◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

伊勢宗瑞が生涯愛した城・韮山城

最終更新日:2016年3月26日

 

韮山城概要
ふりがな にらやまじょう
別名  
住所 静岡県伊豆の国市韮山韮山

史跡指定 伊豆の国市指定史跡
史跡名:
指定日:年()月日
現況 城跡
規模/比高 東西130約m×南北500約m/約35m
目で見られる遺構 郭・土塁・堀切
復元 なし
存続時期 明応4年(1495年)?〜慶長6年(1601)
城主・城代・関係者 伊勢宗瑞(北条早雲)、北条氏規、内藤信成
城攻めの記録 天正18年(1590)3月29日から
【守】北条氏規(3600) vs 【攻】 織田信雄・細川忠興・蒲生氏郷・蜂須賀家政・福島正則(4万4千) → 6月24日開城
大手方向
仮想敵方向
関連施設
その他 伊豆の国市ホームページ内韮山城

 

第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2013年11月23日(土)
天候 晴れ
探訪ルート 山中城 → 興国寺城 → 韮山城
同道者 粟村さん

 

 興国寺城の探訪を終え、次は韮山城跡を目指します。

 

 ルートは三島市まで国道1号線で東進し、そこから南に折れ、国道136号線で伊豆の国市の韮山城跡へ向かうことにしました。

 

 ところが、三島に近づくと道路は大渋滞です。

 

 今日は土曜で祭日なので、皆さんどこかへお出かけに行くのだろうと思います。

 

 そういう我々もお出かけです。

 

 ようやく南に折れ、国道136号線に入りましたが、こちらはもっと凄い渋滞です。

 

 全然車が進みません。

 

 みんな何をしに伊豆半島へ向かうのでしょうね。

 

 そういう我々はお城を見に向かっています。

 

 運転する粟村さんもまったく土地勘がないのですが、思い切ってルートを変えてみました。

 

 するとそれが功を奏し、なんとか伊豆の国市に入ることができました。

 

 ところで、よく歴史好きの人と、合併によって新しく誕生した自治体の名前について批評するのですが、私も粟村さんも「伊豆の国市」という名前に対しては不評です。

 

 こういう昔からあった由緒ある地名を捨てて、訳の分からない名前にしてしまうのは、自ら地域の文化を捨てているようなものです。

 

 文化的自殺行為です。

 

 そんななかで、千葉県の話になってしまいますが、匝瑳市民は素晴らしい決断をしました。

 

 匝瑳市は、平成18年(2006)1月23日に八日市場市と匝瑳郡野栄町が合併して生まれたのですが、よくぞ「匝瑳」という古代から続く歴史的な名前を付けてくれました。

 

 「匝瑳」は、「そうさ」と読むのですが、こんなのは普通の人は読めませんよね。

 

 しかしその難読地名を敢えて採用した、匝瑳市民の決断に私は感動したものです。

 

 あ、話が逸れてしまいましたね。

 

 韮山城跡の住所は、「伊豆の国市韮山韮山」という名前なのですが、合併前は「韮山町韮山韮山」でした。

 

 何回「韮山」を言わせるんだ!

 

 「韮」の字をずっと見ていると、何だか変な気持になりますね。

 

 夢に出てきそうです。

 

 そんな韮山城跡の近くにある、韮山郷土史料館には、15時40分に着きました。

 

 興国寺城跡から1時間50分も掛かってしまった!

 

 韮山城跡の近くには数多くの歴史スポットがあり、歴史マニアにはたまらない場所なのですが、今日は時間がないので、韮山城跡一つに絞ります。

 

 郷土史料館から西の方へ歩いていくと、前方にこんもりとした山が見えました。

 

韮山城跡遠景

写真1 韮山城跡遠景

 

 あそこが韮山城跡でしょう。

 

 その横には、富士山が見えます。

 

写真2 富士山

 

 韮山城跡の東側には大きな池があり、太公望たちが釣り糸を垂らしています。

 

 池沿いを歩いていると、釣り人の横に猫ちんがいます。

 

ん?

写真3 ん?

 

 あ、こちらにももう一匹。

 

今日の夕飯な何にしようかニャア

写真4 今日の夕飯な何にしようかニャア

 

 私は歴史めぐりの際に猫と遭遇すると必ず写真を撮るのですが、だいたい上手く撮れません。

 

 ほとんどの猫は逃げてしまいます。

 

 徐々に接近し、撮影を続けます。

 

早く釣れないかニャア

写真5 早く釣れないかニャア

 

 すると私に気付いた猫は少し私を見つめると、私の方に走り寄ってきました。

 

なんか呉れそう

写真6 なんか呉れそう

 

 そして甘えてきました。

 

 あまり近づかれても写真が撮れない・・・

 

ちかっ!

写真7 ちかっ!

 

 我が家ではかつて猫を飼っていたので、猫については少し知っているのですが、この猫はまだ元服前の年頃で、とても毛並みが良いので、野良猫であっても食べ物には苦労していないようです。

 

でも本当はお腹はあまり空いてないニャア

写真8 でも本当はお腹はあまり空いてないニャア

 

 首輪はしていませんが、もしかすると飼い猫で、日中はこうして池のそばでのんびりしているのかもしれません。

 

 とても可愛い顔をしており、かなり人間慣れしていますね。

 

ここに来る人間はみんな優しいよ!

写真9 ここに来る人間はみんな優しいよ!

 

 「何も食べ物は持っていないよ」と言いながら、少し遊んであげると(いや、反対に私が遊んでもらった?)、向こうで粟村さんが待っています。

 

 なので、猫と別れを告げ、韮山城へ登ってみることにします。

 

 さて、ここでまたまた、持参した「余湖くんのホームページ」に掲載されている「余湖図コレクション」を見てみることにしましょう。

 

余湖図の韮山城

図1 余湖図の韮山城

 

 今日は「余湖図コレクション」が大活躍です。

 

 余湖さんに感謝ですね(ちなみに余湖さんとは、15年くらい前に当時私がやっていた「奥州城壁癖」というサイトと相互リンクさせていただき以来、実にほそーくでありますが、繋がっています)。

 

 韮山城跡への入口は、図の「4」(W郭と表記)と、V郭との間の堀切です。

 

韮山城跡入口

写真10 韮山城跡入口

 

 堀切に入ると左手に社殿が見えます。

 

堀切から熊野神社社殿を見上げる

写真11 堀切から熊野神社社殿を見上げる

 

 V郭にある熊野神社ですね。

 

 堀切を上がっていくと、北側のW郭は、テニスコートになっていました。

 

W郭のテニスコート

写真12 W郭のテニスコート

 

 W郭は江戸時代末期に江川太郎左衛門英竜が農兵を調練した場所だそうです。

 

 現在はその場所で韮山高校のテニス部が調練に励んでいるというわけです。

 

 虎口を振り返ります。

 

虎口を振り返る

写真13 虎口を振り返る

 

 V郭の虎口でしょうか?

 

 土塁の切れ目があります。

 

土塁の切れ目

写真14 土塁の切れ目

 

 土塁の切れ目からV郭へ入ると、熊野神社の鳥居がありました。

 

熊野神社鳥居

写真15 熊野神社鳥居

 

 社殿は土が盛られた上に建っていますね。

 

土盛と熊野神社社殿

写真16 土盛と熊野神社社殿

 

 社殿が建つ土盛は元々は櫓台ではないかと思われますが、『日本城郭大系』によると権現曲輪と呼ばれ、その縁部には高さ50cmほどの低い土塁がめぐっています。

 

土塁で囲まれた社殿

写真17 土塁で囲まれた社殿

 

 熊野神社は、説明板によると明応9年(1500)、伊勢宗瑞(北条早雲)が韮山城の守護神として祭ったのが始まりです。

 

権現曲輪

写真18 権現曲輪

 

 現状を見ると、神社をわざわざ厳重な土塁で防御しているように見えますが、おそらく神様は最初城内の別の場所に祠程度の規模で居て、廃城になってだいぶ経ってから権現曲輪に社殿とともに祀られるようになったのではないかと思います。

 

 さて、V郭から南側のU郭を見ると、結構高低差があります。

 

V郭からU郭を見る

写真19 V郭からU郭を見る

 

 U郭へ上がってみると、U郭も土塁で囲まれています。

 

U郭

写真20 U郭

 

 U郭からT郭(主郭)を見ても、今度も高低差があります。

 

U郭から主郭を見る

写真21 U郭から主郭を見る

 

 U郭から主郭へ上がろうとすると、富士山が見えました!

 

主郭下の登り道から富士山を見る

写真22 主郭下の登り道から富士山を見る

 

 いいねえ!

 

 富士山の左側の山並みは興国寺城から見えた山並みじゃないかな?

 

興国寺方面を見る

写真23 興国寺方面を見る

 

 家に帰ってきてから調べたら、標高392mの鷲頭山を主峰として東と北に峰が派生する山塊で、沼津市域の部分は「沼津アルプス」と呼ばれていますが、韮山城側からは沼津市域の方の山は見えません。

 

 それではいよいよ最高所の主郭へ上がります。

 

主郭入口

写真24 主郭入口

 

 もちろん、主郭からも富士山!

 

主郭から見る富士山

写真25 主郭から見る富士山

 

 もう少し接近。

 

少しズーム

写真26 少しズーム

 

 山中城跡から見た富士山も素敵でしたが、韮山城跡から見る富士山もこれまた良いですねえ。

 

 そして例の山塊も。

 

例の山塊

写真27 例の山塊

 

 主郭には説明板があり、韮山城近辺の図があります。

 

主郭説明板の図

写真28 主郭説明板の図

 

 ご覧の通り、韮山城の周辺には砦や陣城が沢山あります。

 

 韮山城と尾根続きにある4つの砦は、韮山城を守るために築かれた砦で、東側の山に並ぶ陣城は、天正18年(1590)に豊臣政権軍が韮山城を囲んだ時に構築した陣城です(上の図は下が北)。

 

 韮山城に籠城した北条氏規以下の3600名は、圧倒的多数の豊臣政権軍に対して粘り強く抵抗をつづけたわけですが、そのさいに包囲を続けた豊臣の諸将が上図の陣城にいたわけですね。

 

 この旅から帰った後に入会した「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」の理事である城郭研究家の中田正光先生は、2015年に上図の陣城をすべて踏査しました。

 

 かなりアドヴェンチャーな箇所もあり、踏査はかなりの危険を伴ったそうです。

 

 富士山とは反対側の山々もまた良い感じですね。

 

写真29 南東側の山々

 

 我々の他にも、主郭には若いカップルが来ていました。

 

写真30 

 

 地元の人か旅人かは分かりませんが、こういう素晴らしい風景を二人で共有するって良い体験になりますよね。

 

 主郭から富士山方向のパノラマ合成写真を作ってみました。

 

 クリックすると拡大しますので見てみてください。

 

写真31 主郭からのパノラマ

 

 明応2年(1493年)、駿河東部の興国寺城を拠点に伊豆経略に乗り出した伊勢宗瑞(北条早雲)は、2年後の明応4年には伊豆を支配していた堀越公方の足利茶々丸を国外へ追放させることに成功し、それにより韮山城を築城し、拠点を移しました。

 

 茶々丸は関東管領山内上杉氏や甲斐(山梨県)の武田信縄らに支援され、各地で策動を繰り返し宗瑞を悩ませます。

 

 しかし茶々丸の抵抗は意外な形で終焉を迎えました。

 

 明応7年(1498)8月25日、この地に巨大地震が発生し、甲斐で抗争していた武田信縄と父信昌は和平するに至り、それと同時に茶々丸は切腹に追い込まれました。

 

 もちろん、地震発生の責任を取って茶々丸は切腹したのではなく、『北条早雲とその一族』で黒田基樹氏が推測するところによれば、信縄・信昌の和睦には今川氏(宗瑞)の承認も必要であったに違いなく、和睦の条件として信縄による茶々丸支援の打ち切りがあったのではないかとしています。

 

 支援者を失った茶々丸は進退きわまって自殺したのかもしれません。

 

 大地震発生という偶然によって宗瑞は伊豆統一を完了させ、その後、相模(神奈川県)へ侵攻し、文亀元年(1501)より前には小田原城を落とし、永正13年(1516)には三浦半島の雄族・三浦氏を滅亡させ、相模をも統一してしまいました。

 

 その頃には宗瑞は、今川家御一家という立場から脱皮し、伊豆・相模を領する戦国大名としての地位を確立したわけです。

 

 宗瑞はその後、海を越えて上総(千葉県)にも手を出し、永正15年(1518)9月に隠居し、氏綱が伊勢家を継ぎました。

 

 宗瑞は韮山城がとても気に入っていたらしく、余生は韮山城で過ごすことにしましたが、隠居して気が抜けてしまったのか、翌永正16年に、64歳で没しました。

 

 我々が見た富士山を宗瑞も見ていたと思うと、とても感慨深いです。

 

富士山

写真32 富士山

 

 2015年8月15日に、八王子にて「NPO法人 伊豆学研究会」理事長の橋本敬之さんの講演を聴いたのですが、講演の後橋本さんから聴いたところによると、韮山城からきれいな富士山が見えることはそんなにないそうです。

 

 ですので我々は、午前中に行った山中城から見た富士山も含み、この日は非常に運が良かったのですね。

 

 宗瑞の子氏綱の代になると、名字を伊勢から北条に変えましたが、氏綱の晩年には北条家は伊豆・相模だけでなく、駿河の東半分、武蔵の南半分、そして下総の一部まで領有するようになりました。

 

 『戦国北条一族』によると、氏綱は領国を郡あるいは領という単位で分け、それを支配する城を取り立て、小田原の本城に対して支城と称しました。

 

 伊豆は、北側の口伊豆と南側の伊豆奥に分けられ、それらを統治する拠点になったのが韮山城です。

 

 韮山城には伊豆両郡の郡代笠原綱信と清水氏が配されました。

 

 笠原綱信は、『小田原旧記』によると、五家老衆・五色備のうちの「白備」の武将です。

 

 ちなみに、他の4名は、赤備が北条綱高、青備が富永直勝、黄備が北条綱成、黒備が多目元忠となっています。

 

 さて、主郭の先には、「余湖図」で「5」と記されている先端部までニョロニョロと尾根が続いています。

 

 主郭から先に伸びる尾根に行っています。

 

主郭の先

写真33 主郭の先

 

 尾根を歩いて先端まで行くと、そこは土塁で囲まれた小さな郭でした。

 

塩倉跡

写真34 塩倉跡

 

 『日本城郭大系』によれば、ここには塩倉があったと伝わっているようです。

 

 先端部から崖下をのぞくと、凄い角度になっています。

 

 しかも一見したところ、比高差が50メートルくらいあるように見えます。

 

 これは絶対に攻め手は登れない。

 

 ここまで見てきて、韮山城は相当堅固な城であったことが分かりました。

 

先端部土塁の上から

写真35 先端部土塁の上から

 

 虎口というか、出入り口のような土塁の切り込みがあります。

 

土塁の切り込み

写真36 土塁の切り込み

 

 何かこういう閉鎖された空間って良いですね。

 

 この塩倉跡は10m四方程度なので、自分の部屋のようで良いです。

 

塩倉跡

写真37 塩倉跡

 

 あ、もちろん私の部屋はもっと狭いですが。

 

しつこく富士山

写真38 しつこく富士山

 

 天正18年(1590)の豊臣政権による後北条氏攻めの際、山中城とともに、ここ韮山城も豊臣勢に攻められました。

 

 豊臣勢は、織田信雄(信長の二男)・蒲生氏郷・蜂須賀家政・福島正則ら錚々たる武将たちに率いられた総勢合計4万4千余の軍勢です。

 

 それに対して、籠城側は先代氏政の弟氏規が3600の兵とともに守っていました。

 

 その差は10倍以上。

 

 もとより、氏規に勝ち目はありませんでしたが、それでも氏規以下の北条勢は士気すこぶる盛んで、豊臣勢の攻撃をはねのけます。

 

 攻撃は山中城と同じく、3月29日から始まりましたが、籠城側は粘りに粘り、6月7日に至ると徳川家康は朝比奈泰勝を城へ送り、説得工作に乗り出しました。

 

 氏規は迷いましたが、関東の味方の城がことごとく落城したことを知ると、ついに24日、城を出て家康の元へ投降します。

 

 10倍以上の圧倒的な兵力の敵に対して、3ヶ月近くも戦い抜いた氏規の不屈の精神力と類まれな統率力は称賛に値しますね。

 

 小田原落城によって、氏規の長兄で先代の氏政と次兄の氏照は切腹しましたが、氏規は元々家康と懇意であったこともあり命を助けられ、のちに秀吉に召し抱えられ河内国(大阪府)で6900石を給されました。

 

 氏規の子氏盛は、狭山藩1万1000石の藩主となっています。

 

 一方、韮山城自体には、氏規のあと家康家臣の内藤信成が入りましたが、慶長6年(1601)2月に信成は駿河府中4万石に転封となり、韮山城は廃城となりました。

 

 さて、韮山城跡探訪に満足した我々は、車へ戻ることにします。

 

 途中の池では、まださきほど見かけた猫ちんが佇んでしました。

 

さきほど見かけた猫ちん

写真39 さきほど見かけた猫ちん

 

 さっき遊んだ猫と一緒にいたもう一匹の猫ですね。

 

柱に隠れてこちらを窺う

写真40 柱に隠れてこちらを窺う

 

 ちょっと柱に隠れてこちらを窺う様子が可愛いです。

 

 さっき私にまとわりついてきた猫ちんもいました。

 

さっき遊んだ猫ちん

写真41 さっき遊んだ猫ちん

 

 池の横を歩いて行くと、さきほどの二匹の猫よりも大きい、大人の猫がいました。

 

お母さん?

写真42 お母さん?

 

 多分、お母さんでしょう。

 

 戦国時代、激戦が繰り広げられたこの地では、今では池端に猫がまどろむ平和な風景が広がっています。

 

池と猫

写真43 池と猫

 

 時計を見ると16時20分です。

 

 40分間の探訪でした。

 

江川邸正門

写真44 江川邸正門

 

 これから八王子へ戻ることになりますが、当初の予定では帰って車を置いた後、打ち上げをやる予定でした。

 

 しかし今日は時間がないと思ったので、帰りに粟村さんのお気に入りのラーメンを食べて帰ることにしました。

 

 立ち寄ったのは秦野市にある「なんつッ亭」です。

 

なんつッ亭

写真45 なんつッ亭

 

 なんと粟村さんはここのラーメンを食べに、2時間かけて車で来るそうです。

 

 夕飯時ということもあって、行列ができています。

 

 店内まで列が進むと、店員さんも良く声を出していて、とても元気で活気のある店でした。

 

 こういう雰囲気の店って良いですねえ。

 

 なんつッ亭のラーメンは、マー油の入った豚骨ラーメンですが、私はマー油はカップラーメンでしか食べたことがなく、お店で食べるのは初めてです。

 

 私は辛いのが好きなので「赤マー油スペシャル」を頼みました。

 

 少し待ってラーメンが運ばれてきました。

 

赤マー油スペシャル

写真46 赤マー油スペシャル

 

 撮影角度が悪く、ネギの向こう側にある味玉が「味玉チラリズム」になっています。

 

 私も粟村さん同様ラーメンは大好物で、豚骨も大好きなんですが、マー油の効いた豚骨ラーメンも美味しいですね。

 

 辛さはそれほどではなく、ちょうど良いくらいです。

 

 チャーシューもコクがあって凄く旨い!

 

 とても美味しいラーメンを食べることができて幸せでした。

 

 さて、これからさらに車を駆って八王子へ向かいます。

 

 粟村さんは80年代半ばの生まれなのに、80〜90年代の邦楽ばっかり聴くそうで、車の中では昔の音楽が流れています。

 

 結局、高尾に着いたのは21時半くらいでした。

 

 今日探訪した山中城興国寺城跡・韮山城はどれも面白い城跡で、素晴らしい富士山も見ることができ、また美味しい海鮮丼とラーメンが食べられて、本当に楽しい一日でした。

 

 粟村さん、本当にありがとうございました。

 

 この場を借りて再度お礼申し上げます。

 

 これに懲りなければ、また仕事が暇になった来年にでも第二弾をやりましょうね。

 

 この翌年、粟村さんとの城めぐりの第二弾として一泊二日で山梨県の城めぐりを実施し、10月11日には、岩殿城跡要害城跡新府城跡を探訪し、翌日には甲府城跡躑躅ヶ崎館跡恵林寺雲峰寺景徳院を探訪しました。

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『小田原衆所領役帳』 杉山博/校訂 1969年
  • 日本城郭大系 9 静岡・愛知・岐阜』 小和田哲男/静岡県責任編集者 1979年
  • 『静岡県 古城めぐり』 小和田哲男/韮山城執筆者 1984年
  • 『戦国遺文 後北条氏編 第三巻』 杉山博・下山治久/編 1991年
  • 『戦国遺文 後北条氏編 第四巻』 杉山博・下山治久/編 1992年
  • 『戦国遺文 後北条氏編 第五巻』 杉山博・下山治久/編 1993年
  • 『小田原旧記』(『三鷹市史 史料集 第三集』所収)
  • 『戦国北条一族』 黒田基樹 200年
  • 『北条早雲とその一族』 黒田基樹 2007年
  • 『戦国武将合戦事典』 峰岸純夫・片桐昭彦/編 2005年

 

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