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県内に3つある歴史系県立博物館の1つ・嵐山史跡の博物館

最終更新日:2015年5月17日

 

 前回の記事はこちら

 

 杉山城跡の次は菅谷館跡を目指しますが、杉山城跡のページでも述べた通り、10年前の2004年2月28日に菅谷館跡を訪れており、当時の埼玉県立歴史資料館も同時に見学しています。

 

 

探訪データ
探訪年月日 2014年12月28日(日)
天候 晴れ
探訪ルート 杉山城跡 → 嵐山史跡の博物館 → 菅谷館跡 → 穴八幡古墳 → 中城跡

 

埼玉県立嵐山史跡の博物館概要
ふりがな さいたまけんりつらんざんしせきのはくぶつかん
別名  
住所 埼玉県比企郡嵐山町菅谷757

公式サイト http://www.ranzan-shiseki.spec.ed.jp/

 

嵐山史跡の博物館でナイスな展示を見る

 

 県道296号線をテクテクと歩いていると、来る時も気になった幟がはためくお店の前に来ました。

 

「嵐山辛モツ焼きそば」の幟

写真1 「嵐山辛モツ焼きそば」の幟

 

 うわー、気になる。

 

 でもまだ時刻は10時半。

 

 次来るときに食べることにして、今日は諦めましょう。

 

 翌年の2月1日に、嵐山史跡の博物館が主催した「戦国時代は関東から始まった」というシンポジウムを聴講しに行き、ここではなく別の店ですが、念願の「嵐山辛モツ焼きそば」を食べることができました。

 

 その時の様子はこちらをご覧ください。

 

 東武東上線の踏切まで来ました。

 

 遠くに武蔵嵐山駅が見えます。

 

武蔵嵐山駅

写真2 武蔵嵐山駅

 

 踏切を渡ると登り坂になっています。

 

 坂を登ると東昌寺の参道に来ました。

 

東昌寺参道

写真3 東昌寺参道

 

 どんなお寺でしょうか、行ってみましょう。

 

 お、立派な三門ですね。

 

東昌寺三門

写真4 東昌寺三門

 

 三門をくぐると、横にお堂がありました。

 

観音堂

写真5 観音堂

 

 説明板によると、菅谷には徳川秀忠の乳母・正心院の持仏だった千手観音が祀られていた観音堂がありましたが、昭和3年の大火で焼失、その後観音像を新たに造り、お堂を再建したということです。

 

東昌寺

写真6 東昌寺

 

 お寺自体の来歴については説明はないので詳しいことは分かりません。

 

今昔マップ on the webを見ていたら、明治40年と昭和14年の地図では東昌寺のすぐ南、現在の郵便局の場所に菅谷村役場のマークがあります。

 

 菅谷中学校の通りに来ると、歩道のフェンスがなかなか素敵です。

 

歩道のフェンス

写真7 歩道のフェンス

 

 さすが、鎌倉武士の鑑・畠山重忠の地元です。

 

 杉山城跡を出て45分くらいで、埼玉県立嵐山史跡の博物館に到着しました。

 

 国道254号線沿いに、いきなり空堀登場。

 

菅谷館跡北側空堀

写真8 菅谷館跡北側空堀

 

 菅谷館の北側の空堀です。

 

 嵐山史跡の博物館は、菅谷館跡の三ノ郭にあり、博物館の入口は菅谷館の搦手口(からめてぐち。裏口のこと)です。

 

菅谷館跡

写真9 菅谷館跡

 

 前回来た時は、埼玉県立歴史資料館という名前だったのですが、平成18年4月に改名されました。

 

嵐山史跡の博物館

写真10 嵐山史跡の博物館

 

 今日は「企画展 道灌の時代 戦国時代は関東から始まった」を見るために10年ぶりにやってきたわけです。

 

 私の世代ですと、戦国時代は応仁の乱から始まったと習ったものですが、確かに畿内ではそうかもしれませんが、我々の住む関東地方は、室町幕府の出先機関である鎌倉府の統治下にあり、ある意味半独立状態でした。

 

 鎌倉府の初代は足利尊氏の子・基氏から始まったと考えるのが一般的で、その後、氏満・満兼・持氏と代々子供が継承しました。

 

 彼らのことを鎌倉公方と呼ぶのですが、鎌倉公方は初代の基氏を除いては、代々、幕府の将軍をライバル視して張り合っていました。

 

 あわよくば自分が将軍になろうと思っていたのです。

 

 そのような野望を抱く鎌倉公方には、鎌倉府のナンバーツーとして関東管領・上杉氏が幕府からその職に任命されサポートについており、関東管領は鎌倉公方と将軍の仲をなんとか取り持っていました。

 

 しかし結局、4代持氏は関東管領・上杉憲実を敵に回してしまい、幕府の後援を受けた憲実に殺されるのですが、その後鎌倉公方は空位になってしまいます。

 

 でもやはり、それはそれで不具合だということで、持氏の遺児・成氏が鎌倉公方になります。

 

 しかしその成氏は、関東管領・上杉憲忠を殺害してしまいます。

 

 憲忠の父は、成氏の父・持氏を殺した憲実であるので、なんか公方・成氏&関東管領・憲忠というコンビが結成された時点で、結果が見えていたような気がしますね。

 

 憲忠殺害は享徳3年(1454)のことで、それを「享徳の乱」と呼ぶのですが、この事件をきっかけにして関東地方は争乱状態になり、「応仁の乱」より13年早く、関東では戦国時代が始まったのです。

 

 なお、「享徳の乱」の名付け親は峰岸純夫さんです。

 

 結局、「享徳の乱」は「応仁の乱」とも絡んでくるのですが、それは今は述べません。

 

 さて、本展示は、「享徳の乱」の若干前から、後北条氏が武蔵を手に入れる少し前までの時代を扱っており、タイトル通り太田道灌がメインです。

 

 ただ、写真撮影はNGなので、写真はないです。

 

 その間の古文書が展示の中心で、それ以外にも太田道灌が実際に手にしたといわれる軍配もあり、道灌ファンにはたまらない内容です(正し、冒頭述べた通り、モノホンの展示は今日までで来年からはレプリカの展示)。

 

 文書の中では、持氏が後花園天皇から朝敵とされた、永享10年8月28日付の文書が一番印象的でした。

 

 あーあ、持氏さん、朝敵になっちゃったよ・・・

 

 鎌倉公方4代の中でも一番権勢欲の強かった持氏は将軍と天皇を敵に回して、結局前述した通り、殺されてしまいます。

 

 他にも鎧の展示も面白かった。

 

 さて、展示を見終わった後は、受付で博物館が出した本を数冊購入して、ちょうどお昼だったので受付の方に「この辺で何か食べるところはありますか?」と尋ねたところ、「ラーメンくらいならありますけど」と教えてくれたので、「ラーメンならバッチリです」とお礼を述べて、国道沿いのラーメン屋に向かいました。

 

ばんだいラーメン

写真11 ばんだいラーメン

 

 「ばんだい」って、会津の磐梯かな?

 

 どうやら味噌ラーメンが売りの店らしく、私は味噌が一番好きなので、一番売りにしているらしいラーメンを頼みました。

 

 ライスも無料で付いてくると言うことなので、麺を大盛にせず、ライスを頼みます。

 

コクうまラーメン

写真12 コクうまラーメン

 

 お、結構美味しい!

 

 図らずも今日も美味しいラーメンを食べられて良かったです。

 

 ラーメンを食べた後は甘いコーヒーが飲みたくなるのですが、自販機が見当たりません。

 

 すると、国道の反対側に見つけました。

 

 でも車通りが激しいので、歩道橋を渡って反対側に行かなければなりません。

 

 まあ、仕方がないか。

 

 缶コーヒーを一気に飲み干して、歩道橋の上から館跡を見ると、結構良い眺めです。

 

菅谷館搦手口

写真13 菅谷館搦手口

 

 それでは、菅谷館跡の見学をしましょう。

 

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