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総社古墳群の勢力が上毛野内で台頭してきたことを如実に示す古墳・総社愛宕山古墳

最終更新日:2015年11月23日

 

 前回の記事はこちら

 

 律令国家の上野国府を誘致した勢力の墓域である総社古墳群で、まずは総社二子山古墳を見学しました。

 

 次は、総社二子山古墳の南東にほとんど隣接するように構築されている総社愛宕山古墳を見てみましょう。

 

概要

 

ふりがな そうじゃあたごやまこふん
住所 群馬県前橋市総社町植野

交通 JR上越線群馬総社駅下車、徒歩約15分(地図上での計測)
史跡指定  
現況 山林/墓地
築造時期 7世紀前半
関連施設  

 

墳丘

 

形状 前方後方墳 前方後円墳 方墳 円墳 その他
築成 1段 2段 3段 4段 5段
造出 あり なし
規模 一辺約60m(現地説明板)
墳丘高 約8.5m(現地説明板)
葺石 あり なし
埴輪 あり なし 不明
登頂 可能 不可能
陪塚 あり なし

 

埋葬主体

 

位置  
掘り方 竪穴式 横穴式
石室・槨 両袖型横穴式石室
規模 不明
直葬 割竹形木棺 舟形木棺 凝灰岩製の家形石棺 長持形石棺 不明
人骨 不明
副葬品 不明
見学 可能 不可能

 

周溝

 

形状 墳丘形 馬蹄形 長方形 不定形 不明 なし
構造 一重 二重 三重 不明
約20m
中島 あり なし
残存もしくは形跡 全部あり 一部あり なし
遺物  
周溝を含めた最大長 約m

 

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第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2015年5月4日(月)
天候 晴れ
探訪ルート 【5月4日】
総社二子山古墳 → 総社愛宕山古墳 → 宝塔山古墳および光巌寺 → 蛇穴山古墳 → 総社城 → 遠見山古墳 → 山王廃寺 → 上野国分尼寺 → 国分寺館(ガイダンス施設) → 上野国分寺 → 妙見社 → 上野国府および蒼海城 → 総社神社 → 石倉城 → 王山古墳 → 前橋城 → 上野国府八幡
【5月5日】
天川二子山古墳 → 前橋八幡山古墳 → 前橋天神山古墳 → 飯玉神社古墳 → 亀塚山古墳 → 金冠塚古墳 → 文殊山古墳 → 阿弥陀山古墳
【5月6日】
砂町遺跡 → 高崎市歴史民俗資料館 → 元島名将軍塚古墳 → 元島名城 → 高崎情報団地遺跡 → 大類城
同道者 なし

 

貴重な家形石棺も目視できず

 

 さきほど総社二子山古墳の墳頂から見えた森が総社愛宕山古墳だと思いますので、そちらの方向に歩いてみます。

 

 ここですね。

 

 まずは北の方からの眺め。

 

北からの眺め

写真1 北からの眺め

 

 うーん、どちら側から回り込もうか。

 

 とりあえず東側に流れている天狗岩用水の方へ行ってみよう。

 

 坂を下ると、すぐに橋を渡ります。

 

 あ、鯉のぼり!

 

鯉のぼり

写真2 鯉のぼり

 

 そうか、今日はもう5月4日ですね。

 

 少し用水沿いを歩き、階段で段丘を上がり、また橋を渡って南側に回り込みます。

 

 おっと、標柱を発見!

 

古墳と標柱

写真3 古墳と標柱

 

 古墳を見たところ、雑木林のようになっていて、ところどころに墓石が建っています。

 

 とりあえず墳頂を目指してみましょう。

 

 すると、ひっそりと説明板が立っています。

 

 もうちょっと目立つ場所に立てても良いような気がしますが、これはある意味、勇気を持って墳丘に取りついた者だけが読めるプレミアムな意味を持った説明板なのかもしれません。

 

 総社愛宕山古墳は、従来は径60mの円墳と考えられており、1971年に刊行された『前橋市史 第一巻』でもそう書かれているのですが、方墳との説が出てきて、『群馬県史』を編さんするに当たり、測量調査が実施されました。

 

 すると、一辺が約60m(説明板では56m)の巨大方墳であることが分かったのです。

 

 群馬県内では首長級の方墳は珍しく、他に同じ総社古墳群でこれから訪ねようとしている宝塔山古墳蛇穴山古墳、それに太田市の巖穴山古墳しかありません。

 

 6世紀の第3〜4四半期に、さきほど訪れた二子山古墳が築造された頃は、まだ総社古墳群の勢力は他の周辺勢力から抜きに出る力はなかったのですが、その頃この地域の盟主であった綿貫観音山古墳の勢力は、その後威勢が急落し、7世紀に入った頃には、ここ総社古墳群の勢力が一気に力を増します。

 

 7世紀に入った段階では、畿内の有力支配者層はすでに方墳に移行しており、上野国内においては、とくに総社古墳群の勢力のみ方墳を3代に渡り構築する権利を持っていたということで、律令国家が地方支配を進めて行く上で、関東においてはとくに総社古墳群の勢力がその中心となるようにヤマトから認められたことが良く分かります。

 

 ただし、よく上毛野の王というと、群馬県内のみならず、関東一円に勢力を張っていたと思われがちですが、考古学的にはそれを裏付けることはできず、5世紀に太田市に太田天神山古墳という東国ナンバーワンの巨大古墳が築かれた時は、一時的に上毛野内の諸氏からリーダーが推戴されただけであり、その後またすぐに分裂状態になります。

 

 したがって、古墳時代はほぼずっと、群雄割拠な状態が続いたわけですが、7世紀に入りいよいよヤマトは地方政策の一環として、総社古墳群の勢力をとくに関東のリーダーとして選んで、権威付けや技術者の派遣などを通じて、それを推し進めて行きます。

 

 つまり、それをもってようやく上毛野は統合に向かい、なおかつ関東一円のリーダー的存在になるのです。

 

 さて、次に石室の開口部にやってきましたが・・・

 

 しまった!

 

 懐中電灯を忘れた!

 

 石室内を見るには懐中電灯は必携なはずなのに、それを忘れてしまったのはまだまだ自分が古墳めぐりのビギナーの位置にも来ていないことを痛感します。

 

 なので、暗くて全然中が見えません。

 

 デジカメでフラッシュを焚いてなんとか石室内を撮影。 

 

石室

写真4 石室

 

 愛宕山古墳の石室は、全長9.3mで、うち玄室(棺を納める部屋)の長さは7m、幅は3m、高さは2.6mあります。

 

 といってもあまりピンと来ないかもしれませんが、群馬県内でも有数の大型石室なのです。

 

 そして設計には一尺が35cmの高麗尺が使用されています。

 

 写真4に写っているのは、凝灰岩でできた刳抜式の家形石棺です。

 

 家形石棺は、ヤマトの有力豪族層に採用されていることが多く、東国では大変珍しくて、関東と東北では群馬県をのぞくと栃木県に一例あるのみです。

 

 それだけこの総社古墳群の勢力はヤマトと密接な関係を持っていたということになりますね。

 

 『前橋市史 第一巻』によると、この石棺は凝灰岩でできていますが、愛宕山古墳の後に造られた宝塔山古墳の石棺はより硬い安山岩でできています。

 

 凝灰岩の方がはるかに加工がしやすく、当地方で築造されたより古い竪穴式石室を持つ古墳の石棺はほとんど凝灰岩製です。

 

 それと、石棺のこちら面に見える大穴は、盗掘の際に開けられてしまいました。

 

 それでは、同じく方墳の宝塔山古墳に行ってみましょう。

 

 次回の記事はこちら

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『前橋市史 第一巻』 前橋市史編さん委員会/編 1976年
  • 『群馬県史 資料編3 原始古代3』 群馬県史編さん委員会/編 1981年
  • 『群馬県史 通史編1 原始古代1』 群馬県史編さん委員会/編 1990年
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