◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

吉野ヶ里遺跡

最終更新日:2017年11月10日

 

吉野ヶ里遺跡概要
ふりがな よしのがりいせき
住所 佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843(吉野ヶ里公園管理センター)

史跡・文化財指定 特別史跡
史跡名:吉野ヶ里遺跡
指定日:平成2年(1990年)5月19日
追加指定日:平成11年(1999年)7月13日
公式サイト http://www.yoshinogari.jp/

 

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第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2017年6月17日(土)
天候 晴れ
探訪ルート 【6月17日】
肥前国庁跡 → 肥前国庁跡資料館 → 印鑰神社 → 肥前国分尼寺跡 → 成富兵庫頭茂安碑 → 肥前国分寺跡 → 古代西海道および鍵尼遺跡 → 吉野ヶ里遺跡

【6月18日】
同道者 なし

 

 

 当初は肥前の国庁跡を見学した後はすぐに吉野ヶ里遺跡へ向かおうと思っていたのですが、国庁跡近くに見てみたい史跡がいくつかあったため、それらを見学した結果、結構いい時間になってしまいました。

 

 カーナヴィを見ながら吉野ヶ里遺跡へ向かいます。

 

 ところで、このレンタカーのナヴィは、進行方向が常に上になる表示になっているのですが、私は常に北が上になっていないとイヤなのです。

 

 そうじゃないと、土地勘のない場所でいったい自分がどっちの方向へ向かっているか分かりづらいからです(太陽が出ていなければなおさら)。

 

 なので設定を変えようと頑張ったのですが、結局変えることができずそのままです。

 

 次にレンタカーを借りるときは出発時に店員さんに聞いてみようっと。

 

 下道を30分くらい走り、「吉野ヶ里公園西入口」交差点の近くまで来ると、向こうの方に何やら弥生チックな建物が見えます。

 

 

 いや、しかしそれにしても立派な建物だな・・・

 

 ※後で分かったことには、遺跡内でもっとも立派な主祭殿でした

 

 吉野ヶ里遺跡は吉野ヶ里歴史公園になっており、駐車場が複数あるようです。

 

 何しろ初めてなので良く分からないため適当に行くと、公園の正門に一番近い東口駐車場にたどり着きました。

 

 あれ、無料じゃないんだ。

 

 310円徴収されました。

 

 車から降りたら、まずは公園全体の地図を見たいです。

 

 あった。

 

 

 事前に調べた感じではとても広い公園という印象を持っていましたが、これは確かに広いですね。

 

 とてもじゃないですが全部は廻れないと思いますし、ツアー当日の探訪時間も90分間ですので、とくに重要な場所のみ見ようと思います。

 

 この範囲だな。

 

 

 南内郭、北内郭、北墳丘墓、それに展示室。

 

 90分ではこれだけになるでしょう。

 

 では行くよ!

 

 

 吉野ヶ里遺跡があるこの場所は昭和の終わり頃に工業団地を作る計画が持ち上がり、遺跡を調査した後は他の一般的な遺跡と同じように破壊されることになっていました。

 

 ところが、発掘調査をした結果、とんでもなく重要な遺跡であることが分かり、研究者や調査者、そして地元の方々などの努力により破壊を免れることができたのです。

 

 それが決まったのはちょうど時代が昭和から平成になった頃です。

 

 当時はまだバブルですね。

 

 そのせいか、入口周辺の建物はとても豪華です。

 

 入園料を420円支払い、「天の浮橋」で田手川を渡ります。

 

 右手の遠方に立派な建物が見えますね。

 

 

 さきほど道路から見えた建物でしょうか。

 

 

 吉野ヶ里遺跡は、さきほどの全体図を見ていただければ分かる通り、単純な表現をすると、東側を田手川によって護られ、北・西・南に環濠を巡らせています。

 

 そして、その中に環濠で囲まれた南内郭と北内郭と呼ばれる区域を持ち、それ以外にも部分的に環濠で仕切っているのです。

 

 

 まずは最初のゲートへやってきました。

 

 

 こういう謙虚なコメントは好感が持てますね。

 

 

 事実、弥生時代でも縄文時代でも、例えば住居跡は平面プランや柱の跡などは分かりますが、その上にどんな建築物が建っていたのかは分からないのです。

 

 ですから、いろいろな原始時代の集落の遺跡を回っていると、それぞれの復元された方々の考えによって建てられていることが分かります。

 

 なので私たちも鵜呑みにはせず、批判的に見ることも大事ですが、その反面、復元に努力された方々の気持ちを推しはかることも大事じゃないかなと思います。

 

 ところで、弥生時代の環濠集落は中近世の城郭と違って、土塁を外側にして空堀を内側に造ります。

 

 

 ちなみに、弥生時代よりもずっと後の10世紀頃の北東北の防御性集落も同様に土塁が外側なんですよね。

 

 防御の観点からしたら土塁が内側の方が優れていると思いますので、いつの時代か、誰かがそれに気付いたわけです。

 

 環濠の内側には逆茂木が並べられています。

 

 

 逆茂木が並んでいたのは発掘の成果からも分かっているようですね。

 

 

 おや、何かがこちらを見ている・・・

 

 

 鹿だ!

 

 

 猪もいるぞ!

 

 

 私の住む八王子市の高尾でも猪の目撃情報はよく聞きます。

 

 もし猪を害獣だと思っているのなら、食べてしまえばいいと思うのですが、何で流通しないんでしょうかね?

 

 美味しいのに。

 

 南内郭の前に一本切られている堀の前に来ました。

 

 

 しかしその前に、展示室を見学してみましょうか。

 

 

 あー、中は冷房が効いていて涼しい・・・

 

 

 

 次に行こうと思っている南内郭。

 

 

 北内郭はアルファベットの”A”の形をしています。

 

 

 私は昔の人が着た服に興味がありますが、弥生時代の衣装の展示があります。

 

 

 左側が一般人が着た貫頭衣(かんとうい)と呼ばれる服で、麻で作られています。

 

 

 

 右側の上層人の衣装は絹を想定していないようですが、弥生時代にはすでに絹があったことは発掘調査により分かっています。

 

 私はデザインもそうですが、とくに色に興味があるんですよねえ。

 

 現代人の私たちはありとあらゆる色に囲まれて生活していますが、弥生人はいったいどんな色を見て生活していたのでしょうか。

 

 衣装は基本的には白・赤・黒だったようですが、もちろん今ほどではないですが、着物を染めるのでもアクセサリーの類でも、黄色・紫・緑などなど、文字通り色々あったようです。

 

 ちなみに、横浜市のシルク博物館に行くと、各時代の衣装の復元を見ることができて楽しいですよ。

 

 考古展示。

 

 

 甕棺ですね。

 

 

 

 

 おや、こちらの方は首が無いですね。

 

 

 弥生時代は米や財物をめぐって組織的な戦いが始まった時代とされています。

 

 

 

 なお、吉野ヶ里遺跡は中世の遺跡でもあります。

 

 

 では、展示室を出ましょう。

 

 

 南内郭に闖入しますよ。

 

 

 と、その前に説明板を読んでおきましょう。

 

 

 

 

 説明板に書かれている通り、環濠内のさらに環濠内ということなので、南内郭は特別な区域です。

 

 吉野ヶ里のムラは、この地域のムラを束ねる拠点的なムラでしたので、それらを統べる王が存在しました。

 

 その王や「大人(たいじん)」と呼ばれるムラの幹部級の人、そして彼らの家族が住んでいたのがこの南内郭です。

 

 

 

 立派な家は大人の家です。

 

 

 

 お宅拝見。

 

 

 弥生時代の前の縄文時代も同じような竪穴式住居に住んでいたように思えますが、縄文時代はまだ伐採してきた木を加工することはあまりできなかったものの、弥生時代になると木を削る釿(ちょうな)が普及したので、柱や梁をほとんど現代と変わらないように作ることができました。

 

 

 ちなみに、まだ鉋(かんな)はありませんよ。

 

 4基ある櫓のうち、2基は登れるようになっているので登ってみます。

 

 おー、いい景色だ。

 

 

 南の方角には、吉野ヶ里のムラを盟主とあおぐムラが点在しており、こうやって標高の高い位置から睥睨していたわけですね。

 

 

 現在は南南西の方角、約20kmに有明海がありますが、弥生時代はもっと海岸線が内陸にあったはずです。

 

 西側の山地。

 

 

 これから行く北内郭方面を望みます。

 

 

 また下へ降りて、お宅拝見の続きです。

 

 今度は王の妻の家ですぞ。

 

 

 

 「妻の家」ということは、王は奥さんとは別居だったんでしょうか。

 

 さらに柵で囲まれた区画に入ります。

 

 

 今度は王の家ですよ。

 

 

 お邪魔しまーす。

 

 

 おっと、団らん中に失礼しました。

 

 今日はオフのようでラフな格好をしていますが、首飾りは一般人は身につけることはできず権力者の証であります。

 

 王の家は調度品も良いのです。

 

 

 この時代の寝床は土間に敷物を敷いて寝るのでなく、低いベッドのようになっていますね。

 

 

 でもこれはシングルサイズだな。

 

 やっぱり奥さんとは一緒に寝ないのかな。

 

 いや、多分、日本は中世前半までは夫が妻の家に通うのが普通だったので、きっと王がさきほどの妻の家に夜な夜な通っていたのではないでしょうか(勝手な推測でスミマセン)。

 

 

 では、次は北内郭へ行ってみましょう。

 










































 

 

 

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【参考資料】

  • 現地説明板

 

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