◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

名だたる河越夜戦が行われた河越城

最終更新日:2015年10月1日

 

 前回の記事はこちら

 

 本日の主目的は、川越市市民会館で行われる黒田基樹先生の講演「山内・扇谷両上杉氏の攻防」を聴講することです。

 

 開演は14時からですが、もう12時になってしまったので急いで川越の市街地に向かいましょう。

 

 

 

探訪データ
探訪年月日 2015年1月23日(金)
天候 晴れ
探訪ルート 砂久保陣場 → 霞ヶ関遺跡(入間郡家) → 河越館および上戸陣 → 常楽寺 → 河越城 → 川越氷川神社 → 川越城

 

河越城概要
ふりがな かわごえじょう
住所 埼玉県川越市郭町ほか

史跡指定 川越市指定史跡 川越夜戦跡 昭和33年3月6日指定
現況 市街地
築城年/築城者 長禄元年(1457)/太田道真・道灌
目で見られる遺構 なし

 

スポンサードリンク


入間川に架かる川越橋から遠くの山並みを見る

 

 常楽寺を出て、入間川の土手に上がると、入間川に架かる川越橋が見えました。

 

川越橋

写真1 川越橋

 

 橋の入口には川越のシンボルである「時の鐘」のオブジェがあります。

 

時の鐘のオブジェ

写真2 時の鐘のオブジェ

 

 そして、橋マニアにはたまらないであろう、図面と諸元が書かれたプレートもあります。

 

図面と諸元が書かれたプレート

写真3 図面と諸元が書かれたプレート

 

 橋の南側の歩道を歩こうと思いますが、一瞬だけ北側に行って、北方の風景を見てみましょう。

 

特徴的な山容

写真4 特徴的な山容

 

 北東方向に特徴的な形の山が見えますね。

 

 何という山かな?

 

 橋の南側の歩道に戻ります。

 

 そして南西側を望むと、おっと富士山!

 

富士山

写真5 富士山

 

 富士山は多摩地域からも良く見れるので見慣れていますが、姿が見えると何か幸せな気分になります。

 

 帰宅後、写真4の山を調べたら茨城県の筑波山でした。

 

 筑波山は、私の生まれ育った千葉県松戸市からも良く見えて、小学校6年のときに学校で登りに行った記憶があります。

 

 小学生的には少し大変だった記憶がありますが、自衛官の知人は、訓練で筑波山を走って登り降りすると言っていました。

 

 そして、筑波山と富士山を結ぶラインを見てみると、川越橋の東方約10kmのところを通っており、川越橋がライン上だったら良かったのになあと思いました。

 

 入間川は他の川と一緒で水量が少ないですが、川幅は結構ありますね。

 

写真6 入間川

 

 私は結構川を眺めるのが好きなのですが、入間川の雰囲気は大好きです。

 

市内寺社探訪

 

 さて、入間川を渡り、ひたすら歩き続けます。

 

道路は続くよ

写真7 道路は続くよ

 

 私は燃費が悪いので、そろそろお昼が食べたいです。

 

 ラーメン屋でも運よくあれば良いですが、今日は珍しく出会いません。

 

 仕方がないので、セブンイレブンに寄って、「THE チーズバーガー」を購入、市街地で食べ物屋さんを探そうと思うので、腹一杯にせず、もう1時間くらい歩くエネルギーを補充します。

 

 常楽寺を出て40分、お堀のような風情の赤間川にたどりつくと、前方に北条氏の家紋である「三つ鱗紋」を寺紋とするお寺の看板があります。

 

浄土宗大蓮寺の看板

写真8 浄土宗大蓮寺の看板

 

 浄土宗大蓮寺か、行ってみよう。

 

 お、こちらは日蓮宗本應寺?

 

写真9 日蓮宗本應寺

 

 ついでなので寄ってみましょう。

 

 このお寺も立派な楼門がありますね。

 

鐘楼門

写真10 鐘楼門

 

 この楼門も常楽寺と同じように、2階に鐘が吊るされているようです。

 

 額に「力神門」と記された楼門をくぐると本堂があります。

 

本堂

写真11 本堂

 

 常楽寺は一遍上人がいらっしゃいましたが、こちらは日蓮宗ということで日蓮上人がいらっしゃいます。

 

 本應寺は元和元年(1615)の開創ですので、酒井重忠の弟忠利が藩主の頃です。 

 

 あ、そうだ、さっきの大蓮寺を探そう。

 

 高沢橋を渡った小高い場所には稲荷神社があります。

 

 説明板によると、この六塚稲荷神社の本殿は文政2年(1819)の棟札があり、川越市指定建造物です。

 

 珍しく、本殿は覆屋に覆われておらず、露出しています。

 

六塚稲荷神社本殿

写真12 六塚稲荷神社本殿

 

 良いねえ。

 

 社地は若干高い場所なので、市街化される前はかなり眺望が良かったでしょう。

 

 南西の方を望みます。

 

 また特徴的な山容。

 

特徴的な山容

写真13 特徴的な山容

 

 あの形は多摩地域からも良く見れる大岳山に似ています。

 

 帰宅後調べてみたら、やはり大岳山でしたが、多摩方面からと川越方面からでは角度が違うはずなのに、なぜ同じようなシルエットに見えるのか不思議です。

 

 そして拝殿。

 

六塚稲荷神社拝殿

写真14 六塚稲荷神社拝殿

 

 で、さっきの続きで、大蓮寺に行きたいが、道が繋がっていない・・・

 

 ああ、時間がないので次で割愛しよう。

 

 おや、ここはお菓子屋さんだらけだ。

 

お菓子屋さんの横丁

写真15 お菓子屋さんの横丁

 

 そろそろご飯を食べたいが、その前に養寿院だけは見ておこう。

 

曹洞宗養寿院

写真16 曹洞宗養寿院

 

 曹洞宗養寿院は、『川越市史』によれば、元々は密教寺院だったのが、天文の頃曹洞宗に改宗したそうです。

 

 ここには河越一族の墓があるということで来たのですが、境内墓地を探しても見当たらない・・・

 

 特別っぽい一画がありますが、河越一族ではないです。

 

 うーん、ダメだ、ギヴアップ。

 

 養寿院を出て、川越市街のメインの通り(県道12号線)に出てきました。

 

県道12号線

写真17 県道12号線

 

 ここは沿道の建物をご覧の通り蔵造りに統一しており、「小江戸」情緒を醸し出しています。

 

 「時の鐘入口」の交差点を東に入ると、すぐ左手に川越のシンボルである時の鐘があり、皆さん写真を撮っていますね。

 

時の鐘

写真18 時の鐘

 

 いえーい、観光地川越!

 

 あー、もう13時を過ぎてしまった。

 

 お、川越ラーメン!

 

 ここにしよう。

 

餃子菜館 大八

写真19 餃子菜館 大八

 

 ところが、着席すると「B級グルメ」と銘打った焼きそばが美味しそうなので、志を変更し、焼きそばにします。

 

 ちなみにここは紫芋(サツマイモ)を使った餃子が名物のようですが、お金がないのでオプションとして頼めません。

 

 後日、再び川越に行った際には、念願かなって川越ラーメンを食べました!

 

 しばらく待って、焼きそばが出てきました!

 

焼きそば

写真20 焼きそば

 

 お、太麺のモチモチ食感、これは旨い!

 

 でも急がないと・・・

 

黒田基樹「長享の乱」ライヴ!

 

 そして13時半、会場の市民会館に到着。

 

川越市市民会館

写真21 川越市市民会館

 

 今日のお題は前述した通り、これです。

 

黒田基樹講演

写真22 黒田基樹講演

 

 ロビーを歩いていると、滝山城の会のヤマセミさんと遭遇!

 

 「やっぱり来ていましたか」と少し立ち話をした後トイレに行き席に座ると、定刻通り14時に黒田基樹先生が登壇しました。

 

 黒田先生は、現在は後北条氏をはじめ、戦国期の関東地方の研究では中堅研究者のトップの地位にいます。

 

 私は黒田先生が10年くらい前から一般書を書き始めた頃からのファンで、黒田先生の本は10冊以上持っており、今日は初めて生で講演を聴くことができるので、とても楽しみです。

 

 私にとっては、講演を聴きに行くというのは、普通の人が好きなアーティストのライヴにいくのと同じ感覚なのです。

 

 さて、黒田先生の話は、レジュメに沿いつつ、ほぼテーマの内容オンリーで、雑談やジョークの類は一切なしです。

 

 淡々と解説。

 

 非常に分かりやすいですが、後から別の人に感想を聴いたら「眠くなった」と言っていました。

 

 ライヴに例えれば、素晴らしい演奏を完ぺきに披露するけど、MCは無し、みたいな感じですね。

 

 お題になっている山内上杉氏と扇谷上杉氏との戦いは、「長享の乱」と呼ばれるのですが、大ざっぱに3つの段階に分けられます。

 

 確実的な戦端は、長享元年(1487)閏11月に山内方である越後上杉定昌が、古河方の下野足利房清の本拠地である勧農城を攻めたことですが、その前年には扇谷家は江戸城の壁を塗って防備を強化しており、すでに不穏な空気に包まれていたことが分かります。

 

 そして両上杉氏はニョゴニョゴと戦うのですが、延徳2年(1490)12月に両者は和睦し、ここまでが第一段階です。

 

 ところが、明応3年(1497)7月に両者は再び戦い始めます。

 

 前年には駿河の今川氏親の叔父である伊勢宗瑞が扇谷上杉氏と手を結び伊豆に侵攻しており、何か宗瑞の策動が裏にあるように思えます。

 

 そしてまた両上杉はニョゴニョゴとやって(うわ、雑!)、明応8年(1499)には、山内家が扇谷家の河越城を攻撃するための陣城として、今日の午前訪れた上戸陣を構築し、古河公方足利政氏も上戸陣に在陣します。

 

 しかし同年8月16日には、政氏は古河に帰り、両上杉氏は再び和睦しました。

 

 ここまで第二段階です。

 

 ところが両上杉氏の再和睦から2年後の文亀元年(1501)7月には、扇谷家と結んでいる今川氏親と伊勢宗瑞が遠江に侵攻し領国化してしまい、当地から追い出された尾張の斯波義寛は山内家と結んでいたため、この頃からまた両上杉氏のニョゴニョゴの第三段階が始まります。

 

 これにより、上戸陣が再度、河越城攻撃の拠点になります。

 

 そして山内家優位のまま戦況は推移したようで、永正3年(1506)3月7日に両上杉が戦い(場所不明)、山内家が大勝したようで、扇谷上杉朝良は、山内上杉顕定に和睦を請い、実質的には扇谷家の降伏という形で長享の乱は終わります。

 

 以上が、黒田先生の説明の概要ですが、上記「ニョゴニョゴ」について詳しく知りたい方は、黒田先生の著書などをお読みください。

 

 さて、会場に行くまでは朝からほとんど歩きっぱなしで、しかも結構寒かったので疲れてしまっていたのですが、1時間半の講演を聴いたら体力が回復したので、もう少し川越市内を探訪してから帰ろうと思います。

 

東明寺で河越合戦に思いを馳せる

 

 さてさて、このページは河越城のページでしたが、随分前ふりが長くなりましたね。

 

 ここまで河越城と関係のない写真を22枚も掲載してしまいました。

 

 いよいよ中世の河越城についてレポートしたいと思いますが、実は残念ながら中世の遺構だとはっきり分かるものは一つも残っていないのです。

 

 中世の河越城跡に近世の川越城が造られ、なおかつ近代に入り川越市の中心地として完全に市街化されてしまったので、往時の様子はもう分からないのです。

 

 でも、講演が終わり、まだ日暮れまで少し時間があるので、天文15年(1546)の河越合戦の際に、扇谷上杉朝定の重臣・難波田弾正が討死したと伝わる東明寺に行ってみましょう。

 

 東明寺に行く途中、市役所の前には太田道灌の銅像があります。

 

 しかし今日は工事の関係でフェンスに囲まれていました。

 

市役所前の太田道灌像

写真23 市役所前の太田道灌像

 

 時刻はもうすぐ16時。

 

 東明寺に到着です。

 

時宗東明寺山門

写真24 時宗東明寺山門

 

 東明寺は稲荷山称名院と号し、午前中最後に訪れた常楽寺と同じく時宗のお寺で、神奈川県藤沢市の清浄光寺(遊行寺)の末です。

 

 『川越市史 第二巻 中世編』によると、開山については二つの説があって、『新編武蔵風土記稿』では一遍上人、『三芳野名勝図会』では2世他阿真教とし、『川越市史』では、教団の組織を整えたのは他阿真教なので、開山は他阿真教かもしくはその弟子で、一遍は請待開山ではないかと考察しています。

 

 いずれにしても鎌倉時代の開創と考えてよいと思いますが、面白いのは本尊が虚空蔵菩薩であることです。

 

 『川越市史 第二巻 中世編』でも述べられている通り、一般的には浄土系寺院は阿弥陀如来を本尊としますが(時宗のトップが称する「他阿」の「阿」は阿弥陀の「阿」)、虚空蔵菩薩であるということは、時宗になる前に別の宗派の寺であった可能性があります。

 

 そして、県内では現状、時宗の寺院は13ヶ寺しかないのですが、そのうちの4ヶ寺が川越市内に集中しているのは、とても興味深い事実です。

 

 さて、東明寺の山門の傍には、埼玉県がたてた「川越夜戦」の説明板があります。

 

 「河」だったり「川」だったりややこしいですね。

 

 一つの基準としては、後北条氏が滅びる中世までは「河」、徳川時代以降は「川」で良いと思います。

 

 ところでその河越夜戦ですが、桶狭間の戦い、厳島の戦いと並んで、「日本三大奇襲」と呼ばれています(以前は「日本三大夜戦」でした)。

 

 説明板にも書かれていますが、河越夜戦について簡単にまとめると、元々河越城は扇谷上杉氏が80年間に渡り本拠地としていたのですが、朝定のときに北条氏に奪われ、そのため朝定は河越城の奪回を目論み、関東管領山内上杉憲政や古河公方晴氏ら、総勢8万余騎とともに天文14年(1545)に河越城を囲み、籠城側は北条綱成ら3千、翌年4月に北条氏康が8千を率いて援軍に来て、氏康は4月20日の夜中に連合軍を奇襲し、連合軍は崩壊し、扇谷上杉氏当主朝定が討死して扇谷上杉氏が滅亡した戦いです。

 

立派な木

写真25 立派な木

 

 ポイントは連合軍8万に対して、氏康が8千で奇襲をかけてやっつけたという点と夜襲だったという点です。

 

 これがこの話の胆で、いかに連合軍の諸将が間抜けで氏康が傑物だったかを強調した内容になっていますね。

 

 しかしです。

 

 こういう話って大概怪しい。

 

 実はこの戦いについては、今日の午前中に訪れた砂久保陣場の説明板に記されている内容が最新の研究結果なのですが、この合戦を詳細に伝えた記録は軍記物に限られ、しかもこの戦いの際に氏康が発給した感状(合戦で手柄を立てた者に与えられる手紙)が一通も残っていないことから、例えば『シリーズ・中世関東武士の研究 第五巻 扇谷上杉氏』所収「中世の河越城 −その成立と景観−」で述べられている通り、河越城での連合軍対北条軍の戦いは無かったとまで言い切ってしまう研究者もいます。

 

 果たして、河越合戦は史実でしょうか、物語でしょうか。

 

本堂

写真26 本堂

 

 おや、猫ちんがいるぞ!

 

本日のファースト猫ちん

写真27 本日のファースト猫ちん

 

 本日のファースト猫ちん。

 

 夕刻になってようやくめぐり会いました。

 

 真冬の柔らかな夕陽を浴びて、とても気持ちよさそうにしていますね。

 

気持ちよさそう

写真28 気持ちよさそう

 

 まだ子供ですね。

 

 おや、警戒してるかな。

 

子供の猫ちん

写真29 子供の猫ちん

 

 あ、逃げちゃった。

 

逃げる

写真30 逃げる

 

 でも場所を変えて引き続き夕陽を浴びます。

 

引き続き夕陽を浴びる

写真31 引き続き夕陽を浴びる

 

 おっと、河越夜戦の話でしたね。

 

 河越合戦(夜戦かどうかは検討を要するのでひとまずこう呼ぶ)に関するもっとも詳細な一次史料は、「歴代古案」所収「天文12年(15年の誤り)4月某日付け北条氏康書状写」(『戦国遺文 後北条氏編 第一巻』に収録)でしょう。

 

 その文書は、合戦の後に氏康が古河公方足利晴氏の重臣である簗田高助に充てた手紙で、内容は河越合戦の経緯を述べるとともに、上杉に加担した公方を非難したものです。

 

 そこに記された内容から河越合戦を最大公約数的に述べますと、ことの発端は、駿河の今川義元と甲斐の武田晴信が組んで、北条領内である駿河東部のいわゆる河東地域に侵攻したことです(第二次河東一乱)。

 

 そしてそれに呼応する形で、扇谷上杉朝定・山内上杉憲政・古河公方足利晴氏が武蔵北部の北条領に侵攻し、対する氏康は砂窪(現砂久保陣場)まで打ち出し、そこに諸軍(上杉連合軍)が押し寄せ、氏康は憲政の馬廻をはじめ倉賀野三河守を討ち取り、古河公方を仲間に引き入れた張本人である扇谷上杉氏家臣難波田入道と小野因幡守も討ち取りました。

 

 上記の文書を読んで私がまず不思議に思ったのは、氏康は確かに砂窪に陣し、そこに上杉連合軍が攻めよせてきたのを迎撃したと記されているのに、どういうわけか後世の軍記物や記録には、上杉憲政が砂窪に陣し、それを氏康が夜襲をかけてやっつけたと記されていることです。

 

 砂久保陣場の説明板にはきちんと「歴代古案」の文書の内容が反映されているので、それを信用しましょう。

 

 ただし、この文書には年月日が書かれていないので、『北条氏年表』を使用して年月日を特定するとともに事件そのものの裏付けを取りますと、まず義元と晴信が河東に侵攻したのは天文14年(1545)の夏で、これはまさしく「氏康包囲網」の構築であり、氏康は窮地に立たされます。

 

 そこで氏康が取った戦略は、二方面作戦の放棄です。

 

 つまり、前と後ろに敵を受けて戦うことの愚を悟った氏康は、10月下旬に駿河東部の領有を諦め、その地を義元に割譲することを条件に義元と和睦し、上杉連合軍との戦いに集中することに決めるのです。

 

 このことは北条氏が関東地方の制覇に戦略を切り替えたことを意味し、北条氏にとっては大きな戦略転換となります。

 

 しかし氏康はすぐに河越城を包囲する連合軍に対して軍事行動を起こさず、翌天文15年(1546)3月に扇谷上杉氏の重臣である岩付城主太田全鑑の調略に成功します。

 

 これはまず全鑑の家臣上原出羽守を味方にして、出羽守の働きにより全鑑が寝返ったので、おそらく前年からすでに氏康は調略の手を各地に伸ばしていたに違いありません。

 

 さらに同月、相模一宮である寒川神社の社殿を再興し、4月17日には江ノ島岩本坊に神馬を奉納し戦勝を祈願した後、いよいよ出陣します。

 

 河越城が包囲されてから半年以上も経っているので、果たして連合軍は包囲しっぱなしだったのか疑問ですが、『北条氏年表』には、河越城は昨年秋以来ずっと包囲されていたとあります。

 

 そこで包囲するとしたらどのように包囲したか、河越城周辺の地形を見てみましょう。

 

 河越城の実質的な外堀であった赤間川の外側にもし連合軍が陣地を敷いたとすると、そこは背中に入間川を背負ってしまい、まさしく背水の陣となり、普通はその地域に滞陣することはあり得ません。

 

 ですので、連合軍は上戸陣に滞陣し、河越城を虎視眈々と狙っていたと考えるのが素直だと思います。

 

 そして砂窪で合戦が起きたのは4月20日。

 

 砂窪に氏康が陣を敷いたのを知った連合軍は、上戸陣を出て入間川を渡り氏康の陣地を最重要目標としたはずです。

 

 なぜならば敵の総大将がすぐそこまで来ているのですから、河越城なんかより、総大将の首の方が欲しいからです。

 

 氏康を倒せば河越城は自ずと手に入ります。

 

 そしてまんまと上杉連合軍は氏康に撃退されてしまったわけですが、「歴代古案」には上杉軍は三千人も討ち取られたと記されているものの、これは氏康による誇張と考えられます。

 

 さて、この時の戦いが夜戦であったかどうかですが、「歴代古案」所収の文書を信じるのであれば、氏康が砂窪まで打ち出し、そこに上杉連合軍が押し寄せたわけですので、数の上で勝っている連合軍がわざわざリスキーな夜襲を仕掛けてくるはずはありません。

 

 では反対に数で劣る氏康勢が連合軍に対して積極的に夜襲を掛けたかと言うと、「歴代古案」を読む限りではそのような気配はありません。

 

 どこでどうして「夜戦」になってしまったのか。

 

 『川越市史 第二巻 中世編』では、天文6年(1537)の氏綱による河越城攻略の三ツ木原合戦が満月の夜に行われたといわれていたため、それが先入観となり河越城の戦いも夜戦になったと推測していますが、ちょっと安直過ぎる気がします。

 

 実は夜戦は事実じゃないでしょうか。

 

もう昔の話はよそうニャー

写真32 「もう昔の話はよそうニャー」

 

 今度こそ逃げられた!

 

つまんニャイ!

写真33 「つまんニャイ!」

 

 小走りで去っていきます。

 

河越合戦の謎をお主は解くことができるかニャ?

写真34 「河越合戦の謎をお主は解くことができるかニャ?」

 

 河越夜戦が事実かどうかの鍵を握るのは、ここ東明寺です。

 

 実は江戸末期には赤間川の対岸に東明寺村があり、『新編武蔵風土記稿 巻之百六十八 入間郡之十三 東明寺村』によると、東明寺は最初そこにあり、東明寺の山号の田谷山というのは、東明寺村の小名である田谷から取ったとあります。

 

 そうだとすると、難波田善銀が討ち死にしたのは、現在の東明寺の境内ではなく、旧東明寺村にあった東明寺であり、それが寺が移転するとともに伝承も現東明寺の境内ということに変わったのではないでしょうか。

 

 現在の東明寺だと城内、往時の東明寺だと城外。

 

 ここからは私の勝手な推測になりますが、河越合戦の主戦場は上述した通り4月20日の砂窪で、その戦いで負けた連合軍の中で難波田善銀が主戦力である扇谷勢は、東明寺村にあった東明寺までひとまず撤退したところ、その日の晩に城内の綱成が夜襲をかけたのではないかと考えるのです。

 

 おそらく扇谷勢は東明寺に陣を張った段階ではそれほどダメージを食らってはいなかったものの、地黄八幡・猛将綱成の攻撃によって壊滅的な打撃を被り、夜中だったため難波田善銀は誤って井戸に落ち、当主朝定も乱戦の中で討死したのではないでしょうか。

 

 この夜襲の事実が、「河越夜戦」として後世に残ったと考えるわけです。

 

 ところで、『新編武蔵風土記稿』「巻之百六十二 入間郡之七 志多町 東明寺」には、宝暦の頃まで境内の南の方に塚があり、それを壊してみたところ髑髏が4〜500出たと記されています。

 

 「中世の河越城 −その成立と景観−」では、中世の河越城が築城される前は、この地は宗教的空間で墓地も沢山あり、その関係で遺骨が沢山発見されたのではないかと考察しており、それが河越合戦をフィクションとする理由の一つでもあるのですが、私が着目したのは、風土記稿に「髑髏」とあることです。

 

 髑髏であれば、首だけのはずです。

 

 もし墓域であるのなら、他の部分の骨も出てきたはずなので、「髑髏」という記載はしないはずです。

 

 出てきたのが首だけだとすると、なぜ首だけが4〜500も出てきたのでしょうか。

 

 これはやはり、この周辺で合戦が行われたことの明らかな証拠だと私は見ます。

 

 ただ、これだけの首の数は尋常ではないです。

 

 しかしそれだけの髑髏が実際に出たということは、連合軍8万と軍記物伝えられるほどの大軍(実数は何分の1でしょうが)が戦った天文15年の戦いに間違いないと思います。

 

 そしてそれらの髑髏は、もちろん東明寺周辺での戦死者だけでなく、砂久保も含めて全域での死者が集められ、この地で大々的に法要を営んで供養されたものでしょう。

 

名将・難波田善銀

 

 ところで、ここ東明寺では激戦が繰り広げられ、扇谷上杉氏の重臣である難波田弾正左衛門尉善銀が境内の古井戸に落ちて死んだと伝わっています。

 

河越夜戦の碑

写真35 河越夜戦の碑

 

 ただし前述した通り、善銀が死んだのは城外の旧東明寺村にあった東明寺でのことで、この場所ではないと思います。

 

 善銀は松山城(埼玉県吉見町)の城主で、善銀というのは入道名で、諱は憲重といい、「憲」は関東管領上杉憲政からの偏諱です。

 

 天文6年(1537)に、家督を継いだ直後に本拠地である河越城を奪われた扇谷上杉朝定は、善銀の松山城に逃げ込み、それ以来、扇谷の軍事力の中心となったのが難波田氏です。

 

 『シリーズ・中世関東武士の研究 第五巻 扇谷上杉氏』所収「国人難波田氏の研究」によれば、軍事力の中心どころか、難波田氏の軍事力が扇谷上杉氏の軍事力のすべてだという表現をしているほど、難波田氏は扇谷上杉氏にとってはなくてはならない家臣でした。

 

 山内上杉氏と古河公方を外交して巻き込んだのも善銀ですし、天文15年の河越合戦の後の氏康の書状にも、「今回の張本人である難波田入道と小野因幡守を討ち取った」とあることから、善銀がいかに重要な人物であったかが分かります。

 

 私は昔、三鷹市牟礼と世田谷区烏山の両高橋氏を調べていて、天文6年(1537)に難波田氏が深大寺城を再興し、両高橋氏と一戦を交えた伝承があることを知って以来、難波田氏は非常に気になる存在なのです。

 

 さて、これから帰宅すべく川越駅へ向かいますが、その途中にある喜多院には、近世川越城時代の空堀が残っているそうなので、それを見て帰りましょう。

 

 

 つづきの記事はこちら

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『新編武蔵風土記稿』「巻之百六十二 入間郡之七 志多町」 昌平坂学問所/編 1830年
    ↑クリックすると国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページへリンクします
  • 『川越市史 第二巻 中世編』 1985年
  • 『シリーズ・中世関東武士の研究 第五巻 扇谷上杉氏』 黒田基樹/編 2012年
  • 『北条氏年表』 黒田基樹/編 2013年
  • 講演会「山内・扇谷両上杉氏の攻防」レジュメ 黒田基樹 2015年

 

スポンサードリンク



 

ご意見・ご感想は、稲用章

inayouアットマークa.email.ne.jp

までお願いします。

 




関連ページ

牛塚古墳
浅間塚古墳
山王塚古墳/南大塚古墳群
東山道武蔵路跡
入間郡家<霞ヶ関遺跡>
古代の武蔵国内に21あった郡の一つ入間郡の郡家(郡役所)は、最近の研究では霞ヶ関遺跡であると言われています。
そこは陸運・水運ともに便利な、位置的には入間郡内のへそとも言える場所です。
上戸日枝神社
川越氷川神社
三芳野神社
尾崎神社
河越館および上戸陣
一時は秩父平氏を代表する家となった河越氏の居館跡の上には戦国時代に陣城が構築されました。
ここは国史跡として整備され、親切な説明板も多数立っているのでとてもお薦めな遺跡です。
常楽寺
元々は河越氏のプライベートな持仏堂から発展した寺院。
中興開基は悲劇の武将・大道寺政繁で、境内墓地には政繁供養の宝篋印塔もあります。
砂久保陣場
「日本三大奇襲」の一つである天文15年(1546)の河越夜戦の際に戦場となったと伝わる陣場。
そこには往時の陣場を思い起こさせるものは残っているのでしょうか。
川越城
川越市立博物館