◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

横手城

最終更新日:2017年9月24日

 

横手城概要

 

ふりがな よこてじょう
別名 朝倉城・龍ヶ崎城・阿櫻城・衡城・韮城
住所 秋田県横手市城山町

史跡指定
現況 横手公園
規模/比高 約500×約1000m/比高40m
目で見られる遺構
復元 模擬天守
存続時期 ?〜明治元年(1868)
城主・城代・関係者 小野寺輝道・義道、鮭延典膳、伊達盛重、須田美濃守盛秀、茂木監物、戸村十太夫義連
城攻めの記録 慶応4年(1868)8月11日 仙台・庄内両藩により攻撃される
大手方向 南側
仮想敵方向  
関連施設
その他

 

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第1回 探訪記録

 

探訪年月日 1998年8月某日
天候 晴れ

 

スズメバチに撃退される

 

 1998年の夏季休暇を利用しての城めぐりです。

 

 城めぐりと言っても、まだ本格的な趣味になっていたわけでもなく、デジカメもまだ持っていないころだったので、フィルムのインスタントカメラを持ち歩いていたのですが、なにしろ当時はホームページを開く前でもあったので、細かいことは憶えていません。

 

 なのでルポルタージュを書くことはままならないので、横手城の歴史を簡単にご説明します。

 

 現在の横手城跡に建つ天守は、昭和40年(1965)建てられた模擬天守で、中には郷土資料の展示があり、最上階は展望台になっています。

 

 

 なお、歴史的に見ると横手城に天守が建っていたことはありません。

 

 私が訪れた時は、ちょうど最上階にスズメバチがいて、眺望を楽しむこともできずにスゴスゴと退散しました。

 

 横手城の始まりについては良く分かっていませんが、戦国時代には小野寺氏の居城となっており、小野寺氏は輝道・義道父子のころに勢力を拡大したようです。

 

 義道は、『日本城郭大系』によると、天正元年(1573)に和賀義忠と戦い、同10年には由利勢と、同14年には有屋峠で最上義光と戦っています。

 

 天正18年(1590)の奥羽仕置では、横手城には大谷吉継が駐屯し、小野寺氏は豊臣政権下では平鹿・雄勝両郡の一部を領する3万石の大名に転落してしまいました。

 

 関ヶ原合戦のおりに西軍側として活動した義道は、慶長6年(1601)1月21日、石見国津和野藩主板崎出羽守に預けられ、小野寺氏の仙北支配は終わりを告げます。

 

 その後は、最上家の短期間の支配を経て、佐竹氏が出羽に入部した後はその支城として機能し、幕末の動乱に巻き込まれ、明治2年に廃城となりました。

 

 

 横手城は北側が尾根つづきであるものの、舌状台地の先端に位置しているので西と南は急崖となり、東は沼によって護られており、要害性は高いです。

 

 曲輪配置は、尾根の根元に二の丸、先端に本丸をおき、それぞれが独立丘阜の様相を呈しており、本丸と二の丸との間は武者溜りとして使われていました。

 

 現在見られる縄張は佐竹氏が入部した後のものなので、小野寺氏の時代のことは分かりませんが、主郭(本丸)の形状は変わっていないようです。

 

 大手門は本丸南側の急斜面を降りた場所にありました。

 

 さて、当時は東北の城めぐりをするときは岩手県北上市をベースにしていたのですが、北上と横手は昔から往来があって、北上市の西側(旧和賀町など)は、横手方面と文化的にも似ているところがあります。

 

 秋田自動車道を使うと一瞬で行き来できてしまいます。

 

 この日は横手城を見学した後、角館まで行きました。

 

 そして、真っ暗な林道のような道を通り奥羽山脈から北上平野に抜け出てきたのですが、途中、タヌキのような動物が車の前を横断したりして、なかなかスリリングなドライヴでしたよ。

 

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【1997年12月某日】
鶴ヶ城
(2回目)

横手城

鍋倉城

 

【参考資料】

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