◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

成富兵庫頭茂安碑

最終更新日:2017年11月10日

スポンサードリンク


第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2017年6月17日(土)
天候 晴れ
探訪ルート 【6月17日】
肥前国庁跡 → 肥前国庁跡資料館 → 印鑰神社 → 肥前国分尼寺跡 → 成富兵庫頭茂安碑 → 肥前国分寺跡 → 古代西海道および鍵尼遺跡 → 吉野ヶ里遺跡

【6月18日】
同道者 なし

 

 

 次は国分寺跡を目指しますが、歩いていると右手に土盛が現れました。

 

 え?前方後円墳?

 

 

 なんでしょうか。

 

 でも、公園の名前は「築山児童公園」とあります。

 

 

 一応、上に登ってみます。

 

 

 うーん、なんか微妙。

 

 おや、碑がありますよ。

 

 

 成富兵庫頭茂安って誰だろう。

 

 何しろ佐賀に来たのは初めてなので、誰のことかサッパリ分かりません。

 

 ただ、昔「信長の野望」をプレイしまくっていた記憶から、確か竜造寺の家臣に成富って居た気がします。

 

 しかしこの碑以外に説明板はありません。

 

 結局この築山が何なのかは分からないまま、先へ行きます。

 

 帰宅してから成富茂安について「Wikipedia」で調べました。それを要約すると以下のようになります(内容の信ぴょう性については裏を取っていませんのでご了承ください)。

 

 永禄2年(1559)に龍造寺隆信に仕える信種の次男として生まれ、元服前の12歳のときに許可なく合戦場へ行ってみたり、博打に興じる大変な暴れ者で、あまりにも素行不良の度が過ぎるので一族は隆信に茂安殺害の許可を取りに行きましたが、隆信は「もう少し様子を見て、それでも改まらなかったら私が殺す」と言いました。

 

 それを伝え聞いた茂安は改心して勉学や武芸に励むようになります。

 

 やがて、天正12年(1584)の「沖田畷の戦い」で隆信が戦死したあとも家中で出世をつづけ、また各地の戦場で武功を重ねて行きました。

 

 鍋島藩士となったあとは、慶長15年(1610)以降、筑後川の堤防を工事するなどして水害の防止を講じ、灌漑施設を造り新田を開発し、また上水道を建設するなどして、茂安の手がけた工事は細かい物も入れると100ヶ所を超えるともいわれ、現在でも稼働しているものもあることから、鍋島藩の民政の基礎・基盤を造った人物とされています。

 

 寛永11年(1634)に76歳で死去したときには家臣7人が殉死しました。

 

 ・・・お、なんか凄い人じゃん!

 

<< 戻る

現在地

進む >>

肥前国分尼寺跡

成富兵庫頭茂安碑

肥前国分寺跡

 

 

【参考資料】

  • 現地説明板

 

スポンサードリンク



 

ご意見・ご感想は、稲用章

inayouアットマークa.email.ne.jp

までお願いします。