◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

足かけ24年の短命に終わった総社藩の藩庁・総社城

最終更新日:2015年11月1日

 

 前回の記事はこちら

 

 蛇穴山古墳を見た後は、古代から中世を飛び越えて近世の歴史探訪にチェンジです。

 

 総社には近世初頭に総社藩という藩が置かれ、総社城が藩庁となりました。

 

 総社城跡はいったいどうなっているでしょうか。

 

 

探訪データ
探訪年月日 2015年5月4日(月)
天候 晴れ
探訪ルート 【5月4日】
総社二子山古墳 → 総社愛宕山古墳 → 宝塔山古墳および光巌寺 → 蛇穴山古墳 → 総社城 → 遠見山古墳 → 山王廃寺 → 上野国分尼寺 → 国分寺館(ガイダンス施設) → 上野国分寺 → 妙見社 → 上野国府および蒼海城 → 総社神社 → 石倉城 → 王山古墳 → 前橋城 → 上野国府八幡
【5月5日】
天川二子山古墳 → 前橋八幡山古墳 → 前橋天神山古墳 → 飯玉神社古墳 → 亀塚山古墳 → 金冠塚古墳 → 文殊山古墳 → 阿弥陀山古墳
【5月6日】
砂町遺跡 → 高崎市歴史民俗資料館 → 元島名将軍塚古墳 → 元島名城 → 高崎情報団地遺跡 → 大類城

 

総社城概要
ふりがな そうじゃじょう
別名 植野城
住所 群馬県前橋市総社町植野

史跡指定  
規模/比高 東西約800m×南北約900m/約m
現況 住宅街(本丸全部と二の丸東部は利根川に崩落)
目で見られる遺構 なし(遠見山古墳を物見台として利用か)
復元 なし
築城時期/築城者 慶長15年(1610)/秋元長朝
廃城時期/理由 寛永18年(1633)/藩主秋元泰朝が甲斐国都留郡谷村1万8千石に転封したため
城攻めの記録 なし
大手方向 西

 

枢要部が利根川に崩落した幻の城

 

 蛇穴山古墳を出て県道15号線に出ると光巌寺の総門がありました。

 

光巌寺総門

写真1 光巌寺総門

 

 総社藩主秋元長朝が建てた光巌寺の正門は、同じく長朝が築城して藩の政庁となった総社城の方に向かっているんですね。

 

 現在の県道15号線は往時の総社城の外郭を南北に突っ切っており、道端には「旧佐渡奉行街道総社宿」という説明板が立っています。

 

 それによると、この道は宝永7年(1710)以降、越後三国道の宿場町として発展しました。

 

 北に向かって少し歩いて振り返ります。

 

旧佐渡奉行街道総社宿

写真2 旧佐渡奉行街道総社宿

 

 約1kmに渡って直線道が通じています。

 

 この道の北側は元景寺の参道に接続していますが、時間の都合で参詣は割愛します。

 

 後で知ったのですが、元景寺の東側にはかつて勝山城という城があり、総社城と同じように城の大半が利根川に崩落して、残りの部分も完全に市街地化されてしまい、往時の面影はないそうです。

 

 元景寺の総門の前から右折して、往時の水堀跡と重なる道を東へ向かうと、ほどなく「城川公園」に着きました。

 

城川公園

写真3 城川公園

 

 なぜこの公園に来たのかというと、総社城の説明板があるからです。

 

総社城の説明板

写真4 総社城の説明板

 

 説明板の前に路駐されていたため写真は斜めからになってしまいましたが、実は総社藩の藩庁であった総社城を偲ぶものはまったく残っておらず、唯一この説明板だけがこの辺りが城であったことを証明するものなのです。

 

 というのは私の事前リサーチ不足で、後で知ったところでは、「西木戸跡」および「南木戸跡」の石碑も街中に残っているそうです。

 

 それと、説明板には慶長12年の完成と書いてありますが、『日本城郭大系』には慶長15年とあり、このページのタイトルの「足かけ24年」というのは後者を元に書いています。

 

 公園の北側は平城によく見られるような、堀跡風な窪地が展開しています。

 

堀跡か

写真5 堀跡か

 

 うーん、怪しいなあ・・・

 

堀跡か

写真6 堀跡か

 

 『日本城郭大系』が出た1979年の時点で、すでにこの辺りは市街地化されて遺構は残っておらず、決定的なのは本丸の全部と二の丸の東側という、城の最も重要な部分が利根川に崩落してしまったことです。

 

 総社藩は信濃出身の諏訪頼忠の子頼水がこの地に入部し設立したのが始まりです。

 

 頼水の父頼忠は諏訪家当主頼重の従弟にあたり、諏訪惣領家が滅びると流寓の身となりましたが、天文16年(1547)に諏訪上社の大祝職に就き、しばらく後、本能寺の変の混乱に乗じて信濃の旧領を回復します。

 

 その直後は北条氏直に属し家康と敵対しますが、北条・徳川の和睦後は家康に属し、天正18年(1590)の小田原合戦のあと致仕し、天正20年に子の頼水とともに総社へやってきました。

 

 頼水は慶長6年(1601)に前年の関ヶ原の合戦の戦功で信濃の旧領諏訪を回復し、2万7000石で高島藩を設立しました(ちなみに、高島藩では藩祖を頼忠とし、初代藩主を頼水とします)。

 

 そしてそれに代わって同年9月に入部してきたのが秋元長朝です。

 

 長朝については、光巌寺のページで述べましたのでここでは述べませんが、子の泰朝が寛永10年(1633)2月に甲斐国都留郡谷村に加増転封したことにより総社藩は廃藩となり、あわせて総社城は廃城となりました。

 

 その後、この地は高崎藩に蟄居させられていた徳川忠長(3代将軍家光の同母弟)への小遣い料として同藩主安藤重長に与えられましたが、忠長は同年12月には切腹させられています。

 

 なお、話はずれますが、忠長の母・江は織田信長の妹・市の娘なので、将軍家光と同様、忠長から見ると信長は大伯父に当たります。

 

 それでは次は、総社城の物見櫓の土台として利用されたと伝わる、遠見山古墳に行ってみましょう。

 

 次回の記事はこちら

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 総社・清里の文化財めぐり 前橋市教育委員会
  • 『日本城郭大系 4 茨城・栃木・群馬』 児玉幸多・坪井清足/監修 平井聖・村井益男・村田修三/編修 山崎一/群馬県責任編集者 1979年
  • 『戦国武将合戦事典』 峰岸純夫・片桐昭彦/編 2005年
スポンサードリンク



 

ご意見・ご感想は、稲用章

inayouアットマークa.email.ne.jp

までお願いします。

 




関連ページ

前橋八幡山古墳
前橋八幡山古墳は東日本で最古級かつ前方後方墳では最大級の古墳です。
東海地方からやってきてこの地に君臨した王の子孫が被葬者像として浮かびます。
前橋天神山古墳
文殊山古墳
亀塚山古墳
天川二子山古墳
天川二子山古墳は広瀬古墳群に築造された古墳のうち100m級の古墳としては一番最後に築造された前方後円墳です。
被葬者としてはこの地の有力者・朝倉君が想定されます。
飯玉神社古墳
金冠塚古墳
阿弥陀山古墳
前二子古墳
中二子古墳
後二子古墳
小二子古墳
M-1号古墳/大室古墳群
M-4号古墳/大室古墳群
梅の木遺跡
王山古墳
総社古墳群に現存する古墳のうち最も古い古墳が王山古墳です。
6世紀代に築造されたと考えられている王山古墳は他の一般的な前方後円墳より段の数が倍あり、特殊な印象を受けます。
総社二子山古墳
古墳王国群馬県内では、中央で大型前方後円墳の築造が終わった後も、引き続き大型前方後円墳の築造が続きました。
その理由はまだ分かっていませんが、ここ総社二子山古墳もそういった古墳の一つです。
総社愛宕山古墳
総社古墳群の被葬者一族は7世紀に入るとその実力および中央との近親度から、上野国内でトップの地位に登りつめます。
つまり、律令国家が推し進めた国策に乗っかり、上野国府の誘致に成功するのです。
宝塔山古墳および光巌寺
蛇穴山古墳
蛇穴山古墳の築造をもって、ここ総社の地における古墳の築造は止みます。
仏教は東国でも普及し、これ以降、この地の権力者は氏寺に葬られることになるのです。
遠見山古墳
山王廃寺
上野国府および蒼海城
上野国分寺
上野国分尼寺
国分寺館(ガイダンス施設)
国府八幡<前橋八幡>
妙見社
総社神社
石倉城
前橋城
旧関根家住宅