◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

縄文時代中期の敷石住居跡を移築して公開している遺跡・武蔵台東遺跡

最終更新日:2015年9月6日

 

前回の記事は「日本史大戦略 Side-B」で読めます

 

 伝祥応寺跡から旧鎌倉街道の切り通しを抜けて住宅街にやってきました。

 

 確かこの辺りに縄文時代の遺跡があるはず・・・

 

 

探訪データ
探訪年月日 2012年10月10日(水)
天候 晴れ
探訪ルート 東山道武蔵路 → 八幡神社 → 国分寺薬師堂 → 真言宗武蔵国分寺 → 武蔵国分寺跡資料館 → 武蔵国分寺跡 → 国分寺市文化財資料展示室 → 国分寺参道跡 → 武蔵国分尼寺跡 → 旧鎌倉街道 → 伝祥応寺跡 → 武蔵台東遺跡

 

武蔵台東遺跡概要
ふりがな むさしだいひがしいせき
時代 旧石器・縄文・古墳・奈良・平安・中世・近世
現況 一部が公園
観察遺構 柄鏡形敷石住居跡を移設して展示
住所 東京都府中市武蔵台2-29

史跡指定 なし

 

果たして武蔵台東遺跡は同時に10家族が居住した環状集落だったのか?

 

 おや、小さな公園の中に何かあるぞ?

 

 おっと、竪穴式住居跡だ!

 

写真1 移築された柄鏡形敷石住居跡

 

 これは竪穴式住居の一つのヴァリエーションである「柄鏡形敷石住居」と呼ばれるものです。

 

 普通の住居である竪穴式住居は、平面プランが単純な楕円形だったり隅丸方形だったりするのですが、柄鏡形敷石住居はご覧の通り、平面形から違いますね。

 

 出っ張りが付いているのです。

 

 そして中央に炉があり、何よりも異様なのはその名の通り川原石が敷きつめられていることです。

 

 全体ではなく部分なのかもしれませんが、石が敷かれているとその上で居住するのは居心地が悪いですね。

 

 ですので、何かしら宗教的な施設ではないかと考える研究者もいます。

 

 柄鏡形敷居住居は、八王子市の椚田遺跡公園にも保存されています。

 

 なお、この武蔵台東遺跡は、原始・古代・中世・近世の複合遺跡なのですが、そのうち縄文時代では縄文早期(9000年前)と縄文中期(4000年前)にムラがあり、上の敷石住居は中期の遺跡を移築して保存したものです。

 

 この周辺は完全に市街化されてしまいましたが、遺跡を全部抹殺しないで、移築であってもこのように目で見えるように保存しておくのは大変有意義なことだと思います。

 

 ところで、縄文時代のムラというと、現地説明板に載っているこのような図式が有名ですね。

 

現地説明板の絵

写真2 現地説明板の絵

 

 ムラの中央に広場を設けて、その周りに住居を円状に作るというもので、環状集落と呼ばれます。

 

 この図式は当時の平等社会を表しているものとされ、縄文時代のホノボノとしたイメージづくりに貢献しています。

 

 ただ、最近では上のようなイメージには一部間違いがあるとの指摘もあります。

 

 『新八王子市史 通史編1 原始・古代』によれば、遺跡によっては環状に住居跡が検出されるものであっても、それぞれが存在した時期は同時期ではなく、中には同時代に1軒の住居しかなかった、とてもムラとは呼べない遺跡もあるのです。

 

 その住民がある期間そこで過ごした後、その場を去って、また戻ってきて前回とは少しずれた場所に住居を作り、またしばらくして去って、戻ってきて・・・ということを繰り返した結果、環状になるというものです。

 

 ただし、私は武蔵台東遺跡の詳細を知りませんし、現地の説明板には同時期に10軒建っていたと書かれているので、武蔵台東遺跡は環状集落だったのでしょう。

 

 しかしそれにしても10家族も住んでいたとしたら、当時としてはかなり大きなムラと言えますね。

 

 さて、この縄文時代の遺跡を見て今日の歴史探訪は終了です。

 

 時刻は12時5分。

 

 今日は3時間歩いたことになります。

 

 普段私はほとんど歩かない生活をしているので、今日は3時間歩いただけで、すでに脚が痛くなっています。

 

 今日は、史跡としては東山道武蔵路跡、国分寺跡、国分尼寺跡などを訪れ、施設としては、武蔵国分寺跡資料館と国分寺市文化財資料展示室を見学しました。

 

 だいたい以上が国分寺市内の古代の史跡と施設になります。

 

 国分寺市周辺にお住まいの方は国分寺の歴史探訪に出かけてみてはいかがでしょうか。

 

 どの史跡・施設も見ごたえがあって、休日の楽しいひと時を過ごせることは間違いありませんよ。

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『新八王子市史 通史編1 原始・古代』 八王子市史編集委員会/編 2015年
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