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多賀城外郭北東隅・外郭東門跡・大畑地区

最終更新日:2016年7月10日

 

多賀城外郭北東隅・外郭東門跡・大畑地区概要

 

ふりがな たがじょうがいかくほくとうすみ・がいかくひがしもんあと・おおはたちく
住所 宮城県多賀城市市川字大畑

史跡・文化財指定 国指定特別史跡
史跡名:多賀城跡 附 寺跡
指定年月日:大正11年(1922)10月12日
特別指定年月日:昭和41年(1966)4月11日
追加年月日:平成5年(1993)年9月22日

 

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第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2016年5月13日(木)
天候 晴れ
探訪ルート 【5月12日】 亘理郡家<三十三間堂官衙遺跡> → 雷神山古墳および小塚古墳(植松城) → 山居古墳 → 観音塚古墳 → 宮山古墳 → 薬師堂古墳 → 諏訪神社 → 陸奥国府および郡山廃寺<郡山遺跡> → 北目城 → 遠見塚古墳 → 若林城 → 保春院 → 法領塚古墳 → 陸奥国分尼寺 → 陸奥国分寺
【5月13日】 鹽竈神社博物館 → 志波彦神社 → 鹽竈神社 → 荒脛巾神社 → 陸奥総社宮 → 多賀城外郭北東隅・外郭東門跡・大畑地区 → 多賀城六月坂地区および多賀神社 → 多賀城神社 → 貴船神社 → 伏石 → 奏社宮道道標 → 多賀城政庁 → 多賀城作貫地区 → 多賀城碑 → 館前遺跡 → 今野家住宅 → 高崎多賀神社 → 多賀城廃寺 → 東北歴史博物館
同道者 なし

 

「門マニア」には堪らないスポット

 

 手元の資料によると、陸奥総社宮のすぐ西側には多賀城が拡がっています。

 

 道路わきにある駐車場の方を見ると標柱が見えます。

 

外郭北東隅

写真1 外郭北東隅

 

 「外郭北東隅」と書いてあるので、その表示の通り、ここはもう多賀城の北東部分なんですね。

 

 向こうの方に説明板があるようなので行ってみます。

 

 おやおや、チビちゃんが斜めになっている説明板の上に貼りついています。

 

 子供は変なところに登りたがりますからね。

 

 本当はママさんはこういうことをさせてはいけないのですが・・・

 

 おっと、土塁が見えます。

 

 土塁には足場ができていて直に登らないようになっているので、その足場の上から土塁を眺めます。

 

東側築地跡

写真2 東側築地跡

 

 ちょっと角度を変えて見てみます。

 

東側築地跡から城内を見る

写真3 東側築地跡から城内を見る

 

 中世城郭をたくさん見ている私は、最初これは土塁だと思いました。

 

 ところがです。

 

 実は土塁ではなく築地塀だったのです!

 

 土塁と築地塀との違いは何か?

 

 その違いについてはもう少し後で説明します。

 

 ところで、今私はどの辺にいるのかというと、ここです!

 

多賀城全体図

写真4 多賀城全体図

 

 この図では左側が北なので注意してください。

 

 この図の大畑地区と書かれている区域に私は最初にたどりつきました。

 

 ピンク色の帯は当時の道で、東門から入った道は西門から抜けていますが、ご覧の通り道はカーブしています。

 

 そもそも多賀城は丘の上に築かれた城柵で、自然地形をそのまま生かして構築されており、歩いてみるとかなり起伏があって変化に富んだ地形なのです。

 

 多賀城も役所であるので、形状は同時代の平城京や平安京のような四角い形を想像しがちですが、ご覧の通り不整形です。

 

 大畑地区の詳細図。

 

大畑地区詳細図

写真5 大畑地区詳細図

 

 この図には平安時代のラインと奈良時代のラインが描かれていますが、ここが少しややこしいところ!

 

 実は一口に多賀城と言っても、例えば中心部分の政庁は何度も建て替えが行われており、大きく4期に分けることができ、外郭ラインも上の通り、奈良時代と平安時代で違うのです。

 

 創建当初は東側の「奈良時代のライン」沿いに築地塀が構築されたのですが、宝亀11年(780)に伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)が多賀城を焼き討ちし、その後は「平安時代のライン」で復興されました。

 

 さて、相変わらず外郭北東隅にはママさんとチビちゃんの集団が屯していますので、先に別の場所を見てみましょう。

 

 こちらは外郭東門跡。

 

外郭東門跡

写真6 外郭東門跡

 

 おっ、門の跡が柱で表示されていますね!

 

外郭東門跡の表示

写真7 外郭東門跡の表示

 

 見たところ、柱は12本。

 

 なのでこれは亘理郡家(三十三間堂官衙遺跡)で説明した通り、八脚門です。

 

 これを復元するとこのようになっていたはず。

 

八脚門推定復元図

写真8 八脚門推定復元図

 

 八脚門は門の中でも最も格式の高い門です。

 

 ちょっと角度を変えて見てみます。

 

外郭東門跡の表示

写真9 外郭東門跡の表示

 

 奈良時代はここに上の推定復元図のような門が建っていたのですね。

 

 そしてこの門から城外へ向けて道が伸びており、本日の朝訪れた塩竈方面へと繋がっていたわけです。

 

東門から城外を見る

写真10 東門から城外を見る

 

 と、簡単に片づけたいところなのですが、これまた複雑なことに、奈良時代の東門は3期の変遷があり、この通りに復元表示されているのは第U期の門なのです。

 

 ちなみに第T期、つまり創建時の門は八脚門ではなくこのような「棟門(むねもん)」と呼ばれるやや簡素な門でした。

 

棟門推定復元図

写真11 棟門推定復元図

 

 それにしても、棟門にしても八脚門にしても、上の図に描かれているお役人さんの大きさと比較して分かる通り、築地塀はかなり高いですね。

 

 相当威圧感があったと思われます。

 

 そして先ほど、土塁と築地塀の違いについて言いかけましたが、それを説明すると、中世の城によく見られる土塁の上にはおそらく木でできた柵か持ち運び可能な楯が並んでいたと考えられます。

 

 でも築地塀は、土で壁を作った後、その上に瓦を葺くのです。

 

 普通に「瓦を葺く」と言いましたが、これは物凄いことなんですよ!

 

 当時、瓦は今以上に高級なもので、それを1km四方に渡る築地塀に葺いたとすればそれは物凄い贅沢です。

 

 この頃は瓦を葺ける建物は役所か寺院だけでした。

 

 ちなみに、戦国時代の城には末期頃まで瓦葺きの建物はありませんでした。

 

 多分、織田信長が安土城を築城した頃が城に瓦を使う最初期じゃないかなあ・・・

 

 さて、今度は外郭東門跡から城内を見てみます。

 

外郭東門跡から城内を見る

写真12 外郭東門跡から城内を見る

 

 眺めてみると、他にも遺跡の復元表示がされている箇所が見えますね。

 

外郭東門跡から城内を見る

写真13 外郭東門跡から城内を見る

 

 では、目に見えている他の場所へ行ってみましょう。

 

 お、これは櫓の基壇を復元したものです。

 

北櫓の基壇

写真14 北櫓の基壇

 

 こちらは平安時代の東門で、こんな感じになっていたようです。

 

東門(平安時代)推定復元図

写真15 東門(平安時代)推定復元図

 

 なんか、奈良時代よりもゴージャスになりましたね。

 

 コの字型になっている奥に行きます。

 

東門前

写真16 東門前

 

 ここに東門である八脚門が建っており、礎石が残っています。

 

東門の礎石

写真17 東門の礎石

 

 東門の前から城外を眺めます。

 

東門の前から城外を見る

写真18 東門の前から城外を見る

 

 今度は城内を眺めます。

 

東門から城内を見る

写真19 東門から城内を見る

 

 東西の門を結んでいる城内の道路はこのような石敷きとなっており、道幅は何と、16メートルです!

 

 東門に入ってすぐの場所には、平安時代の役所群の出入り口である八脚門がありました。

 

役所群の八脚門

写真20 役所群の八脚門

 

 これを復元するとこんな感じです。

 

役所群八脚門推定復元図

写真21 役所群八脚門推定復元図

 

 こちらは城内の区域を仕切る壁で、ゴージャスな築地塀ではなく、丸太材を立て並べた材木塀ですね。

 

 城内の仕切りまでそんなに予算は掛けられません。

 

役所群八脚門

写真22 役所群八脚門

 

 真中の通路を挟んで、左右に役所の建物群が展開していました。

 

役所の建物群が展開

写真23 役所の建物群が展開

 

 時刻は11時10分。

 

 今日は6時半に海鮮丼を食べてから、何も食べていません。

 

 なのでちょっとこの辺で休憩して、コンビニで買っておいたパンを食べます。

 

 気温はかなり上がっておりTシャツ一枚でちょうど良く、爽やかな風に吹かれながら食べるパンは美味しいですね。

 

 3組の老夫婦らしき人影が遠くを歩いているのが見えますが、それ以外に誰もいません。

 

 気持ちいいねえ。

 

 さて、大畑地区をもう少し見てみましょう。

 

 こちらは政庁の第U期のころ、つまり多賀城が最も荘厳だった頃の掘立柱建物跡です。

 

城内最大規模の掘立柱建物

写真24 城内最大規模の掘立柱建物

 

 こんな感じの建物が建っていたと考えられています。

 

復元模式図

写真25 復元模式図

 

 大きさは何と、南北12間(45m)×東西4間(12m)で、何の建物かは分かりませんが、例えば国分寺の場合はこういった建物は宿舎です。

 

 ですから、もしかしたら人が居住していた建物かもしれません。

 

 それでは、そろそろ先ほどのママさんたちはもういないと思われるので、北東隅に再度行ってみましょう。

 

 案の定、声はしません。

 

 中世城郭マニアからするとどうしても土塁に見えてしまいますが、築地塀の跡です。

 

築地塀跡

写真26 築地塀跡

 

 で、北東の隅に行ってみますが、ここの面白いところは、隅の部分がL字になっているわけではなく、写真5を見れば分かる通り、少し延長部分があるのです。

 

 もう一度写真5を示します。

 

大畑地区詳細図

写真27 大畑地区詳細図(再掲)

 

 延長部分の先は加瀬沼に向かって地形が落ちているため、そのまま何となく自然消滅しているような感じです。

 

 そして、城内北東隅の西側を見るとこちらも土地が低くなっています。

 

城内北東隅の西側

写真28 城内北東隅の西側

 

 このように、地図で見ると平坦に見えても、現地を歩いてみると起伏が良くわかって面白いですね。

 

 ここ大畑地区には今見たように門跡が示されており、「門マニア」の私にとっては異様に喜ばしい場所です。

 

 普通であれば、これだけでも一つの史跡として相当立派なものですが、ここ多賀城はどうやらこれくらいで私を解放してくれるような生易しい遺跡ではない予感がしています。

 

 それではその期待を胸に、次は六月坂地区へ行ってみましょう。

 

【参考資料】

  • 現地説明板

 

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