◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

東北最大を誇る前方後円墳・雷神山古墳および小塚古墳(植松城)

最終更新日:2016年5月21日

 

雷神山古墳および小塚古墳(植松城)概要

 

ふりがな らいじんやまこふん
こづかこふん
うえまつじょう
住所 宮城県名取市植松字山

交通 JR東北本線/常磐線館腰駅下車、徒歩約20分(遠回りしてしまったみたい)
史跡指定 国指定史跡
史跡名:雷神山古墳
指定年月日:昭和31年(1956)12月28日
追加年月日:昭和43年(1968)12月5日
現況 史跡公園
築造時期 4世紀(雷神山古墳)
関連施設  

 

雷神山古墳諸元

 

墳丘

 

形状 前方後円墳 前方後方墳  円墳 方墳 八角墳 上円下方墳
築成 1段 2段 3段 4段 5段
造出 あり なし
規模 全長約168m(現地説明板)
墳丘高 後方部約12m/前方部約7.2m(現地説明板)
葺石 あり なし 不明
埴輪 あり なし 不明
登頂 可能 不可能
陪塚 小塚古墳を陪塚と捉えるか?

 

埋葬主体

 

 不明。時代的には竪穴式であることは間違いないだろう。

 

周溝

 

形状 墳丘形 馬蹄形 長方形 不定形 不明 なし 未発達
構造 一重 二重 三重 不明
中島 あり なし
残存もしくは形跡 全部あり 一部あり なし
遺物  
周溝を含めた最大長 約m

 

小塚古墳諸元

 

墳丘

 

形状 前方後円墳 前方後方墳  円墳 方墳 八角墳 上円下方墳
築成 1段 2段 3段 4段 5段
造出 あり なし
規模 直径約54m(現地説明板)
墳丘高 約8m(現地説明板)
葺石 あり なし 不明
埴輪 あり なし 不明
登頂 可能 不可能

 

埋葬主体

 

 不明。

 

周溝

 

形状 墳丘形 馬蹄形 長方形 不定形 不明 なし
構造 一重 二重 三重 不明
残存もしくは形跡 全部あり 一部あり なし
遺物  
周溝を含めた直径 約m

 

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第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2016年5月12日(木)
天候 晴れ
探訪ルート 【5月12日】 亘理郡家<三十三間堂官衙遺跡> → 雷神山古墳および小塚古墳(植松城) → 山居古墳 → 観音塚古墳 → 宮山古墳 → 薬師堂古墳 → 諏訪神社 → 陸奥国府および郡山廃寺<郡山遺跡> → 北目城 → 遠見塚古墳 → 若林城 → 保春院 → 法領塚古墳 → 陸奥国分尼寺 → 陸奥国分寺
【5月13日】 鹽竈神社博物館 → 志波彦神社 → 鹽竈神社 → 荒脛巾神社 → 陸奥総社宮 → 多賀城外郭北東隅・外郭東門跡・大畑地区 → 多賀城六月坂地区および多賀神社 → 多賀城神社 → 貴船神社 → 伏石 → 多賀城政庁 → 多賀城作貫地区 → 多賀城碑 → 館前遺跡 → 今野家住宅 → 高崎多賀神社 → 多賀城廃寺 → 東北歴史博物館
同道者 なし

 

KKDで勝負

 

 古代亘理郡の郡家(役所)である三十三間堂官衙遺跡を見た後は、逢隈駅発7時17分の常磐線に乗車しました。

 

 仙台方面に向かう通勤者や学生で車内は結構混んでます。

 

 7時28分に館腰駅に到着。

 

 館腰駅は、JRでは「たてこし」と濁らずに命名していますが、本来は「たてごし」でしょう。

 

 旧国鉄は駅名を清音で命名するのが好きだったようで、岩手県の金田一は地元では「きんだいち」なのに駅名は「きんたいち」だし、私の出身地近くの新八柱駅は、先行する新京成の駅が「やばしら」であるのにもかかわらず、地元民の発音を無視して「しんやはしら」としています。

 

 この慣習にはどのような理由があるのか知りたいです。

 

 そして「たてごし」という地名は東北にはいくつか散見できて、場所によっては「たてぐし」と音する場所もあり、館跡自体を「たてぐし」と地元の人が呼んでいる場所もあります。

 

 館腰駅。

 

館腰駅

写真1 館腰駅

 

 駅前ロータリー。

 

駅前ロータリー

写真2 駅前ロータリー

 

 遠くに見える山が雷神山古墳のはずです。

 

 実はここから雷神山古墳までは大ざっぱな地図しか持っていないので、勘で歩いてみます。

 

 古墳が近づいてきました。

 

もうすぐ

写真3 もうすぐ

 

 古墳は丘の上にあるのですが、その手前で丘に登って行く車道と丘の麓を流れる小流沿いの遊歩道へ道が分かれています。

 

 どっちに行けば近いかな・・・?

 

 よし、KKD(経験・勘・度胸)で遊歩道を選択!

 

館腰遊歩道

写真4 館腰遊歩道

 

 おそらく古墳からこの遊歩道へ降りる道があるに違いない。

 

 私が地元民だったら絶対整備するぞ!

 

 と、強い志を持って歩くも、上に登る道が現れる気配はまったくありません。

 

 お、今日来るときに電車から見えた看板だ。

 

看板を見上げる

写真5 看板を見上げる

 

 いや、それにしてもこちら側の崖は想像よりはるかに切り立ってる・・・

 

 この傾斜であれば直登できないこともないですが、靴はスニーカーだし、一番上にフェンスが見えるし、止めておきましょう。

 

 結局、20分歩いて丘の上に上がる小道を発見し登ります。

 

 振り向いて激写。

 

振り向いて激写

写真6 振り向いて激写

 

 お、なんか史跡公園風な佇まいが見えてきたぞ。

 

史跡公園東入口

写真7 史跡公園東入口

 

 ここでもまた振り向くとなかなか良い景色です。

 

北側の景色

写真8 北側の景色

 

 後で気づきましたが、写真8の一番左側に写っている赤松を含む森がこの後訪れる山居古墳でした。

 

 そしてこれまた後で知りましたが、私が入ってきたのは史跡公園の東入口で、南入口の方が館腰駅から近く、KKDの判断が狂ったわけです。

 

 史跡公園正面入口にある説明板の図で全体を把握してみてください。

 

史跡公園正面入口にある説明板

写真9 史跡雷神山古墳保存整備案内図

 

 

 まったく土地勘がないので、どこを見ているのかは分かりませんが、高い場所からの眺めって気持ちいいですよね。

 

北側の景色

写真10 北側の景色

 

 しかも今日は天候に恵まれて本当に良かったです。

 

北側の景色

写真11 北側の景色

 

 そでは古墳を見に行きましょう。

 

公園に入る

写真12 公園に入る

 

本当に城跡?

 

 お、これは周溝ですね。

 

小塚古墳の周溝

写真13 小塚古墳の周溝

 

 いいねえ。

 

小塚古墳の周溝

写真14 小塚古墳の周溝

 

 位置的には小塚古墳が最初に現れるはずなので、これがきっと小塚古墳でしょう。

 

 3段に築成されているのが分かります。

 

3段築成

写真15 3段築成

 

 おっとー、向こうには雷神山古墳らしきものが・・・

 

雷神山古墳

写真16 雷神山古墳

 

 小塚古墳の周溝を歩きます。

 

雷神山古墳

写真17 雷神山古墳

 

 小塚古墳の墳頂に登ってみます。

 

 雷神山古墳の後円部が見えますが、でかいですねえ。

 

小塚古墳から雷神山古墳を見る

写真18 小塚古墳から雷神山古墳を見る

 

 雷神山古墳も周溝がめぐっているようです。

 

小塚古墳から雷神山古墳を見る

写真19 小塚古墳から雷神山古墳を見る

 

 墳頂から降りて周溝の中を歩きます。

 

周溝の中を歩く

写真20 周溝の中を歩く

 

 少し離れて小塚古墳を見ます。

 

小塚古墳

写真21 小塚古墳

 

 驚くべきことに、この小塚古墳には古城の伝承があるのです。

 

 仙台には数年前に亡くなった紫桃正隆さんという郷土史の泰斗が住まいなされていて、紫桃さんの『史料 仙台領内古城・館』に植松城のことが載っています。

 

 それによると植松城は、小塚古墳を最高所として、そこから北側の丘を利用した城で、全長120m、巾80mの規模の城ということです。

 

 地元では源満仲が居住したとの説があり、「満仲館(まんちゅうだて)」のも呼ばれています。

 

 満仲がこの地まできたというのはかなり難しいと思いますが、満仲を祖とあおぐ地元の土豪がこの近辺にいた可能性はあります。

 

 しかし植松城に関してはこれ以上は分かりません。

 

 『日本城郭大系3 山形・宮城・福島』にも「その他の城郭一覧」として2行書かれているだけで遺構も不明とあります。

 

 ちなみに、『史料 仙台領内古城・館』では史跡公園として整備される前の雷神山古墳の航空写真などが何点か掲載されていて、今とは雰囲気が違ってとても興味深いです。

 

伊達領で「伊達じゃない」とか言うな!

 

 さて、雷神山古墳の後円部を見上げます。

 

雷神山古墳の後円部を見上げる

写真22 雷神山古墳の後円部を見上げる

 

 きれいな3段築成ですね。

 

 祠が見えます。

 

祠

写真23 祠

 

 おや?

 

丸石

写真24 丸石

 

 丸石ですね。

 

 雷神山古墳は往時は墳丘が石で葺かれていたそうなので、その名残かも知れません。

 

 では、墳丘の一番下の段に登ります。

 

墳丘の一番下の段

写真25 墳丘の一番下の段

 

 おっ、飛行機!

 

飛行機

写真26 飛行機

 

 そういえばこの近くには仙台空港がありますね。

 

 それじゃあ、墳丘に登ってみようかな・・・

 

墳丘を見上げる

写真27 墳丘を見上げる

 

 と思いつつ、名残惜しく周りを見渡します。

 

小塚古墳が見える

写真28 小塚古墳が見える

 

 おや、周堤があるぞ。

 

周堤

写真29 周堤

 

 でも面白いことに、周堤も周溝も墳丘の周りを全周していないんですよね。

 

 前方部を見ます。

 

前方部を見る

写真30 前方部を見る

 

 私の感覚だと、100メートルくらいの古墳だと写真を撮っても全体が収まりやすいのですが、この雷神山古墳は168メートルもあるため、墳丘に近いと全体が収まりませんね。

 

 周堤の上に立ちます。

 

周堤の上に立つ

写真31 周堤の上に立つ

 

 中世城郭マニアは土塁があると必ず登るのですが、周堤を見てもやはり登りたくなりますね。

 

 そういう習性なのです。

 

 海の方を見てみますが、やはり津波のことが頭をよぎってしまいます。

 

太平洋

写真32 太平洋

 

 周堤の上から墳丘を見ます。

 

周堤の上から墳丘を見る

写真33 周堤の上から墳丘を見る

 

 できるだけ前方部が見えるように移動してみます。

 

 でも前方部の一部は墓地となっていて限界がありました。

 

前方部側へ移動

写真34 前方部側へ移動

 

 墳丘前方部に登り、後円部を見ます。

 

前方部から後円部を見る

写真35 前方部から後円部を見る

 

 このアングルは私が前方後円墳と前方後方墳を撮影する際のお決まりショットなのですが、前方部があまりにも広いので、くびれ部分が良く分かりません!

 

 やはり168メートルは伊達じゃありませんね。

 

 あ、「伊達じゃない、なんて言うなよ!ここは伊達領だ!」と云う声が青葉城の方向から聞こえてきたような気がします。

 

 いやー、それにしても良い景色。

 

良い景色

写真36 良い景色

 

 あの山は何でしょう?

 

何の山だろう?

写真37 何の山だろう?

 

 もしご存じの方がおられましたら教えてください。

 

 景色を楽しみながら後円部へ戻ります。

 

良い景色

写真38 良い景色

 

 ここから見ると、ちょっとくびれ部分が見えるかな?

 

くびれ部分

写真39 くびれ部分

 

 後円部に戻ったので、さっきとは逆パターンの後円部から前方部を見るアングルです。

 

後円部から前方部を見る

写真40 後円部から前方部を見る

 

 にしても、前方部の幅広すぎ・・・

 

 おっと三角點!

 

三角點

写真41 三角點

 

 「点」じゃなくて「點」ですよ!

 

 世の中には三角点マニアもいますが、私はそこまで没入していません。

 

 後円部の墳頂。

 

後円部の墳頂

写真42 後円部の墳頂

 

 やはりこれだけ大きな古墳になると、後円部の墳頂も非常に広々としていますね。

 

 祠があります。

 

祠

写真43 祠

 

 おっと、これが古墳の名前の由来にもなっている雷神様だな!

 

カミナリさま

写真44 カミナリさま

 

 私なんかはカミナリさまというとやっぱりドリフのコントを思い出してしまいます。

 

 こちらは何でしょう。

 

こちらは?

写真45 こちらは?

 

 「見ざる、言わず、聞かざる」が陽刻されています。

 

 後円部墳頂から前方部を見ます。

 

後円部墳頂から前方部を見る

写真46 後円部墳頂から前方部を見る

 

 後円部からの眺めをしばし堪能。

 

前方部からの眺め

写真47 前方部からの眺め

 

 やっぱり山側の眺めの方が落ち着く気がします。

 

 小塚古墳がチラリ。

 

古墳チラリズム

写真48 古墳チラリズム

 

 雷神山古墳はすごく居心地が良いのでつい長居してしまいそうですが、そろそろ次の古墳へ行きましょう。

 

 来たときとは違う方向へ行ってみると、史跡公園の正面へと来ました。

 

 こっちが正規の入口なんだな。

 

 谷を隔てた向こうの丘を見ると、まっすぐな坂道がありますね。

 

谷を隔てた向こうの丘

写真49 谷を隔てた向こうの丘

 

 多分次はあの道を目指せば良いのかと思います。

 

 こちらには説明板が豊富に立っています。

 

史跡雷神山古墳保存整備案内図

写真50 史跡雷神山古墳保存整備案内図(再掲)

 

雷神山古墳概要

写真51 雷神山古墳概要

 

航空写真

写真52 航空写真

 

 底部穿孔壺型土器!

 

底部穿孔壺型土器

写真53 底部穿孔壺型土器

 

 これは「初期古墳マニア」が一番注目する土器です。

 

 この土器が出ているということは前方後円墳の中でも最初期と判断でき、時代的には説明板には控えめに4世紀と書いてあるものの、私の予想では3世紀まで食い込むのではないかと思っています。

 

 一般的なイメージとしては、畿内が先進で東国は後進というのが前提で、畿内の最新モードが東国へ伝播するのには時間がかかると考える人が多くて、畿内と同じデザインの古墳が東国に見つかったとしても、100年くらいは遅れて築造されたと考える人が多いです。

 

 いや、もしかしたらすでに「多い」ではなく「多かった」になっているかもしれません。

 

 というのも、広瀬和雄さんが一般書で啓蒙しているように、畿内の最新モードが東国へ伝わるのは意外と速いと考える人が最近では増えているように見受けられるからです。

 

 私もそう考えています。

 

 別に畿内に遠慮することなんてないですよ!

 

 雷神山古墳の築造が4世紀なのか、それとも3世紀まで遡るのかについては、まだ明確な答えは出せないとしても、古墳時代を前・中・後期に分けた場合の前期において、雷神山古墳の被葬者が仙台平野を統べる「王」であったことに変わりはありません。

 

 これだけの大きな古墳を築けるということは、土地自体に相当な農業生産高があるとともに、「王」は住民を支配する強力な権力を持っていたことの証左となります。

 

 ただし、この「王」の墓につづく大型古墳はこの近くにはありません。

 

 これだけ大きな古墳なので、竪穴を複数掘って、数代に渡る王墓とした可能性は否定できませんが、栄枯盛衰というか、築造から200年ほどの後には、この地には強力な権力者は居なくなってしまった可能性が指摘されています。

 

 というのも、東国(東北地方を含めます)には6世紀後半頃に国造(くにのみやつこ)という地方官が置かれ、国造は地元の有力者が任命されたわけですが、列島最北端の国造はこの日の最初に訪れた三十三間堂官衙遺跡がある亘理郡周辺に位置し、そこから阿武隈川を越えた北側のこの地には国造は置かれなかったからです。

 

 なぜ国造が置かれなかったのかというと、一つの考え方としては、「置くまでもなかった」ということが挙げられます。

 

 6世紀の時点でこの地は中央から見て地方官を置いて支配したいほどの旨味のある地方ではなくなってしまったという考えです。

 

 イコール、土地が貧しければ地元の権力者も大した力を持たなくなっていることになります。

 

 しかし、仙台平野はとても肥沃な土地であったはずなので、仙台平野を支配する強力な権力者がいなくなったと考えるのは早計のような気がします。

 

 ですので、「居たけど中央が手を出せなかった」と考えるのも一つだと思います。

 

 この辺りは私もまだ完全に考えが固まっていないので、考古学の成果もよく吟味して今後も研究して行こうと思っています。

 

史跡公園正面エントランス

写真54 史跡公園正面エントランス

 

 それではこの後は、もう少し古墳探訪をしてみたいと思います。

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『史料 仙台領内古城・館』 紫桃正隆 1974年
  • 『名取市史』 名取市史編纂委員会/編 1977年
  • 『日本城郭大系3 山形・宮城・福島』 藤沼邦彦/宮城県責任編集 1981年

 

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