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総国(?国)。
安閑天皇元年(534) ?国のうち阿波国、長狭国、須恵国、馬来田国、菊麻国、伊甚国、上海上国、武社国が分立して上総国(上?国)となった。

 

下総の国造

 

千葉国  知波国造
http://chiba.fc2web.com/chibadaiigaku/cusm0208.html
 『日本後記』(840年成立)の延暦24年(805年)癸卯の条〔桓武天皇朝〕に「千葉国造大私部直善人(おおきさいべのあたいよしひと)授外従五位下。」また大同元年(806年)癸巳の条に「外従五位下千葉国造大私部直善人為大掾。参議従三位朝臣勝長為兼下総守。」とある。この記事から大化改新前に千葉国造が設置されていたこと推測する立場がある。大私部直善人は大化改新前の千葉国造の子孫であり、神事祭祀を主宰する海上国造、出雲国造の子孫らと同様に、改新後も国造の称号を公許されていたとするのである(武田宗久『千葉市史』1974年)。さらに千葉寺は千葉国造の子孫一族により創建された氏寺ではないか、との推測がなされる。武田氏は、都川下流の沖積平野をふくむ周辺台地を千葉国造の本拠とし、西は花見川沿岸、東は鹿島川沿岸、南は大厳寺町付近までをその支配領域と推測する。ただし武田氏は、(1974年当時判明していた)遺跡の分布や古地名等から、畑町・朝日ヶ丘付近をも本拠の候補地としている。

 

荒久(あらく)古墳(市指定文化財) 青葉の森公園の中に保存されている古墳です。初期の発掘調査は明治24年に行われており、当時の出土品の大半は散逸していますが、昭和34年の発掘調査の結果、琥珀製棗玉3個、鉄製馬具の破片、1体分の人骨などが出土しました。古墳築造の終末期に位置し、棺を納めた石室が凝灰質砂岩の切り石を積んでいることが特徴です。

 

印波国

 

 

阿波国
長狭国

 

<内房>
菊麻国 上総国市原郡の北部から下総国千葉郡南部までの領域を勢力下とし、その中心は現在の市原郡菊麻郷(現市原市菊間)にあったとされる。菊間古墳群は当時の国造クラスの墓と目される古墳が現在に多く残されている。

 

上海上国 かみつうなかみ 姉崎・椎津 神門5号墳 国分寺 国府跡は見つかっていないが上総の中心地

 

馬来田国 上総国望陀郡。金鈴塚古墳など小櫃川下流域の木更津市内にある祇園・長須賀古墳群は、馬来田国造が造営したと考えられている。

 

須恵国 周淮郡 富津市にある内裏塚古墳を始めとする内裏塚古墳群は、須恵首長又は国造一族の墓と言われているほか、弁天山古墳は5世紀末頃の須恵国造の首長墓と考えられている。

 

<外房>
武社国 武射郡
 板附古墳群
 胡麻手台古墳群
 大堤・蕪木古墳群
 小池・芝山古墳群
 の4つの古墳群については、同時進行的に古墳が造営されたものとされ、この地域にはこの時期大型の前方後円墳を造営した4つの勢力が存在し、駄ノ塚古墳が造営された7世紀初めに1つの勢力に収斂し[注 5]、国造制から律令制の成立[注 6]に向かったことがうかがわれる。

 

伊甚国  夷隅川流域も高塚古墳の分布はきわめて希薄な地域であるが、上流の大多喜町には、前方後円墳1基、円墳11基からなる台古墳群があり、その中の径15mの小円墳(大宮氏旧宅裏山古墳)から半円方格帯神獣鏡、馬具などが出土している。  夷隅川流域は夷隅郡、一宮川流域は長生郡となる。

 

 

 以上、後の上総国

 

下海上国

 

 

 

この分立の時期については、毛野国から分かれた上野国と同じく「上」を冠する形式をとることから6世紀中葉とみる説もある[10]。

 

上総国は7世紀に令制国となった。

 

養老2年5月2日(718年6月4日)に上総国より平群郡・安房郡(以上2郡は旧阿波国)・朝夷郡・長狭郡(以上2郡は旧長狭国)の4郡を割いて安房国を新設したが、天平13年12月10日(742年1月20日)に安房国は再び上総国に併合された。その後天平宝字元年(757年)にもとの4郡をもって安房国が再設置された。

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