◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

戦国北条氏小机領の拠点城郭・小机城

最終更新日:2015年5月19日

 

 私の勤めているお店は、基本的には多摩地域内を行動範囲としていますが、たまたま横浜市内の某所にある別のお店にお遣いに行くことになりました。

 

 地図で確認してみると、なんと小机城の近くじゃないですか!

 

 そうであるならば、何とか時間を工面して、お遣いのついでに小机城跡を見てみないとね!

 

 

探訪データ
探訪年月日 2014年12月10日(水)
天候 曇り

 

小机城概要
ふりがな こづくえじょう
別名 飯田城・根古屋城
住所 神奈川県横浜市港北区小机町

史跡指定  
現況 小机城址市民の森
規模/比高 東西約320m×南北約280m/約25m
目で見られる遺構 郭・空堀・土塁・櫓台
復元 なし
存続時期 確実なのは、文明8年(1476)〜天正18年(1590)か
城主・城代・関係者 文明8年(1476) 城主:矢野兵庫助
大永3年(1523)頃 城主:北条三郎(宗哲の長男) 城代:笠原越前守信為
元亀元年(1570)以降 城主:北条氏堯
その後 城主:北条氏信 城主:北条氏光
城攻めの記録 文明10年(1478) 【守】豊島泰経 vs 【攻】太田道灌 → 4月11日落城
天正18年(1580)の小田原攻めの際には記録に現れず

市街化された横浜市内に残る貴重な遺構

 

 小机城はずっと以前から気になっていたのですが、なかなか行く機会がありませんでした。

 

 横浜線に乗って行けばそんなに遠いわけではないのですが、気になりつつ時間が過ぎて行きました。

 

 そのため今日は良いチャンスです。

 

 午前中の現場を終えると、昼休憩を取らずに、お遣いへ赴きます。

 

 そして目的地の近くまで来て、鶴見川の辺りで信号が赤になりました。

 

 おや、あれが小机城ではないか?

 

小机城跡遠景

写真1 小机城跡遠景

 

 間違いありません。

 

 目的地に到着し、そそくさと用件を済ますと、さっそく小机城跡へ向かいます。

 

 小机城跡は、目的地からお店まで戻る路線上にあるので、わざわざ寄り道をするというロケーションではありません。

 

 なおかつ、就業規則で1時間の休憩を取ることが決まっていますので、小机城跡の見学のためにその1時間を使うことにします。

 

 そうすれば問題ないでしょう。

 

 城の近くのコインパークに車を止めて、城跡を目指します。

 

小机城跡遠景

写真2 小机城跡遠景

 

 小机城は、現在は「小机城址市民の森」という公園になっているようですね。

 

 お、入口発見。

 

小机城跡入口

写真3 小机城跡入口

 

 城跡の南側から進入すると、何段かの腰郭が構築されており、遊歩道が延びています。

 

腰郭

写真4 腰郭

 

 さて、ではここでまず、現地の説明板の図をご紹介します。

 

概要図

写真5 概要図

 

 ただ、これですと少し分かりにくいので、今回もまた余湖さん謹製の「余湖図」を示します(「余湖くんのホームページ」から引用)。

 

余湖図

写真6 余湖図

 

 余湖図では上が西なんですが、東西に走る横浜線と並行している道路から北へ入る道が描かれていますよね。

 

 私はそこから城跡に入ってきています。

 

 腰郭を上がって行き、「1」と書いてある主郭の一段下の帯郭まで来ました。

 

 お、意外と空堀が深い。

 

空堀

写真7 空堀

 

 帯郭を歩き、平場(名称不明)に来ると、社がありました。

 

社

写真8 社

 

 ここから見る空堀も良いねえ。 

 

空堀

写真9 空堀

 

 ちょっと移動して。

 

空堀

写真10 空堀

 

 次は二の曲輪を目指します。

 

 左へ行けば主郭、右へ行けば二の曲輪。

 

小机城跡

写真11 

 

 二の曲輪虎口付近から北を見ると、正面が曲輪のように見えますが、正体は巨大な土塁です。

 

巨大な土塁

写真12 巨大な土塁

 

 二の曲輪には櫓台が残っています。

 

 もちろん登りますよ。

 

櫓台

写真13 櫓台

 

 櫓台から主郭の東側を守っている馬出を見ます。

 

馬出

写真14 馬出

 

 二の曲輪は『城郭大系』では、「東郭」とされおり、規模は東西45m、南北70mで、広さから言ったら後で訪れる主郭よりも少し広いです。

 

二の曲輪

写真15 二の曲輪

 

 標高は二の曲輪が38.1m、主郭が38.4mで、ほぼ同じです。

 

 なので、実は現在一般的に主郭と言われている曲輪が本当に主郭かどうかは分からないのです。

 

 二の曲輪は、往時は土塁がめぐっていたと考えられていますが、現在はさきほどの櫓台と、北西の一部分に残っているだけです。

 

 北側の端にはベンチとテーブルがあります。

 

二の曲輪

写真16 二の曲輪

 

 西側の空堀も深いですね。

 

二の曲輪西側の空堀

写真17 二の曲輪西側の空堀

 

 空堀のさらに北側には巨大な土塁が構築されており、その先は鶴見川へ向けて崖状になっています。

 

北側の土塁

写真18 北側の土塁

 

 なので、まず北側から攻めるのは不可能ですね。

 

 では虎口へ戻り、空堀を歩いて主郭へ向かいましょう。

 

堀底を歩く

写真19 堀底を歩く

 

 竹林になっているところが、滝山城に雰囲気が似ています。

 

 写真を見れば分かる通り、間伐された竹が寝かされていますね。

 

 小机城跡探訪から帰った翌月、「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」で竹の伐採を初めて経験しましたが、結構力仕事で大変でした。

 

 小机城跡もボランティアの方々が保全されていると聞きました。

 

 同様なことをやっている私が言うと何かいやらしい感じもしますが、そういう方々のお陰で城跡を楽しめるということを、訪れた際に少しでも考えていただけると嬉しいです。

 

空堀

写真20 空堀

 

 はい、主郭に到着!

 

主郭

写真21 主郭

 

 主郭の呼び方は、「本曲輪(ほんぐるわ)」でも良いのですが、昔からの癖でつい主郭(しゅかく)と呼んでしまいます。

 

 ただ間違っても「本丸」はやめましょう。

 

 「本丸」は近世城郭での呼び名なので、ついうっかり「本丸」とか言うと、「中世派」から小馬鹿にされます^^

 

 あ、でもボランティアで城跡をガイドするときは、一般的な認知度の関係で「本丸」とか言っちゃいますけどね。

 

 さて、主郭の広さは東西40m、南北40mです。

 

 『城郭大系』では、「西郭」と呼んでいます。

 

 そして先ほども言った通り、二の曲輪と主郭と、どちらが主郭であったかは分かりません。

 

 占地からしたら、二の曲輪の方が主郭のように思えるのですが。

 

 それに小机城は現在見られるものよりも広範囲だった可能性もあるみたいです。

 

 小机城は長尾景春の乱の際(文明8年<1476>)、景春派の矢野兵庫助が籠城し、太田道灌によって平塚城を落とされた豊島泰経が逃れてきました。

 

 道灌は2月に鶴見川の北岸に向い城(亀之甲山陣城)を構築して小机城を攻め始め、4月11日には落城せしめています。

 

 おそらくその後しばらくは未使用だったと思われますが、武蔵へ侵攻してきた北条氏綱は南武蔵の拠点として再興しました。

 

 ちなみに、城って何百年もずーっと使われ続けるものはごくわずかで、ほとんどが必要になったら新規に作ったり古城を再利用したりして、いらなくなったら捨てるのです。

 

 さて、余湖図でも分かる通り、主郭の東側には馬出があります。

 

馬出

写真22 馬出

 

 まだ一部、紅葉が残っていますね。

 

馬出

写真23 馬出

 

 この細長い馬出が、小机城の一番の面白ポイントではないでしょうか。

 

馬出

写真24 馬出

 

 いや、でも「馬出」と言うにしては、位置的に見ても、また馬出の方が東西の両曲輪よりも標高が高いので、なんか不思議な雰囲気の遺構です。

 

 これが実際何だったか考えるのも、面白いテーマだと思いますよ。

 

 ところで、『城郭大系』では、全体的に直線で構成されている主郭に対して、二の曲輪は曲線部が多く比較的古体の様相をとどめており、それぞれ構築の時期に違いがあるのではないかとしています。

 

 また、大手口に関しては、地元では上の「小机城想定図」で描かれているように想定していますが、『城郭大系』が述べている通り、城の核心部分に外部から直接道が付けられることはまず考えられません。

 

 しかしだからと言って、『城郭大系』が述べている二の曲輪の北東方向が大手だったかというと、これも微妙な感じがします。

 

写真25 

 

 さて、主郭のすぐ西側には第三京浜道路が走っています。

 

第三京浜道路

写真26 第三京浜道路

 

 これによって城跡は分断されてしまったわけですが、主郭が破壊されなかったのは不幸中の幸いと考えていいでしょう。

 

 こちら側の遺構は下草刈りに手が回らないみたいです。

 

写真27 

 

 ですので、近所の城好きの方はぜひ城跡の保全に協力しましょう!

 

 だんだんと時間が迫ってきましたが、もう少しあるので、第三京浜の西側にも行ってみたいと思います。

 

 櫓台のようですが・・・

 

富士塚?

写真28 富士塚?

 

 富士塚ですかね?

 

富士塚?

写真29 富士塚?

 

 こちらからは日産スタジアムが見えます。

 

眺望

写真30 眺望

 

 日産スタジアムの北側の鶴見川の対岸に、太田道灌が構築した亀之甲陣城があったわけですが、もちろん今日は時間の関係で探訪できません。

 

 お、時間が迫っている。

 

 急いでコインパーキングまで戻ると、見事に1時間以内に収まっていました。

 

 これなら就業規則に定められている範囲ですね。

 

 ところで、北条氏は最初は今川氏の縁戚として、幕府の命で伊豆へ侵攻し、つづいて相模を領有しました。

 

 しかし宗瑞から氏綱に代わった時には、すでに戦国大名として独り立ちしており、武蔵の領有を目論み扇谷上杉氏と死闘を演じます。

 

 氏綱は大永3年(1523)頃に小机の地を取り、古城を再興したものと考えられます。

 

 氏綱は扇谷上杉朝興から大永4年に江戸城を奪うことに成功しましたが、そこから朝興が本気を出しました。

 

 その結果、江戸城を奪い返される事態にまでは行きませんでしたが、氏綱は朝興の攻勢によって相模まで踏みにじられ、古文書を読む限りでは、朝興のほうが氏綱よりも合戦に強かったようです。

 

 しかしその朝興も天文6年(1537)4月27日に没し、朝定が継いだ途端にそれを好機と見た氏綱は一気に攻勢に出て、河越城を落とし、武蔵内の領土を拡張します。

 

 さて、この時までに伊豆・相模を領し、武蔵の大部分と上総の一部を奪っていた北条氏は、広大な領域を分割統治するために、領内を「領」や「郡」に分けています。

 

 なお、ここでいう「郡」とは、古代からの行政区画の伝統からは切り離された新しい郡です。

 

 従来からの郡名や荘園の名前も残っているのですが、それは単なる広域地名表示のようなものになっています。

 

 氏綱と嫡男氏康は本城の小田原城にいるのですが、実はあまり有名ではない為昌という氏康の弟がかなりの傑物で、為昌がその死後に玉縄領(玉縄城)・三浦郡(三崎城)・小机領(小机城)に分割されることになる領域の支配を任され、玉縄城に居城していました。

 

 ところがその為昌は天文11年(1542)5月3日に23歳で死んでしまいます。

 

 家督を相続したばかりの氏康にとって、当時の版図の半分近くを任せていた弟の死はかなりの痛手になったと想像できます。

 

 ここで発生した小机領の支配拠点として小机城が選ばれたわけですが、小机城はすでに為昌の時代に再興されていたと考えられます。

 

 それから少し時間が経って、天正18年(1590)の豊臣政権による小田原攻めの際に、小机城がどのような働きをしたのかは記録に残っていないようです。

 

 さて、お店に戻りましょうか。

 

 お掃除の仕事は12月が一番忙しいので、小机城跡を見た時も結構疲労が溜まっていたのですが、小机城跡を1時間弱歩いて、それに加えて1週間くらい睡眠時間を長く取るようにしたら、疲労が回復しました。

 

 城めぐりにはヒーリング効果があるので、もしあなたが疲れているのなら、どこか近くの城跡を歩いて、かつゆっくり寝てみることをお薦めします。

 

 

【参考資料】

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