◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

畠山重忠の居館が発展した城といわれている中世城郭・菅谷館および山王古墳群

最終更新日:2015年5月17日

 

 前回の記事はこちら

 

 杉山城跡の次は菅谷館跡を目指しますが、杉山城跡のページでも述べた通り、10年前の2004年2月28日に菅谷館跡を訪れています。

 

 あれから10年経って、城跡はどうなっているでしょうか。

 

 楽しみです。

 

 

探訪データ
探訪年月日 2014年12月28日(日)
天候 晴れ
探訪ルート 杉山城跡 → 嵐山史跡の博物館 → 菅谷館跡 → 穴八幡古墳 → 中城跡

 

菅谷館跡概要
ふりがな すがややかた
別名 菅谷城・重忠館
住所 埼玉県比企郡嵐山町菅谷字城

史跡指定 国指定史跡(平成20年<2008>指定) 史跡名:比企城館跡群(近隣の杉山城跡・小倉城跡・松山城跡とともに指定)
現況 史跡として整備されている
規模/比高 東西約500m×南北約400m/約m
目で見られる遺構 郭・空堀・水堀・土塁・櫓台・門跡・井戸跡
復元 木橋・空堀・土塁
存続時期 12世紀末、15世紀後半から16世紀前半
城主・城代・関係者 畠山重忠の居館か
山内上杉氏が増築か
現在のところ後北条氏と関連付けられる遺物は出ていない
城攻めの記録 記録・伝承ともになし
大手方向 西(鎌倉街道方面)
仮想敵方向 南および東
関連施設 埼玉県立嵐山史跡の博物館(http://www.ranzan-shiseki.spec.ed.jp/

 

巨大な平城・菅谷館

 

 私は10年くらい前は、岩手や青森の城館跡の調査をメインでやっていて、当地方は拠点城郭以外の中世の城のことを「館」と表し「たて」と呼びます。

 

 なのでどうしても今でもその癖が抜けず、油断すると「すがやだて」と言ってしまいます。

 

 そうすると関東の人には「?」となってしまうので気を付けています。

 

 むしろ多くの研究者と同じように「菅谷城」と呼んだ方が変に思われずに良いかもしれません。

 

 なので以後は、館跡と言わず、城跡と呼びますね。

 

 さて、搦手門から改めて三ノ郭に入ります。

 

 三ノ郭は、東西約260m、南北約130mでの規模で、おおよそ東半分がさきほど行った嵐山史跡の博物館の敷地となり、西半分は雑木林になっています。

 

菅谷館跡

写真1 菅谷館跡

 

 本当はここで中田正光先生の『秩父路の古城址』の縄張図をお見せしたいのですが、鉢形城跡のページでも述べた通り、先生から「昔の縄張図は恥ずかしいから載せちゃダメ」と言われているので、いつものごとく、強力な助っ人、余湖さんの「余湖図」にお出まし願いましょう(余湖くんのホームページ」から引用)。

 

余湖図

写真2 余湖図

 

 右手に土塁を見ながら歩きます。

 

三の郭土塁

写真3 三の郭土塁

 

 三ノ郭の西側には「正坫門(しょうてんもん)」と呼ばれる門跡があり、向こう側は西ノ郭です。

 

正坫門

写真4 正坫門

 

 「正坫門」の意味は分かりません。

 

 「正坫門」の内側には「蔀(しとみ)土塁」と呼ばれるものがあり、外側から内部を見たときに、中の様子が窺い知れないように構築したものです。

 

蔀土塁

写真5 蔀土塁

 

 菅谷城は、「坫」とか「蔀」とか、難しい漢字を繰り出してきますね。

 

 それはそれとして、本当に中が見えにくいか、門の方から見てみましょう。

 

菅谷館跡

写真6 菅谷館跡

 

 うーん、微妙。

 

 まあ、当時はもっと大きな土塁だったのでしょう。

 

 三ノ郭と西ノ郭との間の復元木橋から空堀の北方向を見ます。

 

三ノ郭と西ノ郭との間の空堀

写真7 三ノ郭と西ノ郭との間の空堀

 

 同じく空堀の南方向。

 

三ノ郭と西ノ郭との間の空堀

写真8 三ノ郭と西ノ郭との間の空堀

 

 西ノ郭へ来ました。

 

西ノ郭

写真9 西ノ郭

 

 西ノ郭は、東西約130m、南北約70mの規模で、やはり土塁に囲まれています。

 

西ノ郭

写真10 西ノ郭

 

 土塁の一角が切れていて、城の西側を南北に走る道へ出られるようになっており、城外との間の空堀は藪になっています。

 

西ノ郭

写真11 西ノ郭

 

 一旦城外へ出てみましょう。

 

西側城外

写真12 西側城外

 

 おや、何か説明板がありますね。

 

 おっ、山王古墳群だと!?

 

 以前来た時はまだ古代に興味がなかったのでスルーしていたみたいですが、説明板によるとこの近辺には東原・向原・寺山・原・山王などの大規模な古墳群があり、100基以上の古墳があったそうです。

 

 しかし現在見られるのは稲荷塚・寺山一号墳を除いては、ここ山王古墳群の20基ほどだそうです。

 

 へー。

 

 お、円墳だ!

 

円墳

写真13 円墳

 

 ここにも!

 

円墳

写真14 円墳

 

 ちょっと見ただけでも6基ありました。

 

 どうやら城跡の西側の道は鎌倉街道ということですが、私的には雑木林の端のこの窪みがそうなのでは?と思います。

 

鎌倉街道か

写真15 鎌倉街道か

 

 北方面は少し湾曲しているからやっぱり違うかな?

 

鎌倉街道か

写真16 鎌倉街道か

 

 でも当時の道はこれくらいの幅だったので、鎌倉街道の名残ではないかと思うのですが、いかがなものでしょうか。

 

 ではまた城内に戻ります。

 

 大手門跡と伝わる土塁の切れ目がありますが、なんとなく後世くさい。

 

 西ノ郭からまた三ノ郭へ戻り、二ノ郭との間の半島状の場所へ来ました。

 

二ノ郭との間の半島状の場所

写真17 二ノ郭との間の半島状の場所

 

 ここから南を眺めると、空堀の向こうに畠山重忠の像が立つ櫓跡が見えますが、そこには直接行くことはできません。

 

遠くに重忠像

写真18 遠くに重忠像

 

 堀には一部水が溜まっていますね。

 

堀

写真19 堀

 

 重忠さんが見えますが、重忠さんに会いに行くには迂回して行かなければなりません。

 

菅谷館跡

写真20 

 

 なので迂回しましょう。

 

菅谷館跡

写真21 

 

 三ノ郭にある博物館の南側の土塁は復元です。

 

復元土塁

写真22 復元土塁

 

 空堀跡は道になっています。

 

空堀跡の道

写真23 空堀跡の道

 

 さあ、ニノ郭にやってきました。

 

ニノ郭

写真24 ニノ郭

 

 重忠さんにご挨拶しましょう。

 

畠山重忠像

写真25 畠山重忠像

 

 「ご尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じ奉ります!」(意訳:会えて嬉しいぜ!)

 

畠山重忠像

写真26 畠山重忠像

 

 そして前回来た時の写真。

 

畠山重忠像

写真27 畠山重忠像

 

 なんですか、このポッチャリ具合は!

 

 顎が二重になっているじゃないですか!

 

 上の写真は一緒に来た友人に撮ってもらったのですが、当時は優に80kgはありました。

 

 それよりさらに10年前は60kgなかったので、何と10年で25kgも太ってしまったのです。

 

 1.5倍の増量。

 

 健康に良いわけがない。

 

 そして現在は70kgで落ち着いて、若干重い感じもしますが、動きが悪くなったのは年齢のせいもあります。

 

 さて、そんな追憶は良いとして、櫓台から南側を眺めてみましょう。

 

 本郭の虎口が見えます。

 

本郭虎口

写真28 本郭虎口

 

 二ノ郭。

 

菅谷館跡

写真29 二ノ郭

 

 それでは、櫓台から降りて二ノ郭をウロついてみます。

 

 本郭のダイナミックな土塁。

 

本郭土塁

写真30 本郭土塁

 

 南側に延びる空堀。

 

空堀

写真31 空堀

 

 本郭北側の土塁を真西から見ると、土塁の出っ張り具合(横矢)が良く分かりますね。

 

横矢

写真32 横矢

 

 あ、さきほどもチラッと見かけた人がいる。

 

 「お城めぐりですか?」

 

 私は最近は、城跡で出会った人にはなるべく話しかけるようにしています。

 

 その方は鶴ヶ島市内(川越市の西隣)から来たそうで、今まではあまり自分家の近所の城跡を見てなかったので、最近見てまわっているそうです。

 

 そうなんですよね、家から近いと「いつでも行ける」と思って意外と行かないんですよね。

 

 しばらく立ち話をした後は、次に南郭へ行ってみます。

 

南郭

写真33 南郭

 

 ついでに水の手虎口から都幾川の河岸に出てみますが、ちょっとした土塁があるだけであとは自然の河原です。

 

 なので南郭へ戻るといよいよ本郭へ進入です。

 

菅谷館跡

写真34 

 

 本郭は東西約150m、南北約60mの規模で、畠山重忠が居館としていたのが本当ならば、この範囲が当時の城域なはずです。

 

菅谷館跡

写真35 

 

 ただ12世紀末に構築された館は、こんなに高い土塁は築かないはずなので、土塁も発掘すれば分かると思いますが、何層にもなっていると思います。

 

 そして虎口があまりにも単純なのが特徴です。

 

 横矢を効かせた土塁の凸部も、やはり戦国以降の改修だと思います。

 

 東側には「生門跡」というのがありますが、やはりこれも名前の由来は分かりません。

 

 さて、これで菅谷城跡は全部見ました。

 

 時刻はまだ14時10分です。

 

 本当はこの後、大蔵館跡へ行こうと思っていたのですが、さきほど会った方に小川町の中城跡が良いと聞いていて、たまたま先ほど博物館で買った『改訂 歩いて廻る「比企の中世・再発見」』 に中城周辺の簡単なアクセスマップが載っているので、そっちに行ってみることにしましょう。

 

 駅へ向かって歩いていると、自販機の横に「むさし嵐丸」というキャラクターが描かれていました。

 

むさし嵐丸

写真36 むさし嵐丸

 

 武蔵嵐山駅まで戻ってきました。

 

武蔵嵐山駅

写真37 武蔵嵐山駅

 

 あれ、でも前回来た時にランチを食べた食堂がなかったような・・・

 

大衆食堂嵐山亭

写真38 大衆食堂嵐山亭

 

 この食堂はもうないのでしょうか?

 

 翌年の2月1日に再度確認しましたが、この場所は信用金庫になっていました。

 

 こういう地方の食堂って結構美味しいところが多くて、確かあの時、たぬさんから新選組好きの若い女の子が天然理心流を習ったりしているという話を聞きましたが、帰ってから数ヶ月後、私も入門しちゃいました。

 

 そしてあれから10年経って、今度は娘が入門する気満々になっています。

 

 それでは次は、東上線に乗って隣の小川町駅を目指します。

 

 つづきの記事はこちら

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 現地備えつけパンフレット
  • 中世城郭の研究』 小室栄一/著 1965年
    第三京浜が作られる前の縄張図が掲載されている
  • 日本城郭大系5 埼玉・東京』 柳田敏司ほか/著 1979年
  • 「菅谷館の発掘調査」 (『日本城郭史研究叢書3 武蔵野の城館址』所収) 小野義信/著 名著出版 1984年
  • 『秩父路の古城址』 中田正光/著 2001年(新装版。初版は1982年)
  • 『企画展 道灌の時代 戦国時代は関東から始まった』 嵐山史跡の博物館/編 2014年
スポンサードリンク



 

ご意見・ご感想は、稲用章

inayouアットマークa.email.ne.jp

までお願いします。

 




関連ページ

稲荷塚古墳
稲荷塚古墳はかつては古墳群を形成していた中の一基でしたが、今は唯一残った古墳となりました。
墳丘・石室ともに損壊を受けていますが、当地域における貴重な古墳なので大切にしたいです。
杉山城
嵐山史跡の博物館
埼玉県立の歴史系博物館の一つ。