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「河越夜戦」の戦場として名高い砂久保陣場

最終更新日:2015年9月27日

 

 埼玉県立嵐山史跡の博物館では、「戦国時代は関東から始まった」という企画展をやっており、その一環で川越市市民会館で、現在の関東戦国史研究を牽引している感のある黒田基樹先生の講演があります。

 

 今日は金曜日ですが、有給休暇を取得し、川越まで出張ってきます。

 

 なお、講演の開始は14時からなので、朝から出掛けて行けばそれまでに川越市内の史跡をいくつか見ることができますね。

 

 まずは、天文15年(1546)のいわゆる「河越夜戦」の戦場となったと伝承されている砂久保陣場を訪れてみます。

 

 

探訪データ
探訪年月日 2015年1月23日(金)
天候 晴れ
探訪ルート 砂久保陣場 → 霞ヶ関遺跡(入間郡家) → 河越館および上戸陣 → 常楽寺 → 河越城 → 川越氷川神社 → 川越城

 

砂久保陣場概要
ふりがな すなくぼじんば
住所 埼玉県川越市砂久保

史跡指定 史指定史跡
現況 砂久保稲荷神社
目で見られる遺構 なし

 

幻の「河越夜戦」

 

 今日はそれほど早い時間に家を出ることはなく、電車を乗り継ぎ東武東上線の新河岸駅で下車した時にはすでに9時5分でした。

 

東武東上線

写真1 東武東上線

 

 新河岸駅は川越駅の一つ手前です。

 

新河岸駅

写真2 新河岸駅

 

 今日はここを起点として、14時の少し前までに講演会場入りできるように計算しつつ、川越市内の史跡をいくつか見るつもりです。

 

 最初に目指すのは砂久保陣場跡で、新河岸駅からは南西方向に直線距離で約1.25kmです。

 

 テクテクと住宅街を歩き、川越街道(国道254号線)に出ました。

 

 あ、うちの会社の車だ!

 

 すかさず支店名をチェック。

 

 今の時間だと清掃部隊よりかはレンタル部隊かもしれないなあ、などと考えつつ、交差点にあるセブンイレブンで朝ご飯を購入。

 

 コロッケパンを頬張り、缶コーヒーを飲みながらさらに住宅街を進むと、畑が広がる風景が現れました。

 

 遠くには雪をかぶった山々が見えます。

 

遠くの雪山

写真3 遠くの雪山

 

 そんな畑と住宅の中をさらに進むと神社が現れました。

 

 砂久保陣場跡に建つ砂久保稲荷神社です。

 

砂久保稲荷神社

写真4 砂久保稲荷神社

 

 お、立派な説明板がありますね!

 

 実は私はほとんど予備知識無しで来たのですが、最近建てられたらしい説明板のお陰で概要を掴むことができました。

 

 扇谷上杉氏というと、どうもへっぽこなイメージがありますが、北条氏綱と死闘を演じた扇谷上杉朝興はかなりの傑物で、古文書を読む限り、氏綱は江戸城を落とすまでは良かったものの、その後はずっと劣勢で、氏綱は本拠地である小田原近辺まで朝興に蹂躙されるありさまでした。

 

 ところが、天文6年(1537)に朝興が没し朝定が跡を継ぐと、氏綱は一気に攻勢に出て扇谷上杉氏の本拠であった河越城を落とすことに成功します。

 

 それに対して朝定は、関東管領の山内上杉憲政と手を結び、天文14年(1545)9月26日に河越城に向けて侵攻し包囲しました。

 

 両上杉氏は、さらに古河公方足利晴氏までも仲間に引き入れ、河越城の命は風前の灯となります。

 

 その頃、氏綱の跡を継いでいた氏康は駿河方面で今川氏と対陣していたのですが、今川氏と和睦すると小田原城に戻り、扇谷上杉方の岩付城主太田全鑑の調略を進め、それを成功させると、天文15年(1546)4月17日、ついに河越城救援のため出陣、ここ砂窪(砂久保)に陣を構えたのです。

 

砂久保稲荷神社社殿

写真5 砂久保稲荷神社社殿

 

 氏康は公方に城兵の助命を嘆願しますが拒否され、20日には上杉憲政が砂窪の陣所に攻めかかりました。

 

 しかし、氏康はそれを果敢に迎え討ち、さらに城内からも氏康の義弟綱成が突出し挟撃、上杉勢を散々に打ち破りました。

 

 この戦いは一般的には「河越夜戦」と呼ばれ、氏康は忍者(風魔)を活用するなどして夜間に敵の虚を衝いて奇襲を敢行し、勝ちをもぎ取ったとされていますが、「夜戦」であったという証拠はないようです。

 

 ただ、夜戦であるかないかに関わらず、実際この戦いで扇谷上杉氏は滅亡し、山内上杉氏も壊滅的ダメージを食らったのは事実であり、氏康の運が一気に開けた戦いであったことは事実です。

 

 氏康は駿河・遠江方面での版図拡大は断念せざるを得ませんでしたが、関東地方統一という目標に向けて確かな一歩を刻んだのです。

 

 なお、一般的には『新編武蔵風土記稿』で説明されている通り、上杉憲政が砂窪に陣を敷き、4月20日に氏康が砂窪に夜襲を掛けたとされていますが、現地の説明板には上記の解説があるので、最近の研究ではそうなっているみたいですね。

 

 あ、社務所も瓦ぶきの古風な建物で結構風格がありますね。

 

社務所

写真6 社務所

 

 それでは私も氏康と同じように、河越城へ向けて進軍を開始します。

 

進軍開始

写真7 進軍開始

 

 でもその前に河越「館」の方を先に見てみたいと思いますが、さらにその前に入間郡家と推定される霞ヶ関遺跡を偶然発見してしまったのでした・・・

 

 

 つづきの記事はこちら

 

【参考資料】

 

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