◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

国宝・金錯銘鉄剣を見ることができる埼玉県立さきたま史跡の博物館

最終更新日:2016年2月13日

 

埼玉県立さきたま史跡の博物館概要

 

ふりがな さいたまけんりつさきたましせきのはくぶつかん
住所 埼玉県行田市埼玉4834

交通 JR行田駅から市内循環バス「観光拠点循環コース」、埼玉古墳公園前下車、徒歩すぐ

・左回り(乗車時間約15分) 9:05発 12:50発 15:15発
・右回り(乗車時間約40分) 7:50発 10:40発 14:05発
※時刻表は2016年2月11日時点です。変更されれる場合がありますので探訪する場合は事前にご確認ください
※市内循環バス以外にもバスがありますので、埼玉県立さきたま史跡の博物館のWebサイトでご確認ください

公式Webサイト http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/

 

スポンサードリンク


第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2015年3月14日(土)
天候 曇り時々晴れ
探訪ルート 忍諏訪神社・東照宮 → 行田市郷土博物館 → 忍城 → 高源寺 → 妙音寺 → 大日塚古墳 → 丸墓山古墳 → 稲荷山古墳 → 将軍山古墳 → 将軍山古墳展示館 → 二子山古墳 → 愛宕山古墳 → 瓦塚古墳 → さきたま史跡の博物館 → 奥の山古墳 → 鉄砲山古墳 → 前玉神社および浅間塚古墳
同道者 なし

 

東国の古墳時代について理解を深める

 

 そもそも今日は、「さきたま講座」で若狭徹先生の講演があるということで、それとともに古墳を見て、さらに欲張りなことに忍城なんかも見ちゃおうということでここ行田にやってきたわけです。

 

 時刻はもう13時を過ぎています。

 

 講演の開始は13時半なので急ぎましょう。

 

 建物の外観をちゃんと撮る暇もなく入館します。

 

埼玉県立さきたま史跡の博物館

写真1 埼玉県立さきたま史跡の博物館

 

 展示は後からしっかり見ますよ。

 

 まずは若狭徹先生の講演です。

 

 13時10分に会場に着いたらすでに満員に近いです。

 

 私は大体講演を聴きに行く時は早めに会場入りして、前の方で良い席を見つけて座るのですが、今日はとりあえず後ろの方の席が空いていただけでもラッキーとしましょう。

 

 100人くらいの聴講者がいますが、やはり古墳時代という設定なのか、女性の聴講者はほとんどいないですね。

 

 これがお城関係だと結構女の子がたくさん集まるんですよ。

 

 あ、女の子と言っても私の母くらいの年齢の方が多いですが。

 

 お題は「保渡田古墳群と埼玉稲荷山古墳」です。

 

 群馬県高崎市の保渡田古墳群には2年前に見学に行き、井出二子山古墳八幡塚古墳を見ていますが、きれいに復元されており、すごく楽しかったです。

 

 今回の講座の良いところは、先生の話はもちろんなんですが、A3の紙9ページに今日のパワーポイントを印刷してくれていて、さらに同じくA3用紙5ページに図や表などの資料をビッシリと詰めて配布してくれたことです。

 

 こういうのはとてもありがたいですね。

 

 さて、楽しい講演はあっという間に終わってしまったので、次は楽しみにしていた館内の見学をしましょう。

 

埴輪を堪能

 

 時刻は15時半です。

 

 まずは散々見ていただきましたが、埼玉古墳群の航空写真から。

 

埼玉古墳群航空写真

写真2 埼玉古墳群航空写真

 

 私はこういう前方後円墳が同じ方向に向かって林立しているのを見ると、艦隊が航行している様子を想像してしまうのです。

 

 空母や戦艦が巡洋艦や駆逐艦を従えて敵国(敢えて具体的な敵国名は申し上げませんが)に向けて進撃しているように見えます。

 

 あ、見えませんか?

 

 古墳の埋葬主体は舟の形に作ることがありますので、古代人も死にたいして航海のイメージを持っていたことは確かですし、そもそも4万年も前に日本にやってきた我々の先祖は舟に乗って大陸から渡って来たんですよ。

 

 話を戻して館内の見学をします。

 

 まずはやはり古墳と言えば埴輪ですね。

 

 稲荷山古墳から出土した円筒埴輪。

 

稲荷山古墳出土の円筒埴輪

写真3 稲荷山古墳出土の円筒埴輪

 

 こちらも同じく稲荷山古墳出土の円筒埴輪。

 

稲荷山古墳出土の円筒埴輪

写真4 稲荷山古墳出土の円筒埴輪

 

 上の2枚の写真を見比べていただくと分かりますが、色味が違いますよね。

 

 これは材料とした土の違いによるものなのですが、イコール産地が違ったということになります。

 

 つまり、稲荷山古墳の埴輪を焼いた窯は複数箇所にあったということなんですね。

 

 ところで、埴輪というと「はに丸」で代表されるような人の形をしたものを想像する人が多いと思います。

 

 でも上の何か良く分からないデザインの物も埴輪なんです。

 

 円筒埴輪は先ほど見た復元された将軍山古墳を見ればわかる通り、墳丘の縁のところに隙間なくズラーッと立て並べたんです。

 

 埴輪を並べる理由に関しては諸説ありますが、普通に考えて見栄えが良くなるので良いアイデアだと思います。

 

 では「はに丸」、行きます。

 

人物形形象埴輪

写真5 人物形形象埴輪

 

 これらは稲荷山古墳の中堤張り出し付近から出土した埴輪で、葬送儀礼に関わる埴輪だということですが、一部分ばかりですね。

 

 でもこっちは違います。

 

人物形形象埴輪

写真6 人物形形象埴輪

 

 左から2番目以外は瓦塚古墳から出土した埴輪と表示されています。

 

 いちばん左は楯を持っている様子をデザイン化したもので、その右は短甲という鎧を着た武人、ついで捧げ物をする女性で、最後が琴を弾く男性です。

 

 琴を弾くというと女性のイメージがあるかもしれませんが、心霊マニアの方ならご存知の通り、霊を下す時は審神者(さにわ)と呼ばれる男性が琴を弾いて女性の巫女に霊を下し、霊の発言を聴きます。

 

 ところで、はに丸は、形象埴輪という括りのうちの人物埴輪と称されるもので、形象埴輪には他には、はに丸のお伴をしている「ひんべえ」に代表される馬などの動物や家、さらには舟などがあります。

 

 あ、ひんべえもいる。

 

馬形形象埴輪

写真7 馬形形象埴輪

 

 家の埴輪はこんな感じで当時の住居の様子が良く分かる貴重な資料にもなります。

 

家形形象埴輪と楯形埴輪

写真8 家形形象埴輪と楯形埴輪

 

 上のは瓦塚古墳から出土した埴輪で横に並んでいるのは楯を表現した埴輪ですね。

 

 こちらは稲荷山古墳から出土した家形埴輪と人物埴輪です。

 

家形埴輪と人物形埴輪

写真9 家形埴輪と人物形埴輪

 

 人物埴輪について、『古代を考える 東国と大和王権』所収「人物埴輪の伝播と河内」(金井塚良一著)を元に簡単にまとめてみます。

 

 東日本では5世紀第3四半期にはすでに人物埴輪が現れているのですが、人物埴輪を用いた葬送儀礼が確立したのは、稲荷山古墳の築造時期、すなわち5世紀第4四半期です。

 

 古墳の一部分にたくさんの人物埴輪を並べて、それらは一連のストーリーに則って配置されており、各部分の埴輪の配置がストーリーの一場面を表現しているのです。

 

 具体的にどういうふうに並べていたのかは、群馬県高崎市の保渡田八幡塚古墳がちょうど稲荷山古墳と同時期の古墳で、その様子が再現されており参考になりますよ。

 

 人物埴輪は当初、手足が表現されていない造形のものが5世紀第2四半期に北九州と畿内で各々発生していることから、同時期に畿内と北九州がそれぞれ大陸からこの文化を別個に輸入したと考えられます。

 

 それが5世紀第3四半期になると、きちんと人間の形をした造形の物が河内地方(大阪府)に集中して現れますので、関東の有力者はそれをいち早く自分たちの古墳作りに取り入れたのですね。

 

 そしてそれから間もなく、稲荷山古墳や井出二子山古墳を築造する際には、人物埴輪を使って大々的な葬送儀礼を行うようになり、6世紀になると北関東の人物埴輪は質量ともに畿内のものを凌駕してしまうようになります。

 

 関東人が人物埴輪にツボっちゃった感じもしますが、金井塚氏は人物埴輪を用いた葬送儀礼は河内から古代氏族が関東に移住することにより持ち込まれたと考えています。

 

 なお畿内と同時期に初期の人物埴輪が発生した北九州地方では、きちんと人間らしい形をした埴輪には発展せず、石人という石によって人の形を表現する方向に行きます。

 

 こちらは将軍塚古墳のページで述べた日本に3例しかない馬冑(ばちゅう)です。

 

馬冑

写真10 馬冑

 

 写真の通り、お馬さんのヘルメットなわけですが、これは完形が出土したわけではなく、破片になった物が一部採取されてそれを復元したものです。

 

 では次は時代をさかのぼって縄文時代に行きますよ!

 

縄文時代の遺物も充実のラインナップ

 

 おー、土器が並んでいる・・・

 

縄文の展示

写真11 縄文の展示

 

 まずは縄文時代前期前葉に作られた片口付土器と深鉢です。

 

片口付土器と深鉢

写真12 片口付土器と深鉢

 

 左3つの土器は、注ぎ口のようなものが付いていますね。

 

 見るからに中に入った液体を他に移す用途が想定できますが、土器って偉く重いので、それにさらに液体が入っていたとすると人力で他の容器に移そうとして頑張った結果、腕がプルプルして液体をこぼしてしまう人もいたと思います。

 

 いや、縄文人って我々よりも遥かに力持ちだったかもしれない。

 

 次に人面付深鉢と人面付注口土器です。

 

人面付深鉢と人面付注口土器

写真13 人面付深鉢と人面付注口土器

 

 縄文時代や弥生時代は土器に顔を付けることがあったんですよね。

 

 古代の人たちは「顔」に何かのパワーを感じ、そして何かの願いを込めたのだと思います。

 

 私は顔が付いている土器が大好きで、いずれは顔が付いた土器の写真集なんかも企画できたら楽しいなあと思っています。

 

 そして縄文時代と言えば、やはり土偶ですね。

 

 こちらはみみずく土偶。

 

みみずく土偶

写真14 みみずく土偶

 

 みみずく土偶は縄文時代後期後葉から晩期中葉にかけて関東地方周辺で作られたローカル土偶です。

 

 もう一枚、山形土偶。

 

山形土偶

写真15 山形土偶

 

 後期中葉に関東から東北にかけて作られた東日本人の精神世界に触れることができる土偶ですね。

 

 さらに縄文時代の遺物で土偶と並ぶ呪術アイテムである石棒は絶対に外せません。

 

石棒

写真16 石棒

 

 石棒は見て分かる通り、男根をデザイン化したものです。

 

 現在でも特に東北などに性器信仰が残っていますが、古代人にとって性器というのは人間を創造する元なので、その神秘さが信仰に行きついても何ら不思議ではありません。

 

 ちなみにある地方の男性器信仰では、神様を「チンポ様」と呼びます。

 

 すごくダイレクトでポップなネーミングですが、神様に口上を捧げるときにも厳粛な儀式の中で「チンポ様」というワードが神官の口から発せられる様子を想像すると、なんだか力が抜けそうな気がしますが、私が単にユルイ人間だからでしょうか。

 

 さらに、卑猥な話で気を害していただきたくないのですが、AVを観ていると物凄く「チンポ様」が好きなことが切々と伝わってくる女優さんがたまにいますよね。

 

 「いますよね」と同意を求められても困惑する方もいるかもしれませんが、私は女性ではないので想像が当たっているかは自信が無いものの、ああいう境地が実は信仰に結び付いているのではないかと思っているのです。

 

 という話を以前、若い子(もちろん男の子)に話したら、「へー、AVはそういう見方もあるんですか?」と感心されつつ同時に呆れられましたが、女性の身体を売る商売の歴史について民俗学的に調べている私は、信仰との関連性も非常に気にしているのです。

 

 あ、話が脱線したようです。

 

 なお、さきたま史跡の博物館では古墳や縄文の遺物は上記外にもまだまだたくさん展示されていますので、興味のある方はぜひ行ってみてください。

 

 凄く楽しい博物館ですよ。

 

 さて、それでは本日の目玉である金錯銘鉄剣に行きます。

 

ついに、念願の金錯銘鉄剣を拝む!

 

 これだ!

 

金錯銘鉄剣

写真17 金錯銘鉄剣

 

 複製ではなく、本物だよ!

 

 大体にしてこういった国宝は通常は国が持去って行って国立東京博物館で、さも自分たちが見つけたような顔をして展示されるのですが、素晴らしいことにこの鉄剣は出土した地元で保管・展示されているのです。

 

 これには埼玉県や博物館の方々の相当な努力があったのだろうと想像できます。

 

 これは埼玉古墳群が誇る至宝ですので、こうやって地元に置いておけば絶対に被葬者の霊も喜んでくれていると思います。

 

 剣自体は1968年の発掘調査で見つかっていたのですが、当然ながら表面は錆び錆びで、まさか文章が刻してあるなんて誰も思いませんでした。

 

 それが偶然、金のようなものが付着しているのが見つかったことにより1978年にX線で透視し、刀身の両面に115文字もの文字が刻されていることが分かったのです。

 

 この時代に日本国内で書かれた書籍や古文書は残っていないので、これは重要な考古遺物であるとともに、当時の社会を知る超重要な文字資料でもあるわけです。

 

金錯銘鉄剣 表面冒頭ズーム

写真18 金錯銘鉄剣 表面冒頭ズーム

 

 おー、「辛亥年七月中記」から始まる有名な一文が良く見える・・・

 

 何が刻されているのかは、パンチすると面倒なのでWikipediaさんからコピペさせていただきます(Wikipediaさんありがとうございます)。

 

 【表】

 

 辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比

 

 【裏】

 

 其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

 

 つまり、どういった内容かというと、製作は辛亥年の7月で、乎獲居(ヲワケ)臣という人の系譜を代々述べた後、ヲワケが代々「杖刀人首」(じょうとうにんのおびと)、つまり守衛の隊長として「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)、いわゆる雄略天皇が「斯鬼宮」(しきのみや)に住んでいた時、天下を佐治した(大王をサポートした)という経歴が書かれているのです。

 

 文章はこのような感じなのですが、これを読むだけでマニアであれば様々な歴史ロマンが頭に渦巻いてしまうわけです。

 

 これを鍛造した日は辛亥年の7月なわけですが、その辛亥年は果たして西暦に直すといつなのでしょうか。

 

 古代人が使っていた干支による年の表記は60年ごとに一巡するのですが、この辛亥年は471年というのが現代では定説となっています。

 

 もちろん、他の説を唱える研究者もいますよ。

 

 金錯銘鉄剣は鍛造された年を取って「辛亥剣」と呼ばれることもあり、実は今日、忍城からさきたま古墳群に向かって歩いている途中にあった酒屋さんで「辛亥剣」という名前の日本酒の看板を見てしまったのです。

 

 でも誘惑に負けずに買いませんでしたよ。

 

 これが発見されて文字が解読されたことにより、多くの研究者がこれを資料として論文を書いたり本を出版したりして、それはそれは歴史ファンに壮大な歴史ロマンを提供してくれているのです。

 

 辛亥剣をめぐる論点の一つには、辛亥年がいつなのかということと共に、ヲワケという人物は果たして稲荷山古墳の被葬者なのかという点もあります。

 

 お墓から出てきた剣にヲワケのプロフィールが書かれているということは、お墓の主はヲワケであると考えるのが素直だと思うのですが、白石太一郎氏などは昔から、ヲワケは中央で大王に仕えた人物であると言っています。

 

 そうだとすると、剣をもらった被葬者は他人のプロフィールが書かれた剣をもらって喜んでいたということになりますが、被葬者も文字が読めたかどうかは分からず、文字には呪力が宿っていると信じられていたことから、「何か分からないけどありがたいもの」ということで所持していたのでしょう。

 

 銘文にある「意富比垝」(オホヒコ)は、中央貴族の阿倍氏の祖とされる人物(実在かどうかはここでは問いません)で、阿倍氏は個人の財産として、列島各地にいる丈部(はせつかべ)という人たちを支配していました。

 

 丈部というのは、「部」と呼ばれる人たちで、部は簡単に言うと中央の王侯貴族に対して、貢物をしたり労働力を提供したりするのが役目の人たちです。

 

 人間ではありますが、貴族の所有物なのです。

 

 そして丈部を現地で管理する豪族が丈部直(はせつかべのあたい)という人たちです。

 

 白石氏は岸俊男氏が唱えている以下の説を支持しています。

 

 すなわち、埼玉古墳群の近隣の足立郡や横見郡には丈部直を名乗る豪族の存在が知られており、かつ丈部は「杖部」とも表記され、ヲワケが任じられていた「杖刀人」という言葉と関連性が伺えることから、ヲワケは各地から奉仕のために上番してくる杖刀人を束ねる役職にいた中央の豪族ではないかという説です(改めて行田市郷土博物館の「見学のしおり」を見たところ、行田市内の小針遺跡から出土した銘紡錘車の写真が載っており、「丈部鳥麻呂」と書かれていました)。

 

 そう考えると、被葬者は杖刀人として中央に行ったときに何か特別な功績か、もしくは杖刀人の首(おびと)をしているヲワケから個人的に信任されたことにより剣を褒美としてもらって帰郷し、死後にそれとともに葬られたというストーリーが成り立ちます。

 

 一つ注意しなければならないのは、稲荷山古墳のページで書いたとおり、辛亥剣は本来の古墳の主が葬られているはずの墳頂中央部にある埋葬主体から見つかったのではなく、築造後20〜30年経って追葬された人物の傍らから出ている点です。

 

 つまり追葬扱いであるため、サキタマの王ではなく、王の近親者、例えば跡継ぎではない弟や次男とかそういう人物である可能性が高いわけです。

 

 さて、時刻は16時を回ってしまいましたが、まだ日没まで少し時間があるので、講演の前に見れなかった他の古墳もザッと見ることにしましょう。

 

<< 戻る

現在地

進む >>

瓦塚古墳

さきたま史跡の博物館

丸墓山古墳

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『行田市郷土博物館 見学のしおり』 行田市郷土博物館
  • 『古代を考える 東国と大和王権』 原島礼二・金井塚良一/編 1994年
  • 『ワカタケル大王とその時代 埼玉稲荷山古墳』 小川良祐・狩野久・吉村武彦/著 2003年
  • 『埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾』 塩野博/著 2004年
  • 『シリーズ「遺跡を学ぶ」016 鉄剣銘一一五文字の謎に迫る 埼玉古墳群』 高橋一夫/著 2005年
  • 『季刊考古学・別冊15 武蔵と相模の古墳』 広瀬和雄・池上悟/著 2007年
  • 『シリーズ「遺跡を学ぶ」073 東日本最大級の埴輪工房 生出塚埴輪窯』 高田大輔/著 2010年
  • 『古墳からみた 倭国の形成と展開』 白石太一郎/著 2013年
  • 『ガイドブック さきたま』 埼玉県立さきたま史跡の博物館/編 2015年
スポンサードリンク



 

ご意見・ご感想は、稲用章

inayouアットマークa.email.ne.jp

までお願いします。

 




関連ページ

稲荷山古墳
埼玉の地に突如現れた大型前方後円墳。
稲荷山古墳の登場は、武蔵国内の最大勢力が5世紀後半に多摩川下流から埼玉の地へ移ったことを示しています。
二子山古墳
丸墓山古墳
円墳としては国内最大の古墳で、墳頂の高さは古墳群で最も高く、使用した土の量は古墳群最大の二子山古墳をしのぎます。
なぜ前方後円墳ではなく巨大な円墳なのか、サキタマとヤマトとの微妙な政治関係に歴史ロマンを感じます。
瓦塚古墳
奥の山古墳
将軍山古墳
鉄砲山古墳
愛宕山古墳
大日塚古墳
前玉神社および浅間塚古墳
真名板高山古墳
小見真観寺古墳
鴻巣市文化センター(クレアこうのす)内には生出塚
八幡山古墳
防人藤原部等母麿遺跡
真観寺
真名板薬師堂
忍諏訪神社・東照宮
忍城
忍城は戦国初期に成田氏によって築城された城で、湖の中に浮かぶ島のような縄張になっています。
天正18年の豊臣政権による小田原攻めの際にも最後まで落城を免れた難攻不落の城です。
高源寺
妙音寺
将軍山古墳展示館
行田市郷土博物館