◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

埼玉の「王」の矜持を感じる日本最大の円墳・丸墓山古墳/埼玉古墳群

最終更新日:2016年2月13日

 

 前回の記事はこちら

 

 大日塚古墳で本日のファースト古墳と出会った後は、念願のさきたま古墳群を探訪します。

 

 実はあまり事前に調べてきていないので、行き当たりばったりで行きますよ!

 

丸墓山古墳諸元

 

概要

 

ふりがな まるはかやまこふん
住所 埼玉県行田市埼玉4834(さきたま史跡の博物館所在地)

交通 JR行田駅から市内循環バス「観光拠点循環コース」、埼玉古墳公園前下車、徒歩すぐ

・左回り(乗車時間約15分) 9:05発 12:50発 15:15発
・右回り(乗車時間約40分) 7:50発 10:40発 14:05発
※時刻表は2016年2月11日時点です。変更されれる場合がありますので探訪する場合は事前にご確認ください
※市内循環バス以外にもバスがありますので、埼玉県立さきたま史跡の博物館のWebサイトでご確認ください

史跡指定 国指定史跡
正式名称:埼玉古墳群
指定日:昭和13年(1938)8月8日
現況 さきたま古墳公園
築造時期 6世紀前半ごろ(現地説明板)
6世紀第2四半期初頭(『埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾』)
関連施設 埼玉県立さきたま史跡の博物館

 

墳丘

 

形状 前方後円墳 前方後方墳 円墳 方墳 八角墳 上円下方墳
築成 1段 2段 3段 4段 5段
規模 径約105m(現地説明板)
墳丘高 約19m(埼玉古墳群で最も高い)
葺石 あり(ただし全面は覆われていなかった可能性がある) なし 不明
埴輪 あり なし 不明
登頂 可能 不可能
陪塚 あり なし 不明

 

埋葬主体

 

 発掘調査がされておらず不明

 

周溝

 

構造 一重 二重 三重 不明
約37m
残存もしくは形跡 全部あり 一部あり なし
遺物 円筒埴輪片、朝顔形埴輪片、形象埴輪片(人物・楯・大刀・靱・馬など)、土師器、須恵器
周溝を含めた最大長 径約180m

 

スポンサードリンク


第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2015年3月14日(土)
天候 曇り時々晴れ
探訪ルート 忍諏訪神社・東照宮 → 行田市郷土博物館 → 忍城 → 高源寺 → 妙音寺 → 大日塚古墳 → 丸墓山古墳 → 稲荷山古墳 → 将軍山古墳 → 将軍山古墳展示館 → 二子山古墳 → 愛宕山古墳 → 瓦塚古墳 → さきたま史跡の博物館 → 奥の山古墳 → 鉄砲山古墳 → 前玉神社および浅間塚古墳
同道者 なし

 

なんだこのでかい円墳は!!

 

 目の前に現れた忍川を渡ると、いよいよ埼玉古墳群のあるさきたま古墳公園です。

 

忍川

写真1 忍川

 

 ようやくたどりつきました!

 

さきたま古墳公園

写真2 さきたま古墳公園

 

 時刻は12時10分、見学できる時間は1時間くらいしかありません。

 

 おや、遠くに丘のような緑の塊が・・・

 

遠くに丘のようなものが見える

写真3 遠くに丘のようなものが見える

 

 きっとあれが丸墓山古墳に違いありません。

 

 でか過ぎる・・・

 

 公園の案内図を発見。

 

公園の案内図

写真4 公園の案内図

 

 それでは最初はあのでっかい円墳から見てやろうじゃないか!

 

丸墓山古墳

写真5 丸墓山古墳

 

 カメラに収まり切れないくらいに接近したぞ。

 

丸墓山古墳に近接

写真6 丸墓山古墳に近接

 

 説明板発見。

 

丸墓山古墳説明板

写真7 丸墓山古墳説明板

 

 丸墓山古墳はご覧の通り、直径が105mもある円墳で、日本で一番大きい円墳なのです。

 

 ではここで、埼玉古墳群の全体像について解説します。

 

 さきほどは公園案内図をお見せしましたが、さきたま史跡の博物館の中に航空写真がありますので、そちらを元に説明します。

 

 

 写真の中には古墳の名前が10個書かれていますが、そのうちの浅間塚古墳は「さきたま古墳公園」の範囲外、すなわち国史跡の指定外になっています。

 

 しかし同時に見学もできることから浅間塚古墳を含めた10基の古墳を古い順から一覧します。

 

名前

形状

主軸長

築造年代

稲荷山古墳 前方後円墳 120m 5世紀後半
二子山古墳 前方後円墳 138m 6世紀初め頃
丸墓山古墳 円墳 105m 6世紀前半頃
瓦塚古墳 前方後円墳 73m 6世紀前半から半ば
奥の山古墳 前方後円墳 66m 6世紀半ば
将軍山古墳 前方後円墳 90m 6世紀後半
愛宕山古墳 前方後円墳 53m 6世紀後半
鉄砲山古墳 前方後円墳 109m 6世紀後半
中の山古墳 前方後円墳 79m 6世紀末
浅間塚古墳 円墳 58m 7世紀前半

 

 現在墳丘を見ることのできる古墳は上の表の10基で、うち8基が前方後円墳ですが、かつては大人塚(うしづか)古墳という前方後円墳や方墳1基、円墳約40基が存在し、往時は50基くらいからなる古墳群だったと考えられています。

 

 また、『シリーズ「遺跡を学ぶ」016 鉄剣銘一一五文字の謎に迫る 埼玉古墳群』では、埼玉古墳群の北北東300mにある、円墳約10基からなる白山古墳群は、現在両古墳群を隔てている忍川が往時は無かったことから埼玉古墳群の内としてとらえていますが、大型前方後円墳がある若王子古墳群は、埼玉古墳群の前方後円墳と主軸方向がまったく違い、両古墳群の間は地形的にも台地が切れていることから、別個の古墳群としています。

 

 さて、古墳時代の初めの頃(3〜4世紀)にはこの地には古墳がありませんでしたが、5世紀後半になって突如、大型前方後円墳である稲荷山古墳が築かれます。

 

 当時はまだ「武蔵国」という行政区画はありませんが、後に武蔵国と呼ばれる地域全体の中で最も強大な勢力を誇る「地域王」の墓域が稲荷山古墳を嚆矢として形成され始め、古墳時代が終わる7世紀まで、その子孫の墓が営まれ続きます。

 

 ただし上記の古墳が一系統だったわけではなく、『ワカタケル大王とその時代 埼玉稲荷山古墳』では、上記の古墳は2系統に分かれ、首長墓の系列(宗主系列)は、稲荷山(120)→二子山(138)→鉄砲山(109)→浅間塚(58)→戸場口山(42)とし(カッコ内は墳丘長)、もう一つの系統が、瓦塚(73)→奥の山(66)→将軍山(90)→中の山(79)としています。

 

 また、『シリーズ「遺跡を学ぶ」016 鉄剣銘一一五文字の謎に迫る 埼玉古墳群』では、首長の系列が稲荷山(120)→二子山(138)→鉄砲山(109)→将軍山(90)→中の山(79)で、もう一つの系統が瓦塚(73)→奥の山(66)→愛宕山(53)としています。

 

 この2通りの考えのどちらが正しいかは、皆さんそれぞれ探究するとして、最大の問題点は、丸墓山古墳の扱いについてです。

 

 丸墓山古墳は円墳としては日本一の巨大さで、使用した土の量は古墳群最長の二子山古墳よりも多いとされ、そのスケールからすると首長の墓として申し分ないのですが、前方後円墳よりもランクの下がる円墳にしている点が謎なのです。

 

 丸墓山古墳の地位に関しては昔から多くの研究者が様々な考えを述べていますが、いまだに定説のようなものは存在しません。

 

丸墓山古墳

写真8 丸墓山古墳

 

 『ワカタケル大王とその時代 埼玉稲荷山古墳』によると、1968年に撮影された空中写真では、丸墓山古墳の南西側に細く白い方形のラインが確認されたことから、その当時は柄鏡形の前方後円墳だと想定されていました。

 

 では、墳頂に登りましょう。

 

墳頂

写真9 墳頂

 

 墳頂から北西方面を眺めると・・・

 

墳頂から北西方面を眺める

写真10 墳頂から北西方面を眺める

 

 お、ありましたぞ!

 

 忍城の復元三階櫓が!

 

忍城の復元三階櫓

写真11 忍城の復元三階櫓

 

 映画「のぼうの城」をご覧になった方はご存じかと思いますが、天正18年(1590)に忍城を攻めた石田三成はここに本陣を構えたのですね。

 

 でも実はここに本陣を構えたのは三成だけではなく、永禄2年(1559)には長尾景虎(後の上杉謙信)もここに本陣を構えて忍城を睨みつけたのです。

 

 そのときは忍城主成田長泰の方から講和を提案して、両者は仲直りしました。

 

 忍城の御三階櫓の復元に関しては面倒くさいことを言うマニアの人もいますが、こうやって丸墓山古墳の墳頂から見る際に分かりやすい目印になりますので、これはこれで良いと思います。

 

 見下すと古墳のサイズに見合った幅の広い周溝跡が。

 

周溝跡

写真12 周溝跡

 

 周溝は往時は当然ながらぐるっと一周していたわけですが、現在整備されている周溝跡は全周していません。

 

 古墳群の配置図を見ると、丸墓山古墳の西側から北側にかけての周溝がある位置には川が流れていますね。

 

 『ワカタケル大王とその時代 埼玉稲荷山古墳』によると、この旧忍川は近世初頭に忍城の水抜きのために人工的に開削された川だと考えられるそうです。

 

 東南方向には古墳群で最大規模の二子山古墳が見えます。

 

丸墓山古墳の墳頂から二子山古墳を眺める

写真13 丸墓山古墳の墳頂から二子山古墳を眺める

 

 東方向には有名な金錯銘鉄剣が出た稲荷山古墳。

 

丸墓山古墳の墳頂から稲荷山古墳を眺める

写真14 丸墓山古墳の墳頂から稲荷山古墳を眺める

 

 そして同じく東側の南寄りには将軍山古墳が。

 

丸墓山古墳の墳頂から将軍山古墳を眺める

写真15 丸墓山古墳の墳頂から将軍山古墳を眺める

 

 両者を一緒に画面に収めることも可能です。

 

古墳ツーショット

写真16 古墳ツーショット

 

 いやー、楽しい〜。

 

 さきたま古墳群は既述した通り、今まで古墳が無かった地域に突如として大型前方後円墳である稲荷山古墳が築かれます。

 

 そしてそれ以降、埼玉地方の歴代の王墓が築かれるのですが、どういうわけかこの丸墓山古墳だけ大型古墳の中で唯一円墳なのです。

 

 なぜ円墳なのか?

 

 これは非常に面白いテーマで、私の想像ではこの時期だけ、ヤマトから何らかの規制が掛かったのではないかと思っています。

 

 おそらく、このときのサキタマの「王」は、ヤマトに対して可愛くない行動を取ったのではないでしょうか。

 

 そのため前方後円墳の築造が許可されず、円墳になってしまったと推測できますが、そのときの王(もしくはその後継者)は、円墳にするにしても自らの権力の強大さを誇示するために日本一(もちろん当時は日本という国もありませんし、これが列島で一番大きいかどうかは分からなかったはずですが)の円墳を築いたのではないかと考えるのです。

 

 サキタマの王の矜持(プライド)です。

 

 そしてきっと、丸墓山古墳が築造された後、ヤマトからやってきた官人はこの大きさに度肝を抜かれたと思います。

 

 それはまさしくサキタマの王の予想通りの展開ですね。

 

 してやったり・・・

 

 なんて、いろいろ想像を巡らすのはとても楽しいです。

 

 本当はもっと墳頂で思索をめぐらせたり、眺めを堪能したりしたいのですが、時間が無いので下に降りましょう。

 

 古墳は3段に築成されており、今でも段差が分かります。

 

3段築成

写真16 3段築成

 

 葦原の向こうには稲荷山古墳が横たわっています。

 

稲荷山古墳

写真17 稲荷山古墳

 

 次はあの稲荷山古墳に行きますぞ!

 

 次回の記事はこちら

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『新編武蔵風土記稿』「巻之二百十六 埼玉郡之十八 忍領 埼玉村」 昌平坂学問所/編 1830年
    ↑クリックすると国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページへリンクします
  • 『ワカタケル大王とその時代 埼玉稲荷山古墳』 小川良祐・狩野久・吉村武彦/著 2003年
  • 『埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾』 塩野博/著 2004年
  • 『シリーズ「遺跡を学ぶ」016 鉄剣銘一一五文字の謎に迫る 埼玉古墳群』 高橋一夫/著 2005年
  • 『季刊考古学・別冊15 武蔵と相模の古墳』 広瀬和雄・池上悟/著 2007年
  • 『シリーズ「遺跡を学ぶ」073 東日本最大級の埴輪工房 生出塚埴輪窯』 高田大輔/著 2010年
  • 『ガイドブック さきたま』 埼玉県立さきたま史跡の博物館/編 2015年
スポンサードリンク



 

ご意見・ご感想は、稲用章

inayouアットマークa.email.ne.jp

までお願いします。

 




関連ページ

稲荷山古墳
埼玉の地に突如現れた大型前方後円墳。
稲荷山古墳の登場は、武蔵国内の最大勢力が5世紀後半に多摩川下流から埼玉の地へ移ったことを示しています。
二子山古墳
瓦塚古墳
奥の山古墳
将軍山古墳
鉄砲山古墳
愛宕山古墳
大日塚古墳
前玉神社および浅間塚古墳
忍諏訪神社・東照宮
忍城
忍城は戦国初期に成田氏によって築城された城で、湖の中に浮かぶ島のような縄張になっています。
天正18年の豊臣政権による小田原攻めの際にも最後まで落城を免れた難攻不落の城です。
高源寺
妙音寺
将軍山古墳展示館
さきたま史跡の博物館
行田市郷土博物館