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川越市の歴史と史跡

最終更新日:2015年10月12日

 

 河越城のページでも河越城の歴史について述べましたが、こちらでもう少し補足しておきます。

 

河越城代北条為昌

 

 北条氏康の弟為昌は、享禄5年(1532)に13歳にして、叔父氏時に代わり玉縄城主(神奈川県鎌倉市)となり、相模東郡・武蔵久良岐郡からなる玉縄領と三浦郡を管轄する立場となり、天文6年(1537)には小机城(横浜市港北区)を中心とする小机領をも任されました。

 

 為昌は、次期当主氏康の次弟(為昌の兄は早逝)として、まさに次世代における北条家のナンバーツーとして将来を嘱望されていたのです。

 

 そして同年中には、北条家は扇谷上杉家から河越城を奪ったわけですが、為昌はこれから武蔵国内の版図を北へ押し上げて行くための最重要前線拠点となった河越城までも任されることになりました。

 

 ところが、それからわずか5年にして、これからのさらなる活躍が期待されていたのにも関わらず、23歳で病没してしまうのです。

 

 兄氏康は前年に父を亡くして家督を継いだばかりだったこともあり、相当な精神的ショックを受けたはずですが、子のいなかった為昌の名跡は、義兄にあたる綱成が継ぎます。

 

猛将綱成、河越城を死守す

 

 従来では綱成は為昌の養子となって跡を継いだという説が定説で(佐藤栄智氏による)、黒田基樹氏も2007年に『北条早雲とその一族』を刊行した段階ではそれを踏襲していました。

 

 

 ところが、黒田氏はその後の研究で、綱成は為昌の養子にはなっていなかったことを突き止めています(『戦国史研究 第59号』所収「北条綱成の父母」。のちに『論集 戦国大名と国衆 9 玉縄北条氏』にも収録)。

 

 

 さて、綱成は為昌の養子ではなかったものの、その支配領域と家臣団を継いだのは事実です。

 

 ただ、北条一門より一段低い家格にいた綱成は、為昌の遺領・遺臣をすべて継承できたわけでなく、それらは解体され、どうも河越地域と河越衆に関しては継承することはできなかったようなのです。

 

 黒田基樹氏は、従来の河越を綱成が継いだという説に対し、綱成が河越を管轄したことを示す史料は無いとしています。

 

 『小田原衆所領役帳』の作成された永禄2年(1559)の時点では宿老の大道寺周勝が管轄しており、またその父盛昌も河越城に在城していたことがうかがわれることから、為昌の死後は、大道寺氏がその跡を受け継いだと考えた方が整合的としています。

 

 

 しかし正確に言うと、為昌没後、河越が具体的にどうなったのかは史料上では確認することができないというのが事実です。

 

 そうすると、いわゆる「河越夜戦」で綱成が活躍したことは事実ではないのでしょうか。

 

 「河越夜戦」での綱成の活躍は、『異本小田原記』や『北条五代記』といった軍記物に記され、同時代史料では確認できないのですが、両書とも軍記物にしてはまずまずの評価を得ていることから、綱成が河越城に籠って上杉連合軍に対峙していたというのは信じてよいと思います。

 

 

 綱成は平時は玉縄城にいたわけですが、何しろ武勇に優れた武将なので、当然ながら各地の戦いには真っ先に投入される武将であり、上杉連合軍が河越城を囲んだ際に河越城にいたとしてもまったくおかしくないです。

 

 というのも、河越城のページで述べた通り、「河越夜戦」の前年にあたる天文14年(1545)の夏には、駿河方面で今川義元と武田晴信の連合軍が攻撃をしかけてきて(第二次河東一乱)、それに合わせて秋には上杉連合軍が河越城を攻略すべく動き出したわけですから、当主氏康は西側で手いっぱいで、そうなると頼れる男といったら同い年の義弟である地黄八幡・綱成しかいないでしょう。

 

 ですので、ここではまず、軍記物を信用することにしましょう。

 

河越城と扇谷上杉家

 

 さて、話を少し戻しますと、元々河越城は扇谷上杉家当主の居城として、長禄元年(1457)に築城されました。

 

 設計したのは太田道真・道灌父子とされ、同時に江戸城も築城しています。

 

 その時代は、古河公方と関東管領上杉氏との戦いである享徳の乱が発生したあとで、関東地方の戦国時代が幕開けし、関東各地(と言っても主として両勢力の境界地点)に城郭が築かれ始めた時期です。

 

 扇谷上杉家も関東管領家の味方であったので、古河公方に対抗する必要から河越城と江戸城を築城したわけです。

 

 それから80年間に渡り、河越城は扇谷上杉家の本拠地だったわけですが、天文6年(1537)4月27日に傑物だった当主朝興が没し、嫡男朝定が跡を継ぐと、まだ13歳という今でいう中学生の朝定は、健気にも父の悲願であった江戸城の奪回を目論み北条家に戦いを挑みます。

 

 ところが逆に敗退して、本拠地である河越城まで奪われてしまったのです。

 

 そのため朝定は、重臣難波田家の居城である松山城に退き、河越城奪還のチャンスを伺い続け、ようやく北条家に隙が生じたように見える瞬間にめぐり合いました。

 

 天文10年(1541)7月17日、父の好敵手であった北条家当主氏綱が病没したのです。

 

 朝定は、以前自分がやられたように、10月、喪中の北条家を打倒すべく、河越城に攻撃を仕掛けます。

 

 ところが、かねてより家督相続の準備をしっかり進めていた北条家に隙はなく、2度攻撃するも河越城を落とすことはできず、逆に反撃に出た北条家によって一時は上野との国境近くの本庄まで蹂躙されてしまいました。

 

 そして若い朝定は、その後10歳年上の氏康と一進一退の死闘を演じるわけですが、その過程で上述した通り、天文11年(1542)に河越城代の為昌が23歳で没するという事態が生じています。

 

 

【参考資料】

  • 『小田原衆所領役帳』 杉山博/校訂 1969年
  • 『川越市史 第二巻 中世編』 1985年
  • 『北条五代記』 矢代和夫・大津雄一/著 1999年
  • 『北条早雲とその一族』 黒田基樹/著 2007年
  • 『シリーズ・中世関東武士の研究 第五巻 扇谷上杉氏』 黒田基樹/編 2012年
  • 『論集 戦国大名と国衆 9 玉縄北条氏』 浅倉直美/編 2012年
  • 『北条氏年表』 黒田基樹/編 2013年

 

川越市内の史跡一覧

 

 川越市内にある、国指定・県指定・市指定の史跡と旧跡を、川越市のホームページ(2015年1月3日現在)を参照して一覧します。

 

 なお、名称がクリックできる史跡は、本サイト内の歴史めぐりのコーナーにリンクしており、所在地が空白のものは、個人宅にあるので公開していないようです。

 

国指定史跡

 

名称 所在地 指定年月日
1 河越館跡 上戸新田屋敷 昭和59年12月6日

 

埼玉県指定史跡

 

名称 所在地 指定年月日
1 川越城跡 郭町2-13-1他 大正14年3月31日
2 暦応の古碑 小仙波町1丁目 喜多院 昭和29年10月23日
3 大堀山館跡 下広谷332-1他 平成16年3月23日

 

川越市指定史跡

 

名称 所在地 指定年月日
1 小仙波貝塚 小仙波町3-11 昭和33年3月6日
2 仙波氏館跡 仙波町3丁目 長徳寺 昭和33年3月6日
3 烏頭坂 岸町 昭和33年3月6日
4 岩田彦助墓 元町2丁目 養寿院 昭和33年3月6日
5 安井政章墓   昭和33年3月6日
6 川越夜戦跡 志多町 東明寺 昭和33年3月6日
7 高林謙三墓   昭和33年3月6日
8 松平周防守家廟所 小仙波町5丁目 光西寺 昭和33年3月6日
9 松平大和守家廟所 小仙波町1丁目 喜多院 昭和33年3月6日
10 中院 小仙波町5丁目 中院 昭和33年3月6日
11 西川練造墓   昭和33年3月6日
12 新河岸川河岸場跡   昭和33年3月6日
13 砂久保陣場跡 砂久保 稲荷神社 昭和33年3月6日
14 山王塚   昭和33年3月6日
15 牛塚 的場 法城寺 昭和33年3月6日
16 三芳野神社 郭町2丁目 三芳野神社 昭和33年3月6日
17 日枝神社 小仙波町1丁目 日枝神社 昭和33年3月6日
18 喜多院 小仙波町1丁目 喜多院 昭和33年3月6日
19 東照宮 小仙波町1丁目 東照宮 昭和33年3月6日
20 愛宕神社古墳 富士見町 愛宕神社 昭和33年3月6日
21 水戸藩十九烈士埋葬地 喜多町 広済寺 昭和43年12月25日
22 舟塚古墳   昭和45年1月12日
23 浅間神社古墳 富士見町 浅間神社 昭和47年2月8日
24 赤沢仁兵衛墓   平成8年4月12日
25 小河原家の墓 小仙波町1丁目 喜多院 平成10年7月14日
26 横田家の墓   平成10年7月14日
27 志誠の墓   平成10年7月14日
28 三変稲荷神社古墳 小仙波町4丁目 喜多院 平成12年4月7日
29 蓮馨尼の墓 連雀町 蓮馨寺 平成12年4月7日
30 上戸日枝神社境内 上戸 平成13年5月9日
31 永島家住宅(旧武家屋敷)   平成18年3月27日
32 原田家住宅   平成22年2月24日

 

埼玉県指定旧跡

 

名称 所在地 指定年月日
1 奥貫友山墓   昭和36年9月1日
2 万葉遺跡占肩の鹿見塚 富士見町 昭和36年9月1日
3 中島孝昌墓 喜多町 広済寺 昭和36年9月1日
4 高山繁文墓 石原町1丁目 本応寺 昭和36年9月1日
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