◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

総社古墳群で前方後円墳としては最後に構築された古墳・総社二子山古墳

最終更新日:2015年11月19日

 

 以前から漠然と「古道」について興味がありました。

 

 しかし、一口に古道と言っても、古代の官道や中世の鎌倉街道、江戸期の五街道などたくさんあります。

 

 そんな折り、4月12日に川越で開催された「川越市立博物館開館25周年記念シンポジウム 古代入間郡の役所と道」を聴いてきて、俄然、古代の道への興味が再燃してきました。

 

 古代の道に関しては、3年前の10月10日、初めて国分寺にある東山道武蔵路の遺構を見ており、その頃から興味を持っていますが、今回のシンポジウムで異様にその面白さに目覚めたわけです。

 

 そのため、私も上野国府と武蔵国府とを結ぶ、全長100kmくらいの東山道武蔵路を歩いてみたくなり、今回のGWを利用してその一歩を踏み出してみたわけです。

 

 古代の官道の近くには、国府や郡家といった役所や古代寺院や古社、それに少し前の時代に隆盛した古墳や豪族居館など、古代の面白スポットが集まっているので、歩きながらそれらを一緒に探訪しようと思います。

 

総社二子山古墳諸元

 

概要

 

ふりがな そうじゃふたごやまこふん
住所 群馬県前橋市総社町植野字二子山368

交通 JR上越線群馬総社駅下車、徒歩約10分
史跡指定 国指定史跡
史跡名:二子山古墳
指定日:昭和2年6月14日
現況  
築造時期 6世紀第3四半期〜第4四半期(説明板)
関連施設  

 

墳丘

 

形状 前方後方墳 前方後円墳 方墳 円墳 その他
築成 1段 2段 3段 4段 5段
造出 あり なし
規模 全長約89.8m(現地説明板)
墳丘高 後円部約7.5m/前方部約8.0m
葺石 あり なし
埴輪 あり なし 不明
登頂 可能 不可能
陪塚 あり なし

 

周溝

 

形状 墳丘形 馬蹄形 長方形 不定形 不明 なし
構造 一重 二重か 三重 不明
中島 あり なし
残存もしくは形跡 全部あり 一部あり なし
遺物  
周溝を含めた最大長 約m

 

埋葬主体

 

位置  
掘り方 竪穴式 横穴式
石室・槨 前方部と後円部にそれぞれ造り方の異なる両袖型横穴式石室
規模 不明
直葬 割竹形木棺 舟形木棺 家形石棺 長持形石棺 不明
人骨 不明
副葬品 頭椎大刀(綿貫観音山古墳から出土したものと瓜二つ)
見学 可能 不可能

 

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第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2015年5月4日(月)
天候 晴れ
探訪ルート 【5月4日】
総社二子山古墳 → 総社愛宕山古墳 → 宝塔山古墳および光巌寺 → 蛇穴山古墳 → 総社城 → 遠見山古墳 → 山王廃寺 → 上野国分尼寺 → 国分寺館(ガイダンス施設) → 上野国分寺 → 妙見社 → 上野国府および蒼海城 → 総社神社 → 石倉城 → 王山古墳 → 前橋城 → 上野国府八幡
【5月5日】
天川二子山古墳 → 前橋八幡山古墳 → 前橋天神山古墳 → 飯玉神社古墳 → 亀塚山古墳 → 金冠塚古墳 → 文殊山古墳 → 阿弥陀山古墳
【5月6日】
砂町遺跡 → 高崎市歴史民俗資料館 → 元島名将軍塚古墳 → 元島名城 → 高崎情報団地遺跡 → 大類城
同道者 なし

 

3時間の乗り鉄を堪能

 

 今回は2泊3日の予定で、群馬県内をめぐります。

 

 予定しているルートとしては、初日に総社古墳群や国府・国分寺を見て「律令群馬」のコア部分を学習し、2日目からはいよいよ路歩き、国府の南門想定地から出発してまっすぐ南下し、初期の東山道にぶつかったら東進、伊勢崎方面まで歩き、最終日は伊勢崎市から太田市方面へ歩き新田の郡家などを見る予定です。

 

 さて、早起きは慣れっこになっているので、5時に起床すると、5時55分発の中央線に乗り込みます。

 

高尾駅ホーム

写真1 高尾駅ホーム

 

 向かって右側のは老朽化した115系に代わって導入が始まった211系です。

 

 でも、211系ももう古い感じがしますね。

 

 今日は211系には乗らずに、左の快速に乗ります。

 

 八王子駅では八高線に乗り換え。

 

八高線

写真2 八高線

 

 私は朝に電車に乗ると必ず眠りますが、眠っていたらアナウンスで「人身事故」という言葉が聞こえてきて、ビクッとして起きました。

 

 位置は東飯能駅の手前ですが、八高線ではなく西武線の事故です。

 

 こういうと不謹慎ですが、八高線じゃなくて良かったです。

 

 拝島駅からは、ゴルフが好きそうな社長っぽい感じの体格の良いおじさんと色白で華奢な中学生くらいの男子の親子が乗ってきました。

 

 しかし、父はスポーツ新聞を読み息子はゲームに夢中。

 

 結局高麗川駅まで一言も会話をしませんでした。

 

 なんか、こういう他所よそしい親子って可哀想な気がしますが、外に出ると様相が変わる親子もありますから、本当の親子仲は分かりません。

 

 高麗川では6時58分のキハ110系に乗り換えです。

 

 たまにしか乗れないディーゼルカーです。

 

 運よくクロスシートに座ることができたので、早速コンビニで買っておいた朝ご飯を食べます。

 

 車内で食べるご飯はまた格別ですよね。

 

 サンドイッチを頬張りながら車内を見渡すと、「JR八高線 写真展示列車 2015」と称して、壁の天井近くに鉄道写真がたくさん貼ってあるのに気付きました。

 

JR八高線 写真展示列車 2015

写真3 JR八高線 写真展示列車 2015

 

 どうやら高校生が撮った写真のようですが、どれも上手く撮れていて、鉄道カレンダーに載せられそうなプロ並みの情緒ある写真も多いです。

 

 最近では車内に貼る広告も少なくなってきたので、殺風景な車内にしているよりか、こういうふうに使うのもよいアイデアですね。

 

 そういえば、昨日テレヴィで見ましたが、最近は若い女の子にも鉄道好きが広まっているようですね。

 

 少し前は、小さい子供さんがいる若いママたちの間でも、子供といっしょに電車を見に行っているうちに電車が好きになる人がいるというのをやっていましたが、私の娘もチビチビのころからよく私の部屋で鉄道の写真集を見ていたり、小学生の時は鉄道マニアの同級生の話なんかをよく家でしていました。

 

 ちょうど今は元妻と会津に行っていますが、今でも鉄道は好きみたいで、行きは新幹線を使い、帰りは在来線で栃木に南下し、その後は東武の特急で帰ってくると言っていました。

 

 お、あっという間に小川町駅。

 

 まだ7時25分です。

 

 高尾駅からはまだ1時間半しか経っていません。

 

 隣のホームには東武線がとまっています。

 

 東武線に乗り換えれば、一つ隣は菅谷館跡杉山城跡がある嵐山駅です。

 

 この辺までは昨年の秋からちょくちょく来ているので、あまり遠い感じがしません。

 

 7時40分、折原駅着。

 

 山頂に大砲を据え付けて、鉢形城を砲撃したと伝わる車山が進行方向左手に見えます。

 

 昨年秋に鉢形城跡を探訪したのは、このサイトでもご紹介していますが、鉢形城跡に行くにはここで降りてテクテクと歩いていくのがお勧めです。

 

 ただし、折原駅にはトイレがないので、降りる前に車内で済ませましょう。

 

 折原駅を出発すると、鉢形城跡を通過!

 

 氏邦さんこんにちは!

 

 荒川を渡ってぐるっと回り込むようにして寄居の街に進入し、7時46分寄居駅到着。

 

 おや、向こう側にはクリーム色の昔の東武線を思わせる電車が止まっているぞ!

 

 秩父鉄道だな。

 

 さあ、ここから先に行くのは今日でまだ2度目です。

 

 最初に来た時から2年経っています。

 

 車窓の風景は今までとは違って視界が開け、かなり広い平野が広がります。

 

 この平原を氏邦たちは馬で駆けていたはずだし、もっと前は武蔵七党が活躍していたわけです。

 

 少し陽が差してきました。

 

 8時0分、児玉駅に到着。

 

 武蔵七党の児玉党の故地です。

 

「タマ」の地名のルーツについて思いを馳せる

 

 児玉という地名に関しては、椚國男さんは、「東山道武蔵路以前の多摩」(『多摩のあゆみ 第八十八号』所収)で、「古い多摩」の意味だとしています。

 

 椚さんによると、武蔵国には3つの「たま」があり、「多磨」と「埼玉(さきたま)」と「児玉」で、「たま」は水田地を意味する「田間」のことだといいます。

 

 つまり、北に古い多磨、東に先の多磨、南西にそのものの多磨があり、その真ん中の原野に入間があり、入間には後に朝鮮人が多く入植してくることになります(新座郡と高麗郡の設立)。

 

 そう考えると、令制国を設置するときに、名称は武蔵国ではなく「多磨国」にしても良かったかもしれませんね。

 

 私の場合は、武蔵国内の加美郡(「上」を意味する)のすぐ南に那珂郡があり、那珂郡の位置が「中」にしては極度に北に偏っているので、令制国の武蔵国ができる前は武蔵は南北に分かれていて、その時代の地名の名残が那珂郡ではないかと思っていましたが、椚さんの説を聴くと、古い多磨、つまり古田間が、令制国の前に政治的な塊になっていて、その中での「上」であり「中」である気がしてきました。

 

 そうすると、その地域は『旧事紀』がいうところの、知々夫国造の領域だったかもしれません。

 

上野国に進入

 

 さて、そんなことが頭の中に渦巻いていると、8時5分に次の丹荘駅に到着しました。

 

 同じく武蔵七党の丹党の故地です。

 

 昔、秋田県鹿角市の中世土豪を調べたことがあり、鹿角四頭の一つ円子氏は丹党出身だったので、当時丹党について少し調べたことがあります。

 

 このあたりまでくると、上野国はすぐ近く。

 

 8時8分、神流川を渡って上野国に入りました。

 

 しかし景色はほとんど変わりません。

 

 武蔵北部と上野南部は地勢的にはシームレスですね。

 

 8時11分、群馬藤岡駅に到着。

 

 この辺は住宅も多いし、久しぶりに市街地に入った感じです。

 

 イトーヨーカドーもあります。

 

 そうかと思っていると今度はまた田園地帯になりました。

 

 そして、再度住宅街となり、8時15分に北藤岡駅に到着。

 

 烏川を渡河します。

 

 烏川は橋の西側で二股に分かれています。

 

 右が本流で左が鏑川ですね。

 

 いや、正確には二股に分かれているのではなく、本流と鏑川が合流してるというのが正解です。

 

 8時20分に倉賀野駅に到着。

 

 ここからは電化区間となります。

 

 倉賀野からは高崎線に乗り換えることもできますが、先日上野東京ラインが開通したので、高崎からは一気に小田原まで行ってしまえるようになりました。

 

 後北条氏の最北の拠点から本城・小田原まで一本なんですよ!

 

 工場が立ち並ぶ工業団地を抜けるとそろそろ終点の高崎駅です。

 

 左手にノッポな高崎市役所のビルが見えます。

 

 8時25分、高崎駅到着。

 

 110系、今日もありがとう!

 

キハ110系

写真4 キハ110系

 

 反対側ホームには普段見ない電車が。

 

写真5 

 

 と思ったら、これはこのページの最初で紹介した211系でした。

 

 色が違うので気付かなかった・・・

 

 高崎では上越線に乗り換えです。

 

 上越線に乗るのは初めてです。

 

 ホームで待っていると、107系が入線してきました。

 

107系

写真6 107系

 

 あれ、でも何か変な感じが・・・

 

 入ってくる電車を眺めていて違和感を感じたのですが、その訳はこの後判明します。

 

 隣の電車と一緒に。

 

写真7 107系と湘南色

 

 電車に乗り込み座ると、私の好きな「ふわふわシート」です。

 

 最近の電車の椅子は皆硬いですが、昔はこういう柔らかい椅子でした。

 

 8時46分に電車は出発。

 

 走り出して車窓を眺めると、先ほど感じた違和感の訳が分かりました。

 

 窓が異様に汚れているのです!

 

 うわー、拭きたい。

 

 グラスクリーンプロで拭きたい。

 

 そう思っていると、井野駅の近くに私が勤める会社の他のお店の車が止まっていました。

 

 どこ支店だろうか?

 

 8時57分に新前橋駅に到着。

 

 やたらに高いビルが見えますが、群馬県庁、つまり現代の上野国庁ですね。

 

 新前橋駅から工業地帯を北上し、ようやく本日の最初の目的地である群馬総社駅に着きました。

 

 ちなみに、ドアは手動です。

 

 時刻は9時1分なので、家を出てから大体3時間15分くらいですね。

 

 さすがにこれくらい電車に乗っていると、ちょっと遠くまできた感があります。

 

 ホーム間の跨線橋を渡っていると、北側から電車が進入してくるのに気付きました。

 

遠くから電車がやってくる

写真8 遠くから電車がやってくる

 

 もちろん、来るのを待って激写。

 

上から見る電車

写真9 上から見る電車

 

 こうやって上から電車を見ると、子供のころに夢中になったNゲージを思い出します。

 

 群馬総社駅は東側に改札があります。

 

群馬総社駅駅舎

写真10 群馬総社駅駅舎

 

 駅前はこんな感じ。

 

群馬総社駅駅前

写真11 群馬総社駅駅前

 

 それでは、最初の目的地である総社二子山古墳を目指しましょう。

 

上野国府誘致勢力の墓域に進入

 

 南に延びる道を歩きます。

 

南へ

写真12 南へ

 

 すると、神社がありました。

 

 説明板を見ると立石諏訪神社でしたが、社殿は最近造り直したようですね。

 

立石諏訪神社

写真13 立石諏訪神社

 

 神社の創建時代は江戸初期で、獅子舞が前橋市の指定重要無形民俗文化財に指定されているそうです。

 

 ただ、私は着目したのは「立石」という地名です。

 

 これは古代の道の近くにありがちな地名なのですが、現在のところまだその辺については調べがついていません。

 

 県道15号線を東へ向かうと、すぐに「二子山古墳」を指し示す標識がありました。

 

 標識に従って右折すると、前方にこんもりとした森が。

 

総社二子山古墳

写真14 総社二子山古墳

 

 あれがそうでしょう。

 

 近づくと、目の前に墳丘が現れました。

 

総社二子山古墳

写真15 総社二子山古墳

 

 よし!

 

 説明板も設置してあります。

 

総社二子山古墳説明板

写真16 総社二子山古墳説明板

 

 総社二子山古墳は総社古墳群に含まれる古墳で、墳丘長89.8mを誇る前方後円墳です。

 

 「史蹟」の標柱が神々しく佇立していますね。

 

標柱

写真17 標柱

 

 通常史蹟(史跡)といった場合は、国指定のものを指します。

 

 つまり国家が認めた歴史スポットというわけです。

 

 古墳王国の群馬県には史蹟の古墳が17個もあり、その一つがここ総社二子山古墳です。

 

 なお、「二子山古墳」という名前は全国に沢山あるので、地名を現す「総社」を冠して呼び名としていますが、正式な史跡名は「二子山古墳」です。

 

 さて、さっそく墳頂を目指すと、写真16の図のように2段築成になっているのが分かります。

 

2段築成

写真18 2段築成

 

 さらに上がり、後円部の墳頂から前方部を見ると、ほとんど高低差がありませんね。

 

後円部の墳長から前方部を見る

写真19 後円部の墳長から前方部を見る

 

 南東側の至近に見えるのは次の目的地である総社愛宕山古墳でしょう。

 

総社愛宕山古墳

写真20 総社愛宕山古墳

 

 墳丘から周りを眺めると、住宅が1〜2軒立つ広さで古墳を全周するように等幅の帯状の区割りがあります。

 

帯状区割

写真21 帯状区割

 

 入口の説明板にも周溝があると書かれていたので、周溝の跡でしょうか。

 

 ちなみに、ボールペンの先端が写り込んでいますが、気にしないでください。

 

 総社二子山古墳には紫色の花が咲いています。

 

紫色の花

写真22 紫色の花

 

 見渡すと、古墳のところどころに咲いていて、綺麗ですね。

 

紫色の花

写真23 紫色の花

 

 あ、花の名前は分かりません。

 

 古墳を降りると、先ほど見た帯状の区割りの外側にも周溝跡に見える地形があります。

 

こっちも周溝?

写真24 こっちも周溝?

 

 周溝が二重だったとは、手持ちの資料にはどこに書いてありませんので、こちらが周溝跡でしょうか、もうちょっと調べてみます。

 

 今日はこの後、総社古墳群では、愛宕山古墳宝塔山古墳蛇穴山古墳遠見山古墳をめぐる予定ですが、それらを時系列に並べると、6世紀第3四半期〜第4四半期にこの総社二子山古墳ができて、以降方墳の総社愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳と続きます。

 

 結局この日は王山古墳も見たのですが、王山古墳が総社古墳群の最初の古墳で、その時期は6世紀初頭です。

 

 遠見山古墳は調査されておらず、築造時期が不明であり、また王河原山古墳という前方後円墳もあったのですが、それは調査以前に湮滅してしまい、王山古墳と総社二子山古墳の間が少し空いているので、それらがそこに入りこむ可能性があります。

 

 総社二子山古墳は、この地域で造られた最後の前方後円墳ですが、そもそも中央では6世紀の最初の頃から徐々に前方後円墳は造られなくなってきており、6世紀におけるこの規模の前方後円墳の数は、大和や河内といった中央よりも、上野の方がはるかに多いのです。

 

 その理由はまだ解明されていませんが、単に流行の伝播が遅いということでは無さそうで、何かしら政治的な意味があったと考えられます。

 

 総社二子山古墳の時点では、その被葬者はこの地域の有力者であったことには間違いありませんが、もう少し広い範囲で見てみると、高崎市の綿貫観音山古墳(墳丘長97m)の勢力の支配下にあったようです。

 

 というのは、石室の構造に綿貫観音山古墳との共通点が見いだせることと、綿貫観音山古墳から出土した頭椎大刀と瓜二つのものがこちらからも出土しているからです。

 

 綿貫観音山古墳を盟主とする領域は、おおむね広瀬川(当時の利根川)とその支流烏川とに挟まれた地域で、その地域にある前方後円墳はみな同じ形式を持っており、そこから外れるとまた違う形式となります。

 

 古墳の大きさからすると、その勢力範囲内では総社二子山古墳は2番目の規模なので、この被葬者は同勢力内で綿貫観音山古墳の被葬者の右腕的存在だったかもしれません。

 

 しかし、時代が下るにつれて総社古墳群の勢力はさらに存在感を増してきて、やがて律令国家が国府を設立する際にはそれを自分の勢力圏に誘致することに成功します。

 

 それでは、次に総社愛宕山古墳に行ってみましょう。

 

 次回の記事はこちら

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『群馬県史 資料編3 原始古代3』 群馬県史編さん委員会/編 1981年
  • 『群馬県史 通史編1 原始古代1』 群馬県史編さん委員会/編 1990年
  • 『多摩のあゆみ 第八十八号』 1997年
  • 『古墳とヤマト政権』 白石太一郎 1999年
  • 『季刊考古学・別冊17 古墳時代毛野の実像』 右島和夫・若狭徹・内山敏行/編 雄山閣 2011年
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