◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

東国最古期の前方後方墳・元島名将軍塚古墳

最終更新日:2015年11月8日

 

 2013年5月4日、明日は子供の日にも関わらず、娘は御茶ノ水まで部活の仲間と吹奏楽の演奏を聴きに行く予定で、また妻はフィンランド人に手芸を習いに行くということで、家族でどこかへ行こうという気配はありません。

 

 そのため、そうであれば私もどこか少し遠くまで行ってみようかと思いました。

 

 前日から私は比田井克仁著の『関東における古墳出現期の変革』を読んでおり、弥生時代から古墳時代に移り変わるころの関東地方を調べていました。

 

 関東地方では前方後「円」墳とは違うタイプの前方後「方」墳が、前方後円墳に先駆けて数多く築かれるのですが、その本の中では関東と濃尾地方が関係を濃密にした時期(3世紀第3四半期)のいくつかの東国の前方後方墳の名前が挙がっています。

 

 その中で最初、長野県松本市の弘法山古墳を見てみたいと思いました。

 

 そしてせっかく行くからには博物館も見てみたいと思いました。

 

 しかし調べてみると、松本市の考古資料を集めている考古博物館は、とても辺鄙なところにあり、何と休日はバスが走っていないのです!

 

 公共交通機関を使って来る人は平日に来いということですか。

 

 まあ、車社会の土地なので仕方がないですね。

 

 ということで、別の古墳にしようと思ったところ、群馬県高崎市の元島名将軍塚古墳が良いと思いました。

 

 高崎であれば八王子から八高線で行けます。

 

 しかも高崎には「かみつけの里博物館」という施設があり、周りにも整備された古墳があり、いつか行ってみたいと思っていたので、ちょうど良いということで高崎に行ってみることにしました。

 

元島名将軍塚古墳諸元

 

概要

 

ふりがな もとしまなしょうぐんづかこふん
住所 群馬県高崎市元島名町162ほか

交通 高崎駅西口から群馬中央バスで約15分、「慈眼寺裏」下車徒歩約10分(2013年5月5日現在)
史跡指定 高崎市指定史跡
名称:将軍塚古墳 附 周濠出土の底部穿孔壺型土器等一括資料
指定日:昭和48年1月31日(附は平成3年3月1日)
現況 島名神社境内
築造時期 4世紀後半(説明板)
3世紀第3四半期(『関東における古墳出現期の変革』)
関連施設 指定されている底部穿孔壺が高崎市歴史民俗資料館に展示されている

 

墳丘

 

形状 前方後方墳 前方後円墳 方墳 円墳 その他
築成 1段 2段 3段 4段 5段
造出 あり なし
規模 全長約96m(現地説明板)
墳丘高 後方部約8.6m/前方部約4.7m(現地説明板)
葺石 あり なし
埴輪 あり なし
登頂 可能 不可能
陪塚 あり なし

 

周溝

 

形状 墳丘形 馬蹄形 長方形 不定形 不明 なし
構造 一重 二重 三重
中島 あり なし
残存もしくは形跡 全部あり 一部あり なし
遺物 底部穿孔坪形土器・S字状口縁台付甕形土器など
周溝を含めた最大長 約150m

 

埋葬主体

 

位置 後方部中心
掘り方 竪穴式 横穴式
石室・槨 粘土槨
規模 全長約1.8m/幅約0.6m(現地説明板)
直葬 割竹形木棺 舟形木棺 家形石棺 長持形石棺
人骨 一個体(頭部北向き)
副葬品 鏡・石釧(両者とも東京国立博物館に所蔵)
見学 可能 不可能

 

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第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2013年5月5日(日)
天候 晴れ
探訪ルート 元島名将軍塚古墳 → 高崎城 → 伝箕輪城主長野業盛之墓 → 井出二子山古墳 → 保渡田八幡塚古墳 → かみつけの里博物館
同道者 なし

 

八高線に乗り武蔵七党の故地を北上する

 

 5時半に起床して、6時5分に出発です。

 

 コンビニに寄って、おにぎりとお茶と缶コーヒーを買って高尾駅に向かいます。

 

高尾駅

写真1 高尾駅

 

 日曜の早朝ですが、チラホラと人がいます。

 

 ホームには中央本線の松本行きが停まっていました。

 

115系の長野支社色

写真2 115系の長野支社色

 

 115系の長野支社色ですね。

 

 でももちろん今日はこれには乗りません。

 

 ちなみに松本へはこれで3時間半で行けます。

 

 今日まず乗るのは6時21分発の中央快速の東京行きです。

 

E233系

写真3 E233系

 

 E233系です。

 

 八王子に着くと、今度は八高線に乗り換えます。

 

209系3000番台

写真4 209系3000番台

 

 6時32分発の川越行きの209系3000番台です。

 

 八高線は通勤でも使ったことがありますが、隣の北八王子に会社や工場がたくさんあるので、平日の朝は一駅だけ凄い混みます。

 

 今日は椅子が全部埋まるくらいの混み具合です。

 

 定刻になりゆっくりと電車は走り始めました。

 

 八高線は単線で心なしかのんびり走るような気がします。

 

 さて、実は私は八高線では拝島までしか行ったことがありません。

 

 初めて行く場所ってワクワクしますよね。

 

 拝島あたりから進行方向左手の車窓を見ると、富士山の頭が見え隠れしています。

 

 箱根ヶ崎を過ぎると、東京都から埼玉県へ侵入です。

 

 埼玉県に入って最初の駅は金子駅で、金子と言ったら、古代末から中世初頭にかけての武蔵の武士団である、武蔵七党のひとつ村山党の一派金子氏の土地です。

 

 武蔵国は埼玉県側である北部側の方が東京都側の南武蔵よりも武士がよく繁茂していました。

 

 高麗川駅に着いたら乗り換えです。

 

 この路線は八王子と高崎を結んだので八高線という名前がついていますが、八王子と高崎の直通電車はありません。

 

 なぜならば、高麗川から北側は非電化区間だからです。

 

 電車は走れないのです。

 

 そのため、ここでディーゼルカーに乗り換えです。

 

 隣のホームにはキハ110系が待っていました。

 

キハ110系

写真5 キハ110系

 

 何となつかしい!

 

 キハ110系は、岩手の釜石線や北上線で何度か乗ったことがあります。

 

 発車するときディーゼルエンジンが唸り声を上げます。

 

 この音もなつかしい・・・

 

 高麗川を7時28分に出ると、私はロングシートに座っていたのですが、前に座っている中年の夫婦がサンドイッチを食べ始めたので、私もおにぎりを食べました。

 

 電車の中で食べるとなんか凄く美味しいんですよね。

 

 おにぎりを食べ終えて、さらに30〜40分くらい乗っていると、寄居駅に着きました。

 

 寄居は秩父鉄道も走っています。

 

 そして隣の秩父鉄道のホームを見ると、昔の中央線のようなオレンジの車両が見えます。

 

 なつかしい201系かと思い前を見たら何と201系よりも古い103系じゃないですか!

 

 ここではJR(国鉄)のお古が活躍しているんですね。

 

 (残念ながら写真は撮れませんでした。)

 

 寄居を出てしばらく進むと、児玉駅に着きました。

 

 ここも武蔵七党の児玉党の故地ですね。

 

児玉党故地

写真6 児玉党故地

 

 往時、児玉党の武士団もこのような景色を見ながら馬を走らせていたかと思うと、とてもロマンを感じます。

 

 そして車内にいる地元の高校生の男子を見ても、中世の武蔵七党武士団の若武者のように見えてきます。

 

 次の駅は丹荘駅。

 

 こちらもやはり武蔵七党の丹党の勢力範囲ですね。

 

丹党故地

写真7 丹党故地

 

 丹党は丹治党ともいい、天正19年(1591)の九戸政実の乱(岩手県で戦われた秀吉の天下統一の最後の戦い)で政実の軍師として活躍した円子右馬丞元綱も丹党の流れです。

 

 丹荘駅を出て、少し大きな川である神流川を渡ると、いよいよ群馬県、上野(こうづけ)国です。

 

 群馬県に入って最初の駅である群馬藤岡駅では結構人が乗ってきました。

 

 そして群馬藤岡から三つ目が高崎駅です。

 

 8時57分、高崎に到着しました!

 

 おおよそ3時間の旅でした。

 

 意外と近い。

 

 高崎駅には湘南新宿ラインが停まっていました。

 

E231系

写真8 E231系

 

 E231系ですね。

 

 隣には、185系も停まっています。

 

185系

写真9 185系

 

 改札を出ると、まずはバスの乗り場と時間を確認するために、西口に行ってみます。

 

高崎駅西口

写真10 高崎駅西口

 

 正面(西側)には高崎市役所のビルが見えます。

 

高崎駅西口から西を見る

写真11 高崎駅西口から西を見る

 

 北側にもデパートの高島屋を初めとして商業施設がありますね。

 

西口北側の商業施設

写真12 西口北側の商業施設

 

 タワーレコード(CD屋)やジュンク堂(本屋)、ミュージックランド・キー(楽器屋)など東京でおなじみの店もあります。

 

 バスの時間はあらかじめ調べてきてはいますが、乗り場を確認するためにバス停に行ってみます。

 

 最初の目的地である元島名将軍塚古墳へ行くには、群馬中央バスの県立女子大行きで、1番乗り場でした。

 

 発車時刻は9時45分なので少し時間があります。

 

 東口も見てみましょうか。 

 

高崎駅東口

写真13 高崎駅東口

 

 こちらもきれいに整った町になっています。

 

東口から東を見る

写真14 東口から東を見る

 

 でかい電気屋さんもありますね。

 

ヤマダ電気LABI

写真15 ヤマダ電気LABI

 

 ちなみにヤマダ電機は前橋が発祥ですが、都内の人には昔からメジャーなビックカメラはここ高崎が発祥なのです。

 

 そして、コジマは栃木県、ケーズデンキは茨城県というように、北関東からは家電量販店がいくつも出現しているのです。

 

 実は私は群馬県は今まで長野や新潟に行く際に通過しただけで、町に降り立ったのは今日が初めてです。

 

 群馬県の県庁所在地は前橋ですが、県内で一番人口が多い自治体は高崎市なんですね。

 

 高崎は鉄道の場合も上越新幹線や長野新幹線が停まり、いろいろな線が集まっています。

 

 後で気づいたのですが、車のナンバープレートも群馬と高崎があります。

 

 そういうわけで、今日私は人間の数では群馬一番の町に来たわけです。

 

 少し時間があるので、上信電鉄を見に行ってみましょうか。

 

 入場券を買ってホームに入ると、ちょうど電車が入線してくるところでした。

 

上信電鉄

写真16 上信電鉄

 

 近づいてきます。

 

上信電鉄

写真17 上信電鉄

 

 可愛らしい電車ですね。

 

 ホームの先にはいくつか他の種類の電車も停まっています。

 

 右側の電車は昔の東武線にこんな顔をした電車がいましたが、それとは違うかな?

 

東武顔

写真18 東武顔

 

 東武顔をしていますが、帰宅後調べたら上信電鉄の自社発注車でした。

 

 いいなあ。

 

右手は初期の電気機関車?

写真19 右手は初期の電気機関車?

 

 さて、そろそろ良い時間になってきたので、バス乗り場へ向かいます。 

 

 今度はあらためて時間を確保して上信電鉄に乗りに来たいです。

 

入場券

写真20 入場券

 

元島名将軍塚古墳(前方後方墳)で狗奴国の幻影を見る

 

 バスの発車の時刻が迫ってきたので、高崎駅西口のバスターミナルの1番乗り場に行ってみるとバスが停まっていました。

 

群馬中央バス

写真21 群馬中央バス

 

 群馬中央バスの9時45分発、県立女子大行きです。

 

 元島名将軍塚古墳は高崎駅からは東の方向にあるのですが、バスは西口から出ているのです。

 

 バスは発車すると、まずは街中を走り、それから国道354号線に乗り東を目指します。

 

 初めての土地でバスに乗るって結構緊張しますよね。

 

 このバスは次のバス停が車内前方の掲示板に表示されないので、降り過ごさないようにアナウンスの声に注意します。

 

 おおよそ15分ほどで慈眼寺裏(じげんじうら)に到着しました。料金は360円です。

 

 バスを降りると、西に少し戻り上滝町のT字路を右折し北へ向かいます。

 

 バス停から5分ほど歩いたところで、右側前方にこんもりとした森が見えました。

 

 あれが古墳じゃないか?

 

元島名将軍塚古墳遠景

写真22 元島名将軍塚古墳遠景

 

 さらにその先には島名神社の入口がありました。

 

島名神社入口

写真23 島名神社入口

 

 事前の調べでは、元島名将軍塚古墳の前方部には島名神社の社殿があるということだったので、神社へ行ってみます。

 

島名神社鳥居

写真24 島名神社鳥居

 

 鳥居をくぐります。

 

 すると、古墳らしき土盛りがありました!

 

墳丘

写真25 墳丘

 

 標柱と説明板もあります!

 

 ここですね。

 

 間違いないです。

 

 まずは説明板を見てみましょう。

 

説明板

写真26 説明板

 

 なるほど、古墳の規模は全長96メートルですね。

 

 この大きさは私が住む都内では大きい方ですが、古墳大国の群馬ではとくに驚くほどではありません。

 

 でも、前方後方墳としては大きいほうなのかな?

 

 ちなみに私は前方後方墳を生で見るのは初めてになります。

 

 東国の人間としては、憧れの前方後方墳を見ることができて感動なのだ!

 

 さて、横の石段の上には島名神社の社殿があります。

 

島名神社社殿

写真27 島名神社社殿

 

 しかし気持ちが逸るので、まずは後方部に登って見てみましょう。

 

 後方部に登ろうとすると、前方に猫ちんを発見しました。

 

 ちょうど獲物を狙って飛びかかろうとしているところです。

 

猫ちん

写真28 猫ちん

 

 静かに近づいてみると・・・

 

 あ!やっぱり気付かれた。

 

気付かれた!

写真29 気付かれた!

 

 猫ちんは後方部墳頂に向かって走り去って行きました。

 

 私も猫ちんを追って後方部に登ります。

 

墳頂

写真30 墳頂

 

 後方部から前方部を見ると、だいぶ削られてしまっているのが分かります。

 

後方部から前方部を見る

写真31 後方部から前方部を見る

 

 古墳には埴輪が付きものだと思う方もおられると思いますが、元島名将軍塚古墳では埴輪は発見されていません。

 

 また、後方部中心にあった主体部(埋葬施設)からは人骨が発見されており、頭部を北向きにしていたそうです。

 

 主体部からの出土遺物は、人骨以外に獣形鏡が一点、碧玉製の石釧(いしくしろ。腕輪)が一点、あとは刀や?(やりがんな)の残欠、鉄片や木片が出ています。

 

 石釧は碧玉製では現在確認できるものとしては県内唯一の出土です。

 

 石釧全体を見ても、県内最古級で、朱が付着していました。

 

 遺物の石釧と獣形鏡は、東京国立博物館へ行き、他のものは県立歴史博物館や元島名将軍塚古墳の近所にある歴史民俗資料館にあるそうです。

 

 国立博物館に持って行かれたということは相当貴重なものなんですね!

 

 後方部から降りて、順序が逆になってしまいましたが、神様にご挨拶をします。

 

島名神社社殿

写真32 島名神社社殿

 

 石碑の説明によると、島名神社の創立年代は不詳だそうです。

 

 ヤマト王権から東国には彦狭嶋王(ひこさじまおう。第7代孝霊天皇の子)が派遣されたという伝承があるのですが、石碑を読むとどうやら元島名将軍塚古墳は、彦狭嶋王の墓であるとの伝承があるようで、古墳が作られた4世紀後半(この時期に関しては改めて後述)に神社が創建されたと考えられているようです。

 

 それはあくまでも伝承ですが、史料上からは「延喜式」に「従四位上 嶋名明神」とあるそうなので、古い神社であることは確かです。

 

 また、以前は八幡宮だったそうです。

 

 既述した通り、社殿は古墳の前方部に建っているのですが、その南側は現在では地元で「将軍淵」といわれる浸食谷によって少し削られています。

 

 おそらく社殿を建てる際に社殿基部は整形しているものと思われます。

 

社殿基部

写真33 社殿基部

 

 それでは元島名将軍塚古墳の遠景を見てみましょう。

 

 道路に出て北側に回り込みます。

 

 写真では分かりづらいですが、北側から見ると8.6メートルを測る後方部は結構高さがあります。

 

北からの全景

写真34 北からの全景

 

 良い眺めですねえ。

 

 今度はもうちょっと角度を変えて、北東方向から見てみます。

 

 古墳を横から見る感じです。

 

北東方向からの全景

写真35 北東方向からの全景

 

 これも写真だと分かりづらいですが、肉眼では古墳らしさが良く分かります。

 

 しばらく道路に座ってお茶を飲みながら古墳を眺めます。

 

 気温も結構上がってきていて少し暑いですが、良い天気なのでこういう長閑な雰囲気を楽しむのも良いですね。

 

 さて、そろそろバスの時間なのでバス停に戻りましょう。

 

 ところで元島名将軍塚古墳の近くには焼肉レストランがあるので、そこでランチを食べるという探訪プランも考えられます。

 

写真36 秋元橋

 

 しかし今日は残念がらまだお昼ではない・・・

 

 バスの時間は10時50分。

 

 それを逃すと次は2時間後です。

 

 ほとんど時間が無くなってしまったので、この近くにある高崎市歴史民俗資料館には寄れません。

 

 残念ですが仕方がありません。

 

 この2年後に探訪した時は、高崎市歴史民俗資料館を見学することができました。

 

 また、上の焼肉屋さんは店名が変わっていました。

 

 10時50分を少し過ぎてバスがやってきました。

 

 それでは高崎駅まで戻り、高崎城を見てから昼飯を食べましょう。

 

 次回の記事はこちら

 

第2回 探訪記録

 

探訪年月日 2015年5月6日(水)
天候 晴れ
探訪ルート 【5月4日】
総社二子山古墳 → 総社愛宕山古墳 → 宝塔山古墳および光巌寺 → 蛇穴山古墳 → 総社城 → 遠見山古墳 → 山王廃寺 → 上野国分尼寺 → 国分寺館(ガイダンス施設) → 上野国分寺 → 妙見社 → 上野国府および蒼海城 → 総社神社 → 石倉城 → 王山古墳 → 前橋城 → 上野国府八幡
【5月5日】
天川二子山古墳 → 前橋八幡山古墳 → 前橋天神山古墳 → 飯玉神社古墳 → 亀塚山古墳 → 金冠塚古墳 → 文殊山古墳 → 阿弥陀山古墳
【5月6日】
砂町遺跡 → 高崎市歴史民俗資料館 → 元島名将軍塚古墳 → 元島名城 → 高崎情報団地遺跡 → 大類城
同道者 なし

 

東山道武蔵路沿線にある最古期古墳

 

 思っていたよりもかなり楽しめた高崎市歴史民俗資料館を出たあとは、元島名将軍塚古墳に向かいます。

 

 しかし2年前も来ており(2年前の探訪記録はこちら)、しかも季節も同じであるので、とくに再訪する必要もないような感じもしますが、やはり将軍様に一言ご挨拶をしてから行きたいと思います。

 

 あれ?前回来た時の焼肉屋は名前が変わっている。

 

 そして駐車場の一画にはソーラーパネルが並べてあります。

 

ソーラーパネル

写真37 ソーラーパネル

 

 群馬県内を歩いていると、よくソーラーパネルが設置されているのを見ます。

 

 島名神社の入口に来ました。

 

島名神社入口

写真38 島名神社入口

 

 2年前に来たばかりなので新鮮味はないですね。

 

 それでもやはり、墳丘の上には登ります。

 

墳丘

写真39 墳丘

 

 そして前回と同じように北側に回り込み遠景を撮ります。

 

遠景

写真40 遠景

 

 こちらも前回と同じようなアングルですね。

 

遠景

写真41 遠景

 

 さて、この元島名将軍塚古墳ですが、ここまで歩いてきたことで分かる通り、東山道武蔵路の沿線にあります。

 

 古墳が築造されたのは、比田井説を取ると3世紀後第3四半期ですので、それから400年以上経ってからここを歩いた中央の官人や遣い、それに旅人達は元島名将軍塚古墳を見て、昔の人のお墓として認識しているんですね。

 

考察

 

 元島名将軍塚古墳の築造時期ですが、現地の説明板ですと4世紀後半、『群馬県史 資料編3』ですと4世紀末としていますが、どうやら実際はもっと古いようです。

 

 従来、関東地方の古墳は畿内よりも50年、下手すると100年も遅れて作られるようになったと言われており、関東地方で前方後円墳が築造されるのは4世紀後半からだと言われていました。

 

 しかし、卑弥呼の墓の可能性が指摘されている奈良県桜井市の箸墓古墳と同様な前方部が三味線のバチ形に開いたデザインの前方後円墳が関東地方にもあり、考古学的には同じデザインのものは同じ時期に作られるというのが原則であるので、そうだとすると、関東地方の古い前方後円墳は箸墓古墳が築かれたころと同じころの築造になります。

 

 箸墓古墳は現在では3世紀中ごろの築造と言われているので、そうすると関東地方の前方後円墳の出現時期も3世紀中ごろと考えられるわけです。

 

 そして、『関東における古墳出現期の変革』によると、前方後方墳である元島名将軍塚古墳の築造時期は、3世紀第3四半期(251〜275年)としています。

 

 上述の説よりも100年早いわけですね。

 

 上毛野の丘陵の辺縁部は、弥生時代の後半は樽式土器を使用する樽式文化圏という文化圏だったのですが、古墳時代の初期から濃尾地方(愛知・岐阜)の人びとが大量にやってきて(東京湾から利根川を遡上)、石田川式文化圏を形成します。

 

 そして樽式文化圏と石田川式文化圏は抗争し、石田川文化圏は勢力を増します。

 

 元島名将軍塚古墳から出土された土器は石田川式土器なので、元島名将軍塚古墳の被葬者は、濃尾地方から入植してこの地に君臨した首長であると考えられます。

 

 その首長が上毛野へやってきたころの日本はどういう状況だったかというと、卑弥呼の邪馬台国とその隣国である狗奴国(くなこく)が戦争状態になり、248年頃、卑弥呼が死にます。

 

 邪馬台国が畿内にあったという説を取る人のなかには、そのライバルであった狗奴国を東海地方に想定する人が多いです。

 

 元島名将軍塚古墳の被葬者の故郷が濃尾地方だとすると、邪馬台国と狗奴国が戦争していたころ、関東地方は狗奴国の影響が大きかったと考えることができます。

 

 しかし邪馬台国も関東地方へアプローチを掛けており、関東にも古墳出現の初期のころから前方後円墳を築く勢力が存在しました。

 

 結局、邪馬台国と狗奴国の戦争は、卑弥呼の跡を継いだ壹与の更に後継者である崇神天皇(崇神が壹与の後継者であるという考えについてはまた後日お話します)が266年に西晋に遣いを出していることから、邪馬台国の勝利に終わったと考えられ、考古学的に見てもそれ以降関東地方は畿内の影響下に置かれます。そして関東でも一斉に前方後円墳が築かれ始め、ここ上毛野もいわゆる「前方後円墳体制」に組み込まれることになります。

 

 (「前方後円墳体制」に組み込まれた後も上毛野地域にはヤマトからほぼ独立した「地域王権」があったと私は考えています。日本各地に「王」がいて、それを統べるヤマトの王が、王の中の王である「大王」であったと思います。これについてはまた機会がある時にお話します。)

 

*** ツアーのご案内 ***


 2017年12月9日(土)に、クラブツーリズムにて東日本最大の前方後円墳である太田天神山古墳や隣接する女体山古墳、東国最古級の古墳である元島名将軍塚古墳、そして日本の旧石器時代発見の地である岩宿遺跡をめぐるツアーを催行予定です。



 ※画像をクリックすると別ウインドウに拡大表示します。


 もし興味がありましたら、下記のリンクをご覧ください。
 

クラブツーリズムの公式ページ

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『群馬県史 資料編3 原始古代3』 群馬県史編さん委員会/編 1981年
  • 『群馬県史 通史編1 原始古代1』 群馬県史編さん委員会/編 1990年
  • 『関東における古墳出現期の変革』 比田井克仁 2001年

 

 

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