◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

素晴らしい石室が堪能できる大型方墳・宝塔山古墳

最終更新日:2015年11月1日

 

 前回の記事はこちら

 

 総社古墳群の被葬者一族が上野国内での最高権力者となった頃の総社愛宕山古墳を見た後は、それに引き続いて築造された宝塔山古墳を見ます。

 

 権力絶頂期の上毛野の王が眠る墓はどのようになっているのでしょうか。

 

 

探訪データ
探訪年月日 2015年5月4日(月)
天候 晴れ
探訪ルート 【5月4日】
総社二子山古墳 → 総社愛宕山古墳 → 宝塔山古墳および光巌寺 → 蛇穴山古墳 → 総社城 → 遠見山古墳 → 山王廃寺 → 上野国分尼寺 → 国分寺館(ガイダンス施設) → 上野国分寺 → 妙見社 → 上野国府および蒼海城 → 総社神社 → 石倉城 → 王山古墳 → 前橋城 → 上野国府八幡
【5月5日】
天川二子山古墳 → 前橋八幡山古墳 → 前橋天神山古墳 → 飯玉神社古墳 → 亀塚山古墳 → 金冠塚古墳 → 文殊山古墳 → 阿弥陀山古墳
【5月6日】
砂町遺跡 → 高崎市歴史民俗資料館 → 元島名将軍塚古墳 → 元島名城 → 高崎情報団地遺跡 → 大類城

 

宝塔山古墳概要
ふりがな ほうとうさんこふん
住所 群馬県前橋市総社町総社1606

史跡指定 国指定史跡
史跡名:宝塔山古墳
指定日:昭和19年(1944)11月13日
現況 史跡
形状 方墳
築成 3段築成
規模/墳丘高 一辺約55m/高さ約11m
登頂 可能
石室 全長12.4mの3室構造を持つ横穴式石室
石室見学 可能
埋葬主体 仏教の影響を受けたデザインの石棺
副葬品 盗掘のため文化7年(1810)の時点でまったくなし
周溝 幅24mか
目で見られる遺構 墳丘・石室・周溝跡の畑地
築造時期 7世紀末から8世紀初頭

 

全国的にはマイナーな武将だが地元では今なお住民に慕われている秋元長朝

 

 愛宕山古墳を後にして、天狗岩用水に架かる秋元橋を渡ります。

 

秋元橋

写真1 秋元橋

 

 ここ総社の地には、秋元長朝が慶長6年(1601)に関ヶ原の戦功によって6千石(のちに1万)を賜り入部し、子の泰朝が寛永10年(1633)に甲斐国都留郡谷村に1万8千石で栄転するまで秋元氏2代の支配下にあったのですが、そのおりに天狗岩用水を掘削し、それによりこの周辺の農業生産率は上がり、現在でも総社町民は秋元氏の善政を偲んでいるようです。

 

天狗岩用水

写真2 天狗岩用水

 

 きれいに澄んだ水が流れていますね。

 

 長朝は越中守を称していたので、天狗岩用水は別名を越中堀といいます。

 

 天狗岩用水は秋元氏がこの地を離れた後、代官伊奈忠次によってさらに延長され、領内2万7千石を潤わせることになったのです。

 

 あぜ道を通ります。

 

 お寺の本堂の屋根らしきものが見えました。

 

光巌寺の本堂

写真3 光巌寺の本堂

 

 おや、神社がありますね。

 

紅葉山古墳

写真4 紅葉山古墳

 

 説明板によると、この御霊神社は、光巌寺の鬼門に位置し、かつては天台宗の守護神である日枝神社がありましたが、明治元年(1868)の神仏分離令により新田町の熊谷稲荷に移転しました。

 

 そして昭和27(1952)に、さきの大戦の戦死者の霊210柱を祀り御霊神社とし、社殿は戦前まで蛇穴山古墳の墳頂に建っていた泰安殿を解体移築したものです。

 

 しかもこの土盛は古墳で、紅葉山古墳と呼ばれています。

 

 境内の横っちょから入ってきてしまったので、鳥居から抜けます。

 

御霊神社鳥居

写真5 御霊神社鳥居

 

 お、光巌寺(こうがんじ)が見えました。

 

 立派な楼門です。

 

光巌寺楼門

写真6 光巌寺楼門

 

 天台宗寺院、秋元山江月院光巌寺は、慶長12年(1607)に藩主秋元長朝により開基されました。

 

 その左側には宝塔山古墳が見えます。

 

宝塔山古墳

写真7 宝塔山古墳

 

 でもまず光巌寺の境内を散策してみましょう。

 

 「野郎ども!俺らも一隅を照らそうぜ!」と心の中で叫びつつ、楼門をくぐります。

 

 本堂。

 

本堂

写真8 本堂

 

 山号は字の通り開基者秋元氏の名字から取り、江月院は長朝の院号から、寺号は長朝の母光巌院殿からとりました。

 

 境内にはその秋元氏の廟所があります。

 

秋元氏廟所

写真9 秋元氏廟所

 

 元三大師堂。

 

元三大師堂

写真10 元三大師堂

 

 元三大師堂と薬師堂が並んでいます。

 

元三大師堂と薬師堂

写真11 元三大師堂と薬師堂

 

 鐘楼。

 

鐘楼

写真12 鐘楼

 

 プラプラと何となく建築物を見ていますが、実は最初に見た楼門(写真6)は文化年間(1804〜1818)、元三大師堂・薬師堂・鐘楼はさらに古くて明和9年(1772)の建立なのです。

 

 あー、でも古墳が気になるよん。

 

宝塔山古墳

写真13 宝塔山古墳

 

 それじゃあ、境内散策はこの辺で切り上げ、墳頂に登ってみましょう。

 

 古墳に気持ちが行ってしまったため、貴重な建造物である長屋門の写真を取り損ねました。

 

石室内で興奮

 

 南側の石段から登ります。

 

 墳頂は秋元氏の墓地となっていました。

 

秋元氏墓地

写真14 秋元氏墓地

 

 真中の墓に眠る江月院巨嶽元誉、俗名秋元長朝は、天文15年(1546)に武蔵国深谷で生まれ、父は景朝(元景)、母は関東管領上杉憲政の養女です。

 

 長朝は父とともに深谷上杉憲盛に属しましたが、小田原攻めの際に浅野長政らに従い、家康の関東入部のあと井伊直政の斡旋で家康に仕え、上野国碓氷郡中野谷500石を賜りました。

 

 このように上手く時代の変わり目を生き抜くことができた朝長に訪れた大きな転機は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦です。

 

 合戦の前、長朝は下総栗橋の関を守り、上杉景勝に備えていたのですが、合戦が終わった後、会津の景勝に遣いを送り景勝の帰服を促したのです。

 

 そのようなこともあり、ついに慶長6年、総社で大名となりました。

 

 そして前述した通り、天狗岩用水を掘削するなどして善政を敷き、寛永5年(1628)8月29日に没し、享年は83歳でした。

 

 (以上、『戦国武将合戦事典』<峰岸純夫・片桐昭彦/編>より。)

 

 さて、次は石室を見てみたいので、今度は北側の石段を降ります。

 

 すぐ近くに次に行こうとしている蛇穴山古墳が見えます。

 

宝塔山古墳から見る蛇穴山古墳

写真15 宝塔山古墳から見る蛇穴山古墳

 

 あ、北側が正規の入口だったようですね。

 

国指定史跡 宝塔山古墳

写真16 国指定史跡 宝塔山古墳

 

 説明板もあります。

 

説明板

写真17 説明板

 

 『群馬県史 資料編3 原始古代3』には2段築成とありますが、該書が出たのは1981年ですので、その後の調査で3段築成ということが分かったのですね。

 

 総社古墳群の築城順序は、6世紀初頭に王山古墳(前方後円墳)、6世紀第3四半期〜第4四半期に総社二子山古墳(前方後円墳)、ついで総社愛宕山古墳(方墳)とつづき、その次にこの宝塔山古墳(方墳)が築かれ、蛇穴山古墳が最後となります(遠見山古墳に関しては不明です)。

 

 ところで、石室は南側に開口しているとのことですが、さっきは気付きませんでした!

 

 なのでもう一度南側を見てみます。

 

 おっと、ありました!

 

石室

写真18 石室

 

 普通に入れるようになっているのが嬉しいですね。

 

 それでは中に入りましょう。

 

 石室の中は、羨道・前室・玄室のこの頃の古墳としては一般的な3部屋構造で、全長は12.4mです。

 

 羨道から奥を見ると、玄室に横たわっている石棺が見えます。

 

羨道から玄室を見る

写真19 羨道から玄室を見る

 

 南側に向かって開口しているので、太陽の明りで中が良く見えます。

 

 いやー、それにしても立派な石積みですね。

 

羨道右側面

写真20 羨道右側面

 

 詳しいことは分からないのですが、1300年も前にまるで近世城郭の石垣みたいにきれいに石を積んでいます。

 

 素晴らしい切り方と組み方です。

 

前室左側面

写真21 前室左側面

 

 これは近世城郭が好きな人も見れば気に入るかもしれません。

 

 壁面は往時は漆喰を塗っており、顔料の痕跡はありませんが、壁画があったかもしれないとのことです。

 

 玄室には石棺が横たわっています。

 

家形石棺

写真22 家形石棺

 

 この家形石棺は、下手すると江戸時代くらいのものに見えますが、これは1300年も前に造られたものなのです!

 

 思えば、古墳めぐりを始めて数年経ちますが、こうやって石室の中を見学したのは初めてです。

 

 東京都府中市の上円下方墳である武蔵府中熊野神社古墳の復元石室は見学したことがありますが、本物は初めてなのです。

 

 古墳マニアは皆、石室が大好きなようですが、これで私もまた一段階、古墳マニアの階梯を上がりました。

 

 しばし、石室内を堪能した後、外に出ます。

 

 おや、箒とチリトリ。

 

写真23 箒とチリトリ

 

 常に綺麗にしようとしている地元の方の気持ちが嬉しいですね。

 

 それでは先ほどチラッと見えた、蛇穴山古墳に行ってみましょう。

 

 次回の記事はこちら

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『群馬県史 資料編3 原始古代3』 群馬県史編さん委員会/編 1981年
  • 『群馬県史 通史編1 原始古代1』 群馬県史編さん委員会/編 1990年
  • 『戦国武将合戦事典』 峰岸純夫・片桐昭彦/編 2005年
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