◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

伊勢宗瑞の野望の出発点・興国寺城

最終更新日:2016年3月27日

 

興国寺城概要
ふりがな こうこくじじょう
別名 杜若(かきつばた)城
住所 静岡県沼津市根古屋・青野

史跡指定 国指定史跡
史跡名:興国寺城跡
指定日:平成7年(1995)3月17日
追加指定日:平成19年(2007)7月26日
現況 穂見神社、草地
規模/比高 東西約130m×南北約330m/m
目で見られる遺構 曲輪・土塁・天守台・空堀
復元
存続時期 長享元年(1487)以後〜慶長12年(1607)
城主および城代 【今川氏時代】伊勢宗瑞(北条早雲)、秋山三郎左衛門尉
【北条氏時代】垪和氏続(永禄12年正月?〜元亀3年正月)
【武田氏時代】保坂掃部、向井正重、曽根昌世
【徳川氏時代】牧野康成、松平清宗、川毛重次、天野康景
城攻めの記録 元亀2年(1571)正月頃
【守】垪和氏続(兵力不明) vs 【攻】 武田方(数百) → 氏続の勝利
大手方向
仮想敵方向
関連施設
その他

 

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第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2013年11月23日(土)
天候 晴れ
探訪ルート 山中城 → 興国寺城 → 韮山城
同道者 粟村さん

 

まずは腹ごしらえ

 

 山中城を訪れた後は三嶋大社を目指します。

 

 しかし、三嶋大社に近づくと凄い車の量です。

 

 駐車場へ続く道は車が行列を作っています。

 

 今日は土曜日でしかも祭日であり、境内では何かイベントが行われているようで、大層な賑わいです。

 

 ピンク色のゆるキャラの後ろ姿がチラッと見えましたが、正体は分かりませんでした。

 

 これは車を停めるとしたら、えらく時間が掛かりそうだと悟った我々は、今回は三嶋大社はパスして、ランチを食べに沼津に行くことにします。

 

 途中走っていると、「対面石」と大きく書かれた看板が目に入りました。

 

 「対面石」というのは、源頼朝と義経が対面したときに腰を掛けた石のことでしょう。

 

 それがこの近くの八幡神社にあるようなのです。

 

 こんな所にあったのかあ・・・

 

 今日は時間がないので、また今度機会があれば行ってみることにします。

 

 さて、いよいよ沼津の漁港に近付きます。

 

 私は以前、土地家屋調査の仕事で沼津に来たことがありますが、そのときは港へは行きませんでした。

 

 粟村さんも沼津漁港には来たことがないそうです。

 

 走っていると、「海賊亭」という海鮮料理のお店の看板が目に飛び込んできました。

 

 時間もないので、そこにしましょう!

 

海賊亭

写真1 海賊亭

 

 私はお店を決めるときは決断が速いですが、粟村さんも速いです。

 

 だいたい今まで私は旅先で直感でお店に入って、失敗したことがほとんどありません。

 

 そう思い、店の中に入ってメニューを見たところ、結構高い・・・

 

 なので最初は一番安い海鮮丼を一旦頼んだのですが、気が変わって粟村さんと同じ、そこそこの値段の海鮮丼に変更しました。

 

 「旅先では食べ物は奮発するもんですよー」と、13歳年下の粟村さんにたしなめられてしまいました。

 

 そのセリフは、いみじくもいつもは私自身が良く言っている言葉です。

 

 しかし今は生活がカツカツなので、さしもの剛毅な私にも判断の迷いが生じたようです。

 

 貧すれば鈍するか・・・

 

 さて、少し待って海鮮丼が運ばれてきました。

 

 おう、見るからに美味そう!

 

海鮮丼

写真2 海鮮丼

 

 私は刺身が大好物で、つまりは寿司や海鮮丼が大好きなのですが、いつも寿司を食べるときはグルメシティの398円の寿司を食べているので、今日は久しぶりに高級な刺身が食べられます。

 

 わさび醤油を作ってぶっかけたら、早速頬張ります。

 

 美味い!

 

 まあ、沼津で食べる刺身なので旨くて当たり前だと言われてしまえば身も蓋もありませんが、やっぱり美味しい。

 

 魚の種類は分からないのもありますが、一つずつ味わって食べます。

 

 ご飯の量も多くて良いねえ!

 

 多分、女性には多いと思いますが、私も粟村さんも良く食べる方なので、これは嬉しいです。

 

 あら汁も、これまた凄く旨い!

 

 しばらく至福の時を味わい、最後はお茶を飲んで、それではいよいよ午後の一発目、興国寺城跡を目指すことにします。

 

 と、その前に、せっかく来たということで、沼津漁港を少し見てみることにします。

 

 メインの通りに来てみると、想像していたよりも沢山の食べ物屋さんやお土産屋さんが並んでいます。

 

 そして大勢の人がいてとても賑やかです。

 

 これは車停めるの大変だな・・・

 

 「さっきの店に入って正解でしたね」と頷き合うと、ようやく興国寺城跡へ向かいました。

 

 今日は粟村さんのマイカーなので、私が運転を代わることはできないので、私は助手席で気楽な体たらくです。

 

 

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異様にでかい土塁に驚愕

 

 海賊亭を出たのが12時50分、興国寺城跡へは13時15分に着きました。

 

 とりあえず車を停められそうなところを探して車から降りて見渡すと、広場のようになっています。

 

二の丸から本丸を見る

写真3 二の丸から本丸を見る

 

 ここでまた、持参した「余湖くんのホームページ」に掲載されている余湖図を見てみましょう。

 

余湖図・興国寺城

図1 余湖図・興国寺城

 

 我々がいるところは、どうやら二の丸のようです。

 

 なんかお祭りの準備でもしているのかなあ、と思いながら本丸へ向かうと、我々の目に見たことのない構築物が飛び込んできました。

 

 な、なんだあのでかい土塁は!

 

でかい土塁

写真4 でかい土塁

 

 事前に調べた時に、巨大な土塁があるということを読んでいましたが、実物を見て驚きました。

 

 まさかこんなに巨大な土塁だとは!

 

 粟村さんも驚嘆しています。

 

 本丸は南側を除いて、高い土塁が残っています。

 

本丸をめぐる土塁

写真5 本丸をめぐる土塁

 

 東側は一部切れていますが、断面を見ても高さが分かります。

 

土塁断面

写真6 土塁断面

 

 あまり上手にできませんでしたが、本丸のパノラマ合成写真を作ってみたのでクリックして拡大表示してみてください。

 

本丸パノラマ合成

写真7 本丸パノラマ合成

 

 本丸の奥には穂見神社が鎮座していますが、その鳥居や社殿(盛土の上に乗っている)と比べるとその巨大さが分かるでしょう。

 

穂見神社と土塁

写真8 穂見神社と土塁

 

 穂見神社というのは普段の私の活動地域では見たことがない神社です。

 

穂見神社

写真9 穂見神社

 

 穂見神社へは初めて来ましたが、『延喜式』にも穂見神社は記載されていて、山梨・長野・静岡に点在しているみたいですね(どこの穂見神社が式内社かは諸説あるみたいです)。

 

 おっと、力石。

 

力石

写真10 力石

 

 子供のころに「あしたのジョー」を見ていた人は「りきいし」と呼びたくなりますが、こちらは「ちからいし」ですよ。

 

 社殿の横には、「初代城主北條早雲碑」と「興国寺城主天野康景碑」も建っています。

 

初代城主北條早雲碑

写真11 初代城主北條早雲碑

 

 早雲は有名なのでもっともだとしても、天野康景の碑があるのはナイスですね。

 

興国寺城主天野康景碑

写真12 興国寺城主天野康景碑

 

 このページの上の方の表にもありますが、興国寺城は目まぐるしく城主が代わっています。

 

 しかしその中で注目すべき人物は、やはり初代城主の北条早雲となってしまうと思いますが、最後の城主天野康景も注目すべき人物です。

 

 早雲については、また後でゆっくりお話するとして、まずは天野康景についてお話します。

 

 徳川家康の家臣には、「岡崎三奉行」と呼ばれた人物が3人いて、高力清長は「仏高力」と呼ばれ、本多重次は「鬼作左」と呼ばれ、そして天野康景は、「どちへんなき」と呼ばれました。

 

 「どちへんなき」というと決断力に欠けていたように思えますが、ようするに何事にも慎重な人物だったようです。

 

 しかしそんな慎重派の康景でしたが、憤激に駆られてとんでもない行動をしてしまいます。

 

 康景は家康よりも6歳年上で、子供の頃から家康に仕えており、慶長6年(1601)には興国寺藩1万石の藩主にまで上りつめました。

 

 ところが慶長12年(1607)、家臣が窃盗の容疑者である住民を殺害するという事件が起きます。

 

 すると、それが大ごとに発展し、家康の内意を受けた本多正純が下手人の引き渡しを求め、興国寺城へやってきました。

 

 正純と会見した康景は、どういう行き違いがあったのか、正純に対して激怒してしまい、なんと城から逐電してしまったのです。

 

 それにより興国寺藩は取り潰しとなります。

 

 その後、康景は小田原の西念寺に入り、余生を過ごしました。

 

 「これは陰謀で、康景は嵌められたんじゃないですか」と私が言うと、粟村さんも「正純のことだからやりかねないですね」と返しました。

 

 康景の碑がわざわざ建てられているということは、康景が往時、善政をしいており、住民に慕われていたことの証になるのではないでしょうか。

 

 さて、本丸ではお祭りの準備が着々と進められています。

 

お祭りの準備が進行中

写真13 お祭りの準備が進行中

 

 せわしなく働く地元の方々を尻目に、我々は土塁に登ります。

 

 土塁の上から南側を見ると、キラキラと陽光を照り返す駿河湾が望めます。

 

土塁の上から駿河湾を望む

写真14 土塁の上から駿河湾を望む
写真だと海は写っていないように見えますが肉眼でははっきりと見えましたよ!

 

 本丸の後背地は北の丸と呼ばれており、その間には深い空堀があります。

 

本丸北側空堀を見下す

写真15 本丸北側空堀を見下す

 

 土塁の上を歩きながら北の丸の様子を伺うと、北が山側なので北の丸の方が標高が高くなっているのですが、土塁が異様に高いので北側が低く見えます。

 

本丸土塁の上から北の丸を望む

写真16 本丸土塁の上から北の丸を望む

 

 土塁は一部分幅が広くなっている箇所があり、そこには天守台があります。

 

天守台

写真17 天守台

 

 ここにどうのような建物が建っていたかは分かりませんが、礎石のようなものが並んでいます。

 

 それではここで、興国寺築城の経緯を説明します。

 

 明応2年(1493年)4月、幕府の権力者である管領細川政元は、クーデターを起こし、香厳院清晃を将軍に擁立しました(明応の政変)。

 

 室町幕府第11代将軍となった清晃(何度か改名しますが義澄が一般的)には、どうしても許せない人物がいました。

 

 それは、実母と実弟を殺害した、異母兄の足利茶々丸です。

 

 茶々丸は当時、堀越公方として伊豆(現在の伊豆の国市)にいました。

 

 義澄はどうしても茶々丸に報復したい。

 

 そういう個人的な感情もありましたが、政治的に見ても茶々丸は敵です。

 

 そこで義澄は、伊豆の隣国である駿河の今川家を使うことにしました。

 

 それより少し前の長享元年(1487)には、今川家では氏親が父の従弟の小鹿範満を倒し当主になっていましたが、その陰には幕府から派遣されていた幕臣の伊勢盛時の活躍がありました。

 

 この伊勢盛時が、のちの北条早雲です。

 

 あれ、北条早雲って出自の卑しい伊勢の素浪人だったんじゃないの?

 

 そう思われた方もおられると思いますが、家永遵嗣氏の研究によって早雲は幕府政所執事伊勢氏の一族で、備中(岡山県)伊勢氏出身の盛時であることが分かっています(ちなみにそのことが書かれている家永氏の『室町幕府将軍権力の研究』は大きな図書館でも置いておらず、私は国会図書館から取り寄せて読みました)。

 

 今川家の当主となった氏親の母は、盛時の姉です。

 

 この姉は、従来は妹と言われていましたが、盛時の年齢は従来説から二周り若いことがほぼ確定していますので、年齢から行ったら姉であるのが妥当です。

 

 ところで、一般的に言われる「早雲」という名前ですが、盛時は生前は宗瑞と名乗っており、しかも北条と称するのも子の氏綱のときであるので、私はあまり「北条早雲」と呼ぶのは好みません。

 

 なので、以後は宗瑞と呼びますが、宗瑞は甥を今川家の当主にしたことにより、今川家中で大きな力を得ます。

 

 そしてこの頃、宗瑞は興国寺城を築城して城主となったようです。

 

 従来の説では、宗瑞が氏親の相続を成功させた功により、富士郡下方12郷を与えられ興国寺城を築城したとされていますが、そもそも興国寺城の場所は富士郡でなく駿東郡なので、この説はおかしいですし、この説を傍証する史料は存在しません。

 

 その後、前述した「明応の政変」が起こり、宗瑞は幕府の命により今川家の兵を率いて興国寺城を出陣、伊豆の茶々丸を攻撃しました。

 

 ですから、宗瑞の伊豆経略は、当初は幕府の命令で今川家の武将として始めたわけですが、結果的には宗瑞は伊豆を我がものとします。

 

 なお、宗瑞の伊豆経略はすんなり完成したのではなく、結局伊豆の統一が完了したのは、5年経った明応7年(1498)のことでした。

 

 いやー、それにしてもこの土塁が伸びている様はとても良いですねえ。

 

伸びる土塁

写真18 伸びる土塁

 

 北側の空堀を見下すとちょっと草が茂っているようです。

 

空堀を見下す

写真19 空堀を見下す

 

 土塁を見つけると登りたくなり、空堀を見つけると堀底へ降りてみたくなるのが我々城マニアの共通の習性です。

 

 さっそく降りてみましょう。

 

堀底

写真20 堀底

 

 堀底には道ができていますので普通に歩けますね。

 

 ちょっと進んでみましょう。

 

堀底を進む

写真21 堀底を進む

 

 空堀を西の方へ歩いていくと、草地に抜けました。

 

 その横の道路を北へ歩いていくと、新幹線の跨線橋がありました。

 

 粟村さんは今後、撮り鉄に進出してみたいらしく、新幹線が来たら写真を撮ろうとしていましたが、少し待っていても新幹線は来ません。

 

 なので次に北の丸へ行ってみます。

 

 北の丸はただの草地になっていますが、遠くに特徴のある山並みが見え、何とも長閑な風情です。

 

何の山だろうか?

写真22 何の山だろうか?

 

 おっと、ここからもチラッとですが富士山が見えますね。

 

富士山チラリズム

写真23 富士山チラリズム

 

 興国寺城の歴史について史料から調べてみようとすると、現在残っている古文書は垪和氏続が城主だった頃のものが主です。

 

 永禄11年(1568)12月6日、甲斐の武田信玄は駿河の今川氏真と断交し、今川家の本拠地である駿府城に向けて進軍を開始しました。

 

 北条氏康は氏真を救援すべく12日には氏政を小田原城から出陣させましたが、その翌日には駿府城が落ちてしまいます。

 

 信玄のあまりもの電撃的な攻撃で、駿府城はパニックに陥り、氏真の妻早河殿(氏康の娘)は輿の用意も間に合わず、徒(歩き)で非難し、氏康はそれを聴いて怒りが収まりません。

 

 しかし北条家もこの混乱の中でかつて領有していてその後手放した駿河国内の駿東郡および富士郡南部を制圧し、『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(以降、『戦北』と略す)によれば、翌永禄12年正月19日には垪和氏続が多門坊(静岡県富士市中里の中里八幡宮のことで本山派修験多門坊が別当)に判物を送っており、興国寺城の修築をしたようです(『戦北』1144)。

 

 『戦北』所収「永禄12年閏5月3日付け北条氏政判物写」(1231)によれば、この年の正月以降、百余日に渡り駿河国蒲原郡の薩埵山で北条と武田が対陣した際、垪和氏続が興国寺城に在城し、防衛および普請で活躍し300貫文の地を拝領しています。

 

 この後も信玄は駿河方面への策動をやめず、6月には駿河と伊豆との国境である黄瀬川に陣し、韮山城を攻撃しましたが、『戦北』所収「元亀元年8月12日付け北条氏政書状」(1434)によれば、韮山・興国寺城の軍勢が戦い、韮山城は外宿までも堅固にしていることが分かります。

 

 このように駿河方面にちょっかいを出していた信玄ですが、9月には関東地方への大遠征に向かい、9月27日は小田原城まで迫り、10月4日には退却を開始し、6日の三増峠の戦いを経て甲府に帰ったかと思うと、12月1日にはまた駿河に向けて出陣するのです。

 

 いったい、信玄のバイタリティの凄さには唖然とします。

 

 その後、北条は越後の上杉輝虎と同盟を組んだのですが、『戦北』所収「元亀元年(1570)卯月(4月)20日付け北条氏政書状」(1412)によれば、甲州衆が富士口へ出張した時も興国寺城が防衛の要になっていることから、このときも垪和氏続の活躍があったのでしょう。

 

 垪和氏の出自に関しては、黒田基樹氏は美作国の国人で室町幕府奉行衆であった垪和氏で宗瑞の代から仕えていたと推測しています(『歴史群像シリーズ 14 真説戦国北条五代』)。

 

 氏続は『北条家所領役帳』に松山衆に「垪和又太郎」として記載され、松山衆最高の約1128貫の役高を持っており、『役帳』全体を見ても11位という非常に重要な家臣でした。

 

 『真説戦国北条五代』で黒田氏も述べている通り、氏続は北条一族でない家臣で唯一「氏」を名乗っており、駿河方面の最前線の重要拠点である興国寺城を任されていることから、北条家から高い待遇を受け、かつ本人の能力も相当高い武将であったことが分かります。

 

 氏続はとくに武勇に優れており、『戦北』所収「元亀2年(1571)正月12日付け北条氏政感状」(1459)によれば、興国寺城の本城に取りついた数百人の敵(武田方でしょう)に対し、城代である氏続自ら太刀を振るって戦い、50余人を討ち取っており、氏政からも「前代未聞之仕合」と激賞されています。

 

 ただこの後、10月3日に大殿である氏康が没し、氏政は上杉との同盟をやめ武田と再び同盟を結ぶ方向に動き、すぐに同盟を再開していることから、氏康が没する前から武田とよりを戻す交渉が水面下で行われていたと考えてよいでしょう。

 

 翌元亀3年(1572)正月には、甲相同盟の成立によって駿河国駿東郡は武田に領有されることに決まり、興国寺城も武田に引き渡されることになりました。

 

 この後の氏続の活躍に関してはほとんど知られておらず、『真説戦国北条五代』が引く「北条家幷家臣過去帳抜書」によれば、天正8年(1580)2月に死去しています。

 

 さて、本丸ではお祭りの準備が引き続き進んでいますが、明日、穂見神社のお祭りがあるみたいです。

 

 ここの穂見神社は通称を「高尾山穂見神社」というらしいです。

 

高尾山祭典

写真24 高尾山祭典

 

 私は東京八王子の高尾山の麓から、高尾山穂見神社へやってきたというわけです。

 

 こんなところで、高尾山で繋がるとは面白いですね。

 

 当地の高尾山と言えば、この探訪の後、高尾山古墳が東国でも最も古い前方後方墳であることが分かり、その時代は列島で最古の前方後円墳である箸墓古墳と同時代であることが分かりました。

 

 当初、高尾山古墳は開発のために破壊されることになっていましたが、地元の方々を始めとした理解ある方々の活動により、破壊は免れる方向に行っているようです。

 

 宗瑞が死んで子の氏綱の代になると、今川家からは完全に独立した「北条家」を創設することになりますが、興国寺城は今川家が領することになります。

 

 まあ、元々今川家の城であるわけなので、当然かもしれません。

 

 天文20年(1551)には、氏綱の子氏康は一時的に興国寺城を奪いますが、すぐに今川義元により奪回され、義元は秋山三郎左衛門尉に高橋修理進を寄子(よりこ)として付けて興国寺城に入ることを要請しています。

 

 永禄11年(1568)に武田信玄が今川家の本拠地駿府を落とすと、氏康の子氏政は駿河へ侵攻し、氏政の弟氏邦が興国寺城を奪い、翌年5月には垪和氏続(はがうじつぐ)が入城しました。

 

 武田家の持ち城となってからは、保坂掃部(穴山梅雪家臣)、向井正重、曽根昌世と城番が変わり、武田家滅亡後は家康家臣の牧野康成が入り、つぎに松平清宗が城主となりました。

 

 本当に目まぐるしく城主が代わりますね。

 

 北条家が滅亡して家康が関東に移った天正18年(1590)には、中村一氏(午前中に訪れた山中城を攻めた武将ですね)が駿河国14万5千石を拝領し、一氏の家臣川毛重次が入りました。

 

 そしてようやく、前述した天野康景が関ヶ原の後、慶長6年(1601)2月に興国寺藩1万石としてやってきたというわけです。

 

 康景出奔後、興国寺城は破却されてしまいました。

 

 さて、時刻は13時50分。

 

 興国寺城に到着したのが13時15分だったので、35分の探訪時間でしたね。

 

 それでは次は、宗瑞が伊豆の拠点として、最後まで愛着を持って過ごしていた韮山城へ向かいます。

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『小田原衆所領役帳』 杉山博/校訂 1969年
  • 日本城郭大系 9 静岡・愛知・岐阜』 小和田哲男/静岡県責任編集者 1979年
  • 『静岡県 古城めぐり』 小和田哲男/興国寺城執筆者 1984年
  • 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 杉山博・下山治久/編 1990年
  • 『歴史群像シリーズ 14 真説戦国北条五代』 1996年
  • 『戦国武将合戦事典』 峰岸純夫・片桐昭彦/編 2005年
  • 『北条早雲とその一族』 黒田基樹 2007年
  • 『北条氏年表』 黒田基樹/編 2013年

 

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