◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

陸奥国府および郡山廃寺<太平洋側最古の城柵であり初代陸奥国府である郡山遺跡>

最終更新日:2016年5月23日

 

陸奥国府<郡山遺跡>概要

 

ふりがな むつこくふ<こおりやまいせき>
住所 宮城県仙台市太白区

史跡・文化財指定 国指定史跡
名称:仙台郡山官衙遺跡群 郡山官衙遺跡 郡山廃寺跡
指定年月日:平成18年(2006)年7月28日

 

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第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2016年5月12日(木)
天候 晴れ
探訪ルート 【5月12日】 亘理郡家<三十三間堂官衙遺跡> → 雷神山古墳および小塚古墳(植松城) → 山居古墳 → 観音塚古墳 → 宮山古墳 → 薬師堂古墳 → 諏訪神社 → 陸奥国府および郡山廃寺<郡山遺跡> → 北目城 → 遠見塚古墳 → 若林城 → 保春院 → 法領塚古墳 → 陸奥国分尼寺 → 陸奥国分寺
【5月13日】 鹽竈神社博物館 → 志波彦神社 → 鹽竈神社 → 荒脛巾神社 → 陸奥総社宮 → 多賀城外郭北東隅・外郭東門跡・大畑地区 → 多賀城六月坂地区および多賀神社 → 多賀城神社 → 貴船神社 → 伏石 → 多賀城政庁 → 多賀城作貫地区 → 多賀城碑 → 館前遺跡 → 今野家住宅 → 高崎多賀神社 → 多賀城廃寺 → 東北歴史博物館
同道者 なし

 

今後の史跡整備が楽しみな重要遺跡

 

 諏訪神社を出て郡山遺跡を目指します。

 

 目指します、と言っても、郡山遺跡は史跡公園などになっているわけではなく、事前に調べた限りでは住宅街の中にいくつか説明板がある程度で、あとは「郡山遺跡展示室」と郡山中学校内に遺跡の展示があるだけです。

 

 なので、まずは「郡山遺跡展示室」へ向かいます。

 

 諏訪神社の北西部分の道路は、不思議な通り方をしています。

 

不思議な交差点

写真1 不思議な交差点

 

 普通に進んで行くと民家の門にぶちあたりますが、東長町小学校の東側道路を拡幅したのでしょうか。

 

 そしてすぐに、標柱と説明板を見つけました。

 

 郡山遺跡の標柱です。

 

郡山遺跡の標柱

写真2 郡山遺跡の標柱

 

 私は単に「郡山遺跡」と呼んでいますが、標柱に書いてある通り、国史跡としての正式名は、「仙台郡山官衙遺跡群 郡山官衙遺跡 郡山廃寺跡」という長い名前です。

 

 どんな遺跡なのはこちらをお読みください。

 

郡山遺跡の説明板

写真3 郡山遺跡の説明板
クリックして拡大させて字をお読みください

 

 上にも書かれている通り、郡山遺跡は大きく2期に分かれ、T期官衙は大化改新直後の7世紀中頃に造られており、日本海側の越国(新潟県)に造られた渟足柵(ぬたりのき)と磐舟柵(いわふねのき)と同時期の太平洋側最古の城柵です。

 

 そして第U期官衙は7世紀末に築造され、724年以降に多賀城へ機能移転する前の初代の国府だったと考えられています。

 

 そしてこの地は名取郡に入ることから、陸奥国府であるとともに、名取郡の郡家も兼ねていたと考える研究者もいます。

 

 T期とU期では平面プランが異なっており、上の説明板の写真部分を拡大させてみますので確認してください。

 

説明板の写真部分を拡大

写真4 説明板の写真部分を拡大

 

 U期には付随寺院も建立されており、それを今は「郡山廃寺」と呼んでおり、現在説明板がある辺りはその寺域ですね。

 

 ところで、城柵(じょうさく/じょうき)とは何でしょうか。

 

 文字の通り、「城」と「柵」を一括して呼ぶ名前です。

 

 両者とも「き」と発音しますが、文献では字を使い分けています。

 

 『日本書紀』や『続日本紀』には、城柵が築かれた当初の記事では、西日本のものを「○×城」と表記し、東日本のものを「○×柵」と表記しています。

 

 このような字の使い分けは、城柵の構造を表していると考えられ、「城」は「土で成す」と書くのでその通り土塁で囲まれた構造物であり、「柵」の場合は、丸太材を立て並べて壁とする構造を取っていました。

 

 文献資料からは多賀城も当初は「多賀柵」と呼ばれていたことが分かりますが、天平宝字6年(762)に建てられた多賀城碑には、思い切り「多賀城」と刻されており、8世紀後半になると東北にある城柵も「城」と記されるようになっていました。

 

 では、その柵で囲んだこの施設ですが、一体何のための施設だったのでしょうか。

 

 簡単に言えば、日本の国土を北へ伸ばすための前線基地であり、かつ最北の地を統治するための政治拠点、つまり役所でもありました。

 

 さて、楽しみにしていた「郡山遺跡展示室」は、5年前の地震で閉じたまま、まだ再開していませんでした。

 

郡山遺跡展示室

写真5 郡山遺跡展示室

 

 近くにいた関係者っぽい人に再開の見込みはないのか聴いてみたところ、まったく無いそうです。

 

 うーん、残念。

 

 それでは郡山中学校内にある展示室へ行ってみましょう。

 

 中学校の事務室を訪ね、職員の方にお忙しい時間を割いていただき少しの時間見学させていただきました。

 

 建物内には、「寺院東方建物群」の遺構の様子が地表面で観察できるように保存されており、発掘作業の写真や説明が書かれたパネルが結構豊富に展示しています。

 

 でもここは通常は一般公開していないのです。

 

 なので写真も撮っていません。

 

 これだけの施設なのでぜひ積極的に活用していただきたいですが、中学校内でもあるので色々と事情があるのでしょう。

 

 職員の方が言うには、この辺り一帯は国史跡なので、学校の敷地内をいじることもままならず、この近辺で空き地になっているところはすべて開発がストップされている場所だそうです。

 

 この辺が難しいところで、遺跡の保護は大切ですが、だからと言って住民に不便をかけるのもまた良くないことでもありますね。

 

 なお、郡山中学校内の遺構を見学されたい方は、仙台市教育委員会までお電話なさってください。

 

 さて、次も説明板を探します。

 

 ありましたよ。

 

南方官衙跡

写真6 南方官衙跡

 

 ここは南方官衙と呼ばれ、この説明の通りです。

 

説明板

写真7 説明板

 

 官衙というのは役所のことですね。

 

 先ほど少し言いかけましたが、柵というのは役所でもあるのです。

 

 ただし、日本の領土の最北端にあるため、柵には普通の役所にはない役目がいくつかありました。

 

 当時は、北の領土外に住んでいる人びとのことを「蝦夷(えみし)」と呼んでいたのですが、彼らは別に異民族でも何でもなく、領内の人と同じ日本人です。

 

 ただ、当時のお国の事情で、領土外の人びとを「エミシ」と呼ぶ必要があったのです(エミシに関しては、本サイト内の「エミシの群像」に細かく説明してありますのでお読みください)。

 

 そのエミシに対して、

 

  • 饗給
  • 斥候
  • 征討

 

 という役目が東北の城柵に課せられた特別な役割です。

 

 つまり、貢物を持ってやってくるエミシに対しておもてなしをして、常日頃の監視を怠らず、いざ彼らが何かをしでかしたら武力を発動してそれを収めるという役割ですね。

 

 以上のような特殊な役所を柵と呼ぶのですが、それが郡山遺跡の第T期官衙で、この説明板に書かれている第U期の官衙は、郡山遺跡が陸奥の国府として機能していた頃のものです。

 

 国府というのは、今でいう県庁所在地のようなもので、陸奥国は今の東北地方の太平洋側の大部分ですので、かなり広大な国ですよね。

 

 ただし、郡山遺跡に国府の機能があった7世紀末から8世紀初頭までは陸奥国の北限、すなわち日本の領地の北限は今の大崎平野辺りまでです。

 

 しかしそうは言っても、やはり広いことには変わりないでしょう。

 

 こちらの図の方がさきほどの航空写真より遺跡の範囲が分かりやすいでしょうか。

 

説明板の地図

写真8 説明板の地図

 

 さきほどの中学校の方が言っていた通り、かなり広い空き地がありますね。

 

この辺は空き地だらけ

写真9 この辺は空き地だらけ

 

 念のため、何か目に見えるものが無いか空き地の中をウロウロしてみますが、なにも見つけられません。

 

 おや、こちらにも説明板がありますよ。

 

U期官衙南側

写真10 U期官衙南側

 

 この場所では南側の材木列が見つかったんですね。

 

説明板

写真11 説明板

 

 ここから北側にU期官衙が拡がっていたわけです。

 

U期官衙跡を見る

写真12 U期官衙跡を見る

 

 多賀城は約1km四方に非常に贅沢な築地塀を構築しましたが、まだ郡山遺跡の段階ではあまり見栄えの良くない、丸太材を立てならべた材木列を壁としていたのです。

 

 しかし、見栄えは良くないかもしれませんが、上の説明板に書かれている通り、6000本もの栗の木を集めてきたのはそれはそれで凄いですね。

 

 ザ・国家権力!

 

 ただ興味深いことに、郡山遺跡の正殿の大きさは桁行8間(17.4m)×梁行5間(10.8m)の全方位に庇がある四面庇付建物でしたが、多賀城の政庁は築城当初が桁行5間×梁行3間の南側のみに庇がある建物で、その後の建て替えによる最盛期でも7間×4間の大きさで(四面庇付建物)で、大きさで郡山遺跡を凌駕することは無かったのです。

 

 別にでかい方が偉いかどうかは分かりませんが、個人的にはとても気になります。

 

 次にU期の北西側角に行ってみましょう。

 

 よし、説明板発見!

 

U期北西コーナー説明板

写真13 U期北西コーナー説明板

 

 この場所が北西側の角なんですね。

 

U期北西コーナー

写真14 U期北西コーナー

 

 そろそろお昼を摂りたいです。

 

 次に向かう北目城跡とは反対方向にマックの看板が見えるので一瞬悩みます。

 

 いや、でもせっかく仙台に来たわけですから、もう少し別な食べ物がないか探す努力をしてみましょう。

 

 というわけで、北目城跡方面へ向かいます。

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『古代の蝦夷と城柵』 熊谷公男 2004年
  • 『日本の遺跡30 多賀城跡』 高倉敏明 2008年
  • 『日本の遺跡35 郡山遺跡』 長島榮一 2009年

 

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