が形式的に任命、倭からの使者は無い
502 倭王武を征東将軍とす 『梁書』 この年建国した梁が形式的に任命、倭からの使者は無い

 

 讃 413〜438
 讃の弟珍 438
 済 443〜462
 済の世子興 462
 興の弟武 478

 

 

第十五代 応神天皇

 

 応神天皇の治世は、『日本書紀』が引く『百済記』を元にすると、390年から430年の41年間で、『日本書紀』では即位の年は庚寅としており、それは390年である。しかしそうすると、宋に遣いした讃が応神となる。

 

 この頃から畿内ほかに超大型の古墳が造営され始めるが、現実的に現在残る大型古墳の数と『日本書紀』に記載されているこの頃の歴代天皇(大王)の数は合わない。天皇以外の有力者も天皇級の大型古墳に葬られた可能性もあるが、『記紀』に記された天皇の系譜関係は信用しない方が無難。ただし、『記紀』記載の天皇がまったく実在しなかったわけでもなく、『記紀』を編さんする上でモデルとなった大王がいたと想像できる。『日本書紀』では、前代まではヤマトを拠点としていたが、応神以降反正までの4代は、大阪府河内地方に宮殿を営み、古墳もまたその地に造営される。水野祐氏は、三王朝交替論を展開し、応神以降を新たな王朝とし、一般的には「河内王朝」と呼ばれている。水野祐氏は、『日本書紀』には、応神天皇は北九州で生まれ、ヤマトに向かう途中に異母兄弟の香坂・忍熊の二王に迎撃されたと記述されていることから、応神は北九州の豪族だとする。そして、その出自をたどると邪馬台国時代の狗奴国王で、しかも狗奴国王家は半島から渡ってきたツングース族であるとする。また、これを「ネオ騎馬民族征服説」と命名した井上光貞氏も、応神天皇が北九州を出てヤマトを征服したという説に賛成であるが、どうせ仮説とするのであれば、応神の先祖をくどくどと云々するのでなく、応神自体が半島から渡ってきた方が仮説としては合理的だとしている(『日本の歴史1 神話から歴史へ』)。

 

 ただし、この説には考古学からの反論がある。

 

 考古学者の広瀬和雄氏は、箸墓古墳から5世紀後半頃の岡ミサンザイ古墳にかけて墳丘構造に劇的な変化はなく、河内もヤマトも同じ大和川水系であり、4世紀末から5世紀後半にかけて、その範囲にある古市・百舌・佐紀・馬見の各古墳群では同時並行的に一代ごとに墳丘長200メートル級の大型古墳が築造されていることから、倭の五王の時代には、それら4つの勢力が共同で政権を運営していたと考え、その中でも古市・百舌の二大勢力から倭の代表(大王)が出て、それが中国の歴史書に残る倭の五王であると考えている(『前方後円墳の世界』)。

 

 『日本書紀』が伝えるように、応神に続く天皇家が当時の朝鮮半島情勢を鑑み、上流部のヤマトから下流部の河内に宮殿を遷したと考えることもできるが、そもそも天皇家が『記紀』が伝えるように単純に一系であったと考えること自体が危険であろう。応神の家系はもともと河内にいて、河内がヤマトよりも外国に対してアクセスしやすい場所だったこともあり、やがて力を付けて広瀬氏の考えのように倭の共同政権の中でリーダー的位置に登ったと考える。

 

 ただ、どうしても引っかかるのが、応神が北九州で生まれたという所伝である。これがどんな真実を内包しているかはもう少し考えてみたい。

 

 また、応神天皇が全国に展開する八幡神社の祭神となっていることの理由をもっと考えた方が良いだろう。

 

第十六代 仁徳天皇

 

 癸酉。433年。応神が死んだのは430年だが、『日本書紀』には応神の死後譲り合って時間が経過したとある。兄とも戦っているのでそのために即位が3年後になってしまったのだろう。記事の内容は豊富だが、民話のような話ばかり。百済の件は一つだけ出てくるが、半島側の記録にはなく、何かの伝承のようなはなし。在位期間が87年というのはもちろん間違い。上毛野氏に伝わる伝承も引用しているが、同時代かどうかは分からない。

 

第十七代 履中天皇

 

 庚子。460年になってしまう。『日本書紀』には即位の際にゴタゴタ。この頃、河内に大型古墳が築造されており、古市と百舌の勢力がその時々によって大王になったと考えられるが、大王になるのは平和裏ではなく毎回ゴタゴタが起きていたと考えてよい。

 

第十八代 反正天皇

 

 丙午。466年。事跡がほぼゼロ。

 

第十九代 允恭天皇

 

 壬子。472年。即位に際する謙譲さが中国の物語のようだ。壬子に即位。390年の後の壬子は412年か472年だが、412年ではまだ応神の治世まっただなか。472年になると稲荷山古墳の鉄剣の翌年になってしまうが、允恭と応神の間に3人いるとすると、472年だとちょうどよい。

 

 初めて飛鳥の地に宮を設けた。遠飛鳥宮(奈良県高市郡明日香村飛鳥か)。飛鳥の地に宮を設けた初めての天皇が允恭であったが、陵墓が河内なので、出身は父祖以来の地である河内で、そこから飛鳥に向けて版図を拡げたと考えられる。

 

第二十代 安康天皇

 

 甲午。454年。

 

第二十一代 雄略天皇

 

 在位 457〜479年 武ではなく興となる 478年の有名な武の上表は、雄略の後継者のものか。そうすると、応神が讃とすれば、珍と済が挟まる。記紀では天皇は4人。

 

 『日本書紀』によると、丁酉に即位。457年が妥当だが武寧王の話だと458年になる。誤差の範囲か。

 

 倭の五王の最後、「武」に比定。雄略天皇の在世中には、東は関東の一部、西は九州の一部まで大和朝廷の支配下にあったことが確実だが、関東や九州の全域が支配下であったかどうかは不明。

 

 桜井市脇本遺跡。5世紀、雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)跡。6世紀、欽明朝の行宮の泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)跡 、7世紀、大伯皇女の斎宮跡の可能性。すぐ近くには王権の武器庫があったと言われる忍阪や軍事氏族の大伴氏の本拠地もあり、水陸の交通の要所としても大和と東国を結ぶ重要な位置にあります。

 

第二十二代 清寧天皇

 

 都は磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや、奈良県橿原市東池尻町の御厨子神社が伝承地)。

 

 庚申に即位。480年。

 

 応神 在位390〜430 讃 413 421 425   誉田御廟山古墳 420m 古市  治定通り
 仁徳 433〜          弟珍 済 438 443 451 仁徳の代に珍と済がいるのはWikiに書いてある通り元々二人の天皇の事跡が仁徳記にまとまっているためか? 大仙陵古墳 486m 百舌 治定通り 難波高津宮(なにわのたかつのみや 大阪府大阪市中央区か)
 履中 460〜          世子興 460 462 磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや、奈良県桜井市池之内に稚桜神社がある)
 反正 466〜 事跡ゼロ    送っていない 丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや 大阪府松原市上田七丁目の柴籬神社が伝承地)
 允恭 472〜          送っていない 市の山古墳 228m 古市  治定通り 遠飛鳥宮(とおつあすかのみや 現在の奈良県高市郡明日香村飛鳥)
 安康 454〜                                          石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや 現在の奈良県天理市田町あるいは同市田部か)
 雄略 在位457〜479     弟武 478 479 岡ミサンザイ古墳 古市                   奈良県桜井市
 清寧 480〜          

 

 代替わりのときにほぼ毎回、ゴタゴタが起きている。中には允恭のように跡を継ぐのを嫌がっていた人もいた。

 

 こなると、安康・雄略ラインが異質。仁徳(の片割れ)在位中の454年に、天理市で旗揚げ。一方の仁徳は大阪市。雄略になって桜井市へ移動。ところが仁徳の跡を継いだ履中が桜井市に進出し、雄略は河内の志紀(大阪府八尾市)に逃亡。結果的に允恭没後の後継者の木梨軽王子を滅ぼし、一元化に成功。さっそく中国に上表し、「武」とされる。

 

 平群真鳥は仁賢の死後、国王になろうと画策した。

 

 5世紀の履中、名代・子代発生。『古代国家と大化改新』P.201

 

古代研究選書
古代氏族の系譜
古代を考える
雄略天皇とその時代
日本史リブレット5
大王と地方豪族
1987年 1988年 2001年


この時代に活躍した大伴氏について詳述


 


 

 

 雄略23年8月 死期を悟った雄略が大伴室屋大連と東漢掬直に遺詔した。渡来系の東漢氏が大伴氏と並んで有力な氏族であったことが分かる

 


2003

 

 


2014

 


2004

 

 清寧天皇が億計と弘計を迎い入れたのは不可解。自分の父が二人の父を殺しているので、そんなことはしないはず。儒教っぽくて異様。

 

 顕宗天皇の都は近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや。現在の奈良県高市郡明日香村八釣、あるいは大阪府羽曳野市飛鳥の地か)。『古事記』は単に「近飛鳥宮」とする。
 仁賢天皇の都は石上広高宮(いそのかみのひろたかのみや。奈良県天理市石上町、あるいは同市嘉幡町か)。
 武列天皇の都は泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)。奈良県桜井市出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑がある。『古事記』では「長谷之列木宮」と記す。

 

継体〜蘇我王権時代(大化改新まで)

 

 5世紀後半の雄略天皇の没後、列島内では混乱が生じたようで、やがて6世紀の初頭には継体天皇が混乱を収集し、列島内のヤマト政権のリーダー(大王)として即位する。

 

 大王の地位は世襲で固定されておらず、時々の権力者がその地位に就き大和政権を運営。蘇我氏が徐々に力を蓄え、政権を主導する立場にまで至った時代。

 

 大伴大連金村・物部麁鹿火・巨勢大臣男人が継体を擁立。58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや 大阪府枚方市楠葉)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女を皇后とした。枚方市は北河内だが摂津にも近い。なぜ58歳の当時としてはもう寿命が来ている人に多くの人たちが結集したのかが不可解。それに生没年ともに日本書紀と古事記で大きく食い違っている。要するに良く分かっていない人物。事跡も大したことない。

 

507年 継体即位 大伴金村が活躍

 

大和入りする前に、目子媛(めのこひめ。尾張連草香の女)を娶っており、勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ 安閑天皇)と檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ 宣化天皇)を生んでいるが皇后は大和入り後の手白香皇女(たしらかのひめみこ 仁賢天皇の皇女)で彼女は欽明を生んでいる。

 

526年 大和入り
527年(継体21年)磐井の乱

 

継体の今城塚古墳は摂津。摂津の勢力が支持。他に近江や越前・尾張の勢力も見える。つまり畿内中枢を取り囲む形で支持基盤を固めたうえで大和に入ったことになる。そうすると、元々ヤマト政権の中枢にいた金村らの動きが不可解。

 

磐井の乱の後、西国に国造が置かれるようになった。(『国造制の成立と展開』P.69)
 とすると、国造制は継体朝かその直後の所産であり、継体朝の首班である大伴金村やこの頃から力を付けてくる蘇我稲目などの動向に注目したい。
 また、二朝並立説との関連は?欽明朝は安定しており、また朝鮮半島問題がメインとなっていたので、篠川氏の説を採るのなら、西日本の国造は欽明朝の所産ではないか?

 

欽明は継体系ではないのではないか?
安閑の都は勾金橋宮(まがりのかなはしのみや。現在の奈良県橿原市曲川町か)。 
宣化の都は檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや、現在の奈良県高市郡明日香村檜前)。東漢氏の本拠地になぜ宮殿をおいたか?またそこは蘇我氏の影響下。蘇我稲目が大臣になっていることが何か関連しているはず。稲目は宣化に仕えながらも娘を二人欽明に嫁がせている。

 

安閑天皇元年(534年) 武蔵国造の乱 安閑天皇は大和の勾金橋宮(まがりのかなはしのみや。現在の奈良県橿原市曲川町か)。
536年 宣化即位 稲目が大臣 二朝並立か?

 

このように継体即位頃は中央の情勢が不安定だったため、6世紀になっても関東では中央を無視したかのような大型古墳が築造され続ける。

 

第二十九代 欽明天皇

 

この間の歴史は552年の仏教公伝以外は朝鮮半島の話しばっかり

 

年号
西暦
月日 事柄 根本史料 補足

539
欽明天皇即位 日本書紀ではなぜ即位した年が元年になっていない? 『日本書紀』
欽明元年
540
新羅が任那地方を併合 大伴金村は物部尾輿などから外交政策の失敗(先の任那4県の割譲時に百済側から賄賂を受け取ったことなど)を糾弾され失脚して隠居する。 『日本書紀』
欽明元年
540
3月 蝦夷・隼人が帰順 『日本書紀』
欽明元年
540
7月14日 都を磯城郡磯城島に遷した(磯城島金刺宮しきしまのかなさしのみや、現在の奈良県桜井市金屋・外山) 『日本書紀』 桜井市外山にある市水道局の敷地内に推定地の石碑がある
欽明5
540
12月 佐渡島に粛慎(オホーツク人) 『日本書紀』

 

欽明13年(552)10月 仏教公伝
欽明23年(562)1月 新羅が任那の官家を打ち滅ぼす
欽明31年(570) 高句麗はすでに570年から数回、国書をたずさえて日本海側の越に到り、倭国に修交を求めていた。(『大王から天皇へ』P.222)
 3月1日 稲目死去
欽明32年(571) 4月 欽明崩御

 

欽明の墓は見瀬丸山古墳(318 奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町)、従来欽明墓といわれていた梅山古墳(140)は、蘇我稲目の墓。『古墳とヤマト政権』P.173 蘇我氏の本拠地に欽明の墓がある事実は重い。

 

第三十代 敏達天皇

 

572年 敏達即位
581年 綾糟来朝 この時期に国造が東国にも置かれた?
585年 5月 敏達崩御
 聖徳太子(574〜622)
大山氏は、敏達の死後は、蘇我馬子が大王になり、ついで舒明、蘇我蝦夷、蘇我入鹿と大王位が続いたと推測 大王が一つの家系からでなければいけないという発想はまだなかった
588 飛鳥寺造営開始
崇峻2年(589) 東山道・東海道・北陸道の巡察
 篠井氏はこれを東国の国造設置と見ている。

 

 欽明・敏達はヤマトに拠点を置き、蘇我氏は飛鳥に拠点を置き、時代によってどちらかがヤマト政権のリーダーを務める。

 

 敏達がのちに宮殿を遷したのは奈良県桜井市戒重。飛鳥ではない。
 欽明の見瀬丸山古墳は、微妙に飛鳥。

 

 592年に飛鳥の豊浦宮(奈良県明日香村豊浦)で推古天皇が即位したときから、710年に平城京に遷都するまでの期間を教科書的には飛鳥時代と呼ぶ。ただし、『日本書紀』によると、600年当時は推古天皇の治世であるはずだが、中国の記録では当時の天皇は男性で妻もいるとあるので、大山誠一氏が述べる通り、この時代の大王の系譜は『記紀』を鵜呑みにしてはいけない。600年に初の遣隋使が派遣され、彼らが中国を見てきたのが倭にとっては大きな刺激になった。

 

『新撰姓氏録』では蘇我氏を皇別に分類していることから初期天皇家につながる名門ではないか。分家。

 

6世紀から「人制」。 『古代国家と大化改新』P.200

 

 

592〜603 推古天皇 豊浦宮 稲目が552年に小墾田の家に祀ったあとに向原の家を寺とした。これが豊浦寺。628年ころ伽藍が整った 『考古学からみた推古朝』P.94 124
 推古天皇がなぜ蘇我家の私邸を宮殿にしたのか?
 聖徳太子は仏教的リーダーだったのではないか
600 遣隋使1 日本書紀になし まずは挨拶からということか
603〜628 小墾田宮(おはりだのみや)は推古朝および奈良時代の淳仁・称徳の行宮。奈良県明日香村の雷丘東方遺跡か  『考古学からみた推古朝』P.125 中国の影響を絶対受けているはず
603年 冠位十二階(氏姓制度の打破)
604 十七条憲法
607 遣隋使2 妹子が煬帝を怒らせる。ただ、隋は高句麗と関係が悪かったので、とりあえず倭とは繋いでいようと考え裴世清(従八品という卑官)を帰国する妹子に付けた。妹子は返書を失くす。
608-9 妹子が復権し遣隋使3 裴世清の帰国。隋に渡った学生と僧は帰化人。
610 遣隋使4 日本書紀になし 日本にとって都合が悪い?
推古天皇21(613) 奈良平野の横大路が整備 『古代の道路事情』
614-5 遣隋使5
618 隋滅亡
626年 玄武門の変
630年 第一次遣唐使
642年 越の蝦夷帰服 高句麗で対唐強硬派である淵蓋蘇文がクーデター

643年 上宮王家滅亡
644〜5 唐の第一次高句麗討伐

 

第三十五代 皇極天皇

 

 日本書紀を読んでも全く天皇の顔が見えてこない。書かれているのは半島関係、蘇我氏関係、自然現象など。大山氏の「敏達→蘇我馬子→舒明→蘇我蝦夷→蘇我入鹿」説は説得力がある。

 

大山氏説 敏達→蘇我馬子→舒明→蘇我蝦夷→蘇我入鹿

 

飛鳥時代後半(大化改新〜近江朝時代)

 

 教科書的に呼ぶところの飛鳥時代の後半。いわゆる「大化改新」という政治改革によって国内政治は大きく転換する。

 

第三十六代 孝徳天皇

 

 生没年 ?〜654
 在位 645〜654
 政権首班 中大兄皇子

 

 孝徳天皇の時代に「天下立評」が行われ、それまで地方を半独立的に支配していた国造が評督・助評という、いわば地方公務員に任命され、中央集権化が一歩進んだ(『常陸国風土記』の記述を元に鎌田元一氏が提唱)。

 

 大化前代の伝統に基づき畿内制が確立『古代国家と大化改新』P.76

 

年号
西暦
月日 事柄 典拠 根本史料
大化元年
645
6月14日 皇極が軽王子に譲位、孝徳即位。中大兄が皇太子となる 『日本書紀』
大化元年
645
難波長柄豊碕宮に遷都 『日本書紀』
大化3年
647
渟足柵造営 靺鞨対策か?対蝦夷だけでなく、高句麗との通好に必要 『日本書紀』
大化3年
647
冠位十三階を制定 『日本書紀』
大化4年
648
磐舟柵 『日本書紀』
大化5年
649
冠位十九階を制定 『日本書紀』
白雉4年
653
5月12日 第二次遣唐使が出発 前回から23年開いている 『日本書紀』

653
中大兄皇子が孝徳の妹(皇極天皇)、孝徳の皇后ら公卿百官を連れて飛鳥へ戻る 『日本書紀』

653
磐城評成立 『郡山遺跡』P.8 常陸国風土記
斉明5年
659
3月 道奥国初見 日本書紀

 

 大化・白雉とつづいた年号が孝徳の没後途絶えてしまったのは、やはり皇極&斉明天皇のラインと考え方が違ったからだろうか。

 

第三十七代 斉明天皇

 

 斉明天皇(594〜661)
 政権首班 中大兄皇子

 

 孝徳の死によって、中大兄皇子の母で元皇極天皇が重祚。

 

 655年 蝦夷に冠位
 658年 阿倍臣の遠征 ただしこの頃は粛慎は勿吉を経由し靺鞨になっている
 郡山遺跡第一期・名生館遺跡もこの頃

 

第三十八代 天智天皇

 

 天智天皇(626〜71)
 スーパーサブ 中臣鎌足

 

 660年 百済滅亡
天智天皇2年 663年 8月、白村江の戦い
4・6年 古代山城建設ラッシュ
 664年 冠位26階
      5月、百済にいた唐の鎮将(占領軍司令官)劉仁願が朝散大夫郭務悰を日本に送る 12月に帰国(半島へ?)
      この間、西国の防備を固める 日本書紀では唐のことを「大唐」と表記 新羅の使者もたびたび来日
 665年 9月、唐が劉徳高や郭務悰らを遣わせてきた。総勢254人。12月帰国。
 667年 3月19日、、中大兄皇子は都を近江の大津宮に遷都。その翌年(668年)1月、称制実に7年にわたったが、中大兄皇子は即位して天智天皇となった。
            近江大津宮 滋賀県大津市錦織 国史跡錦織遺跡 
      11月、劉仁願が遣いを筑紫都督府に送る。すぐに帰国。
 668年 天智即位 新羅が半島統一
天智朝(668〜71) 駅路の整備がかなりの地域において進められた『古代の道路事情』 → 唐・新羅軍の攻撃に備え、地方の軍隊を首都にすぐに送れるように整備したのか?そうだとすると地方の有力な評造の本拠地を通っているか、彼らが出撃しやすいルートになっているはず。
 669年 10月、鎌足死去
      郭務悰ら2000余人の派遣。これだけの人数なのであきらかに武力を背景とした進駐と考えられるが、日本は西国の防備を固めており武装解除はしていない。
 670年 2月、庚午年籍 → 百済の亡命貴族らの働きで地方の役人も漢字が書けるようになった『古代の道路事情』
天武系統時代(律令時代) 不比等659〜720

 670 新羅が唐に宣戦布告
 671年 10月、大海吉野に逃避
      郭務悰ら2000人が来た。669年の方は誤伝でこちらが正しいか。壬申の乱の直前に帰国している。新羅攻撃を依頼。
      12月3日 天智崩御(46歳)

 

 天智朝においては特別な地方行政上の改革は行われなかったと結論 『古代国家と大化改新』P.69

 

第三十九代 弘文天皇(大友皇子)

 

 648〜72

 

 亡命百済人を賓客としていることから父と同じく百済派。

 

 672年 壬申の乱
  6月24日 大海人皇子が吉野を出た
  7月2日 大海人皇子が美濃から近江と大和方面へ兵を繰り出す
  7月22日 瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗
  7月23日 大友皇子自殺

 

 新羅が唐と戦ってくれていたから天武天皇が挙兵して国内が混乱状態になっても大丈夫だったことはあきらか。そうでなければ、混乱時に唐の軍勢に攻め込まれて日本は滅んだかもしれない。

 

第四十代 天武天皇

 

 天武天皇(?〜686)
 スーパーサブ 鸕野讚良皇女(後の持統天皇)
 在位 672〜686年

 

 

 天智や大友と打って変わって親新羅派。
 673年2月 飛鳥浄御原宮で即位
        大友の自殺から7ヶ月経っている。

 

 675 部曲廃止

 

天武5年(676)正月25日 陸奥国初見 日本書紀
 676〜725 郡家(評家)の出現 これ以前も当然ながら評督の居館はあったはず。例えば国の援助で画一的な評家を建てるとともに評造から評督に一段階進めたのか?『古代の道路事情』
 681年 帝紀および上古の諸事を記し校訂。のちの日本書紀に繋がる。 律令制定着手 新しい都づくりのための調査を開始
天武12(683)〜14 国境画定 【評・五十戸】『古代の道路事情』
681〜83 「五十戸」表記が「里」となる。『飛鳥の木簡』P.52 国境画定作業の一環で五十戸が里になったか?吉備・古志・筑紫・火・豊などは分割される
天武13年(684)1月 信濃の地形を視察させている。何のためか?この頃、新羅からのプレッシャーはないはず
 10月 八色の姓制定
天武14年(685)3月27日の詔 郡寺建立開始 冠位48階制定

 

四大寺(大官大寺・薬師寺・川原寺・飛鳥寺)に読経を命じた経典は、曇無讖(どんむせん。中インド出身)が421年頃漢訳した『金光明経』のことか。
天武5年(676)2月 大友連国麻呂が新羅から帰った
 11月20日 諸国に遣いし、金光明経、仁王経を説かせた
 676年は奇しくも新羅の半島統一完了年
天武9年(680)5月1日 金光明経を宮中と諸寺で説かせはじめた
朱鳥元年(686)7月8日 宮中で100人の僧に金光明経を読誦させた
持統3年(689)閏8月 兵士を一般の力役と分けた 『地方官人たちの古代史』P.131
持統6年(692)閏5月3日 京師や畿内で金光明経を講説
持統8年(694)5月11日 金光明経100部を諸国に送った。毎年一度供養する。
持統10年(696)12月1日 勅して、金光明経を読ませるために毎年大晦日に10人得度させる

 

天武系は新羅派だったので、新羅と友好を結んだことにより、金光明経がもたらされたのだろう。あるいは金光明経を軸にした宗教同盟か。
新羅の真興王は、551年には高句麗から僧恵亮を、565年には陳から僧明観と仏典1700巻を得た。576年には中国に求法留学していた安弘法師が胡僧の?摩羅を伴って帰国した。真興王は恵亮を僧統(僧侶の最高職位)に任命し、新羅で初めての百座講会と八関会とを催させた。
白村江の戦での敗北に続く時期の天武朝(673〜686)には、『金光明経』による四天王信仰が盛んになっていた。当時、新羅でも唐の進攻に対して四天王寺が建立されていた。

 

第四十一代 持統天皇

 

 持統天皇(645〜702)
 スーパーサブ 藤原不比等

 

持統元年 要害之地(ぬみのところ)

 

持統天皇3年(689) 蝦夷の僧が仏像を授けられる 評界画定 【国・評・里】 飛鳥浄御原令施行(681年から編纂開始)
持統天皇8(694) 藤原京成立 5.3km四方で平城京よりも広い 飛鳥京の木簡「横見評」 『古代の道路事情』
698年 渤海建国

 

第四十二代 文武天皇

 

 文武天皇(683〜707)
 スーパーサブ 藤原不比等

 

大宝元年(701) 大宝律令完成、翌年にかけて施行
大宝2年(702) 33年ぶりに遣唐使派遣
大宝3年(703)、引田祖父が武蔵国守に任じられた。史料上では最初の武蔵国守。
 大宝以降、干支年で示されていた年紀が元号表記が一般的となる。この年以降、「評」表記が「郡」となる。『飛鳥の木簡』P.51
大宝律令で地方の行政区画の再編があったのならば、武蔵北部と南部が合体して武蔵となった可能性はないか?

 

第四十三代 元明天皇

 

 元明天皇(661〜721) 在位707〜15
 スーパーサブ 藤原不比等

 

和銅元年(708)、秩父郡で和銅(精錬の必要の無い自然銅)が発見された。
 9月28日 出羽郡建置許可
709年 初の蝦夷遠征 → 巨勢麻呂と不比等との関係は?
 絶対資源が欲しかっため。 銅もそうだし、おそらく金があるという情報も得ていたはず。他に、海産物や、毛皮など。

 

奈良時代

 

第四十三代 元明天皇

 

 元明天皇(661〜721)
 スーパーサブ 藤原不比等

 

和銅3(710) 平城京遷都
和銅5年(712) 出羽国建置?
和銅6年(713)5月2日 国郡郷名を「好字」2字に改める
 12月2日 丹取郡建置
715 5月30日 相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野6国の富裕な民1000戸を陸奥国へ移住させる 陸奥国のどこかは分からないが黒川以北10郡(11郡)には新田郡と賀美郡があり色麻郡には相模郷がある

 

第四十四代 元正天皇

 

 元正天皇(680〜748)
 スーパーサブ 藤原不比等 → 長屋王

 

霊亀元年(715)9月2日 元明天皇の譲位により即位
霊亀元(715)10月29日 香河村と閇村に郡家設置申請
霊亀2年(716) 武蔵国に高麗郡建置
養老元(717) 郷に改称
養老2年(718) 岩城・岩背国成立
養老3年(719) 按察使の制度施行
養老4年(720) 日本書紀リリース
 8月 不比等病没
 9月 陸奥の蝦夷が反乱を起こし、按察使上毛野広人を殺害
721 石城・石背が陸奥に再併合

 

 

第四十五代 聖武天皇

 

 聖武天皇(701〜56) 在位724〜49
 政権首班 舎人親王・新田部親王

 

神亀元年(724)2月4日 聖武天皇即位
3月 海道の蝦夷が反乱を起こし陸奥大掾佐伯児屋麻呂
724年 多賀城創建
神亀四年(727)10月5日 基親王誕生(翌年9月13日没)
726〜750 各国の国府が整備
神亀5年(728) 丹取軍団を玉造軍団に改称 これ以降丹取郡が見えなくなる
天平元年(729)2月 長屋王の変
天平7(735) 疫病の流行が始まる
天平9(737) 藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が相次いで病没
天平10(738) のちの孝謙天皇が女性として初めて皇太子となる
天平12(740) 藤原広嗣の乱
 聖武天皇は平城京を放棄、その後は恭仁宮(大養徳恭仁宮 〜744)、難波宮、紫香楽宮、と転々とする(17年5月に平城京へ戻る)
天平13(741) 国分寺建立の詔
天平14(742)以降 条里に数字を振る(条里呼称法成立)
天平15(743) 墾田永年私財法

 

第四十六代 孝謙天皇

 

在位749〜58

 

天平勝宝元年(749)7月 孝謙天皇即位
752 東大寺開眼供養
753 丸子嶋足、牡鹿連の姓を賜る
757 橘奈良麻呂の変

 

第四十七代 淳仁天皇

 

在位758〜64
スーパーサブ 藤原仲麻呂

 

天平宝字2年(758)8月 淳仁天皇即位
759 桃生城・雄勝城完成
天平宝字6年(762) 朝かり多賀城碑建立
天平宝字8年(764) 恵美押勝の乱
 称徳天皇即位(重祚)

 

第四十八代 称徳天皇

 

在位764〜70

 

 

第四十九代 光仁天皇

 

神護景雲2年(770) 光仁天皇、62歳で即位
 また天智系に戻る

 

宝亀2年(771)10月27日 武蔵国は東海道に移管
774 海道の蝦夷が桃生城を攻撃 三十八年戦争の開始

 

宝亀11年(780) 入間郡に榛原荘(はりはらのしょう。狭山市)という西大寺領荘園が存在(『新八中世』P.75)

 

789年 登米郡建置
799年 登米郡が小田郡に併合される
801年 登米郡複置

 

平安時代

 

永久元年(1113) 内記太郎殺害事件
保延6年(1140) 源義朝(18歳)、関東に下向
永治元年(1141) 義朝に義平が生まれる。母は三浦義明の娘
仁平4年(1154) 源義賢、上野国多胡荘に下向
久寿2年(1155)8月16日 大蔵合戦

 

 

鎌倉時代

 

第一章 奥州南部氏の初見
建武の新政の開始
1 鎌倉時代末期の元亨元年(一三二一)十二月九日、後宇多法皇は院政を停止して、子で三十四歳の後醍醐天皇に政務を執らせることにし、これにより後醍醐の政治が始まった。 『花園天皇宸記』2-P.179に日付あり
2 念願かなった後醍醐はすぐに記録所を設置した。 "『神皇正統記』P.172に記載が有るが日時は分からない
『保暦間記』P.54に記載が有るがいつか分からない
『増鏡』P.446に「記録所」が出てくる"
3 記録所は、所領問題など各種の事案を天皇みずからが決裁する機関である。
4 後醍醐は自分を頂点とする秩序の構築を願っていたが、それを遮るものがあった。幕府である。幕府の存在によって、後醍醐は自分の後継者を決めることも不可能とされていた。したがって後醍醐は、親政を始めると密かに側近の日野資朝や日野俊基らとともに倒幕の準備を進めていった。 『花園天皇宸記』3-P.74
5 ところが、後醍醐らの企ては、仲間であった土岐頼員の密告によって幕府の知るところとなり、元亨四年(一三二四)九月十九日、六波羅(幕府の京都の出先機関)が出動、京都市街において戦いになり、土岐頼有と多治見国長が討たれ、日野資朝と俊基は逮捕された(「正中の変」)。 "『花園天皇宸記』3-P.73に日付あり
『保暦間記』P.55では、九月二十三日"
6 幕府は後醍醐を咎めることはしなかったが、資朝と俊基は鎌倉に下された。 『花園天皇宸記』3-P.77、10月22日に伝聞
7 そして、翌正中二年(一三二五)閏正月には、資朝は佐渡へ流罪になることが決まり、俊基は赦免され京に帰れることになった。 『花園天皇宸記』3-P.102に日付あり
8 この件により幕府の朝廷に対する監視の目は厳しくなったが、それでも依然として倒幕計画は進められ、
9 後醍醐は嘉暦二年(一三二七)十二月六日には、子の尊雲法親王(のちの護良親王)を天台座主に補し、 『続史愚抄』
10 尊雲法親王はその後一度は罷めさせられたものの、元徳元年(一三二九)十二月十四日には再び天台座主に補され、 『続史愚抄』
11 元徳二年(一三三〇)三月八日には、春日大社や東大寺・興福寺へ行幸し、 "『増鏡』P.441に3月のころ春日に行ったことと日吉に行ったことは見える

『武家年代記裏書』P.160に春日行幸の日付あり"
12 二十六日には日吉社へ、 "『増鏡』P.441に3月のころ春日に行ったことと日吉に行ったことは見える
『武家年代記裏書』P.160に日吉行幸の日付あり"
13 翌二十七日には比叡山に行幸し、
14 十二月十四日には今度は尊雲法親王の弟の尊澄法親王(のちの宗良親王)を天台座主に補し、各寺社勢力の糾合を目論んだ。 『続史愚抄』前編P.495に日付あり
15 しかし今度は、元徳三年(一三三一)四月二十九日に後醍醐重臣の吉田定房の密告により後醍醐らの謀議は幕府の知るところとなり、 『蒙古襲来』
16 五月、俊基や僧文観・円観が逮捕され、 "『増鏡』P.444に俊基逮捕の件が見える
『北条九代記』下P.180
『続史愚抄』前編P.496には5月11日とある"
17 ついで俊基らは鎌倉に送られた。 『北条九代記』下P.181 6月とは書いていない
18 そのころ後醍醐は精神的な不良を訴えている。倒幕の謀議が発覚したことによる発症であろう。 "『増鏡』P.444に後醍醐体調不良の件が見える
『続史愚抄』前編P.497 6月15日御悩平癒"
19 そして、ついに八月二十四日、後醍醐は神器を携え宮中を出て、 "『梅松論』P.151に日付あり
『増鏡』P.446に日付あり
『北条九代記』下P.182
『武家年代記裏書』P.160

『続史愚抄』前編P.497"
20 奈良に潜伏し、 『増鏡』P.447
21 ついで二十七日に笠置山(京都府笠置町)で挙兵する。 『増鏡』P.447に日付あり
22 その間の二十五日には、大納言藤原宣房以下の倒幕関係者が六波羅によって逮捕されている。 『増鏡』P.448に日付あり
23 六波羅は二十七日に比叡山を攻撃し、尊雲法親王やその弟の尊澄法親王らが東坂本で六波羅軍と戦った。
24 その一方で六波羅は、ことの次第を鎌倉に伝え、幕府は九月二日、「承久の乱」の先例によって、西上の令を下し、
25 九月上旬には軍勢が進発した。その中には足利高氏(のちの尊氏)も含まれている。 "『保暦間記』P.56にあるが高氏は見えない
『武家年代記裏書』P.160 9月上旬とある"
26 高氏は、源頼朝と先祖を同じくし、九代前(自分を一と数える)があとに出てくる新田義貞と同祖の義国で、その子の義康が頼朝に協力して以来、鎌倉御家人として重要な地位を保ってきた。 『足方尊氏のすべて』所収「誕生から鎌倉幕府滅亡まで」
27 九月二十日、幕府の命によって後伏見上皇の詔でその第三皇子の量仁親王が践祚(天皇になること)した。光厳天皇である。こうして後醍醐は天皇の座から引きずり落とされたのだ。
28 笠置山は二十八日に陥落し、後醍醐は赤坂城(大阪府千早赤阪村)の楠木正成を頼って逃亡したが 『武家年代記裏書』P.160に日付あり
29 翌日に捕らえられた。 『武家年代記裏書』P.160に日付あり
30 一方、楠木正成は十月十五日に幕府軍により赤坂城の攻撃を開始され、
31 二十一日には落城、行方をくらませた。 『花園天皇宸記』3-P.212
32 後醍醐は六波羅に拘禁されたが、翌元弘二年(一三三二)正月十七日には脱走を企て失敗する。 『花園天皇宸記』3-P.250に日付あり
33 そして三月七日には隠岐に流されるため京都を出発した。一行には藤原行房や六条(千種)忠顕らが従い、 "『花園天皇宸記』3-P.259に日付あり

『梅松論』P.151に日付あり
『増鏡』P.458に日付あり
『伯耆之巻』P.208では3月17日。"
34 後醍醐らは四月一日に隠岐に到着した。 "『増鏡』P.464では、四月一日此
『伯耆之巻』P.208では4月21日
『梅松論』P.153にあるが日付は無い"
35 その一方で、四月十日には、佐渡に流されていた日野資朝や、拘禁されていた日野俊基らは斬首と決まり、文観は遠島、円観も遠流と決まった。 『花園天皇宸記』3-P.268に日付あり
36 なお、元徳三年(一三三一)八月九日に後醍醐は元号を元弘に改元したが、九月二十日に践祚した光厳は元徳を使い、
37 翌元徳四年の四月二十八日に正慶と改元した。 『花園天皇宸記』3-P.271に日付あり
38 正慶元年(後醍醐側の元号は元弘二年・一三三二)六月六日には、尊雲法親王が令旨を熊野社(和歌山県新宮市・田辺市・勝浦町)に発したが、熊野社はそれを六波羅に教えた。また、尊雲が京都に出没するとの噂が流れ、人心は動揺した。
39 尊雲は八月二十七日にも高野山金剛峯寺(和歌山県高野町)に兵を出させようとしたが拒否される。
40 そして十一月、ついに尊雲は還俗して名を護良と称し、吉野(奈良県吉野町)で兵を挙げた。 『梅松論』P.153
41 一方、楠木正成も河内国千早城で兵を挙げそれに応じた。 『梅松論』P.154
42 翌正慶二年(元弘三年・一三三三)年正月には播磨国(兵庫県)の赤松則村が兵を挙げ護良らに味方した。 『続史愚抄』前編P.509に日付あり 太平記、南方紀伝参照
43 それに対して幕府は大軍を差し向け、閏二月一日吉野は陥落し、護良は高野山に走った。 『続史愚抄』前編P.509に日付あり 太平記、南方紀伝参照
44 しかし、正成が拠る千早城は粘り強く抵抗し、なかなか落ちない。 『梅松論』P.154

45 それらの状況を隠岐で聴いていた後醍醐は、ついに閏二月二十四日、隠岐を脱出、 "『増鏡』P.479に日付の記載あり
『梅松論』P.154
『保暦間記』P.56"
46 伯耆国(鳥取県)の名和長高(このあと後醍醐の命によって長年と改名する)に奉じられて船上山(鳥取県琴浦町)から各地に兵を募った。 "『梅松論』P.156では、「既此事風聞しける」とある
『増鏡』P.479
『保暦間記』P.56"

 

南部時長らの奮戦と鎌倉幕府の滅亡
47 後醍醐に呼応した赤松則村は、三月十日に瀬河(大阪府箕面市)で六波羅軍と戦って敗れたが、 『太平記』巻8
48 翌日には再度戦いこれを破り、京都を目指した。 『太平記』巻8
49 一方、千早城(大阪府千早赤阪村)では楠木正成が幕府軍の攻撃を防いでいたが、幕府軍に加わって戦っていた新田義貞は病と称して千早城攻めの戦線から離脱している。後醍醐天皇の綸旨、あるいは護良親王の令旨を得たための戦線離脱ともいわれる。 "『太平記』巻7、2月11日
『尊卑分脈』3-P.246、2月11日"
50 義貞は尊氏や頼朝と同じく、八幡太郎義家の子孫であるが(「系図一」参照)、八代前にあたる初代の義重が頼朝にあまり協力的でなかったため、幕府内では重用されてこなかった。 『人物叢書 新田義貞』
51 赤松軍は十二日には一時的に京都に入り、 "『梅松論』P.156日付の記載あり
『増鏡』P.480
『続史愚抄』前編P.510に日付あり"
52 危険を感じた光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇は、御所を出て六波羅北方に避難した。 "『増鏡』P.480
『神皇正統記』P.174"
53 後醍醐挙兵と京都での戦闘の知らせを受けた幕府は、足利高氏と名越高家を援軍に差し向けた。 "『梅松論』P.156
『増鏡』P.481高氏のみ
『神皇正統記』P.174高氏のみ"
54 一方の高家は、承久三年(一二二一)の「承久の乱」で北陸道の大将軍を務めた式部丞朝時の後胤である。 『梅松論』P.157
55 高氏らは四月下旬京都に入り、 "『増鏡』P.481

『梅松論』P.156には四月下旬
『保暦間記』P.56
『神皇正統記』P.174"
56 伯耆攻めのための軍議の結果、高氏が山陰道から、高家は山陽道から攻めることになり、二十七日京都を出陣した。 『梅松論』P.157に日付の記載あり
57 ところが出陣早々、高家は、久我縄手(京都市伏見区から山崎方面への街道)の戦いで討ち死にしてしまった。 『梅松論』P.157
58 そしてここに幕府にとって一大事が発生した。高氏が後醍醐側に寝返ったのだ。
59 その知らせを聞いた京都の幕府側勢力は恐慌を呈し、逃亡するものが多く、上洛して戦っていた南奥の白河結城親光らは後醍醐側に寝返った。
60 高氏は東上してきた千種忠顕・赤松則村らと合流し、五月七日六波羅を攻めた。 "『梅松論』P.158に同日尊氏が攻めたとある
『増鏡』P.481に日付あり
『武家年代記』P.99"
61 六波羅探題北方の北条仲時や南方の同時益は、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を連れ出し京から逃れた。 『梅松論』P.159では7日夜半に脱出
62 しかし一行は野伏に襲われ、時益は討ち死にし、 『梅松論』P.159では7日夜討ち死に
63 残る仲時ら幕府側武将たちも、五月九日、近江国伊吹山の麓の番場(滋賀県米原市)の蓮華寺の前で切腹して果てた。 "『梅松論』P.159
『増鏡』P.484
『神皇正統記』P.174
『保暦間記』P.57"

64 その数は四百三十二人だったという。 『太平記』巻9
65 五月八日、上野国新田庄(群馬県太田市)で、さきに戦線離脱していた新田義貞が倒幕のために挙兵し、鎌倉に向けて進発したのだ。 『梅松論』P.160では5月中旬
66 義貞軍は、武蔵国(埼玉県・東京都)に侵攻し、十二日に挙兵した足利千寿王(尊氏嫡男で後の義詮)と合流し、その後も雪だるま式に軍勢を膨張させ、分倍河原(東京都府中市)に迫った。対する幕府は北条泰家(第十四代執権高時の同母弟)を迎撃に出発させ、十五日には、一度義貞勢は敗れたが、翌日には逆に泰家を討ち破っている。そして十八日には鎌倉近傍に攻め寄せた。 『人物叢書 新田義貞』
67 その日義貞軍は、稲村ヶ崎を突破し、鎌倉市街に乱入した。そして二十二日には、東勝寺で北条高時以下の一族だけでも二百八十三人が自害し、鎌倉全体で自害した数は六千人を超えたといわれている。鎌倉幕府の滅亡である。 "『人物叢書 新田義貞』
『梅松論』P.161では数百人"

 

 

建武混乱期

 

 教科書的には鎌倉幕府の滅亡以降は南北朝時代となるが、厳密に二つの朝廷が同時出現する時期は幕府滅亡から2年後の建武2年(1335)8月15日に光明天皇が即位してからとなるので、その間は「建武混乱期」と命名した。

 

1333 5月25日、後醍醐天皇は光厳(こうごん)天皇を廃して年号を元弘に戻した(建武親政開始)
1333 5月、師行、三戸より上洛 奥羽南北朝史 484
1333 5月 六波羅陥落
1333 6月、後醍醐天皇京都に帰還。6月5日、尊氏を鎮守府将軍に。23日護良親王を征夷大将軍に。北条領没収。七月、尊氏が外浜や糠部に地頭職を得、ただちに一族の尾張弾正左衛門尉を外浜へ派遣。8月5日、顕家が陸奥守になる。
1333 7月 新田義貞上洛か 政長は奥州へ帰り、義貞には時長・師行が従ったのではないか
1333 8月5日顕家を陸奥守、尊氏を武蔵守 東国の南北朝動乱 24
1333 冬。大光寺の曽我氏惣領曽我道性が名越時如、安達高景を奉じて、大光寺楯で挙兵。
陸奥国府は、庶子系光高、安藤五郎太郎高季、尾張弾正左衛門尉、田舎郡の工藤中務右衛門尉貞行などに、大光寺楯を攻めさせた。(12月〜翌年1月) 安東一族 92 まだ顕家派と尊氏派この時点では協力している
1333 11月 顕家、義良親王を奉じて奥州に下向
1333 12月、師行、糠部郡奉行兼検断として下向か 奥羽南北朝史 484 師行は、得宗地頭代として三戸などに若干の所領を持っていたが、この時は工藤氏に代わって郡の中心である根城に入ったと思われる。ただし、根城の大々的な改築は行っておらず、工藤氏が使っていた施設を流用する形だったと思われる。
1333 時長、師行、政長が武行を訴える 青森県史 19
建武元 1334 1月、大光寺楯落城。曽我光高は所領安堵を願い出たが認められず。 安東一族 93
師行、外ヶ浜明師、湊孫二郎祐季を揺さぶる。湊は青森。
安東入道は、宗季らしい。 安東一族 97
1334 阿曽沼朝兼、信長を恃む。 南部史要 八戸系図にもでてくる
元弘4 1334 久慈郡が闕所になったのを二階堂行珍に与える文書あり

もとは北条氏の所領だったと推定 奥羽南北朝史 91 一戸氏系の在地勢力がいたのかもしれない
1334 2月、師行、三戸早稲田の土地を毘沙門堂に個人名で寄進 奥羽南北朝史 53 師行と顕家の接点は何だったのか?
4月
一戸 工藤四郎左衛門入道跡
    同子息左衛門次郎跡 八戸上尻打
八戸 工藤三郎兵衛尉跡
三戸 横溝新五郎入道跡
又二郎は信長、又次郎が師行? 奥羽南北朝史 96 又二郎が信長、又次郎が師行だとすると、信長はこれにより糠部に分散的な所領を得ることができたのか
四戸、五戸、六戸の給主は不明。 三戸南部氏の当初の所領は六戸と三戸に散らばって存在し、義政、政盛の菩提寺の高雲寺が百石にあったことから根拠は六戸ではないか?(四天王の小笠原安芸系と争った赤沼氏も十和田と三戸に分散して領地があった)
馬淵川沿いの三戸よりも奥入瀬川沿いの方が平地も広く、開発しやすく住みやすい気がする。
櫛引八幡が最初は十和田にあったことから六戸西側は小笠原長清の系、東側は南部氏が治めたのではないだろうか。
四戸は小笠原長清の系統の櫛引氏が入っていたか?
島守氏の祖が早くから入部していたという伝承がある
蕪島には工藤氏がいたか?工藤氏と櫛引氏は仲良し?工藤秀信が浅水を攻めたのも櫛引と手を組んでのことか?
1335 3月10日、工藤貞行に外ヶ浜の野尻郷、鼻和郡目谷郷が与えられ、師行とその一族に、内摩部郷、泉田、湖方、中沢、東津軽郡の真板、中目郷、中津軽郡の左比内が与えられた。
内摩部郷は、もと安東宗季の本拠地のひとつ。湖方は後潟。 安東一族

北の環日本海世界 101
191
建武2 1335 7月25日鎌倉落城(中先代の乱)(挙兵は7月14日)
1335 8月15日 光明天皇即位、二朝並立となる
1335 信長の弟信行、顕家に従い戦功あり。 南部史要 14
1335 8月19日・征東大将軍足利尊氏が北条時行を破って鎌倉を奪回 (中先代の乱の終結)
1335 8月30日尊氏、斯波家長を奥州総大将に抜擢 中世奥羽の世界 105
1335 10月15日・足利尊氏が帰京命令に従わず、鎌倉に留まる
1335 11月26日・朝廷が足利高氏・直義の官位を剥奪
1335 信長の兄甲斐守義重、新田義貞に従う。 南部史要 14
建武2 1335 12月顕家、第一次西上
1336 3月 顕家が鎮守府大将軍になり再度下向 中世奥羽の世界 104
延元元 1336 4月 武者所詰番事 一番 南部甲斐守時長 建武記 山梨県史

 

 

68 近江国太平護国寺(滋賀県米原市)に幽閉されていた光厳天皇は、五月二十五日、伯耆の後醍醐からの詔書で退位し、それとともに正慶という元号も廃され、すべては後醍醐が光厳に譲位した一年九ヶ月前に引き戻された。 17日?
69 後醍醐は六月四日京都に舞い戻ったが、復位したわけではなく、単に帰京しただけだということを強調した。そしてここに、四十六歳の後醍醐の、世に言う建武の新政が始まったのである。 "『増鏡』P.485では六月六日に東寺から内裏に入った
『公卿補任』では、4日に入洛し東寺、5日に内裏。関白停職は17日となっている
『保暦間記』P.57では、4日に東寺、5日に内裏"

 

奥州小幕府
70 ところが、「今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし」という大変な意気込みで始められた後醍醐天皇の新政府は、 『梅松論』P.163
71 その当初から一枚岩とはならなかった。武家の棟梁たらんとする足利高氏と、それを危険視した護良親王が対立したのだ。
72 後醍醐は元弘三年(一三三三)六月五日に高氏を鎮守府将軍に、 "『尊卑分脈』
『足利尊氏のすべて』"
73 同月十三日に護良親王を征夷大将軍に任じた。 "『大日本史料』6-1P.101
『増鏡』P.468「将軍の宣旨」
『太平記』巻12「征夷将軍の宣旨」"
74 鎌倉を落とした後そこに滞在していた新田義貞は、五月中に尊氏が下した細川和氏・頼春・師氏三兄弟と対立し、合戦寸前にまでなったが、義貞は「野心は無い」との起請文を出し、その後上洛した。 『梅松論』P.162
75 八月五日、北畠顕家が陸奥守に、 『公卿補任』P.545
76 同十五日に葉室光顕が出羽守に任じられ、 『公卿補任』P.546
77 顕家は十月に義良親王を奉じて、父親房とともに陸奥国多賀城に入り政務を開始した。 『神皇正統記』P.175
78 顕家の陸奥守就任と同時に高氏が武蔵守に任じられ、 『公卿補任』P.550
79 名も後醍醐天皇の諱尊治から一字を賜り尊氏と改名し、 『公卿補任』P.550
80 十一月八日には尊氏の弟直義が相模守に任じられ、 『公卿補任』康永3年
81 十二月十四日、直義は上野国守護成良親王を奉じて鎌倉に向けて出発し、関東十ヶ国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・甲斐・伊豆)を管轄とした。後の鎌倉府の先駆けだ。 "『保暦間記』P.58に12月とある

『神皇正統記』P.176に12月とある
『武家年代記裏書』P.161に12月14日御進発とある"

 

第二章 師行の北奥赴任と奥六郡諸氏の濫觴
(二)師行と奥六郡の諸氏
北奥になかなか根付かない建武勢力
建武元年(一三三四)の初夏には、少なくとも四月十三日と五月二十一日に津軽で「石河合戦」が行われた。 建武元年(一三三四)六月某日付けの「曽我光高合戦注文案」

 

持寄城降伏
一方中央でも動きがあった。十月二十二日、足利尊氏と確執のあった護良親王が謀反の疑いがあるとして後醍醐によって捕らえられたのだ。 "『梅松論』P.164に日付あり
『保暦間記』P.59では10月30日"
護良は「武家よりも君のうらめしく渡らせ給う」と独り言を言ったという。 『梅松論』P.165
護良親王は十一月には鎌倉に送られ、足利直義の監視下に軟禁される。 『梅松論』P.164に11月とあり

 

和賀氏の祖先
史料上での小野牧の初見は延喜十七年(九一七)で(『日本紀略』)
この当時の小野牧は陽成上皇の私牧であった。承平元年(九三一)には、小野牧は勅旨牧として指定され、散位小野諸興が別当に任命された(『政事要略』)。
諸興は武蔵国の在庁官人の子孫と考えられ、天慶二年(九三九)六月に押領使に任命されている(『本朝世紀』)。

 

中先代の乱
騒擾たる情勢の中、建武二年(一三三五)七月の初め、旧幕府の第十四代執権北条高時の遺児時行が、かつての家臣諏訪頼重らに擁立され信濃(長野県)で挙兵、快進撃を続けて鎌倉に迫った。 "『梅松論』P.165には7月の初
『保暦間記』P.59"
足利直義は迎撃に出たものの、勝ち目がないと悟り、かねてより尊氏廃滅を企図していて、鎌倉に幽閉されていた護良親王軍を殺害し、成良親王を京に送り還し、自らも西に向かった。 "『保暦間記』P.59
『鎌倉大日記』には23日 P.220"
時行軍は七月後半には鎌倉に入った。 『保暦間記』P.59には28日
尊氏は征夷大将軍になることを望んでいたが、その職には八月一日付けで成良親王が任じられた。 『大日本史料』が引く『相顕抄』
尊氏は勅許を待たず八月二日京都を立ち、 "『梅松論』P.166に日付あり
『保暦間記』P.60"
九日には追認という形で征東将軍に補され、 "『神皇正統記』P.187
『大日本史料』が引く『源氏系図』には、8月9日征東将軍
『武家年代記』P.99 建武二八九為征東将軍等持院"
三河(静岡県)の矢作で直義軍と合流し、十九日には鎌倉を奪還した。これを「中先代の乱」という。 "『梅松論』P.166に日付あり
『保暦間記』P.60"
尊氏は三十日には時行征伐の勲功を賞され、従二位に上がっているので、この時点ではまだ尊氏は後醍醐にとって忠実な臣下と見られていた。 『公卿補任』P.556

 

高水寺斯波氏
ところが、鎌倉に入った尊氏は征夷将軍を自称し、 『鎌倉大日記』P.219 建武2年8月
陸奥には北畠顕家が陸奥守として赴任しているのにもかかわらず、八月、斯波高経の長子家長を奥州管領に任じた。 『南方紀伝』P.6 尊氏以陸奥守家長為奥州管領置斯波館
家長は当時十五歳、足利氏の一族である。 『尊卑分脈』3-P.257
高経の弟家兼は、『陸奥・出羽 斯波・最上一族』によると、文和三年(一三五四)奥州管領となり、

 

(三)北畠顕家の西上
師行文書の終焉と尊氏の謀反
一方で尊氏は「中先代の乱」で勲功の有った武士に対して建武二年(一三三五)九月二十七日に一斉に褒賞し、武家の棟梁として独自の政治機構を整え始めていた。 『大日本史料』が引く各文書
尊氏の奇怪な行動に対し、後醍醐は中院具光を鎌倉におくり、尊氏の上洛を促した。しかし、尊氏はその求めに応じず、若宮小路の旧幕府の跡地に御所を造ってそこに移った。 『梅松論』P.167
そして十一月二日には、新田義貞を討つと称して、直義が兵を集め、 『大日本史料』が引く各古文書
尊氏も義貞討伐を請う書状を後醍醐に送り、十八日にはそれが後醍醐のもとに到着している。 "『大日本史料』が引く『元弘日記裏書』に日付
『神皇正統記』P.187"
尊氏はまだ建武政権を離脱するのを決心しかねていたのだ。しかし既に後醍醐は尊氏を見限っており、十二日には、尊氏が任じられていた鎮守府将軍に北畠顕家が代って任じられている。 『公卿補任』P.556
そしてその後、陸奥の顕家に出撃を命じるとともに、尊義親王を上将に、新田義貞を大将軍として尊氏討伐のため東下させた。 『保暦間記』P.60
それに対して尊氏は、高師直の弟師泰を迎撃に向かわせたが、矢作川(愛知県)以西の足利氏の領外へ出ることは禁じた。 『梅松論』P.168
義貞と師泰は矢作川で合戦となり、師泰が負け東へと退却した。 『梅松論』P.168
二十六日には尊氏は職を止められる。 『公卿補任』P.556
師泰敗走の報を受けても尊氏は出撃せず、直義が代りに出撃したが、十二月五日、駿河国手越河原(静岡県静岡市駿河区手越原)の戦いで敗れ、箱根山に逃げ込んだ。 『梅松論』P.168

 

顕家の第一次西上作戦
弟が窮しているとの報告を受けた尊氏は、ついに意を決し、小山一族を率いて十二月八日に鎌倉を出陣し、義貞勢に襲い掛かった。 『梅松論』P.169
尊氏はいざ合戦場に出ると、もの凄く勇猛な武者となる。その尊氏の軍勢の勢いに押された義貞勢は箱根竹の下(静岡県小山町竹之下)の合戦で打ち負け、算を乱して退却した。 『梅松論』P.169
佐野山(三島市)、 『梅松論』P.170
伊豆国府(同)、 『梅松論』P.170
三ヶ日と続けて勝ち、 『梅松論』P.170
義貞勢は天竜川を越えて退こうとした。ところが、川が深く流れも速く渡渉が困難だったため急きょ橋を作った。義貞は一人残らず渡り終えたことを確認して最後に渡る。橋を渡り終えた義貞勢の部将が、義貞に橋を破壊することを献策したところ、義貞は腹を立て、急に襲われて慌てふためいていると言われるのは末代に至るまで口惜しいと言い、橋は壊さずに義貞勢は退いていった。 『梅松論』P.171
やがて戦いは勢田の攻防戦へ移る。足利勢は直義を大将として、副将に高師泰。対する後醍醐勢は千種忠顕・結城親光・名和長年。彼ら三名は楠木正成と並んで「三木一草」と呼ばれた。結城の「き」、名和長年は伯耆守であったので、伯耆の「き」、楠木の「き」、それに千種の「くさ」で、「さんぼくいっそう」である。勢田の攻防は翌建武三年(一三三六)正月三日から矢合わせが始まったが、結果は足利勢の勝利で、 『梅松論』P.172
慌てふためいた後醍醐は神器とともに、比叡山に逃れた。 『神皇正統記』P.188
十一日には尊氏が京都に入った。 『梅松論』P.174
このとき、結城親光は偽って降り、大友貞載を討とうとしたが、逆に斬り殺された。 『梅松論』P.174
一方陸奥でも、建武二年(一三三五)十二月二十二日、顕家率いる陸奥国府軍の第一次西上軍が出陣した。 『源氏南部八戸家系』P.250信政
顕家はこれより前に鎮守府将軍に任じられていたが、従二位の顕家は、五位相当の鎮守府将軍就任に不服で、『職原鈔』によると建武三年の勅で、三位以上の者が就任した場合は「大」の字をつけて鎮守府大将軍とすることになった。 『職原鈔』
顕家軍はかなりの行軍速度で進み、翌建武三年(一三三六)正月十三日には近江に到着した。 『神皇正統記』P.188
そして、尊氏勢と京都内外で戦闘を続け、三十日の糺河原の合戦で尊氏は劣勢が明らかとなり、 『梅松論』P.178
丹波篠村(京都府亀岡市篠町篠)へ退去した。 『梅松論』P.178

 

師行出陣と尊氏の九州下向
建武三年(一三三六)正月七日には、師行は政長らを率いて津軽藤崎・平内城に出張り、成田六郎左衛門尉とともに曽我余一左衛門尉貞光や安藤五郎次郎家季らと戦った。 『遠野南部家文書』の貞和三年(一三四七)五月付けの「曽我貞光申状土代」
一方、丹波からさらに西に向かった尊氏は、二月に醍醐寺三宝院賢俊の仲介により、念願の光厳上皇の院宣を得て朝敵を免れた。 "『梅松論』P.181
『保暦間記』P.61"
そして九州に向かい、三月二日、多々良の浜(福岡県福岡市東区)の干潟で九州最大の後醍醐勢である菊池武俊を打ち破り、大宰府を占拠した。 『梅松論』P.184
その頃奥州では、尊氏側の斯波家長が、相馬光胤を家長の従弟兼頼に属させ、東海道方面を討たせている。 『大日本史料』が引く『相馬文書』
その動きに対応させるように、後醍醐は三月十日、義良親王を元服させ陸奥太守に任じ、鎮守府大将軍北畠顕家ともに、再度陸奥に下向させ、 "『大日本史料』が引く『蛙鈔』
『神皇正統記』P.188"
三月二十日には、結城親朝を下野守護に任じるなど地方支配を固めていった。 『大日本史料』が引く『白河証古文書』
今回の顕家の奥州下向に際して、父の親房は伊勢に留まった。
三月二十五日には、北条氏の残党と斯波家長が戦っている。家長は建武政権だけでなく、旧政権とも戦わなくてはならず、寧日の暇がなかった。 『大日本史料』が引く『山内首藤文書』

 

尊氏の復活
九州で力を蓄えていた尊氏は、九州の諸将を従え四月三日に大宰府をあとにして上洛の途につき、 『梅松論』P.190
五月五日には、備後の鞆(広島県福山市鞆町)に着いた。 『梅松論』P.190
尊氏が東上していた四月十六日には、斯波家長に属する相馬胤康らが、奥州に下向途中の北畠顕家勢と相模国片瀬河(神奈川県藤沢市)で戦い、胤康は討ち死にしている。 『大日本史料』が引く『相馬岡田文書』
相馬一族もすべてが家長に味方したわけではなく、胤平は建武政権側に付き、胤平は二十六日に左衛門尉に推挙されている。 『大日本史料』が引く『相馬文書』
先だって出羽守に任命されて出羽に下っていた葉室光顕は、五月二十一日に現地で殺害されてしまった。後醍醐は出羽方面にも何らかの手を打ったと思われるが、その方面の状況は知られていない 『公卿補任』P.562
(葉室光顕の死去は前年の末という説もある)。 『尊卑分脈』
各地で戦いながら陸奥国府を目指していた顕家の軍勢は、二十四日には相馬氏の小高城(福島県南相馬市)を攻略した。このとき、六郎長胤・七郎胤治・四郎成胤が討ち死にしている。 『大日本史料』が引く『相馬文書』
顕家が東に去るのと同期するかのように、西からは尊氏の軍勢が京都を目指し進撃を続け、ついに五月二十五日に湊川(兵庫県神戸市)で決戦が行われた。水陸両側から攻撃した尊氏勢に対し、建武政権側は新田義貞と楠木正成が応じた。しかし、尊氏勢の猛攻に対し、義貞は支えることができず敗走、後醍醐挙兵時から奮戦を続けてきた正成も自害した。正成は決戦に先立って、後醍醐に対し義貞を誅殺して尊氏を取り立てることを献策していたが、後醍醐はそれを拒否していた。 『梅松論』P.197
自軍の敗走に慌てふためいた後醍醐は、二十七日に比叡山へ逃れた。 『梅松論』P.198
六月五日の戦いでは、後醍醐の隠岐配流にも供をした千種忠顕が討ち死にし、 『梅松論』P.198
十五日には、尊氏が光厳上皇と豊仁親王を奉じて入京し、東寺に陣を構えた。 『公卿補任』P.
三十日には、かつて隠岐から脱出してきた後醍醐を奉じて以来、ずっと戦い続けた名和長年が討ち死にし、これで「三木一草」の四人全員が鬼籍に入った。 『梅松論』P.199
それから十月まで後醍醐と尊氏は激戦を繰り広げることになり、義貞は大勢を挽回しようと必死に戦ったが、後醍醐側にとって形勢は思わしくなかった。
一方津軽では、その後も各地で合戦が行われており、 「曽我貞光申状土代」と建武四年(一三三七)七月の「曽我太郎貞光軍忠状案」、八月二十三日付けの「曽我貞光軍忠状」
八月十五日、光厳上皇の院宣により豊仁親王(後伏見天皇の第二皇子)が光明天皇として践祚して、 "『大日本史料』が引く『洞院家記』

『公卿補任』"
延元の元号も建武に戻した。
十月九日に後醍醐は、新田義貞に東宮恒良親王と尊良親王を奉じさせて越前下向を命じ、 "『大日本史料』が引く『元弘日記裏書』
『神皇正統記』P.189"
その上で翌日、尊氏と和平を結んだ。 『神皇正統記』P.189
十一月二日、後醍醐から光明に神器が授受され、後醍醐には譲位した天皇を意味する太上天皇の尊号がおくられた。しかし、これごときで屈服する後醍醐ではなかった。 『大日本史料』が引く『皇年代略記』
後醍醐は、顕家の弟の顕信に伊勢で兵を集めさせた上で、 『保暦間記』P.62
十二月二十一日、楠木一族を従え吉野に移り、延元の元号を復して朝廷存続を表明した。世に言うところの南朝・吉野朝廷の始まり、南北朝時代の幕開けである。 "『大日本史料』が引く『皇代略記』
『神皇正統記』P.189"
また、この頃を室町幕府の成立時期と見る説が有り、その場合、このとき以降を室町時代と呼ぶ。

 

第四章 師行の死と南北朝の戦い
(一) 顕家から顕信へ
顕家の第二次西上と師行・顕家の死
十二月十一日には北関東の南朝側の拠点で、楠木一族が拠っていた瓜連城(茨城県那珂市瓜連)が佐竹氏に攻められ落城した。これにより常陸・下野方面の南朝側勢力は分散してしまった。 『日本城郭大系』4巻P.63
翌延元二年(建武四・一三三七)正月八日には顕家は、多賀国府の維持が困難であることを悟り、多賀城を捨て、伊達郡の霊山(福島県伊達市・相馬市境)に本拠を移した。 『大日本史料』が引く『元弘日記裏書』
一方、津軽の田舎楯(青森県田舎館村)で正月二十四日に合戦が行われ、 『遠野南部家文書』建武四年七月「曽我太郎貞光軍忠状案」
二月三日には後醍醐は、南奥の結城宗広(「三木一草」の親光の父)に一族を率いて上洛するように催促する書状を発した。 『大日本史料』が引く『結城文書』
昨年十月に恒良親王と尊良親王を奉じさせて北陸に下向し、金崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)に籠っていた新田義貞は、三月六日に金崎城を落とされ、義貞は脱出したが、義貞の嫡子義顕と尊良親王は自害、恒良親王は捕縛されてしまった。 『梅松論』P.204
五月十四日には、結城宗広のもとに顕家上洛後の陸奥の留守を命じる書状が送られているので、 『大日本史料』が引く『白河証古文書』
しかし、霊山は中賀野義長に狙われ、十八日には椎葉郡(標葉郡)中前寺で、二十一日には行方軍安子橋で合戦が起きた。 『大日本史料』が引く『飯野八幡社古文書』
かつて南部師行とともに北奥の軍事を任された多田貞綱は、その後更迭されたことは既述したが、この頃には、春日顕国とともに、下野の小山城(栃木県小山市)を攻撃して撃退されている。 『大日本史料』が引く『茂木文書』
北奥でも合戦が起き、七月十一日には鹿角郡の二藤次楯・雷楯・大豆田楯、ついで十四日には同じく鹿角郡の大里楯で合戦が行われた。それらの戦いに、師行の留守を預かる政長が出陣したかどうかはわからない。 『遠野南部家文書』建武四年八月二十三日「曽我貞光軍忠状」
四面楚歌の状況の中、それを振り払うかのように、八月十一日、顕家が義良親王を奉じて、第二次西上を開始した。 『大日本史料』が引く『阿蘇文書』
史料上で確認することはできないが、師行もそれに従ったといわれており、
遠野の阿曽沼朝綱も宇夫方親定以下十七騎を率いて参陣したという。 『阿曽沼家乗』
今回の顕家の進軍は捗らず、ようやく十二月十三日に上野の利根川河畔にまでたどり着き、そこで合戦し、 『大日本史料』が引く『大国魂神社文書』

十六日には武蔵安保原で戦った。 『大日本史料』が引く『大国魂神社文書』
南朝の顕家に対して、尊氏は斯波家長を奥州の要に用いてきたが、その家長は鎌倉で顕家を迎撃し、それに討ち負け、二十五日に鎌倉杉本観音堂で自害したという。十七歳であった。 『続群書類従』「武衛系図」建武二年(ママ)十二月二十五日
家長とともに鎌倉を守っていた尊氏嫡男義詮は三浦半島に逃亡した。
翌延元三年(建武五・一三三八)正月二日、顕家軍は鎌倉を発ちさらに西に向かった。 『大日本史料』が引く『鶴岡社務記録』
二月、北朝側は戦死した家長にかわって、石塔義房を奥州総大将に任じた。
正月二十八日の美濃国青野原の合戦のあと、伊勢方面へ向かい、 『大日本史料』が引く『鶴岡社務記録』
二月二十八日には奈良の合戦で敗れ、顕家は河内へ、義良親王は吉野へ走った。 『大日本史料』が引く『元弘日記裏書』
顕家軍は、三月八日には、天王寺で十五日には渡辺で、十六日には再び天王寺で戦い、 『大日本史料』が引く『田代文書』、『和田文書』、『大国魂神社文書』
五月二十二日、和泉国の堺浦(阿倍野)で高師直と戦い討ち死にした。 『大日本史料』が引く『合編白河石川文書』、『元弘日記裏書』、『保暦間記』P.62
このとき師行も討ち死にしたといわれている。 『源氏南部八戸家系』、『八戸家伝記』

 

後醍醐の死
延元三年(建武五・一三三八)閏七月二日、越前国藤島の灯明寺(福井県福井市)において、新田義貞は斯波高経と戦い討ち死にしてしまい、 『太平記』、『大日本史料』が引く『皇代記』、『武家年代記』
八月十一日には、尊氏は積年の夢であった征夷大将軍に任じられた。官位も上がり、今や正二位である。弟の直義も従四位上に叙され左兵衛督に補された。 『公卿補任』
後醍醐は秋ごろ、、結城宗広の献策により伊勢の大湊から多くの船団を陸奥に向かわせた。 『太平記』
その顔ぶれは、義良親王(後の後村上天皇)、宗良親王、陸奥介鎮守府将軍北畠顕信(顕家の弟)、北畠親房、結城宗広、伊達行朝らだ。ところが、遠州灘で暴風雨に遭い、義良親王や顕信、結城宗広らは伊勢に吹き戻されてしまった。大勢の軍勢を失った船団だったが、親房と伊達行朝は常陸国東条浦に流れ着く。 『神皇正統記』P.190、『太平記』、『日本城郭大系 第4巻』、『大日本史料』が引く『元弘日記裏書』、『関城書考』
親房は神宮寺城(茨城県稲敷市)、ついで河波崎城(同)、そして小田治久の小田城(茨城県つくば市)に入り活動を開始した。 『日本城郭大系 第4巻』、『大日本史料』が引く『烟田文書』
当時の常陸の三大豪族のうち、小田氏は南朝方、佐竹氏と大掾氏は北朝方であった。
親房は、北関東・南東北の諸氏に頻繁に書状を送り、何とか南朝勢を立て直そうと必死に働いた。その中でも特に白河結城氏は頼りにしていたようで、結城親朝と交信した書簡が数多く残っている。親朝は南朝で抜群の功績のあった宗広の子で、親光の兄である。 『大日本史料』が引く『結城文書』
親房の一族春日顕国は、翌延元四(暦応二年・一三三九)二月二十七日には、下野にまで下っており、矢木岡城を落とし、その月の内には益子城も落とし、その影響で箕輪城が自落し、 『大日本史料』が引く『結城文書』
四月十二日には常陸に転じ、中郡城の攻撃を企てている。 『大日本史料』が引く『結城文書』
また、昨年十二月十九日に帰還命令があって関東から京に帰った上杉憲顕にかわり、 『大日本史料』が引く『上杉古文書』
高師冬を鎌倉に下らせ、鎌倉に舞い戻っていた義詮とともに関東を治めさせた。師冬は八月四日に鶴岡八幡宮に戦勝祈願をしている。 『大日本史料』が引く『鶴岡神主家伝文書』
混沌とした情勢のなか、八月十六日、波乱の人生を歩んだ後醍醐天皇が薨去した。享年五十二歳。 『神皇正統記』P.191
後醍醐は没する前日、皇位を義良親王(後村上天皇)に継がせていた。顕家らとともに奥州で苦労し、戦陣も経験した親王が践祚したのである。 『神皇正統記』P.191

 

顕信奥州に登場
鎌倉に入った高師冬は、積極的に活動して、小田城に籠る関東の南朝の中心である北畠親房を狙った。 『大日本史料』が引く『関城書考』
師冬は上杉憲顕とともに、この年関東執事となり、鎌倉管領である尊氏の子義詮を助ける。 『大日本史料』が引く『武家補任』
翌延元五年(暦応三年・一三四〇)二月には「中奥」(奥州中部)で合戦があり、河村四郎以下が南朝側についた。この河村四郎は、名取郡の河村氏と考えられる。 『白川文書』の二月二十六日付け「五辻清顕書状」
先に陸奥行きを企て、伊勢に吹き戻されてしまった鎮守将軍北畠顕信は、この年には田村宗季に擁されて宇津峰城(福島県須賀川市)に入り、 『日本城郭大系』
秋頃には、葛西氏に擁されて石巻の日和山城(宮城県石巻市)に入ったという。 『史料解読 奥羽南北朝史』

 

北関東と南奥の情勢
興国二年(一三四一)正月には、瓜連城(茨城県那珂市瓜連)のあたりで蠢いているので、南奥の南朝側の拠点小田城を北側から攻める作戦に出たようだ。 『大日本史料』が引く『結城文書』
さらに、高師直の軍勢がやってくるという情報が流れ、それに対して顕信の父親房は二月十八日に結城親朝に対して師直を攻撃するように要請したが、 『大日本史料』が引く『結城文書』
後日、師直は東下しないことが分かったため、四月五日にその旨を親朝に伝えた。 『大日本史料』が引く『結城文書』
その後、五月からは両軍とも動きが活発となり、 『大日本史料』が引く『結城文書』
親房は一時師冬に勝ったが、情勢は厳しく、何度も親朝に救援を頼んだが、親朝は動かない。 『大日本史料』が引く『結城文書』
顕信の方も親朝を頼りにしていて、親朝の援助で陸奥国府を奪回しようとしたが、親朝の軍勢が来なかったので、なかなか国府の奪回はならなかった。 『大日本史料』が引く『結城文書』
南朝勢は親房を後詰めするため十月四日に三迫(宮城県栗原市)に発向して、連日合戦に及んだという。 『相馬文書』の暦応四年(興国二年・一三四一)十一月六日付け「石塔義房催促状」
さて、劣勢に立たされた親房は連日のように、親朝に対して救援を依頼する血を吐くような書状を頻発したが、親朝の援軍は来ない。 『大日本史料』が引く『結城文書』
そして、ついに親房にとって思わぬことが起きてしまった。十一月に小田城の小田治久が北朝の高師冬に降ってしまったのだ。親房は小田城を追われ、小山一族の関宗祐の関城に逃れた。そして顕房配下の春日顕国は近くの大宝城に逃れた。 『大日本史料』が引く『結城古文書写』
関城と大宝城は、十二月八日に師冬に攻められたが、なんとかしのぐことができた。 『大日本史料』が引く『結城文書』
その当時、葛西氏に擁され日和山城に居た顕信は、その後、宇津峰城に移ったという説と、滴石城に移ったという説があるが、
そして親房にとって最悪なことに、翌興国四年(康永二・一三四三)八月十九日、くどいほどの援軍要請にもかかわらず、それに見向きもしなかった結城親朝がついに尊氏側について挙兵した。 『大日本史料』が引く『結城文書』
十一月十一・十二日に落城、関宗祐・宗政父子は討ち死にしたが、親房はからくも脱出、吉野に撤退せざるを得なくなった。 『大日本史料』が引く『結城文書』、『相馬文書』、『常陸誌料』

 

観応の擾乱の始まりと和賀鬼柳氏の裁判
康永三年(興国五年・一三四四)五月十九日には、高重茂が、七月四日には上杉憲顕が鎌倉に到着した。 『大日本史料』が引く『鶴岡社務記録』
貞和元年(興国六年・一三四五)、石塔義房によって北朝の奥州統治の基礎が造られた上に(『中世奥羽の世界』所収「南北朝内乱の中で」)、畠山国氏と吉良貞家が奥州管領として派遣されてきた。二人はのちに観応の擾乱の煽りを受けて戦い合うことになるが、最初は当然ながら協力関係にあった。
一方、陸奥では、翌興国六年(貞和元年・一三四五)五月に糠部の南部政長の動きが活発化してきて、石塔義房がその旨を結城親朝に伝えている。 『大日本史料』が引く『結城古文書写』
そして、斯波家長、石塔義房、義房の子義元によっての奥州統治の基礎が固められた上に、畠山国氏と 『大日本史料』が引く『榊原家文書』七月二日
吉良貞家が奥州管領として派遣されてきた。 『大日本史料』が引く『飯野八幡社古文書』、『相馬文書』、P.792
重能は、高兄弟の好ましくない所業について尊氏に讒言をしたが、そのことで直義に疎んじられ、貞和二年(興国七年・一三四六)四月二十三日に、政務に関与することを停止させられた。 『関東中心足利時代之研究』P.135
吉良貞家は伊賀盛光に対し滴石城攻撃を指示し、 『大日本史料』が引く『飯野八幡社古文書』P.557
一方京都では、高師直の所業が悪化の一途をたどり、ついに直義もそれを不快に思うようになった。そこにさきに罷免させられていた上杉重能が付け入る隙があり、重能は畠山直宗と共に、直義の信仰厚かった禅僧の妙吉や、尊氏の子で直義の猶子となっていた直冬を介して師直の所業について直義に讒言した。 『太平記』、『関東中心足利時代之研究』
それにより師直は、貞和五年(正平四年・一三四九)閏六月十五日、直義によって執事の任を解かれ、所領も没収させられた。 『大日本史料』が引く『建武三年以来記』
一方、転んでもただでは起きない師直は、弟師泰に命じ仲間をかき集め、八月十三日、直義が滞在していた尊氏邸を囲んだ。 園太暦
師直は、己を直義に讒した上杉重能と畠山直宗の引渡しを求める。尊氏は仕方なく両名を師直に引渡し、両名は越前に流され、ほどなく殺害された。 園太暦
これにより執事に返り咲いた師直だったが、それでも腹の虫が治まらない師直は、尊氏を脅し直義の職務停止を要求した。それにより直義は左兵衛督の職を解かれ、十二月に出家する。 『園太暦』、『太平記』 園太暦
尊氏は師直の脅迫に従ったように思えるが、この頃から尊氏は政権を共同運営してきた直義から力を奪い、嫡男義詮への政権移譲を円滑に進めることを考えていたので、師直と直義との確執を利用して、直義を失脚させたという考えもできる。
このあと、直義と師直は、天龍寺の疎石の仲介で仲直りし、二人とも政務に復帰したが、それは表向きのことで、実際は確執を保ったままであった。 『園太暦』 園太暦
また尊氏は、鎌倉に居た嫡子の義詮を上洛させるかわりとして、末息の基氏(九歳)を九月九日に鎌倉に向けて出発させ、鎌倉府の主とさせた。鎌倉府というのは、広い日本列島のうち関東地方(今の関東地方と山梨、伊豆地方)を治めさせるために鎌倉に開いた政庁である。基氏をもって鎌倉府の初代とする。 『園太暦』 園太暦

翌観応元年(正平五年・一三五〇)正月三日、師直はさきに常陸で北畠親房と戦った後上京していた猶子師冬を、再度関東に下し、鎌倉府の執事にさせようとした。しかし、鎌倉府には直義派の上杉憲顕(叔母が尊氏・直義の母)が既に執事として存在して勢力を維持しており、師冬は思ったような活動ができなかった。そして鎌倉での暗闘が始まる(『関東中心足利時代之研究』)。
直義は尊氏の庶子直冬を猶子にしていたが、直冬は九州に逃れたのち、有力者少弐頼尚の婿となって勢力を強めていた。そのため尊氏はまず九月十日に兵を遣わせて直冬を討ち、 『園太暦』 園太暦
つづいて出家をして上洛するように求めたが直冬は応じなかった。 『大日本史料』が引く各文書
十二月八日には、直義は出家を遂げた。 『園太暦』 園太暦
翌観応元年(正平五年・一三五〇)正月三日、師直はさきに常陸で北畠親房と戦った後上京していた猶子師冬を、再度関東に下し、鎌倉府の執事にさせようとした。しかし、鎌倉府には直義派の上杉憲顕(叔母が尊氏・直義の母)が既に執事として存在して勢力を維持しており、師冬は思ったような活動ができなかった。そして鎌倉での暗闘が始まる。 『関東中心足利時代之研究』

 

直義の京脱出
既に出家していた直義であったが、その裏では活発に動いており、石見方面では、七月十七日と二十九日に、直義与党の桃井直常の一族桃井左京亮が師直党を攻撃するために、兵を集めている。 『大日本史料』が引く『吉川家什書』
つづいて十月二十八日には、義詮に留守を託し、師直以下の兵を率いて京を立った。
ところが、その二日前の二十六日直義は密かに京を脱出していたのだ。出陣前にこれを知った尊氏であったが、直義に追手を差し向けなかった(『足利尊氏のすべて』)。
京を脱出した直義は河内(大阪府)の畠山国清の軍勢に迎えられ、
直義に深く心を寄せていた桃井直常父子も京を去り任国の越中(富山県)で兵を挙げ能登を攻略し、直義を応援した。
その一方で、さきに師直によって殺害された上杉重能の猶子能憲も、常陸(茨城)信太庄で兵を挙げ直義に応じ、 『大日本史料』が引く『古文書録』P.27
鎌倉で基氏を助けて高師冬と暗闘を繰り広げていた山内上杉憲顕も鎌倉を去って上野に帰った。
そのほか、石塔頼房や細川顕氏も直義に応じた(『関東中心足利時代之研究』)。 『園太暦』 園太暦
直義は南朝に降ることを決め、十二月十三日にそれが正式に承認された。 『園太暦』
上杉憲顕が去った後の鎌倉では、依然として直義派の力が強く、高師冬は十二月二十五日、鎌倉の主基氏を連れて鎌倉を去り、石塔義房らを率いて伊豆走湯山に至った。
しかしここで直義に心を寄せる石塔義房は、師冬派の三戸七郎、彦部次郎らを殺害し、基氏を奪い師冬を攻撃する。
師冬はたまらず甲斐(山梨県)逸見城に逃れた。
さきに上野に去っていた上杉憲顕は、基氏とともに鎌倉に戻り、
憲顕の子憲将は、翌観応二年(一三五一)年正月四日、軍勢を率いて鎌倉を発し、甲斐の須沢にて師冬を討ち取った。これにより、関東は直義の勢力下に収まった。(『関東中心足利時代之研究』)

 

直義の死
一方近畿でも、尊氏勢は直義勢に圧倒され、京を守っていた義詮は京を脱出し、それと合流した尊氏は播磨(兵庫県)に逃走した。
二月には、尊氏は直義に和議を求め、直義は師直・師泰兄弟の罷免・出家を条件としてそれに応じた。
そして、さしもの権勢を誇った師直も、上洛の途中上杉重能の猶子能憲に襲われ、父の仇と、一族四十数名とともに殺害されてしまった。
これで平和が戻ったかに見えたが、政権復帰を果たした直義に対して尊氏は危険視をやめず、それを察した直義は再度政権からの引退を表明するが、尊氏の願いで尊氏嫡子義詮を補佐する立場にまわることになり、尊氏もようやく安心する。
ところが五月四日の晩、直義と親しい桃井直常が壮士に襲われ負傷するという事件が起き、
身の危険を感じた直義は、七月三十日京を脱出し、北陸経由で鎌倉に到着した。
十一月十二日、鎌倉大光明寺にて、後醍醐天皇十三回忌を営み、南朝側の歓心を得る。
鎌倉においては、上杉憲顕や畠山国清らが直義の政務を補佐し、上野においては、桃井直常が尊氏派の紀清党らと戦った。
一方その頃、尊氏は南朝との講和を進めていた。そして十一月三日には、尊氏の全面降伏というかたちで朝廷は南朝側に統一された。
それが済むと尊氏は翌日早速、直義討伐に出陣した(『日本の歴史9 南北朝の動乱』)。
尊氏は関東の佐竹・小山・宇都宮らに激を飛ばし、それらの力を持って十二月十一日に由比・蒲原、ついで薩?山で戦い、直義軍を撃破した。直義は伊豆に逃亡した。
かくして翌文和元年(正平七・一三五二)正月五日、尊氏と直義は伊豆国府で和議を結んだが、
二月二十六日、直義は鎌倉の延福寺で突如死亡した。尊氏の毒殺説がささやかれている。

 

和賀氏の軍忠
観応の擾乱で南北朝の戦いも複雑度を増していたが、閏二月十五日、本来の南朝である新田義貞の二男義興と三男義宗が、直義派の上杉憲顕や上杉朝定らと組んで蜂起し、鎌倉を脅かした。

 

鬼柳氏の活躍
一方の京では、九月二十一日に尊氏が舞い戻っていた。尊氏が京を離れている間、二度に渡って京は南朝勢に占領されていた。
奥州探題職は貞和二年(一三四六)に石塔義房から吉良貞家に譲られていたが、その頃から両者は反目するようになり、ついに合戦に至った。

 

尊氏の死と鬼柳氏の膨張
翌文和四年(一三五五)正月、桃井・斯波などの諸将が率いる南朝勢が三度目の京都占領をした。
このときすでに南朝に帰順していた直冬も入京している。
尊氏は後光厳天皇を奉じて近江に逃れていたが、摂津に逃れていた義詮と京を挟撃し、三月には京を奪還した。
その後、尊氏は京の復興と幕府の回復に力を使っていたと思われるが、延文三年(一三五八)四月三十日、五十四歳で死去してしまった。
十二月八日には、義詮が将軍宣下を受けて、室町幕府第二代征夷大将軍となった。
尊氏死去の報を受けて、新田義貞の二男義興も行動を起こしたが、十月十日、多摩川の矢口の渡し(東京都大田区)を渡る船の上で、謀計にかかって切腹してしまった。
貞治三年(一三六四)七月二十七日、世良田義政が鎌倉府の足利基氏の勘気をこうむり、翌日討手を向けられ、
八月二日には、義政と梶原景安誅伐のため基氏が南部右馬助に軍勢を催促した(『関東公方足利氏四代』)。この右馬助は、甲斐の南部氏である。
貞治六年(一三六七)四月二十六日、鎌倉公方初代基氏が死去した。二十八歳であった。
鎌倉府は、子の金王丸(のちの氏満)が継いだ。
翌弘安元年には武蔵で平一揆が蜂起し、十歳の金王丸も出陣した。
金王丸は翌弘安二年(一三六九)十一月二十一日に元服し氏満と名乗った。このときすでに幕府は三代目の義満が継いでおり、氏満の「満」の字は義満からの偏諱である。氏満と義満は同い年である。

 

鎌倉府の奥羽管轄
一方この頃、鎌倉府二代目の氏満は、徐々に自らが将軍になる野望を抱き始めていたといわれ、康暦元年(一三七九)には、関東管領の上杉憲春が諌死した。氏満は永和から康暦への改元にも従わず、そのまま永和を使い続けた。
康暦二年(一三八〇)には、下野(栃木県)で小山義政が叛乱を起し、氏満が出陣した。義政は討伐されたが、子の若犬丸は田村氏を頼った。
さきに田村氏を頼っていた小山若犬丸は、至徳三年(一三八六)五月に挙兵し、小山城(栃木県小山市)に籠城した。
それに対して氏満は出陣したが、合戦は長引いた。若犬丸はその後、常陸(茨城県)の男体城(茨城県笠間市)に走り、同城は翌嘉慶元年七月に落城した。
しかしここでも若犬丸は逃れることができ、陸奥の田村氏を頼った。
互いに競い合っていた将軍義満と鎌倉公方氏満であったが、嘉慶二年(一三八八)には将軍義満が富士山見物のため駿河に下向した。これは氏満に対する牽制の意味があった。
またこの年の二月には、鎌倉府の管轄に陸奥と出羽が加えられた。先年、小山若犬丸が鎌倉府の管轄外の陸奥に逃れたことが影響を与えたのかもしれない。
なお、若犬丸は最後は会津に逃れ、応永四年(一三九七)正月十五日に自害して果てた。

 

第四章 三戸南部氏の台頭
(一)三戸南部氏の濫觴
守行と鬼柳氏と鎌倉
一方、将軍義満と競い合っていた鎌倉公方氏満であったが、応永五年(一三九八)十一月四日に死去した。四十歳であった。
氏満の跡を継いだ満兼が早速したことは、弟たちを奥州へ配置することであった。翌応永六年(一三九九)、満貞を稲村(福島県須賀川市)に、満直を篠川(福島県郡山市)に派遣した。それぞれ、稲村御所、篠川御所と呼ばれる。
その年の十一月、周防(山口県)・長門(同)・石見(島根県)・豊前(大分・福岡県)・和泉(大阪府)・紀伊(和歌山県)六ヶ国の守護職を兼任していた大内義弘が謀反を起こした。
叛乱自体は十二月二十一日に義弘が討ち死にしたことで収束したが、義弘の南都学呂中(興福寺)宛ての手紙によると、満兼が京都に向かうと書かれている。つまり満兼は義弘と裏で組んでいたわけだ。
満兼は出陣したものの、義弘のあっけない敗北にどうすることもできず、翌応永七年(一四〇〇)三月五日、鎌倉に帰った(『関東公方足利氏四代』)。
そして満兼には懐柔のためか足利庄を与えられたが、隣の宇都宮氏広がそれを不服として、叛乱を起した。
一昨年の応永六年(一三九九)、鎌倉公方満兼の弟満貞・満直を稲村と篠川に配置したが、奥州探題大崎氏との仲は悪く、合戦に及んだ。
大崎氏には伊達・登米・深谷・葛西・江刺・柏山・斯波(高水寺)・和賀・稗貫、それに岩手郡の工藤氏が味方した。合戦場は登米郡いたち沢が一番激しかった。結局奥州探題勢が勝利したが、それに関する文書類は和賀氏には伝わっていない(『北上市史』所収『余目記録』)。

 

義満・満兼の死と禅秀の乱
満兼が父の代から二代続けて争った前将軍義満は、応永十五年(一四〇八)五月六日に五十一歳で死去したが、
翌年七月二十二日、満兼も三十二歳(あるいは二十七歳、三十歳、三十三歳との説もある)で死去した。
義満の跡は義持がすでに継いでおり、鎌倉公方満兼の跡は幸王丸(のちの持氏)が継いだ(『関東公方足利氏四代』)。
応永十七年(一四一〇)八月十五日には、幸王丸の叔父である満隆が謀反するという情報が流れたが虚説ということであった。
十二月二十三日には幸王丸は元服し、持氏と名乗った。この名も将軍義持からの偏諱である。
かねてから鎌倉府と対立していた伊達家であったが、応永二十年(一四一三)春、伊達松犬丸(伊達家第十一代。後の持宗)が会津山中で蜂起した。
松犬丸には懸田播磨守定勝入道玄昌が味方して、仙道の大仏城(福島県福島市)に籠った。
持氏は二本松の畠山修理大夫国詮を討伐に向かわせ、松犬丸が逃亡したことにより、一応鎌倉の勝利となった。
ただし、松犬丸はこのあと上洛して、将軍義持から偏諱を受けて持宗と名乗っている(『陸奥伊達一族』)。
応永二十二年(一四一五)、常陸の住人越幡六郎が病気を理由に鎌倉に出仕しない事に腹を立てた持氏は、六郎を追放した。
ところが、六郎は関東管領上杉禅秀(氏憲)の家人であったことから、禅秀はそれに対して抗議した。しかし持氏が耳をかさなかったため、禅秀は五月二日管領を辞任した。
七月には諸国の兵が鎌倉に集まり、それらは持氏によって解散されたが、裏で禅秀が糸を引いていると噂された。
事実その後禅秀は、持氏の叔父でさきに謀反の噂が流れた満隆や、持氏の異腹の兄弟持仲、それに将軍義持の異母弟義嗣を仲間に引き入れ、関東地方の縁のある武士たちに参集を呼び掛けた。
禅秀らは十月二日の夜、兵を挙げた。いわゆる「禅秀の乱」である。
これによって鎌倉での乱闘が始まり、関東管領憲基の屋敷に籠っていた持氏は、十月六日憲基らとともに鎌倉から逃亡し、小田原に到着した。

そしてさらに持氏は駿河にまで逃げた(『関東公方足利氏四代』)。

 

終わらぬ鎌倉公方持氏と幕府との対立
禅秀の乱後は、関東の武士の中でも鎌倉府の指示を仰がず、直接幕府の命のもとに動く者たちがいた。それらを「京都扶持衆」と呼ぶが、持氏は彼らを討伐し、幕府との仲がより一層険悪になった。
一応、応永三十一年(一四二四)二月には、持氏と将軍義持は和解したが、持氏の幕府に対する反抗心、つまり権力の頂点に立とうとする気持ちは消えず、
翌応永三十二年二月二十七日に、すでに室町幕府第五代将軍に就任していた義量(義持の子)が死去した後には、持氏は将軍の猶子になることを願った。
その後、将軍は空位のまま義持が執政していたが、その義持も後継者を決めることなく、応永三十五年(一四二八)正月十八日に死去した。
将軍の後継者は持氏を除いた四名のくじ引きによって青蓮院准后義円と決定し、義円は翌正長二年(一四二九)三月十五日に義教と名乗り、征夷大将軍に任じられる(『関東公方足利氏四代』)。
持氏は兵を率いて上洛しようとしたが、関東管領上杉憲実の、新田氏が鎌倉に攻めのぼってくるという嘘に驚き中止した(『関東公方足利氏四代』)。
しかし、『闇の歴史 後南朝』によると、この年(正長元年)の八月頃、伊勢国(三重県)で北畠満雅が南朝の皇胤小倉宮(後亀山天皇の孫)を奉じて反幕の挙兵をしたが、持氏は満雅に連携の使者を発したようである。なお、満雅は顕家・顕信の弟顕能の孫で、挙兵後の十二月二十一日に討ち死にする。
この頃、後小松上皇が持氏に征夷将軍の院宣を遣わすとの風聞があり、
十月十六日には、信濃守護小笠原政康・駿河守今川範政の下国が決定された。 『満済准后日記』
正長二年(一四二九)九月五日、改元が行われ元号が永享に変わったが、持氏はそれを無視し正長を使い続けた。
持氏は、永享六年(一四三四)三月十八日、将軍義教打倒の決意を込めて、血書の願文を鶴岡八幡宮に納める。
前年信濃に下向した小笠原政康であったが、同国の豪族村上頼清と対立し、頼清は持氏に支援を求め、持氏は鎌倉府の管轄外の信濃に出兵しようとした。ただしこれは関東管領の上杉憲実が自らの兵をもって信濃国侵入を食い止めた。
憲実は鎌倉府と幕府のよりを何とか戻そうと努力したが、永享九年(一四三七)、持氏が再度信濃に出兵を試みたため、それが憲実を討つためだと風説が立ち、憲実与党が鎌倉に参集し、鎌倉は騒然となった。
翌永享十年六月には持氏の子賢王丸が元服したが、将軍からの偏諱という先例を無視し、義久と名乗らせた。憲実は持氏に暗殺されるとの風聞に、この元服式には出席しなかった(『関東公方足利氏四代』)。

 

鎌倉の永享の乱と持氏の死
永享十年(一四三八)八月十六日を期して鎌倉府の持氏が関東管領の上杉憲実を攻めるという風聞が立ち、憲実は身の潔白を証明するために切腹しようとした。
しかし近臣に止められ、領国の上野(群馬県)に移った。
それを知った持氏は八月十五日に家臣の一色氏を先発させ、自らは翌日武蔵国府中の高安寺(東京都府中市)に出陣した。
一方幕府はすでに七月三十日以降、諸国の武将に対して憲実への合力を指示していた。
八月二十二日には、上杉教朝を大将として持氏討伐軍を下した。
二十八日には後花園天皇が持氏討伐の綸旨を発し、錦の御旗が幕府に与えられ、篠川御所の足利満直がそれを賜ったという。
将軍義教も自ら出陣しようとしたが、それは取りやめ、
上野では一色軍と憲実軍が戦い、
九月末には持氏は相模国海老名に陣を移した。
そしてこの頃から持氏を離れる武将が増え始め、一色軍も寝返りが多いことから上野を撤退し持氏に合流したが、鎌倉の留守を預かっていた三浦氏が十月三日に鎌倉を離れ本拠地である三浦(神奈川県横須賀市)に退き、十一月初めには逆に鎌倉に攻め入り火を放った。
一方の憲実は十月十九日には武蔵国分倍河原(東京都府中市)に布陣して鎌倉との交渉に入った。
持氏は十一月四日には称名寺(神奈川県横浜市金沢区)に移り、翌日には剃髪して道継と号した。
称名寺では多くの持氏近臣が切腹させられ、十一月に鎌倉の永安寺に入った。
しかしこの期に及んでも持氏の野望は衰えず、十一月二十七日には、常陸国の鹿島実幹への感状が認められている。
憲実は当初は持氏の助命を幕府に願っていたが、翌永享十一年二月十日、幕府の要望により千葉胤直らを持氏のいる永安寺に攻めさせ、自らも出陣し、それに対して持氏は自害して果てた。四十二歳とも四十三歳ともいう。

このとき、持氏を応援して行動を共にしていた稲村御所の満貞も切腹した。『鎌倉大草紙』によると、満貞はさきの応永三十一年(一四二四)十一月二十日に稲村に目代を置いて自身は鎌倉に来ていた。
持氏の嫡子義久は十四歳であったが、二月二十八日、鎌倉の報国寺で自害した。
義久の弟たちは皆鎌倉を脱出している(『関東公方足利氏四代』)。

 

結城合戦と古河公方の始まり
永享十二年(一四四〇)三月三日(あるいは四日)、持氏の遺児である安王丸と春王丸が常陸国木所城(茨城県桜川市)で挙兵し、
四日には安王丸の代官簗田景助が御意を奉じて賀茂社に「源安王丸征夷将軍武運長久」なる願文を掲げて、たからかに鎌倉府復活の宣言をした。
安王丸らは三月二十一日には、下総国の結城氏朝に迎えられ結城城(茨城県結城市)に入り、持氏恩顧の関東武士たちが続々と結城城に入城した。結城城に籠城した武士たちの大将は、城主の結城氏朝のほか、岩松持国と桃井憲義であった(『古河公方足利氏の研究』)。
しかし氏朝らの奮闘も虚しく、幕府の討伐軍によって翌嘉吉元年(一四四一)四月中旬、結城城は落とされた。
春王丸と安王丸は生け捕られ、京都に送られる途中、五月十六日に美濃国垂井の金蓮寺(岐阜県垂井町)で誅殺された。年齢には諸説あるがふたりとも十代の初めであった。
残るもう一人の弟も殺されそうになったが、驚いたことに将軍義教自信が播磨国の守護赤松満祐に殺害され(六月二十四日。いわゆる「嘉吉の乱」)、生き延びた。
今まではこの子が後に古河公方となる成氏だとされてきたが、佐藤博信氏は彼は後に定尊となる人物であるという。
一方、鎌倉府滅亡のときに信濃国の大井持光のもとに逃れていた万寿王は、結城合戦には加わらず、その後、鎌倉復帰運動を開始する。
そして、文安四年(一四四七)三月には鎌倉公方に就任、八月二十七日には、鎌倉帰還を実現させた(『古河公方足利氏の研究』)。
なお、将軍義教が死んで第七代将軍は義勝が継いだが、それも嘉吉三年(一四四三)に十歳で死んでしまい、将軍は弟の義成(のちの義政)が継いでいた。
また、鎌倉府と対立していた奥州の篠川御所の満直は、結城合戦の最中、奥州の国人に攻め殺されてしまった。
万寿王は文安六年(一四四九)七月三日に成氏と名乗った(『関東公方足利氏四代』)。
この頃関東管領は上杉憲忠であったが、成氏は父持氏を死に至らしめた憲実の子憲忠に対して快く思っておらず、ついに亨徳三年(一四五四)十二月二十七日、鎌倉西御門第で殺害した。いわゆる「亨徳の大乱」の始まりで、関東地方の歴史ではこれをもって戦国時代の始まりとする説がある。
成氏と上杉氏との戦闘が開始され、翌亨徳四年(一四五五)三月三日には成氏は下総国古河(茨城県古河市)に入った。古河公方の始まりである。
一方の鎌倉へは幕府軍が六月十六日に攻め入った。これによって、鎌倉府は滅亡し、これ以降鎌倉に政治拠点が置かれることは無かった。

このあと幕府は、長禄元年(一四五七)、第八代将軍義政の異母兄政知を成氏に代わり新たな鎌倉公方とし、翌長禄二年五月頃下向したが、政知は鎌倉に入らず、伊豆国堀越(静岡県伊豆の国市寺池か)に御所を構え、堀越御所と呼ばれるようになった。
長禄元年四月には、扇谷上杉持朝は河越城と江戸城を築いた。そして、縄張に重要な役目を果たしたのは、太田道真・道灌親子であった。
持朝は本拠地を相模国糟屋庄(神奈川県伊勢原市)から河越に移し、江戸城には道灌が入部した(『扇谷上杉氏と太田道灌』)。

 

(二)八戸根城南部氏最後の光芒
応仁の乱への序曲
畿内では正長元年(一四二八)から主に山城と大和で大規模な土一揆が発生し、大規模な飢饉も立て続けに発生している。
将軍職は嘉吉三年(一四四三)に義勝が死んだあと、宝徳元年(一四四九)に第八代として弟の義成(のちの義政)が継いだ。
義政は世の中が土一揆や飢饉で喘いでいる中、贅沢にふけった。
寛正五年(一四六四)将軍義政は男子が誕生しないので弟義尋を還俗させて義視と名乗らせ、養子にしたが、義政の妻富子はこのときまだ二十五歳であり、子を産む可能性は高かった。そしてその予想通り、翌年には男子が生まれた、のちの義尚である。
富子が山名持豊の後援を受けると、義視は細川勝元を頼った。
この頃、幕府の政治を担っていた畠山氏にも跡目相続で争いがあった。持国は実子がいなかったので甥の政長を養子にしたところ、そのあとに妾が義就を生んだ。
持国は宝徳二年(一四五〇)、当然のように義就に家督を譲った。
ところが、畠山氏の有力被官である神保・遊佐氏などが政長を支持したので合戦になった。
政長は細川勝元を頼った。このときは勝元とともに山名持豊(宗全)も政長を支持し、義就は吉野に逃れた。
勝元は持豊の女婿であり、当初二人は協力し合っていたが、勝元は持豊の勢力を削ぐために、嘉吉の乱で滅んだ赤松家を再興して持豊に対抗させた。
山名氏は、嘉吉の乱で赤松の遺領を手にしていたので、持豊はこの仕打ちに激怒し、二人の仲は険悪となった。
分裂していた畠山氏もそれに付け込み、政長は従来通り勝元についたが、出奔していた義就は持豊についた。
応仁元年(一四六七)正月五日、持豊の取りなしで畠山義就が京に入り、七日、管領畠山政長が罷免され、あらたに斯波義廉が管領に任命された。当然ながら山名持豊の指図によるものであろう。
失脚した政長派の兵士たちは、正月八日から九日にかけて、京都内に火をかけ略奪を始めた。

十五日、持豊・義就派は将軍義政に圧力をかけ、畠山政長を支持する細川勝元の問責を要求し、足利義視が政長に擁されないように幕府に軟禁した。
持豊・義就派は幕府に陣取り、政長は上御霊社に陣を張り、十八日には義就が政長の陣を襲った。
義就は、戦いの一方、後土御門天皇・後花園上皇・伏見宮定常親王を幕府に連れ込んだ。
戦いに敗れた政長は勝元邸に逃れた。この戦いの表向きは、畠山内における政長と義就の私闘ということになったが、これが次の持豊と勝元との直接対決に続くことになる。

 

応仁の乱
二月の半ばになると、周防(山口県)の大内政弘が東上するとのうわさが流れ、
三月三日の節句には、持豊・義就は将軍に謁し、ついで義視に会ったが、勝元は出仕せずひそかに兵を集め出した。
四月になると、山名方の年貢米が京に運ばれる途中で細川方に奪われるという事件が多発した。
地方で戦いの火の手が上がり、五月二十日には、山名方が軍議を開き、諸国の兵を募った。
六月になると、山名・細川両軍の勢力分野はほぼ確定する。細川勝元側(いわゆる東軍)は、室町幕府を本拠とし、相国寺および北小路町の勝元邸を陣地とし、細川成之・細川常有・細川勝久・京極持清・赤松政則・武田信賢などが味方である。山名持豊側(西軍)は、五辻通り大宮東の持豊邸を中心に陣を張り、山名教之・山名大夫・山名勝豊・斯波義廉・畠山義就・畠山義統・土岐成頼・六角高頼などが味方である。『応仁記』では、東軍の兵力十六万千五百余騎、西軍十一万六千余騎というが、実際にはこれほどは集まっていないだろう。
合戦は五月二十六日卯の刻(午前六時)ごろ、東軍による西軍への攻撃によって始まった。
将軍義政は山名勢に擁せられていたが、二十八日には両軍に合戦をやめるように命じた。ところが、それと当時に元政所執事の伊勢貞親に伊勢から兵を率いて上京させ、話をややこしくさせていた。
六月三日には、牙旗(将軍のいるところに立てる大旗)を勝元に与え、戦いは将軍派対反将軍派という形になった。戦況は将軍派となった東軍が優勢になったが、大内政弘が大軍を率いて西軍に加わると、一転して西軍が優位になった。
十一月になると、義視が西軍に擁せられた。そのことは義視の敵対勢力である富子が東軍に与することを意味する。これはおかしな展開である。もともと富子の方は山名持豊を頼り、義視は細川勝元を頼っていたからである。
文明元年(一四六九)正月、五歳の義尚が家督相続者と決定されたが、西軍は大覚寺統(南朝)の皇胤小倉宮を奉戴した。
長引く戦いで京都の市街地は灰燼に帰し、人びとは倦み始めて、和平の手段も探られ始めたが、文明五年(一四七三)三月十八日、西軍の山名持豊が七十歳で没してしまった。
しかも五月十一日には東軍の細川勝元も四十四歳で急死してしまった。
十二月には、義尚が九歳で元服し、第九代将軍となった。
戦いはほとんど惰性となり、翌文明六年(一四七四)四月、持豊の子政豊と、勝元の子政元が講和のための会談を設けた。
ところがそれで戦は終わらず、文明九年(一四七七)十月になってようやく、十一月には土岐成頼が義視を連れて美濃に引き上げ、東軍に帰順していた大内政弘も周防に帰り、畠山義就も領国河内に下ったことにより、大乱は収束するに至った。

 

長尾景春の乱
文明八年(一四七六)六月、扇谷上杉氏の家宰太田道灌が駿河に使いに行っていた状況を見計らって、山内上杉氏の重臣長尾景春が、武蔵国鉢形城(埼玉県寄居町)を築き叛乱を起こした。
これよりさき、山内上杉氏の家宰白井長尾景信が死去した跡、家宰の職は景信の嫡子景春ではなく、景信の弟惣社長尾忠景の手に渡った。これに不服な景春は、家宰忠景と対立を深めていき、太田道灌の仲裁にも関わらず、関係は修復されず、ついに挙兵に至ったのである。
景春には足利長尾六郎房清や、二宮大石駿河守、葛西大石石見守、さらに上野一揆衆の旗頭の長野左衛門為業も加わり、山内上杉氏と二分する争いとなった。
駿河から帰った道灌は忠景・景春両者の融和に努めたが、その甲斐なく、翌文明九年正月には景春勢の攻撃により、山内上杉氏の五十子陣は崩壊して、山内上杉顕定・扇谷上杉定正・長尾忠景・太田道真らは東上野に後退した。
景春の与党勢力は、相模や南武蔵などの扇谷上杉氏領内でも蜂起したので、道灌は三月になり和平工作を諦め武力による鎮圧に動いていった。
道灌は、相模国においては溝呂木(神奈川県厚木市)の溝呂木氏、小磯(同大磯町)の越後五郎四郎、南武蔵においては小机城(同横浜市港北区)を次々と攻略したが、小沢(同愛川町)の金子掃部助だけは屈強に抵抗した。
道灌は金子掃部助はとりあえず置いておいて、三月十三日には、豊島平右衛門尉の拠る練馬城を攻略、ついで石神井城から出撃してきた平右衛門尉の兄勘解由左衛門尉を江古田・沼袋(東京都中野区)で破り、平右衛門らを討ち死にさせた。
そこで石神井城は一度は降伏したものの、謀反の兆しがあるということで改めて二十八日に攻略した。
それから五月十八日には用土原(埼玉県寄居町)・針谷原(同深谷市)で景春と直接対決し、山内上杉氏の重臣大石源左衛門尉房重や景春勢の長野為業が討ち死にしたほどの激戦であったが、両上杉勢が勝利し、景春本拠地の鉢形城の包囲に入った。
ところが七月、古河公方足利成氏が景春救援のため進出してきた。そのため両上杉勢はいったん白井城(群馬県渋川市)に後退、翌文明十年元旦には上杉勢から和睦を申し出、四日には成氏は去り、二十四日には道灌も扇谷上杉定正とともに河越城に帰還した。
しかし道灌に休む間は無かった。この間にさきに石神井城から没落していた豊島勘解由左衛門尉が平塚城(東京都北区)で蜂起していたからだ。
道灌は二十五日にそれを攻略すると、勘解由左衛門尉は今度は小机城に籠った。そして四月十日、小机城は落ち、名実ともに武蔵豊島氏は滅亡した。
その後、道灌は武蔵二宮城(あきる野市)の大石駿河守(憲仲か)や、懸案になっていた金子掃部助の籠る小沢城を攻略し、
残党が奥三保(神奈川県相模原市・旧津久井郡域)に逃れたため、弟資忠と六郎(資常か)を派遣して攻略した。
資忠はさらに甲斐国都留郡の加藤氏を攻撃して帰陣した。このようにして相模の平定は完了し、

七月上旬になって武蔵中部に進出、十八日には鉢形城を攻略した。景春は秩父郡へと逃れた。
道灌はこの年から翌文明十一年(一四七九)にかけて、下総・上総方面も平定したが、
九月には景春が長井城(埼玉県熊谷市)において再び蜂起し、
翌文明十二年正月下旬にはそれを攻略したが、景春はまたしても逃げおおせた。
そしてついに六月十三日景春の拠る日野城(埼玉県秩父市)を攻略し、景春は成氏のもとに逃れ、景春の乱は一応の収束をみた。
その結果道灌は、文明十八年(一四八六)七月二十六日、相模国糟屋の扇谷上杉定正の館で暗殺されることになる。享年五十四歳。

 

(三)三戸南部氏の勢力拡大
将軍義尹の奮戦
長享元年(一四八七)九月十二日、将軍義尚は近江守護六角高頼討伐のために出陣した。
その戦いは長丁場となり、出陣から一年半ばかり経った延徳元年(一四八九)三月二十六日、義尚は二十五歳で急死してしまった。
美濃に下っていた前将軍義政の弟義視は仏事のために子の義材を引き連れ上洛、富子とともに義材を将軍にしようと運動した。
そしてそれが決まるよりさきに、義政は翌延徳二年(一四九〇)正月七日、五十六歳で没し、
七月五日には、義材が第十代将軍となった。
さらに義政のちょうど一周忌の翌延徳三年(一四九一)正月七日に義視が死亡した。世の中の人は兄弟が同じ日に死んだことを不思議に思った。
将軍になった義材はその年の四月に近江の六角氏を討伐し、
明応二年(一四九三)二月には、返す刀で河内の畠山氏を討伐したが、この出陣中、細川政元が堀越公方政知の子清晃を擁して叛乱を起こした。
清晃は翌年の十二月に正式に第十一代将軍となる。後の義澄である。
義材は政元によって出陣していた河内から連れ戻され軟禁されていたが、そこを脱出し、越中の神保長誠のもとに走った。
義澄を擁立した政元も女人を近づけず、山伏修験の道に凝ったりして、周囲から見放されていき、永正四年(一五〇七)六月二十三日、政元の家督澄元と敵対する澄之(澄元も澄之も政元の養子)の家臣薬師寺長忠の配下の者に刺し殺されてしまった。
政元を暗殺した長忠らは澄元の殺害も企てたが、澄元は家臣三好之長らとともに近江に逃れた。
長忠らは澄之を細川家の家督にすえたが、澄元らは八月一日、逆襲をかけ、澄之や長忠らは討ち死にした。
幕政は実質、澄元の家宰である三好之長が握った。

この政変を知った前将軍の義尹(義材から改名)は、大内義興らに奉じられ京を目指した。
一方で政元のもう一人の養子である高国が、自らが細川家の家督を継ぐことを目指し、澄元を攻めた。
澄元と之長はそれに負け近江に逃れ、将軍義澄も京にとどまっていることができず、永正五年(一五〇八)、近江に逃れた。
義澄は永正八年(一五一一)八月十一日に病死するが、その前の三月五日にはのちに第十三代将軍義晴と名乗る亀王丸の出生を見ていた。
将軍のいなくなった京には義尹が入った。義尹は七月一日、征夷大将軍に還輔された。
永正六年(一五〇九)十月二十六日、義尹が義澄方の者に暗殺されかけられ、義尹は八ケ所も斬りつけられたが賊を退けたという。
一方、永正八年(一五一一)、本拠地である阿波を出陣した澄元は、八月十六日に将軍義尹らを追い出し上洛を果たした。
しかし、義尹側もすぐに逆襲し、九月一日にはまたもや上洛を果たした。
その後政権は細川高国が握り、『戦国 三好一族』によれば、永正十五年(一五一八)八月大内義興が山口に帰り、
戦機が熟したとみた澄元・之長は、翌永正十六年十月挙兵し、
翌永正十七年三月二十七日には上洛を果たした。
高国は近江にすでに去っていたが、将軍義稙(義尹から改名)が澄元・之長らを迎え入れた。
ところが高国の反撃も早かった。五月二日には如意岳(京都府京都市左京区)に現れ、
対する澄元は病気が重く出陣できなかった。之長は合戦に敗れ、通玄寺塔頭曇華院に隠れていたが自首し、五月十一日に切腹した。
一方病気であった澄元も勝端城(徳島県藍住町勝瑞)に落ちていき、六月に没した。
大永元年(一五二一)三月には、高国と不仲だった将軍義稙は淡路に出奔した。

義稙はその後上洛の計画を立てたが、実現できないまま大永三年(一五二三)四月九日、五十八歳で没する(『日本歴史11 戦国大名』)。

 

後北条氏の濫觴
今川氏では太田道灌の後援を得た範満が当主であったが、道灌が文明十八年(一四八六)七月二十六日に殺害されると、宗瑞が駿河に下向し、姉の子である氏親を今川家の当主に据えた。
既述した通り、明応二年(一四九三)、細川政元が堀越公方政知の子清晃(義澄)を擁して叛乱を起こし、義澄が将軍になったが、義澄にとって当時伊豆の堀越公方二代目を継いでいた茶々丸は異母兄であっても実母と実弟の仇であったので、宗瑞は幕府の命を受け、今川家当主の叔父として伊豆に侵攻した。
宗瑞は明応七年(一四九八)八月、伊豆を平定した。
その頃、もともとは同祖である扇谷上杉氏と山内上杉氏は抗争をしていたが、宗瑞は扇谷上杉氏を支持しており、小田原城の大森氏が扇谷上杉氏から山内上杉氏に寝返ったため、それを討った。その時期は、文亀元年(一五〇一)三月以前である。
それまで宗瑞はあくまでも今川家の御一家として活動していたが、永正六年(一五〇九)から自立を始める。
そしてかつて支持していた扇谷上杉氏の族将である三浦道寸を三崎城に攻撃し、永正十三年(一五一六)七月十一日、三崎城を攻略し道寸とその子義意は自害した。平安時代末以来の名族三浦氏の滅亡である。
宗瑞はこの後も、海を越えて上総に触手を伸ばしているが、永正十五年(一五一八)九月には隠居し、氏綱が跡を継いだ。
『戦国 北条一族』によると、宗瑞は翌永正十六年八月十五日に没し、享年は六十四歳であった。

 

中央と関東の動き
前将軍義澄の子亀王丸は、大永元年(一五二一)十二月に十一歳で元服し、義晴と名乗り、第十二代将軍となった。
管領は細川高国だったが、その後、大永七年(一五二七)三月二十日、その高国の政敵であった之長の孫元長が、将軍義晴の弟義維と細川晴元をかついで堺に進出してきた。
その後、京をめぐって相変わらずの混戦が続き、高国は元長との合戦に敗れ、享禄四年(一五三一)六月八日、切腹した。
しかしその元長も翌享禄五年六月、本願寺証如光教と組んだ木沢長政と戦い敗れた。
ところが木沢長政も天文十一年(一五四二)、三好元長の子長慶に敗れ去った(『日本の歴史11 戦国大名』)。
伊勢宗瑞の跡を継いだ氏綱が大永三年(一五二三)六月から九月までの間に名字を伊勢から北条に変えており、
積極的に武蔵に侵攻し、翌大永四年正月十三日には、江戸城主の太田大和守資高を内応させ、江戸城を落とした。
その後、武蔵の覇権をめぐって北条氏と扇谷上杉氏の戦いが繰り広げられ、享禄三年(一五三〇)六月十二日の小沢原(東京都稲城市・神奈川県川崎市)の合戦では氏綱嫡子氏康は初陣を飾っている。
天文六年(一五三七)四月には扇谷上杉朝興が死去し、嫡子朝定が継いだ。
『戦国 北条一族』によると、七月十五日には、北条勢は河越城の近くの三木で朝定の叔父上杉左近大夫朝成を大将とする扇谷上杉軍と戦いそれを破り、朝定は河越城から逃れ、家宰難波田弾正左衛門尉(法名善銀)の居城松山城に移り、河越城は北条氏のものとなった。
ついで翌天文七年(一五三八)二月二日に、北条勢は葛西城(東京都葛飾区)を攻略し、
さらに翌天文八年八月には氏綱は娘を晴氏に嫁がせ婚姻を結んだ。これにより北条氏は足利氏の「御一家」としての身分的地位を与えられることになった。
当時氏綱は鎌倉鶴岡八幡宮の造営を行っており、天文九年(一五四〇)十一月二十一日に落慶式が行われた。
氏綱は翌天文十年夏頃から病気になり、七月四日に出家し、十七日に死去した。享年は五十五歳であった。

 

第六章 戦国時代
北条氏康の戦い
天文十四年(一五四五)八月、北条氏の領地であった駿河国河東地域に、今川義元とそれに加担した武田晴信が攻めてきた。
氏康は伊豆との国境近くまで退却したが、九月末には今度は扇谷山内両上杉勢が河越城に攻めかかってきた。
氏康は河東地域の今川氏への割譲を条件に和睦したが、一方の河越戦線には、古河公方足利晴氏が北条氏との同盟を破って両上杉方に加担した。
翌天文十五年四月中旬になって、氏康はようやく河越城の救援に向かい、二十日に河越砂窪の両上杉勢を撃破した。扇谷上杉朝定は、重臣難波田弾正善銀らを失い、松山城から逃亡した。扇谷上杉氏の滅亡である。
ついで山内上杉氏への攻撃を続け、天文十九年(一五五〇)十一月初めには山内上杉氏の本拠地平井城(群馬県藤岡市)を攻めた。
天文二十一年には、山内上杉憲当(憲政から改名)は平井城の維持は困難だと氏、城を出て、各所をめぐった挙句、五月初めには越後の長尾景虎を頼って落ちていった。
氏康は永禄二年(一五五九)終わりごろには上野一国の支配を確立させた。
氏康は上野平定作戦を行う一方で、古河公方に圧力をかけ、天文二十一年(一五五二)十二月十二日、藤氏を廃嫡させ、外甥の梅千代丸(のちの義氏)を公方の家督とさせた。
ところが、藤氏とその父晴氏は、天文二十三年七月二十四日、古河城に入り氏康に反旗を翻した。藤氏らは十一月初め頃に鎮圧された。
氏康は常陸や上総方面でも作戦し、天文二十三年(一五五四)には、駿河の今川義元と甲斐の武田晴信と北条氏の間で「甲相駿三国同盟」が結ばれ、氏康は上杉景虎との対決等、関東経略に全力を傾けることが可能となった。
氏康は永禄二年(一五五九)十二月二十三日に北条家の家督を氏政に譲ったがまだ実権は握っていた。
永禄四年(一五六一)三月十三日には上杉景虎に小田原城を攻められたが、上杉軍は一週間で小田原を去り、守り通すことができた。

 

八戸政栄の復讐と室町幕府の滅亡
義輝が暗殺されてから、第十四代将軍は義栄が継いでいたが、一方で義輝の弟覚慶も将軍の座を狙っており、還俗して当初は義秋、次いで義昭と名乗っていた。その義昭が匿われていた越前の朝倉氏のもとに、七月二十五日、織田信長からの迎えの使者が来て、義昭は今度は織田家に擁されることになった。
信長は尾張・美濃・伊勢・三河四ヶ国の軍勢を率いて、九月七日に出陣し、近江を平定し、
二十八日には東福寺(京都市東山区)に陣を張り、同日義昭も清水に移った。
そして、十月十八日には義昭は第十五代将軍となり、信長は二十四日に帰国の途についた。
同日の義昭から信長への書状では信長のことを「御父」と呼ぶほどであった(『信長公記』)。
翌永禄十二年(一五六九)一月には、殿中御掟という九箇条(二日後には七箇条が追加され、さらに翌永禄十三年一月には五箇条が追加され二十一箇条となる)の掟書を義昭は承認させられ、政治を執ることが事実上不可能となった。
また関東でも永禄十一年(一五六八)十二月、武田信玄が「甲相駿三国同盟」を破棄して駿河に侵攻した。
北条氏政は、すぐさま今川氏救援のため出陣した。そして北条氏では外交政策を転換させて上杉氏と結ぶことにした。同盟は永禄十二年(一五六九)六月に成立した(『戦国 北条一族』)。
また、この年には武田信玄は北条氏の滝山城(東京都八王子市)などを攻撃し、小田原城を攻めている。
元亀元年(一五七〇)六月二十八日、織田信長は盟友徳川家康とともに、姉川(滋賀県長浜市野村町)で浅井長政とそれを援ける朝倉義景と戦い、彼らを打ち破った。
その後、信長は浅井・朝倉氏ほか反信長勢力と和談することを願って、十二月十三日には和議がなったが、
将軍義昭の不満は増長しており、翌元亀二年(一五七一)になると義昭は、上杉氏・武田氏・六角氏・本願寺氏・毛利氏などに密かに御内書を送り、信長打倒を呼びかけた。
それに怒った信長は、翌元亀三年(一五七二)九月、義昭に十七箇条の意見書を送りつけた。
そして義昭の信長打倒に応じる形で武田信玄が上洛を開始し、十二月二十二日には、身方が原(三方ヶ原。静岡県浜松市北区三方原町)で徳川勢を破った(『信長公記』)。
ところがそのまま西上するかと思えた武田軍は後退を始めた。信玄の病が重くなったからだ。義昭は信玄を頼みにしてついに挙兵するに至ったが、その頼みの信玄は翌元亀四年(一五七三)四月十二日、信濃国駒場(長野県阿智村)で没してしまった。(『武田信玄のすべて』)。

義昭は一度は降伏したものの、七月三日になり再度挙兵して真木嶋(槙島城)に籠った。それに対して信長は七月七日に上洛し、義昭はまたも降参した。
義昭は一命を助けられ追放処分となった(『信長公記』)。足利尊氏が打ち立てた室町幕府の滅亡である

 

(二)南部信直
武田氏と上杉氏の衰亡
勝頼は父が落とせなかった高天神城(静岡県掛川市上土方・下土方)を天正二年(一五七四)に落として、三河に侵攻した。
それに対して翌天正三年(一五七五)五月十三日、信長は嫡男菅九郎(信忠)とともに出陣し、信長は十八日に志多羅の郷極楽寺山(愛知県新城市)に、菅九郎は新御堂山に陣を取った。
激戦は二十一日に繰り広げられ鉄砲を多用した織田軍に対し、武田は多くの家臣を討ち死にさせ、結果は信長の勝利であった(『信長公記』)。これを長篠・設楽ヶ原の合戦という。
十一月には、岩村(岐阜県恵那市岩村町)で織田と武田の合戦があり、それに勝利した信長の嫡男信忠は十一月七日に秋田城介に任じられた。
天正六年(一五七八)三月には、上杉謙信も死亡し、その後継をめぐって景勝と景虎が争い、やはり勢力を減らしてしまった。

 

政実の第二次南進と為信の津軽統一
天正十年六月一日の深夜、織田家重臣明智光秀が主人である織田信長を本能寺に攻めたのだ。衆寡敵せず、翌二日の未明には信長が自害し、続けて嫡子信忠も二条御所で切腹した(『信長公記』)。
信長父子を討ち果たした光秀だったが、六月十三日には羽柴秀吉に討たれた。
秀吉と敵対した旧信長重臣の柴田勝家は秀吉との戦いに敗れ、翌天正十一年四月二十四日に自害して果てた。
そして秀吉は、翌天正十二年三月から四月にかけての小牧・長久手の戦いでは徳川家康に負けたが、信長の二男信雄と講和を結び、政治的には家康を屈し、秀吉と家康の間では天下を巡って駆け引きが展開され、
翌天正十三年(一五八五)に秀吉は関白となる。

 

信直の中央との結びつき
九月九日に秀吉が豊臣の姓を賜り
その後太政大臣になり豊臣政権が誕生した。
秀吉はこの年の三月に自ら九州に出陣し、九州を平定した。
『奥羽仕置と豊臣政権』によれば、この年の冬、秀吉は家康を介して、関東と奥州に「惣無事令」を令達した。

 

第七章 九戸合戦
(一)
信直の秀吉への出仕と和賀・稗貫の改易決定
天正十八年(一五九〇)三月一日、秀吉は御陽成天皇から節刀を賜り京都を出陣、
三月二十七日には沼津において津軽為信が出仕した。『奥南旧指録』では、「天性勇気勝れ」る為信の母が代わりに参陣したと伝える。
豊臣勢は、四月初めには北条氏の拠る小田原城の攻囲を始めた。
豊臣軍の前田利家と上杉景勝の軍勢は、六月二十三日には八王子城(東京都八王子市)を落とし、小田原包囲網はより一層厳しくなった。
小田原城の北条氏政・氏照・氏直以下は、七月五日に小田原城を出て降り、氏政と氏照十一日切腹する。
一方信直もすぐには帰国せず、秀吉が宇都宮に移動すると、そこでも秀吉と対面して、和賀・稗貫郡を除く以北の七郡の安堵を取りつけている 『盛岡南部家文書』天正十八年七月二十七日付け「豊臣秀吉朱印状」

 

陸奥の仕置
秀吉は八月九日には会津黒川城(後の鶴ヶ城)に入った。
和賀・稗貫郡、それと旧葛西領・旧大崎領の仕置は、浅野長吉(後年の長政)の管轄とされ、長吉は八月十三日、刈田郡で伊達政宗と合流し、
十八日には大崎氏の中新田城を接収し、
二十三日頃に葛西氏の居城であった登米城に入った。
登米城に入る前は上方軍と葛西勢との間に若干の戦闘が行われた模様である。
長吉はその後、九月十三日には平泉に至り、
一方の秀吉は八月十二日には会津黒川城を出て帰洛の途につき、九月一日に京都に着いている。

 

 

 

室町時代

 

年号
西暦
月日 事柄 典拠 根本史料
建武3年
延元元年
1336
11月7日 建武式目が制定され室町幕府が成立(ただし、尊氏が征夷大将軍に叙された暦応元年<1338>8月を成立時期とする考えもある)    
貞和5年
1349
9月9日 基氏、鎌倉へ向けて京を出立。 『関東公方足利氏四代』 P.18  
貞和5年
1349
10月3日 義詮、上洛のために鎌倉を出立。 『関東公方足利氏四代』 P.18  
文和2年
1353
7月28日 足利基氏、入間河在陣のため鎌倉を出立(入間川御陣)。関東管領畠山国清が補佐。正平17年/貞治元年(1362)まで在陣。 『北・資1』P.100 鶴岡社務記録
文和3年
1354
10月10日 新田義興謀殺    
延文4年
1359
10月 関東管領畠山国清が東国の国人を根こそぎ動員し西上 『北・資1』P.105 『太平記』巻三十四
康安元年
1361
11月23日 基氏、畠山国清の関東管領および伊豆国守護を解任 『北・資1』P.105  
応安元年
1368
6月17日 武州河越合戦。河越氏・高坂氏は族滅。武蔵の支配に対して河越氏と公方足利氏は歴史的にも競合しており、その決着がついた。    
天授6年/康暦2年
1380
5月16日 河内郡裳原の戦い。小山義政が宇都宮基綱を討死させる。    
永徳2年
1382
4月13日 小山義政自害。    
元中3年/至徳3年
1386
5月27日 小山犬若丸が祇園城を占領。    
元中8年/明徳2年
1391
奥羽が鎌倉府の管轄下となる。    
応永4年
1397
1月15日 犬若丸が会津で自害。    
応永5年
1398
11月4日 氏満死去。満兼家督。犬懸上杉朝宗が氏満に引き続き満兼を補佐。    
応永6年
1399
7月28日 足利満貞・満直が鎌倉を出立。満貞は福島県須賀川市にて稲村御所、満直は同県郡山市にて篠川御所。    
応永6年
1399
11月 大内義弘、将軍義満に謀反(「応永の乱」)。12月21日に義弘討死。    
応永6年
1399
11月21日 満兼、府中へ発向。翌年3月5日まで滞陣。 『関東公方足利氏四代』P.103 「喜連川判鑑」  
応永7年
1400
3月8日 稲村御所満貞、白川結城満朝に伊達政宗・蘆名満盛退治を命ず。 『関東公方足利氏四代』P.109 「結城文書」  
応永9年
1402
5月21日 上杉氏憲(のちの禅秀)が大将となり奥州凶徒退治のため発向。9月5日、政宗降伏。 『関東公方足利氏四代』P.110 「生田本鎌倉大日記」  
応永16年
1409
7月22日 満兼死去。32歳。9月、幸王丸(のちの持氏)家督。 『関東公方足利氏四代』P.114・116 「足利系図」  
永享10年
1438
11月11日 上杉修理大夫持朝・大石源左衛門憲儀・千葉介胤直らが永安寺に幽閉された持氏を警固 『新八・資2』P.212 鎌倉大草紙
永享12年
1440
3月15日 性順(上杉憲信)と長尾景仲が鎌倉出陣 『新八・資2』P.213 鎌倉大草紙
永享12年
1440
3月17日 幕府は武州北一揆・武州南一揆・武州新一揆・武州入西一揆に対して常州への出陣を命じる 『新八・資2』P.213 伊勢貞国カ奉書案
永享12年
1440
9月20日 長棟(上杉憲実)が武州南一揆に対して武蔵国警固のために出陣を命じる 『新八・資2』P.214 阿伎留神社文書

 

 

性順は苦林(埼玉県毛呂町)に、景仲は入間川(同狭山市)に陣を張り、軍勢が集まるのを待つ。この頃、公方側の新田・田中・佐野小太郎・高階・傍士塚修理亮・桃井の被官たち・野田右馬介(氏行)の郎等・加藤伊豆守が、足利の庄(栃木県足利市)高橋郷の野田の要害に結集、上州攻撃を評定。上野国守護代・大石石見守憲重は、上州の一揆を集めて野田要害の攻撃を企てるが、一人も集まらず、手勢を率いて、4月4日に上野国角淵(群馬県玉村町)に出陣。そうしたところ、近くの武士が少々集まってきたので、それらを率い9日に高橋の城(野田要害)を攻撃、籠城側はその日の夜に逃走、城に残った雑色国府野美濃守・同舎弟らは、大石に討たれた。

 

織豊時代

 

 室町幕府が滅びた後、教科書的には信長とそれを受け継いだ秀吉の政庁があった場所をもとに安土桃山時代と呼ぶが、ここでは織田と豊臣の時代という意味のある織豊時代と称する。なお、戦国時代という呼称もあるが、その開始時期は列島内の地域によって区々であり、またその終了時期も不明瞭なのでここでは使わない。

 

江戸時代

 

 

近代

 

慶応4年(1868)閏4月 新政府は政体書を制定、府藩県三治制を採用。旧大名領はそのまま藩として存続。旧幕府直轄領については、それ以前に鎮台、ついで裁判所と称されていたが、このとき裁判所は江戸など主要な9つの地方都市については府に改称され、そのほかは県と称された
明治4年(1871)7月 廃藩置県が断行され、全国すべてが府と県に統一された。3府302県
明治5年(1872)11月 大区小区制施行、府県の下位自治体を機械的な数字で呼称(大変分かりづらく不便だったと想像できる)
明治11年(1878)7月22日、太政官布告第17号として郡区町村編成法が制定、大区小区制は足かけ7年で廃止され、郡の下位組織として江戸期以来(場所によっては中世以来)の村名が復活することになり、各府県が暫時施行するが、郡内で同じ村名が複数存在するケースがあったので東西南北などを冠して村名を分ける。神奈川県下には、北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡が置かれ、「三多摩」と称され今でもよく聞かれる
明治17年(1884)5月7日 区町村法が改正、7月より連合戸長役場制が成立
明治21年(1888)4月25日 明治21年4月25日法律第1号として市制と町村制が公布(北海道庁が管轄する北海道は適用外) 
明治22年(1889)2月21日 大日本帝国憲法発布 3府43県(これに北海道が加わり47の地方公共団体が出そろうのは戦後)
明治23年(1890)5月17日 府県制・郡制制定、郡は行政区画となり「府県−郡−町村」あるいは「府県−市」の重層構造になった
明治26年(1893)4月1日 三多摩が東京都の管轄となる。三多摩が神奈川県だったのは足かけ16年間
大正12年(1923)4月1日 郡制が廃止、地方自治体としての郡は足かけ34年の歴史を閉じるが残務処理のため各地の郡役所は数年存続した

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