◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

確かに城跡はあるが実は謎の城・岡城

最終更新日:2015年10月12日

 

前回の記事はこちら

 

 柊塚古墳を見たら、次は朝霞探訪のメインである岡城跡へ行ってみましょう。

 

 岡城跡には柊塚古墳のページでお話しした通り、2003年11月8日に一度訪れています。

 

 あれから11年以上経って、城跡はどうなっているでしょうか。

 

 

探訪データ
探訪年月日 2015年1月17日(土)
天候 曇り時々晴れ
探訪ルート 柊塚古墳 → 岡城 → 朝霞市博物館 → 滝の城

 

岡城跡概要
ふりがな おかじょう
別名  
住所 埼玉県朝霞市岡3-30

史跡指定  
現況 城山公園
規模/比高 東西約210m×南北約75m/約10m
目で見られる遺構 郭・空堀・土塁
復元 なし
存続時期 戦国期か
城主・城代・関係者 東圓寺の寺伝によれば太田道灌の築城と言うが、『新編武蔵風土記稿』では永禄年間の太田康資の館と考察
城攻めの記録 地元には戦国時代にこの近辺で小競り合いがあり、誰と誰との戦いかは判らないが城兵が近くの坂で討死し、成仏できない兵が夜な夜な現れたという話が残っている
大手方向 西
仮想敵方向  
関連施設 朝霞市博物館

 

意外なところに在原業平伝説が

 

 朝霞第二小学校の南側を回ると、学校の敷地の西側に鳥居がありました。

 

 氷川神社です。

 

氷川神社

写真1 氷川神社

 

 社地に入り、北へ延びる100mばかりの参道を進むと、拝殿が南面していました。

 

氷川神社拝殿

写真2 氷川神社拝殿

 

 『新編武蔵風土記稿』「巻之百三十三 新座郡之五 岡村 東圓寺」によると、創建の年代は不詳ですが、江戸期には岡・根岸・溝沼三村の鎮守で、在原業平が神体でした。

 

 ただし、境内の説明板によると、境内からは鎌倉時代の剣尖紋軒先平瓦が発掘されているそうなので、創建は少なくとも鎌倉期までは遡れそうです。

 

 なお、当地には在原業平の伝承はないそうですが、志木市の柏の城には業平の滞在伝説が残っています。

 

 現在の祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)ですが、考えてみると氷川神社であればスサノオであるのが普通で、かつて業平を祀っていたというのは面白いですね。

 

 『武蔵野歴史地理』によると、岡の隣の溝沼は、八王子城の戦いで奮戦討死した中山勘解由家範の子・勘解由照守が江戸初期に賜りました。

 

 石高は500石でしたが、ある時期(時期不明)、その地は幕府の直轄領となったそうです。

 

 また同書によると、『寛政諸家譜』に照守の第二子・直範が後述する東圓寺に葬られたとありますが、墓地内に墓石は見当たらないということです。

 

 直範に関しては、『新編武蔵風土記稿』の溝沼村の項では「中山屋敷」という旧跡があったことが紹介されており、直範は万治年中にわけあって姫路に配流となりましたが、その後許され、またこの地を賜り戻ってきました。

 

諸君、肥満はいかんよ!

 

 氷川神社を出て、さらに北へ進むと、下り坂となっており、前方に岡城跡が見えてきました。

 

岡城跡

写真3 岡城跡

 

 岡城跡は、現在は城山公園になっています。

 

 公園に入ると・・・

 

 あっ、猫!

 

猫

写真4 猫

 

 こっちにもいる!

 

2匹目

写真5 2匹目

 

 お、いい面構え。

 

鋭い眼光

写真6 鋭い眼光

 

 城を守る猫にふさわしい表情でよろしい。

 

 尻。

 

尻

写真7 尻

 

 しかしながら・・・

 

 苦言を一言。

 

 猫は太っちゃいかんよ!

 

皆、太っている

写真8 皆、太っている

 

 なんか、10年前の自分を見ているようだ・・・

 

 まあでも、近隣の人が沢山エサをあげているみたいなので、仕方がないですね。

 

 こういう、家で飼われるわけでもなく、純粋な野良でもない生活って一番快適そうですね。

 

 さて、しばらく猫と遊んだ後は、いよいよ城内へ突入したいですが、その前にいつものごとく、「余湖くんのホームページ」から余湖図を拝借いたします。

 

余湖図

図1 余湖図

 

 こんな感じで、破壊から免れて公園として残っているのは、本曲輪、二の曲輪、三の曲輪の3つです。

 

 そしてもう一つ、岡城周辺の地形を知っていただくために、今昔マップ on the webから明治39年測図の地形図を示します。

 

明治39年測図の地形図

図2 明治39年測図の地形図

 

 上図の通り、岡城のある場所は舌状台地の先端部分で、西側の尾根がくびれており、その名の通り「岡」のような地形の上にあります。

 

 なのでこのあたりは近世では岡村と呼ばれていましたが、「岡」という地名がいつまで遡るかは分かりません。

 

 岡と言っても、比高は10mほどです。

 

 麓からは何本か登り口が付いており、本曲輪の南東側から登ってみます。

 

南東側登り口

写真9 南東側登り口

 

 この道は当然ながら往時はありません。

 

 城跡に行ったときに、本曲輪(主郭)に直に登れる道があったら、絶対に往時の道ではありませんよ。

 

 城の中核部に一気に行けるということは絶対にあり得ないからです。

 

 さて、登るとまずは帯曲輪のような平場に着きますが、これは各曲輪間の空堀とつながっています。

 

 さらに一段登ると、本曲輪です。

 

本曲輪

写真10 本曲輪

 

 比高10mと言っても、やはりここから黒目川の方面を見ると、眺望は申し分ないですね。

 

黒目川方面の眺望

写真11 黒目川方面の眺望

 

 本曲輪の周りは土塁で囲まれています。

 

土塁

写真12 土塁

 

 南側は土塁が突出しており、櫓台と考えられる高まりがあります。

 

透き通った知人の肉体

 

 実は、この櫓台には奇妙な思い出があるのです。

 

 前回来たときに櫓台の写真を撮ったときは、たまたま同行した知人が写り込んでいました。

 

 ところが恐ろしいことに、知人の姿は透けてしまっていて、下半身は完全に写っていませんでした。

 

 もちろん縁起が悪いので当時はそれを知人には伝えていません。

 

 彼は当時から体調が悪かったみたいなので、「気」がかなり衰えていた結果、そういう写真に仕上がったのだと思います。

 

 フィルムカメラのときはたまに変な写真ができてきましたが、デジカメでもそういうことってあるんですね。

 

構造上の謎

 

 それでは、二の曲輪へ行ってみましょう。

 

 木橋の上から空堀の北側を眺めます。

 

本曲輪と二の曲輪の間の空堀

写真13 本曲輪と二の曲輪の間の空堀

 

 上の写真の左側には二の曲輪の北東側の角が写っていますが、この部分は非常にエッジが効いていて綺麗に成形されています。

 

 おそらく往時も綺麗に作ったものと考えられます。

 

 南側を眺めます。

 

本曲輪と二の曲輪の間の空堀

写真14 本曲輪と二の曲輪の間の空堀

 

 かなり浅くなっていますね。

 

 余湖図でも分かる通り、きちんと「折り」がついています。

 

 そして、二の曲輪。

 

二の曲輪

写真15 二の曲輪

 

 本曲輪よりも広く、面積は2倍くらいありそうです。

 

 『中世城郭の研究』によると、南北は15〜55m、東西は41〜85mの規模で、二の曲輪内を二分する空堀があると記されていますが、現在では痕跡がありません。

 

 

 北側には帯曲輪状の平場があり、その先は現在の道路まで斜面となっています。

 

帯曲輪

写真16 帯曲輪

 

 曲輪の形もうまく屈曲させ、防御力を高めています。

 

屈曲のある輪郭

写真17 屈曲のある輪郭

 

 ではもう一度、本曲輪方向へ戻り、本曲輪と二の曲輪の間の空堀に降りてみましょう。

 

 現在の木橋です。

 

現在の木橋

写真18 現在の木橋

 

 右が本曲輪、左が二の曲輪で、若干高低差があるのが分かりますね。

 

 現状見ると、本曲輪と二の曲輪はどのように連絡されていたのか分からないのですが、中田先生は『埼玉の古城址』で、木橋によって連絡していたと想定しています。

 

 

岡城跡

写真19 

 

 堀底を歩き、二の曲輪の南側から西側へ回ります。

 

 そして二の曲輪と三の曲輪との間の空堀に入って、ふと気付いたのは、空堀に折りがある場合、堀底を歩いていると正面が壁に見えてしまうことです。

 

堀底を歩く

写真20 堀底を歩く

 

 城を攻めた兵は堀底を移動して登り口を探しますが、当然ながら「城跡案内図」は持っていないので、KKD(経験・勘・度胸)で進むはずです。

 

 上の写真は堀が右側に屈曲しているのですが、正面から見ると、右や左に堀が続いているようには見えず、堀が行き止まりになっているように見えてしまいます。

 

 これは攻撃側としてみたらイヤな仕掛けですね。

 

 一般的に言われる「横矢」の効用以外にも、敵兵を惑わせる役目も「折り」がついた空堀にあることを知って、何か新鮮な気持ちです。

 

 それでは最後の曲輪、三の曲輪へ行ってみましょう。

 

三の曲輪

写真21 三の曲輪

 

 梅沢太久夫氏は、『城郭資料集成 中世北武蔵の城』の中で、一般的に三の曲輪と呼ばれている平場には名称を付けておらず、西側の公園入口の部分を「3の郭」としています。

 

 

 確かに、三の曲輪と呼ばれている曲輪は、小机城の東西の曲輪の間にある「馬出郭」に似ている感じがしますね。

 

 ただし、二の曲輪との間は土橋で連絡した形跡はないので、往時はやはり木橋だったのでしょう。

 

写真22 三の曲輪から二の曲輪を見る

 

 上の写真の通り、三の曲輪から二の曲輪を見ると、二の曲輪が若干高いのが分かります。

 

 梅沢氏が「3の郭」とする、現在の公園西側入口です。

 

公園西側入口

写真23 公園西側入口

 

 『城郭資料集成 中世北武蔵の城』によると、かつては東西60m、南北10〜20mの規模があったそうです。

 

 上の写真でもわかる通り、左手の家が建つところは一段低いですね。

 

 それに対し、道路の右側は高くなっているのが分かると思います。

 

 右側の方面が往時は台地続きになっていて、現在は本仙寺があるのですが、そことの間に往時は台地を分断する堀があったはずです。

 

 西側の公園入口。

 

公園西側入口

写真24 公園西側入口

 

 当日歩いてみて不思議だったのは、大手の位置が分からないことでしたが、帰宅後『城郭資料集成 中世北武蔵の城』を見てみると、本曲輪の北側に虎口があるとのことです(見落としました!)。

 

 虎口を出ると本曲輪東側の帯曲輪を巻いて行き、南の櫓台の下を通って、西側の空堀につながっています。

 

 ということは、やはり大手は西側で、主要な曲輪の一段下の帯曲輪が通路となっており、上では本曲輪と二の曲輪との間は木橋で連絡していたという説を紹介しましたが、木橋はなかった可能性が高いですね。

 

岡城は誰の城か?

 

 このあとは、東圓寺を訪れる予定ですが、『新編武蔵風土記稿』が引く東圓寺の寺伝によれば、もともと現在地より東側の不動坂の西に、12間四面の薬師堂とその別当寺が5宇あったのが廃れてしまい、寛弘年間(985〜1011)に法印永慶が中興し、薬師仏を本尊としてきましたが、またもや廃れてしまっていたところ、太田道灌が岡城を築城したときに、薬師仏を城内の持仏堂へ移してしまったそうです。

 

 ところが、道灌は夢のお告げによって、薬師仏をお寺に戻したと言います。

 

 このように寺伝では岡城は道灌が築いたことになっていますが、この話は東圓寺の寺伝以外には出てこないので、『風土記稿』の著者は、寺伝を紹介した後で自論を述べています。

 

 すなわち、道灌の曾孫にあたる太田康資が永禄年間(1558〜70)に近郷を所領していることから、康資が築城したのを道灌に結び付けたのではないかという考察です。

 

 果たして岡城は、誰が築いた城なんでしょうか?

 

 それを考える上で、まず岡城周辺の地図をご覧ください。

 

岡城周辺の城郭配置図

図3 岡城周辺の城郭配置図

 

 ※クリックすると拡大表示します

 

 ポチポチと、武蔵野台地の北東崖部分には、ほぼ等間隔で城郭が築かれています。

 

 上図には出てきませんが、岡城の南東約20kmの地点には江戸城があり、北西約16kmの地点に河越城があり、両城は関東の戦国時代の幕開けといわれている享徳の乱が勃発して間もなくの長禄元年(1457)に築かれたとされています。

 

 それらは扇谷上杉氏の2大拠点となったわけですが、その2城を結ぶ街道沿いに上の城郭が位置しています。

 

 ただ、上に書かれている城郭が長禄のころにすべてあったかというとそうではありません。

 

 上の城郭のうち、志木市の柏の城(引又城)は、山内上杉氏の重臣である大石の居城と伝わり、「総論 武蔵大石氏の系譜と動向」(『論集戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』所収)によれば、15世紀後半の時点では大石氏当主の定重が居城していた可能性が高いです。

 

 

 大石氏の所領は図の南西方向に延びており、柏の城のある台地は山内上杉家の勢力範囲ですので、扇谷上杉氏としてみれば、普通に台地上の街道を使って江戸と河越を往来しようとしたら、親戚とは言え他家の所領を通過しなければならなくなります。

 

 太田道灌の時代は、扇谷と山内は同盟関係にあり、ともに古河公方と戦っていましたので、岡城の位置は軍事上ではそれほど重要ではなく、もし道灌が築城したとしたら江戸城と河越城を結ぶ中間地点の拠点として築城した可能性があります。

 

 ただ、その可能性は低そうで、東圓寺の寺伝に道灌が出てくるのは、やはりスーパースター道灌に結び付けたいお寺の気持ちの表れではないかと思います。

 

 なお、岡城の南西約2.7kmの地点には、その頃すでに膝折宿がありました。

 

 「太田道灌状」(『【図説】太田道灌』に口語訳が掲載されています)によれば、道灌は文明10年(1478)正月24日、河越城に到着し、豊島氏が江戸城を攻めるために構築した平塚城を排除するために翌日出陣し、膝折宿に陣を張ったことが分かります(ちなみに、平塚城は道灌が攻めるまでもなく、その日の朝には自落していました)。

 

 

 また、京都の聖護院門跡道興准后(どうこうじゅごう)が、文明18年(1486)6月から翌年正月にかけて東日本を旅した様子を記録した『廻国雑記』によると、「ひさおり」という里に市があったことが分かります。

 

 このように膝折宿はすでにあったわけですが、岡城をそれと結びつけるのは難しい気がします。

 

 そうすると、次に扇谷上杉氏と山内上杉氏が抗争した長享の乱(長享元年<1487>〜永正2年<1505年>)のときに築城された可能性が考えられます。

 

 既述の通り、河越城と江戸城の間には山内上杉氏重臣の大石氏の所領が入りこんで分断しています。

 

 そして柏の城という大石氏の拠点があるので、それに対抗する意味で岡城を築城した可能性は高いです。

 

 ただし、長享の乱は道灌死後に勃発した争乱ですのでもちろん道灌はおらず、『風土記稿』の著者が考察している康資はまだ生まれていないので、道灌の子供の世代の誰かによる築城と考えられ、しかも太田氏の人物であるとは限りません。

 

 「岩付太田氏と難波田城」(『論集戦国大名と国衆12 岩付太田氏』所収)によれば、永禄4年(1561)の頃には、上図にある難波田城が岩付太田氏の支配下にあります。

 

 

 その頃の岩付太田氏の当主は太田道灌の甥の息子である可能性が高い資頼で、彼が岩付太田氏の初代とされています。

 

 岩付太田氏が北条氏と敵対していたときに、難波田城の至近にある岡城がどのような働きをしたのかはまったく分かっていません。

 

 『風土記稿』を読んでいて一つ気付いたのですが、岡城の中心は「二条」という字名で呼ばれていて、八王子市下恩方の浄福寺城もやはり「新城(にじょう)」と呼ばれているので、この「にじょう」という言葉には何か共通の意味が潜んでいそうです。

 

 さらに、岡城の南東1km強(旧台村)のところに、地元の人が城山と呼ぶ場所があります。

 

 そちらもやはり舌状台地の先端部分ですが、『武蔵野歴史地理』によると、遺構はないそうで、『風土記稿』には記載はないです。

 

 それでは次は、東圓寺に参詣したあと、朝霞市博物館へ行ってみましょう。

 

 

つづきの記事はこちら

 

【参考資料】

  • 『新編武蔵風土記稿』「巻之百三十三 新座郡之五 野方領 岡村 古跡城跡」 昌平坂学問所/編 1830年
    ↑クリックすると「国立国会図書館デジタルコレクション」の当該ページへリンクします
  • 『武蔵野歴史地理 第七冊』 高橋源一郎/著 有峰書店 1972年(原著は昭和3年<1928>)
  • 中世城郭の研究』 小室栄一/著 人物往来社 1965年
  • 『小田原衆所領役帳』 杉山博/校訂 近藤出版社 1969年
  • 日本城郭大系5 埼玉・東京』 柳田敏司ほか/著 新人物往来社 1979年
  • 『埼玉の古城址』 中田正光/著 有峰書店新社 2001年(初版は1983年)
  • 『城郭資料集成 中世北武蔵の城』 梅沢太久夫/著 岩田書院 2003年
  • 『【図説】太田道灌』 黒田基樹/著 岩田書院 2009年
  • 『論集戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』 黒田基樹/編 岩田書院 2010年
  • 『論集戦国大名と国衆12 岩付太田氏』 黒田基樹/編 岩田書院 2013年
  • 『戦国史研究叢書11 後北条氏の武蔵支配と地域領主』 井上恵一/著 岩田書院 2014年
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