◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

箱根を越えんとする天下人の軍勢を阻止せよ!堅塁山中城

最終更新日:2016年3月20日

 

山中城概要
ふりがな やまなかじょう
別名  
住所 静岡県三島市山中新田・函南町城山

史跡指定 国指定史跡
史跡名:山中城跡
指定日:昭和9年(1934)1月22日
追加指定日:昭和54年(1979)3月20日
現況 山中城跡公園
規模/比高 東西約400m×南北約800m/街道からの比高はあまりないが標高は586m
目で見られる遺構 曲輪・櫓台・土塁・空堀(障子堀・畝堀)・虎口
復元 曲輪・櫓台・堀などを整形、木橋
存続時期 永禄4年(1561)以前〜天正18年(1590)
城主・城代・関係者 城主:北条氏勝
城代:松田康長
城攻めの記録 天正18年(1590)3月29日
【守】北条氏勝・松田康長(4千) vs 【攻】豊臣秀次(2万)・堀秀政(2万)・徳川家康(3万)の合計7万 → その日のうちに落城
大手方向
仮想敵方向 西
関連施設
その他 日本100名城

 

第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2013年11月23日(土)
天候 晴れ
探訪ルート 山中城 → 興国寺城 → 韮山城
同道者 粟村さん

 

1.イントロダクション

 

 私は今年(2013年)9月の終わりに某ハウスクリーニング会社にアルバイト採用されたのですが、10月2日、初めて現場に出ることになりました。

 

 他の仕事でどんなに場数を踏んでいる私でも、清掃の仕事は初めてだったので、緊張しながら出社したわけです。

 

 出社後、粟村さんの車に乗り込み現場へ向かいました。

 

 車中、話をしているうちに、粟村さんが「僕は旅が好きなんですよ」と言ったので、「私も歴史が好きなので色々なところへ行きますよ」と返すと、粟村さんも「僕も歴史が好きなんですよ!」と応じてきました。

 

 聞くと、粟村さんは史学科の卒業で、中世を専攻していて、卒論は武田勝頼について書いたそうです。

 

 そんな感じでその日一日は、移動中と休憩中はずっと歴史の話をしていたのですが、現場初日がこのような感じだったので、私はとても救われました。

 

 そして城も好きな粟村さんは静岡の山中城をお薦めし、「今度一緒に静岡方面の城めぐりをしましょう」と約束しました。

 

 山中城はまだ私は行ったことがありません。

 

 私は車を持っていないので、交通の不便な山中城へ行くのは結構大変なのですが、粟村さんが車を出してくれるということなので、お言葉に甘えて連れて行っていただくことにしました。

 

 11・12月は掃除の仕事の繁忙期なのですが、ようやく11月23日の勤労感謝の日が二人とも空いたので、「後北条氏勃興と終焉の城めぐり」というテーマで、山中城、興国寺城、韮山城を探訪してきました。

 

 

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2.実に7年ぶりに本格的な城めぐりに出発

 

 待ち合わせ時刻は7時。

 

 高尾駅まで迎えに来てもらうことになっています。

 

 時間より少し早く粟村さんはやってきて、早速車に乗り込み出発です。

 

 途中、コンビニに寄って朝ごはんを買い、一路山中城へ向かいます。

 

 普段私は朝はヨーグルトとバナナを食べて仕事に行っているのですが、城めぐりは仕事よりもハードなので、今日はおにぎりを2個買いました。

 

 あ、仕事よりもハードと言うのはもちろん冗談です。

 

 静岡県三島市と神奈川県箱根町の境(つまり昔の伊豆国と相模国との国境)にある箱根峠を越えた向こう側にある山中城へは、下の道を使って行くそうです。

 

 町田街道を南下し、旧城山町を通り、宮ヶ瀬湖に沿って進み、伊勢原市の国道246号まで出てきました。

 

 伊勢原市から秦野市へ入る前に、「この先に富士山の絶景ポイントがあるんですよ」ということだったので、期待していると、新善波隧道から出た途端、前方に大きな富士山が見えました。

 

 おーっ!

 

 急いでカメラを構え、助手席から撮影します。

 

新善波隧道を出たところから見る富士山

写真1 新善波隧道を出たところから見る富士山

 

 今日の天気は快晴、空気もとても澄んでいるみたいで、くっきりとした富士山を見ることができました。

 

 なんか、富士山を見るととても嬉しい気分になりますね!

 

 車はやがて小田原城の城下町を通り、箱根の山中に入っていきます。

 

 箱根新道を通り、天下の箱根峠を越えると静岡県に突入です。

 

 私は静岡県の城跡へは、1999年12月5日に下田城と深根城へ行ったことがありますが、下田城は遺構らしい遺構はなく、深根城は山の下まで行っただけなので、実質今日が初めての静岡の城めぐりと言ってよいです。

 

 峠道を下ってしばらく走り、9時45分、山中城へ到着しました。

 

 3時間弱で着きましたが、粟村さんによると今日は朝早く出発したせいか、いつもより早く着いたそうです。

 

 山中城の駐車場は結構広くて、すでに車が沢山停まっています。

 

 今日は資料として、余湖さんのサイト「余湖くんのホームページ」に掲載されている「余湖図コレクション」の図をプリントして持ってきたので、それを見ながら探訪することにします。

 

余湖図の山中城

図1 余湖図の山中城

 

 現地の説明板にも綺麗な絵図がありますので、これも合わせて掲載します。

 

現地説明板

写真2 現地説明板

 

 これらを見て分かる通り、山中城とその出丸である岱崎出丸で往時の東海道を挟みこんでおり、西から箱根峠を越えて関東に侵攻しようとする敵を峠の前面で抑止する役目を負っています。

 

 『戦国遺文 後北条氏編』所収「天正18年3月19日付け松田康長書状」(3687)を読むと、当時の認識としては本城小田原城を守るに当たり、箱根路は山中城、方浦口は韮山城、川村口は足柄城というように、この3城が小田原城西側防御の要でした。

 

 駐車場を出て、三の丸の西側を北へ向かって歩いていくと、左手に空堀が現われました。

 

北へ延びる三の丸西側空堀

写真3 北へ延びる三の丸西側空堀

 

 おー、久しぶりに見る空堀らしい空堀・・・

 

 中世城郭らしくて良いですね。

 

南へ延びる三の丸西側空堀

写真4 南へ延びる三の丸西側空堀

 

 実は私は最後に城めぐりの目的で出掛けたのが2006年8月10日ですので、実に7年振りに城めぐりにやってきたのです。

 

 たまたま粟村さんと上述した出会いがあったためにまた城の世界に戻ることができたわけです。

 

 この探訪の後、私は以前にも増して積極的に城めぐりをするようになり、多くのことを学ぶことができています。

 

 これも城めぐりに誘ってくれた粟村さんのおかげです。

 

 この空堀はよく見ると二重になっているのが分かりますが、説明板によると総延長は約180m、最大幅は約30m、深さは約8mありました。

 

 ただし、元々谷だったところを縦に畝を構築して二重にしており、東側は水路として使い西側は空堀だったそうです。

 

 この堀の北側には田尻池という池があり、またその先には箱井戸と呼ばれる池があり、説明板によると、当初は一面の湿地帯だったのを人工的に盛土で分離して、貴重な水を城内に供給していたそうです。

 

田尻池

写真5 田尻池

 

 この池の水が先ほどの堀に流れていたわけです。

 

 田尻池の手前からは左(西)へ向かいます。

 

 遊歩道の右手(北側)は二の丸の法面になっており、それを見上げながら進むと、西の丸と西櫓の間に、畝が格子状になった障子堀が現われました。

 

西の丸と西櫓の間の障子堀

写真6 西の丸と西櫓の間の障子堀

 

 これが、かの有名な障子堀か!

 

 そして、障子堀の向こうには、富士山がその雄姿のぞかせていました。

 

障子堀と富士山

写真7 障子堀と富士山

 

 いいねえ!

 

 西櫓の南側にも畝堀が廻っています。

 

西櫓南側の畝堀

写真8 西櫓南側の畝堀

 

 説明板によると、畝堀は往時はローム層(火山灰によってできた土)が露出しており、堀の斜面は滑って登れないようになっていたそうです。

 

 それでは、西櫓に登ってみます。

 

 すると、富士山がはっきりと見えました!

 

西櫓から富士山を見る

写真9 西櫓から富士山を見る

 

 山中城跡の標高は、最高所である本丸の天守櫓跡が586メートルあり、すごく眺望に優れており、左手には駿河湾が見えます。

 

西櫓から駿河湾を見る

写真10 西櫓から駿河湾を見る

 

 パノラマ合成写真を作ってみたので、ぜひ写真をクリックして拡大して見てみてください!

 

西櫓からのヴュー

写真11 西櫓からのヴュー

 

 「豊臣勢がこの城を攻めた時、籠城側はここから迫りくる敵の大軍を見てたんですねえ」と粟村さんが呟きました。

 

 天正18年(1590)3月1日、天下人・豊臣秀吉は関東の雄族・北条家を滅ぼすために出陣し、それに合わせて列島各地の豊臣勢力が小田原城へ向けて軍団を進発させました。

 

 東海道を馳せ下った豊臣勢は、3月29日、秀吉の甥秀次が率いる大手軍2万、堀秀政の右翼2万、徳川家康の左翼3万の合計7万の兵が山中城を取り囲みます。

 

 それに対して、北条氏勝率いる北条勢はその数4千とも5千とも言われ、多く見積もっても14分の1です。

 

 圧倒的な敵に対して氏勝とともに立ち向かう武将は、城代松田康長を筆頭に、朝倉元春・間宮康俊・同信俊・同信冬・同信重・多米長定・長谷川近秀ら一騎当千の輩(兵力・武将については『日本城郭大系』から引用)。

 

 氏勝ら城兵たちは圧倒的な敵の軍勢を見て何を思ったのでしょうか。

 

 『戦国遺文 後北条氏編』所収「天正18年2月10日付け北条氏勝書状写」(3644)によると、氏勝自身は「豆州山中城加勢僅五千」と、数が少ないことを認識しており、「天下之大軍可防様無之」、「山中城一日と持候事難成、彌討死ニ極候」と絶望的な戦局を予想しています。

 

 一方で、戦いの10日前、豊臣勢がすでに駿河にまで進駐してきている時点で、城代の松田康長は箱根神社に対して手紙を認めているのですが(同書3687)、その文面からすると非常に胆が据わっている印象を受け、箱根神社を安心させた上で、決戦に向かって討死する覚悟ができていたと想像できます。

 

 この二人の心構えの違いは、決戦の日にそれぞれ異なった態度として現れます。

 

 ここ西櫓には、その名の通り、かつては櫓が建っていました。

 

西櫓の櫓跡

写真12 西櫓の櫓跡

 

 良く見ると、土台の石のようなものが見えます。

 

西櫓の櫓跡の石

写真13 西櫓の櫓跡の石

 

 多分、合戦になる前はここにあった櫓の上で景色を眺めながら城主たちは宴会をしたこともあったんでしょうね。

 

 今日は見れませんが、夕刻の富士山もまた良い感じなんでしょうね。

 

 さて、ここから障子堀を見下ろしてみます。

 

西櫓と西の丸の間の障子堀

写真14 西櫓と西の丸の間の障子堀

 

 本などに載っている写真で見るより、やっぱり遺構は本物を肉眼で見ると感動しますね。

 

 説明板によると、障子堀の中央の区画からは水が湧き出ており、それが他の区画へ水を供給し、水堀と用水池を兼ねていたそうです。

 

 一見すると障子堀や畝堀は、畝の部分を伝ってかえって敵が侵入しやすいように見えますが、説明板にあったように、ローム層むき出しだと畝の上も滑りやすくなっており、しかも畝の部分は平坦ではなく、丸みを帯びていたということなので、そこから下に簡単に転落してしまうでしょう。

 

 一度堀底に落ちてしまうと、堀の壁面の角度的にまず這い上がることは不可能です。

 

 また、ここの障子堀のように水堀の部分も多くあったようなので、そうなると堀底が場所によって高低差があったとしても、畝で区切ることにより区画ごとに水を溜められるので、工事が楽になりますね。

 

 山城であるにも関わらず水堀を多用していることは、山中城の特徴の一つとなっています。

 

富士山と畝堀

写真15 富士山と畝堀

 

 しつこく富士山。

 

富士山

写真16 富士山

 

 石の標柱がありました。

 

石の標柱

写真17 石の標柱

 

 障子堀を別角度(北側)から見ます。

 

障子堀を別角度(北側)から見る

写真18 障子堀を別角度(北側)から見る

 

 見ての通り、ここの堀は一直線ではないのです。

 

横矢が効いている

写真19 横矢が効いている

 

 写真19の右手に写っている平場は西櫓ですが、そこからは堀内に進入した敵を効率よく攻撃できるようになっているのです。

 

 こういうのを城マニアの間では「横矢が効いている」と表現します。

 

 しかしそれにしても、何であの丸い植物を植えてしまったんでしょうね。

 

 昔、何かの城の本で初めて山中城跡の写真を見た時は「あれ?」と思いました。

 

 まあでも、整備されたのが結構昔なので仕方が無いかもしれません。

 

 今更全部切ってしまったら植物が可哀想ですしね。

 

 西曲輪の北側にも畝堀は続いています。

 

西曲輪北側畝堀

写真20 西曲輪北側畝堀

 

 愛鷹連山も綺麗に見えますね。

 

愛鷹連山

写真21 愛鷹連山

 

 説明板によると、西の丸や西櫓、そしてこのあと訪れる岱崎(だいさき)出丸は、豊臣政権との対決が秒読みになった天正17年(1589)に増築されたそうです。

 

 『戦国遺文 後北条氏編』所収「年不詳3月8日付け北条家朱印状写」(676)には山中筋で敵の動きが認められ、「山中堅固ニ可拘之」とあり、この文書は永禄4年(1561)のものと比定されていることから、その時点ですでに城は作られていた可能性が高いです。

 

 それが本丸・二の丸・北の丸・三の丸・元西櫓の部分だったのでしょう。

 

 その後、豊臣勢との対決ムードが高まる中、天正15年(1587)11月8日には、 田方郡桑原の百姓が山中城の普請のために集められており(同書3215)、確認できるだけでも、天正16年正月14日には桑原と塚本の百姓が(同書3270)、そして天正17年極月(12月)8日には梅縄の百姓が普請に協力しているので(同書3567)、この時期に西の丸や西櫓、そして岱崎出丸が次々と造られていったものと考えられます。

 

 ちなみに、この西櫓は実は馬出なのです。

 

 説明は現地説明板にお任せしましょう。

 

実は馬出

写真22 実は馬出

 

 城マニアには結構「馬出好き」が多いです。

 

 

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3.山中城の見どころは障子堀だけではない!

 

 それでは、西櫓を降りて、北の丸へ向かいます。

 

 西の丸と元西櫓の北側にある空堀の外側を歩きます。

 

 帯曲輪でしょうか。

 

 多分、この上は二の丸でしょう。

 

写真23 二の丸を見上げる

 

 北の丸へ上がると、ここでも土塁が出迎えてくれました。

 

北の丸土塁

写真24 北の丸土塁

 

 やっぱり、中世城郭といったら土塁と空堀ですね!

 

北の丸

写真25 北の丸

 

 北の丸は本丸天守櫓跡についで標高が高く、583メートルを誇ります。

 

 土塁は本丸側(東側)を除く三方に築かれていました。

 

 北の丸の北東側から下を見下ろすと、道路との間に空堀があります。

 

北の丸北東側の空堀

写真26 北の丸北東側の空堀

 

 北の丸の南東側には、空堀を挟んで本丸の天守櫓跡が見えます。

 

北の丸から本丸天守櫓跡を見る

写真27 北の丸から本丸天守櫓跡を見る

 

 本丸へは復元木橋が架かっているのが見えますね。

 

復元木橋が見える

写真28 復元木橋が見える

 

 説明板によると発掘調査の結果により往時も木橋が架かっていたことは明らかだそうです。

 

 木橋を渡り本丸へ入り、本丸の天守櫓跡へ登ります。

 

本丸天守櫓跡

写真29 本丸天守櫓跡

 

 「天守櫓」とかいうと、近世城郭みたいな白塗りの天守閣を想像するかもしれませんが、おそらく2階建ての櫓(やぐら)があったものと考えられます。

 

 説明板によると、櫓の乗っていた基壇は盛土により約50〜70cmの高さに構築され、一辺7.5mのほぼ方形で、四周には幅の狭い帯曲輪のような細い通路が一段低く作られていました。

 

 天守櫓跡から本丸を見下ろします。

 

天守櫓跡から本丸を見下す

写真30 天守櫓跡から本丸を見下す

 

 天守櫓跡から本丸へ降りてみましょう。

 

本丸

写真31 本丸

 

 さきほど登った本丸天守櫓跡が山中城の中での最高所で、既述した通り、標高586メートルを数えます。

 

 標高586メートルというと、私の地元の高尾山が標高599メートルなので、それと同じくらいということになりますね。

 

 そう考えると、山中城は本当に高い位置にあります。

 

 さきほどから何度も見ている、西側の富士山から駿河湾にかけての眺望は文句なしの素晴らしさですが、東側にたたなづく山々もなかなか良い眺めです。

 

本丸から東側の眺望

写真32 本丸から東側の眺望

 

 本丸の西側には、二の丸が展開していますが、その間の堀も畝堀となっています。

 

本丸と二の丸の間の畝堀

写真33 本丸と二の丸の間の畝堀

 

 二の丸に入ってすぐの場所には櫓台がありました。

 

二の丸東側櫓台

写真34 二の丸東側櫓台

 

 ちなみに、二の丸は『日本城郭大系』では、北条丸という名称で紹介されています。

 

 そして、粟村さんもすぐに不審な点を指摘しましたが、二の丸は地面が傾斜しているのです。

 

二の丸

写真35 二の丸

 

 私は岩手で、やはり郭が斜面になっている館跡に行ったことがあります。

 

 なぜ傾斜しているのか。

 

 建築物さえ注意して建てれば、斜面の方がかえって麓から攻めてくる敵に対して鉄砲や弓を応射できる人数が増えるので、守るのに良いのかもしれません。

 

 二の丸の西側の土塁の先は「コ」の字型に屈曲しています。

 

二の丸西側の土塁の先端から富士山

写真36 二の丸西側の土塁の先端から富士山

 

 粟村さんが登って行きました。

 

櫓台に登る粟村さん

写真37 櫓台に登る粟村さん

 

 私も続きます。

 

 櫓台から元西櫓を望見。

 

櫓台から元西櫓を見る

写真38 櫓台から元西櫓を見る

 

 ここからも富士山・・・

 

ここからも富士山

写真39 ここからも富士山

 

 こんなに富士山に気を取られていると、城を見に来たのか富士山を見に来たのかわかりませんね。

 

写真40 秋元橋

 

 二の丸西側の土塁先端の下は虎口(曲輪の入口)になっていて、道が屈曲しています。

 

二の丸虎口を土塁先端から見下す

写真41 二の丸虎口を土塁先端から見下す

 

 この虎口も山中城跡の見どころの一つでしょう!

 

二の丸虎口を外側から見る

写真42 二の丸虎口を外側から見る

 

 二の丸の虎口を出た先には写真38で見た通り、空堀を挟んで小さな曲輪があり、現在は元西櫓と呼ばれていますが、かつては無名曲輪と呼ばれていたのがその後の調査により元西櫓と呼ばれるようになりました。

 

 その名前からして、西の丸などを拡張工事する前の城域の最西端だったのでしょうか。

 

二の丸と元西櫓の間の堀

写真43 二の丸と元西櫓の間の堀

 

 最初の方に見た田尻の池に隣接している箱井戸跡までやってきました。

 

箱井戸跡

写真44 箱井戸跡

 

 さて、以上でだいたい本城の主要部を見終わったということで、次は三の丸跡にある宗閑寺へ行ってみましょう。

 

 何と帰ってきてから写真を整理していて気付いたことに、西の丸へ上がっていませんでした!

 

 ふ、不覚・・・

 

 実は探訪前には西の丸は絶対見ておこうと思っていたのです。

 

 というのも、『静岡県 古城めぐり』が引く『渡辺水庵覚書』によると、城代松田康長が籠って討ち死にしたのが西の丸と記されているからです。

 

 ただし、『日本城郭大系』には、康長は最後に本丸で討たれたと記されています。

 

 康長は西の丸と本丸のどちらで討ち死にしたのでしょうか。

 

 城主であれば、当然ながら本丸にいるはずですが、山中城の城主は「地黄八幡」で有名な北条綱成の孫の北条氏勝でした。

 

 しかし、前述した文書で見られたような悲壮感満々だった氏勝は、落城の前に城を脱出しており、最後まで籠城の兵を指揮して戦ったのは、決戦の10日前に箱根神社に対して冷静な手紙を書いていた康長でした。

 

 考えるに、戦いが始まったときには氏勝は本丸に居て、康長は西の丸を守っていたのではないでしょうか。

 

 氏勝が退去した後に康長が本丸へ入った可能性もあるかもしれませんが、激戦のさなか、そういう余裕はなかったかもしれません。

 

 康長の討死場所についてはもっと調べてみたいと思いますが、いずれにしても西の丸に上がることをすっかり忘れていたのは悔やまれます。

 

 なお、氏勝と康長の関係ですが、以下のような関係になります。

 

 北条
 為昌 =+― 綱成 ――― 氏繁 ―+― 氏舜
     |             |
     |             +― 氏勝
     |
     +― 妹
        |
 松田     |
 盛秀 ―+― 憲秀
     |
     +― 康定 ――― 康長

 

 北条家はその広大な領地を「領」や「郡」という区画に分割してそれを一族や重臣に支配させ、彼らは「衆」という単位に編成されていました。

 

 その「衆」の一つに「玉縄衆」というのがあり、玉縄衆の本拠地は神奈川県鎌倉市の玉縄城で、上述の系図の為昌以降が玉縄衆の責任者であり、一般的に「玉縄北条氏」と呼ばれます。

 

 一方、重臣松田氏は、『北条氏所領役帳』によれば、永禄2年(1559)の段階で、憲秀が北条の御家中(一族)を含めた全家臣の中で2番目の役高を持っており(トップは北条幻庵の約5457貫で、憲秀は2798貫)、山中城が築城された後は、憲秀の甥である康長が城代に任じられ守っていました。

 

 そこに豊臣政権の脅威に備えるために氏勝率いる玉縄衆が投入されたのです。

 

 『日本城郭大系』では、山中城を守った武将として氏勝と康長以下、朝倉元春・間宮康俊・同信俊・同信冬・同信重・多米長定・長谷川近秀の名が挙げられていますが、朝倉や間宮は玉縄衆に属する武将です。

 

 なお、『論集 戦国大名と国衆 9 玉縄北条氏』所収「中世と近世を生きた北条氏勝」(外山信司)によれば、山中城を脱出した氏勝は本拠地である玉縄城に入りましたが、4月21日に戦わずして開城し、その後は家康の家臣となり下総国弥富(千葉県佐倉市)で1万石を与えられ徳川大名となっています。

 

 地黄八幡・綱成の子孫は近世大名として生き残ったかに見えましたが、氏勝の跡は家康の異父妹を母に持つ保科氏重が継いだため、惜しくも綱成の血統は大名としては途絶えてしまいます。

 

 しかし、「玉縄北条氏」としての流れは、氏重以降も徳川の譜代大名として続いたのです。

 

 

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4.討死した両軍の武将が眠る宗閑寺

 

 三の丸跡にある宗閑寺にやってきました。

 

宗閑寺

写真45 宗閑寺

 

 説明板によると、宗閑寺は浄土宗のお寺で東月山普光院と号し、静岡市にある華陽院の末寺です。

 

 宗閑寺の墓地には山中城の戦いで討死した武将たちが敵味方の区別なく眠っているのですが、その武将たちを列挙すると、

 

  • 間宮豊前守康俊(普光院殿武月宗閑潔公大居士)
  • 康俊二弟監物(信俊か?圓誉宗覺居士)
  • 康俊三弟
  • 山中城代松田右兵衛太夫康長(山中院松屋玄竹大居士)
  • 上州箕輪城主多米出羽守平長定
  • 一柳伊豆守直末(大通院殿天叟長運大禅定門)

 

 となります。

 

間宮兄弟の五輪塔

写真46 間宮兄弟の五輪塔

 

 真中に五輪塔が3基並んでいますが、向かって右から間宮康俊、監物、康俊三弟で、その右側の今風な墓石は一柳直末です。

 

一柳直末墓

写真47 一柳直末墓

 

 一柳直末は豊臣勢ですね。

 

 『戦国武将合戦事典』によると、直末は秀吉がまだ城持ちでなかった元亀元年(1570)から仕え(当時18歳)、その後は各地を転戦し、討死の段階では美濃に5万石とも6万石ともいわれる領地を有した大名でした。

 

 こちらの墓は残念ながらピンボケでした!

 

ピンボケ

写真48 ピンボケ

 

 なお、宗閑寺の開基は、間宮康俊の娘・お久の方と伝えられており、「宗閑」というのは上に見られるように康俊の法名です。

 

 では次に、東海道を挟んで、南側にある岱崎(だいさき)出丸に行ってみましょう。

 

 

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5.対豊臣政権のために増築された岱崎出丸

 

 現在の箱根街道を渡ります。

 

現在の箱根街道

写真49 現在の箱根街道

 

 街道沿いには芝切地蔵尊があります。

 

芝切地蔵尊

写真50 芝切地蔵尊

 

 岱崎出丸の下には箱根旧街道が通っています。

 

箱根旧街道

写真51 箱根旧街道

 

 箱根旧街道は、慶長9年(1604)に江戸幕府が整備した五街道の一つである東海道のうち、小田原宿と三島宿を結ぶ、箱根八里(約32キロ)の区間です。

 

 その区間には標高845メートルの箱根峠がありました。

 

 江戸期の道ということですが、山中城の本城と岱崎出丸の間を通っているということは、当然ながら中世の頃も東海道であったということです。

 

 古道探訪も面白そうですが、今日は城めぐりなので探索はしません。

 

 さて、曲輪というよりか、広場のようなところを歩いていくと、御馬場曲輪がありました。

 

 ここもやはり土塁に囲まれています。

 

御馬場曲輪

写真52 御馬場曲輪

 

 土塁があると登りたくなるんですよね!

 

御馬場曲輪土塁の上

写真53 御馬場曲輪土塁の上

 

 土塁の上から見る富士山。

 

土塁の上から見る富士山

写真54 土塁の上から見る富士山

 

 土塁の先の櫓台に行くと、その先にも土塁や櫓台がありました。

 

土塁の向こうには海が見える

写真55 土塁の向こうには海が見える

 

 ここから見る駿河湾もまたいいですねえ。

 

駿河湾

写真56 駿河湾

 

 ここで再度、「余湖くんのホームページ」から余湖図を掲載しますので、復習として岱崎出丸の様子を見てください。

 

余湖図の山中城(再掲)

図2 余湖図の山中城(再掲)

 

 御馬場曲輪には、さきほど見た標柱よりもさらに古そうな標柱が建っています。

 

古そうな標柱

写真57 古そうな標柱

 

 その裏には大きな空堀があります。

 

御馬場曲輪西側空堀

写真58 御馬場曲輪西側空堀

 

 現状では分からないですが、往時は畝堀であったそうです。

 

 この西側にはさらに構築途中の曲輪があって、岱崎出丸は完成することなく、構築途中で豊臣勢の攻撃を受けたことが分かります。

 

 完成されている範囲の岱崎出丸の最西端は、すりばち曲輪と呼ばれ、その名の通りすりばち状の曲輪がありました。

 

すりばち曲輪

写真59 すりばち曲輪

 

 すりばち状になっているのが分かるでしょうか?

 

 すりばち曲輪からさきほど歩いてきた北東方面を見ます。

 

すりばち曲輪から北東方面を見る

写真60 すりばち曲輪から北東方面を見る

 

 櫓台を見ると曲輪の中が傾斜しているのが分かりますね。

 

すりばち曲輪から櫓台を見る

写真61 すりばち曲輪から櫓台を見る

 

 空堀。

 

空堀

写真62 空堀

 

 また空堀。

 

空堀

写真63 空堀

 

 おっと、説明に疲れてきたようです。

 

 くどいようですが、ここからもやっぱり富士山。

 

富士山

写真64 富士山

 

 富士山に登ったことがある粟村さんは、「やっぱり富士山は登るものじゃなくて、見る物ですね」ともらしました。

 

 岱崎出丸の北側(街道側)は畝堀で守られています。

 

岱崎出丸北側の畝堀

写真65 岱崎出丸北側の畝堀

 

 3月29日、山中城を攻めた豊臣勢は、最初は岱崎出丸に取り付きました。

 

 岱崎出丸を攻めた武将は、秀吉子飼いの中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末らです。

 

 それを迎え撃つのは、老将間宮康俊ら玉縄衆の面々。

 

 優勢なる豊臣勢に対して康俊らは奮闘し、猛将一柳直末を討ち取ります。

 

 しかしそれで怯む豊臣勢ではありません。

 

 多勢でもって次々と攻撃を仕掛ける豊臣勢に対して、康俊らはついに抗しきれず討ち取られ、岱崎出丸は陥落しました。

 

 勢いに乗った豊臣勢は、立て続けに山中城本城を攻め、小和田哲男氏が『静岡県 古城めぐり』で述べるところによると、山中城は2時間で落城したといいます。

 

岱崎出丸北側の畝堀と富士山

写真66 岱崎出丸北側の畝堀と富士山

 

 山中城を落城させ、箱根の峠を越えた豊臣勢は、4月初めには小田原城(神奈川県小田原市)の攻囲を始め、一方で群馬方面から南下してきた北国勢は、6月23日には北条領国の副都心とも言うべき、城主北条氏照が不在の八王子城(東京都八王子市)を落とします。

 

 そして、7月5日には北条家当主氏直とその父氏政・叔父氏照が降伏し、11日に氏政と氏照が切腹し、100年の栄華を誇った後北条氏は滅亡することになるのです。

 

 前述した通り、北条氏勝は徳川家康によって下総国弥富(千葉県佐倉市)で1万石を与えられ近世大名となりましたが、『論集 戦国大名と国衆 9 玉縄北条氏』所収「佐倉史断想」(高橋健一)によれば、弥富からほど近い千葉市や四街道市に、間宮直元が1千石を与えられています。

 

 この直元の父新左衛門尉康信は、天正10年(1582)8月12日に甲斐国御坂の合戦で討死しており、康信の父が岱崎出丸で鬼神の働きをした康俊です。

 

 間宮康俊 ――― 康信 ――― 直元

 

 『戦国遺文 後北条氏編』所収「年不詳北条氏政カ書状」(2474)は、北条氏政と思われる人物が康俊に対して送った手紙で、その中で差出人は子の康信の死を悼み、孫の彦次郎(直元)のことを気遣っています。

 

 康俊は、『北条氏所領役帳』によれば、玉縄衆の中では当主綱成に次ぐ698貫余の役高を持つ実力者でした。

 

 康信は討死したとき42歳なので、そうすると1541年の生まれとなり、その父である康俊は山中城の戦いの時は70歳を超えていたと考えられます。

 

写真67 箱根旧街道

 

 さて、時刻は11時15分。

 

 約1時間半の探訪でした。

 

 山中城跡はこれまで私が訪れた城跡の中でもトップレベルの面白さです。

 

 圧倒的な遺構のスケールと、曲輪からの富士山や駿河湾の眺望を楽しみたい方は、ぜひ好天の日を選んで訪れてみることをお薦めします。

 

 車で行けない方は、三島駅からバスが出ているようですよ(スミマセンが詳細はお調べください)。

 

 さて、そんなわけで次は沼津方面へ向かい、北条早雲が最初に手にした城・興国寺城を目指します。

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『小田原衆所領役帳』 杉山博/校訂 1969年
  • 日本城郭大系 9 静岡・愛知・岐阜』 小和田哲男/静岡県責任編集者 1979年
  • 『静岡県 古城めぐり』 小和田哲男/山中城執筆者 1984年
  • 『戦国遺文 後北条氏編 第三巻』 杉山博・下山治久/編 1991年
  • 『戦国遺文 後北条氏編 第四巻』 杉山博・下山治久/編 1992年
  • 『戦国遺文 後北条氏編 第五巻』 杉山博・下山治久/編 1993年
  • 『歴史群像シリーズ 14 真説戦国北条五代』 1996年
  • 『戦国武将合戦事典』 峰岸純夫・片桐昭彦/編 2005年
  • 『論集 戦国大名と国衆 9 玉縄北条氏』 浅倉直美/編 2012年

 

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