◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

関東戦国史における台風の目ともいうべき城郭・松山城

最終更新日:2016年3月27日

 

松山城概要

 

ふりがな まつやまじょう
住所 埼玉県比企郡吉見町南吉見

交通 東武東上線東松山駅下車、徒歩約30分
史跡指定 比企城館跡群
指定日:昭和48年(1973)5月26日
追加指定日:平成20年(2008)3月28日

 

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第1回 探訪記録

 

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第2回 探訪記録

 

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第3回 探訪記録

 

探訪年月日 2016年3月13日(日)
天候 曇り
探訪ルート 松山陣屋 → 妙賢寺 → 松山城 → 羽黒神社古墳 → 青鳥城 → 小倉城
同道者 生源寺さん、A村さん、むらこしさん、シロキチさん、A井さん

 

 

 

 妙賢寺を出て、松山城および吉見百穴の駐車場に着いたのは、待ち合わせ時間ピッタリの10時でした。

 

 おや、あそこにいるのはA井さんだな。

 

 広ーい駐車場には車が無く、どこにでも止め放題です。

 

 ペーパードライバーのむらこしさんが「これなら止めれる」と呟きました。

 

 私なんかはむしろ、どこに止めようか考えちゃって奇妙な動きをしそうです。

 

生源寺さんの赤い車だけポツンとある

写真1 生源寺さんの赤い車だけポツンとある

 

 駐車場から松山城を見ます。

 

松山城遠景

写真2 松山城遠景

 

 松山城の最高所は本郭で標高57.9m、駐車場の場所が標高16mくらいなので、こちら側の比高は大ざっぱに約40mと考えておけばいいと思います。

 

 A井さんとシロキチさんと合流したので、まずは百穴のトイレを借りてから出発しましょう。

 

吉見百穴

写真3 吉見百穴

 

 駐車場にトイレは無く、トイレを借りるにはお金を払って百穴に入らなければなりませんが、トイレだけであればそこは係の人と応相談ということで・・・

 

 ちなみに吉見百穴は「ひゃくあな」と呼ぶ人と「ひゃっけつ」と呼ぶ人がいて、正式名はどちらでも良いのですが、地元の方は「ひゃくあな」と呼ぶようで、私も「ひゃくあな」と呼んでいます。

 

 横穴墓も「よこあなぼ」と「おうけつぼ」の呼び方がありますが、こちらも私は「よこあなぼ」派です。

 

 では、ここからは松山城のガイドボランティアをやっているA井さんにガイドをお願いしましょう。

 

 A井さんによると、現在の駐車場に入る道路の部分は市の川の旧河道で、この辺りの流域は岩室川と呼ばれています。

 

 旧河道はもっと百穴方向にえぐれていたわけですから、松山城の北側は現在見られるより川によって守られていた箇所が長いことになりますね。

 

 なお、松山城という名前から、東松山市にある城だと思われることもありますが、川のこちら側は比企郡吉見町になります。

 

 しかも近世より前は、比企郡でもなく横見郡だったのです。

 

 A井さんは先週もガイドをしたばかりということでしたが、今回は粟村さんが初探訪、むらこしさんも2回目ということで、一番オーソドックスなコースをお願いしました。

 

 最初に来たのは岩室観音です。

 

岩室観音

写真4 岩室観音

 

 弘仁年間(810〜824)の創建ということですが、はっきりしたことは分かりません。

 

 現在のお堂は、寛文年間(1661〜73)に建てられたもので良い風格です。

 

 ここには88体の石仏があり、これで四国のお遍路ツアーの代わりができてしまうのですが、以前この石仏の首を全部切り落とした悪辣な人がいたそうです。

 

 なので石仏には補修の跡があります。

 

 そしてお堂の裏はこのように上に登れるようになっています。

 

写真5 弾正上がり

 

 天文6年(1537)、北条氏綱は扇谷上杉朝定の居城河越城を攻め、朝定は守り切れずに重臣難波田弾正が城代を勤める松山城に逃げてきます。

 

 伝承では、朝定が逃げて来た時、難波田弾正が13歳の朝定を馬に乗せてここを駆け上がって城に入ったとされ、蹄の跡も残っているということだったので、すかさずシロキチさんが「え、どこにあるの?」と突っ込みました。

 

 もちろん伝承なのではっきり「ここに」とは言えないんですよね。

 

 ではいよいよ城に登ります。

 

 今回も前回来た時と同じで、曲輪4の南側から入るということで、ぐるっと回っていきます。

 

 ここでいつものごとく、「余湖くんのホームページ」所収の余湖図で松山城の全体像をイメージしていただきます

 

図1 余湖図

 

 また、松山城は平面形が面白いので、真上から見た図ということで現地説明板の図も合わせて示します。

 

説明板の図

写真6 説明板の図

 

 東側のシタ小路。

 

シタ小路

写真7 シタ小路

 

 この道の先には根古屋地名があることから、往時は下級家臣団の屋敷がこの先に並んでいたのでしょう。

 

 春日虎口から城内に入って行きます。

 

春日虎口から続く道

写真8 春日虎口から続く道

 

 こちら側からの勾配はなだらかで、最初出てきた広い曲輪は「曲輪4」です。

 

曲輪4

写真9 曲輪4

 

 西側には土塁が見えますね。

 

 曲輪4は、余湖図では「三の郭」と書かれている場所です。

 

 実は昔はそう呼ばれており、今日持参して皆さんに配った中田正光先生謹製の縄張図にもそう書かれており、皆さんを少し混乱させてしまいました。

 

 A井さんによると、曲輪4とその東側は、上杉謙信が越山してくるようになってから増築された部分だそうです。

 

 皆さん思い思いに散策を開始しました。

 

思い思いに見る

写真10 思い思いに見る

 

 

 

写真11 この先の道は鉤の手になっている

 

写真12 三ノ曲輪

 

 北側の先端部から空堀を覗くと藪の中に土橋が見えました。

 

写真13 この先の道は鉤の手になっている

 

 手元の中田先生の図にもそれらしきものが書かれています。

 

 さすが、中田先生!

 

 

写真14 この先の道は鉤の手になっている

 

写真15 この先の道は鉤の手になっている

 

写真16 この先の道は鉤の手になっている

 

写真17 この先の道は鉤の手になっている

 

写真18 この先の道は鉤の手になっている

 

写真19 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

写真1 この先の道は鉤の手になっている

 

 松山城の南西側斜面には関東に数例しかない(西股先生によると4例)畝状竪堀群がありますが、そちら方面は藪が凄いです。

 

 でもせっかくなので、ちょっと藪こぎしながら探してみましょう。

 

 うーん、竪堀っぽい窪みがあるなあ。

 

竪堀

写真1 竪堀

 

 生源寺さんとさらに奥に進みます。

 

 これもかな?

 

竪堀

写真1 竪堀

 

 と、気付くと私と生源寺さんは他のみんなとはぐれていました。

 

 結構下まで降りてしまったので、また上に登るのはやめて駐車場へ戻りましょう。

 

 一旦道路に出て、テクテク歩きます。

 

 岩室川。

 

岩室川

写真1 岩室川

 

 歩きながらA村さん、シロキチさん、むらこしさんに立て続けに電話をしましたが皆さん出ません。

 

 まあ、駐車場で待ってれば戻ってきますよね。

 

 おっと、これは昔営業していた「岩窟ホテル」じゃないですか?

 

写真1 岩窟ホテル

 

 むらこしさんから電話があり、駐車場まで戻ってくださいと伝えると、私と生源寺さんは駐車場で待機です。

 

 少し待って皆さんが戻ってきて、聞くと皆さんも藪こぎをして竪堀を見ることができたそうです。

 

 よし、結果オーライ。

 

 それでは次は、本日のメインイヴェントである「羽黒ツヅキの踏査」をしましょう!

 

【参考資料】

  • 『新編武蔵風土記稿』「巻之百九十五 比企郡之十 松山町」 昌平坂学問所/編 1830年
    ↑クリックすると国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページへリンクします
  • 『歴史地理学紀要 27』所収「埼玉県東松山市における都心移動の空間認知に関する歴史地理学的研究」 脇田武光/著 歴史地理学会/編 1985年
  • 現地説明板

 

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