◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

都内でも最古級の伝統を誇る武蔵国の総社・大國魂神社

最終更新日:2016年9月8日

 

大國魂神社概要

 

ふりがな おおくにたまじんじゃ
別名 六所宮・明神さま
住所 東京都府中市宮町3-1(社務所所在地)

創建 神社の公式見解では景行天皇41年(111)
史跡・文化財指定 本殿は東京都指定有形文化財
祭神
  • 大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)
  • 御霊大神(ごりょうのおおかみ)
  • 国内諸神(こくないしょしん)
  • 小野大神(おののおおかみ/武蔵国一宮)
  • 小河大神(おがわのおおかみ/武蔵国二宮)
  • 氷川大神(ひかわのおおかみ/武蔵国三宮)
  • 秩父大神(ちちぶのおおかみ/武蔵国四宮)
  • 金佐奈大神(かなさなのおおかみ/武蔵国五宮)
  • 杉山大神(すぎやまのおおかみ/武蔵国六宮)
境内神社
  • 宮之盗_社(天鈿女命)
  • 松尾神社(大山咋命)
  • 大鷲神社・住吉神社(大鷲大神・表筒男命・中筒男命・底筒男命)
  • 東照宮(徳川家康)
  • 巽神社(市杵嶋姫命)
  • 稲荷神社(宇迦御魂命)
  • 八幡宮(応神天皇)
  • 坪宮(兄多毛比命)
  • 滝神社(加茂別雷命)
  • 天神社(不詳)
  • 日吉神社(大山咋命)
公式サイト 大國魂神社公式サイト

 

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第1回 探訪記録

 

探訪データ

 

探訪年月日 2012年2月28日(火)
天候 曇り
探訪ルート 【2月28日】 馬場大門のケヤキ並木 → 多磨寺跡 → 大國魂神社
【3月7日】 武蔵国府八幡宮 → 武蔵国府跡 → ふるさと府中歴史館 → 称名寺
【3月30日】 高安寺 → 国鉄下河原線廃線跡 → 坪の宮 → 三千人塚 → 分倍河原古戦場跡 → 高倉塚古墳 → 天王塚古墳 → 首塚 → 高倉20号墳 → 延文之板碑出土之地 → 御嶽塚 → 武蔵府中熊野神社古墳 → 武蔵府中熊野神社古墳展示館

 

武蔵の古代史に触れる

 

 初めての府中歴史探訪。

 

 多磨寺の跡を探った後は、いよいよ大國魂神社へ参拝します。

 

 大國魂神社の東側の鳥居をくぐって境内に入ると、中は広い空間でした。

 

 そこをひっきりなしに人が往来しています。

 

 左手(南側)には真新しい感じの随神門があります。

 

随神門

写真1 随神門

 

 随神門をくぐると、楼門が見えました。

 

楼門

写真2 楼門

 

 随神門と楼門が揃っているのは、大國魂神社が格式のある大きな神社であることの証左ですね。

 

楼門から拝殿を見る

写真3 楼門から拝殿を見る

 

 楼門をくぐると拝殿がありました。

 

拝殿

写真4 拝殿

 

 大國魂神社の社伝によれば、創祀は12代景行天皇41年(西暦111年)です。

 

 景行天皇のときの創建というのは、『先代旧事本紀』によると、景行天皇の御代に兄多毛比命(えたもひのみこと)を无邪志(むさし)の国造(くにのみやつこ)に任じたと記されているので、それを元に決められた話でしょう。

 

 ただし、そもそも景行天皇が実在したかどうかは分からず、仮に実在したとしたらそれは3世紀頃と比定でき、なおかつ国造という今でいう都道府県知事のような人が全国に置かれたのは6世紀頃のこととされています。

 

 ですので、史実からしたら社伝のいう創建年代は荒唐無稽となってしまいますが、こういった神社の歴史を古く喧伝するという傾向は全国の神社で一般的なので、とくに突っ込む必要はありません。

 

 面白いのは、人間であれば「経歴詐称」として大変な社会的制裁を受けるのですが、こと神社やお寺となると、そういうことはまったくなく、史料に則って本当の歴史を証明したりすると、反対に社寺から怒られたり、檀家や氏子たちの心を傷つけたりするので、信仰が絡んでいる場合は、その辺はおおらかに構えて良いと思います。

 

拝殿

写真5 拝殿

 

 大國魂神社の主祭神は大國魂大神で、他にこのページの最初の表に記したとおり、多くの神を祭り、また境内神社も数多くあります。

 

 大化改新(645)以後、この地に国府が置かれて国司が奉祀するようになってから、

 

  •  一宮 小野大神 (小野神社/東京都多摩市一ノ宮)
  •  二宮 小河大神 (二宮神社/東京都あきる野市二宮)
  •  三宮 氷川大神 (氷川神社/埼玉県さいたま市大宮区高鼻町)
  •  四宮 秩父大神 (秩父神社/埼玉県秩父市番場町)
  •  五宮 金佐奈大神 (金鑚神社/埼玉県児玉郡神川町二ノ宮)
  •  六宮 杉山大神 (杉山神社/神奈川県横浜市緑区西八朔)

 

 が合祀されたといいます。

 

 そのため、大國魂神社は六所宮ともいわれます。

 

総社六所宮の額

写真6 総社六所宮の額

 

「総社六所宮」と書かれていますね。

 

 独立性の強い国造によって統治されていた列島各地を、いわば中央集権にするために新たな行政区画にする取り組みは大化改新後に始められましたが、「国−評−五十戸」を経て「国−郡−里」となったのは大宝元年(701)の大宝令施行によってです。

 

 「国−評−五十戸」も「国−郡−里」も、両方とも「くに−こおり−さと」と読みます。

 

 そして里が郷になったのは霊亀元年(715)のことです。

 

 「国」という行政区画自体は、天武天皇の時代の683〜685年に国境画定事業が実施され、同時に七道も整備され出しました。

 

 発掘調査の結果、府中のマチもその頃から作られだしたことが分かっており、史料上最初の武蔵国司(長官)である引田臣祖父は、大宝3(703)に任じられています。

 

 国司の仕事のなかで特に大事なのは、国内の神社を管轄することでしたが、当初国司は国内各地の神社に自ら足を運んでいたのが、それが面倒だということで国府に集めたのが六所宮の始まりだと言います。

 

 しかしただ単に面倒だというのが本当の理由ではなく、各地の有力者の神を国府に集めることにより、各地の有力者を精神的に国司の支配下に置くことが目的だったと考えられます。

 

 武蔵国の一宮に関しては、大國魂神社がいうように多摩市(あるいは府中市)の小野神社という説と、埼玉県さいたま市の氷川神社が主張するように、氷川神社であるという説がありますが、実際は一宮の制度ができた当初から小野神社がずっと一宮で、氷川神社が一宮として名乗りを上げたのは、15世紀半ばの鎌倉府の没落とともに府中の町自体が勢威を落とした戦国時代以降です。

 

 さて、上記の一宮から六宮までがどのような基準で決められたかについては、各神社を信奉していた各地の有力者の影響力に基づくことは容易に想像できます。

 

 それに関しては、府中市郷土の森博物館紀要の第23号掲載の「中世武蔵府中の誕生 −文献から見た画期としての一一世紀−」(小野一之著)にまとめられた内容が妥当だと思います。

 

 それによると、まず選定の時期に関しては10世紀以降です。

 

 というのも、それより前であれば、式内社にも選ばれておらず、当時それほど力があるわけでなかった二宮神社が選ばれることはないからです。

 

 そして上記の神社の祭神は、当時武蔵国衙に勤務していた在庁官人(国内各地の有力者が任じられる地方公務員)に関わる神と推定され、各神社と関連する有力者は以下のようにまとめることができます。

 

  •  小野神社 ・・・ 横山党。小野牧別当・小野諸興は平将門の乱(939〜940)に活躍。小野氏は武蔵七党の横山党の祖。
  •  二宮神社 ・・・ 横山党とともに多摩地域で勢力を誇っていた日奉党。神社のある場所は小川牧の故地。
  •  氷川神社 ・・・ 8世紀以降、足立郡司を務め、当該地方で威勢のあった武蔵氏。氷川神社自体も武蔵国内では古来よりかなり力を持っていた。
  •  秩父神社 ・・・ 武蔵七党とともに武蔵国内で勢力を二分した秩父平氏。秩父も馬の産地。
  •  金鑚神社 ・・・ 児玉党あるいは丹党。
  •  杉山神社 ・・・ 秩父平氏一族の稲毛氏あるいは平将門の乱以降に活躍が見られる橘氏。

 

 つまり、6社が選定された11世紀の頃は、上記の氏族が武蔵国内で権力を持っていたことが分かります。

 

 そして彼らの多くは、「馬」という当時最強の兵器かつ産業動力に関わりが強いことがとくに注意を引きます。

 

 2016年5月に宮田太郎先生から「大國魂神社は本来は大麻止乃豆乃天神社で、御嶽山もそうだよ。江戸名所図会に書いてあるよ」と教えていただき、さっそく『江戸名所図会』を購入して読んでみると、確かに式内社の大麻止乃豆乃天神社は大國魂神社のことだと記されています。

 

 手元に他の資料がないため、Webでさらに調べてみると、大麻止乃豆乃天神社の論社としては、稲城市大丸の大麻止乃豆乃天神社、大國魂神社、武蔵御嶽神社、府中市の天神山の天神社があるようです。

 

 式内社はそれらのうちの一つだとしても、多摩地域に大麻止乃豆乃天神社の祭神である櫛真智命(くしまちのみこと)を祀った神社が点在していたと考えていいでしょう。

 

 櫛真智命という神様は、奈良県橿原市にある天香山神社の祭神なので、もろにヤマトの神ですね。

 

 つまり、大國魂神社も御嶽山もヤマトの人間が来て自分たちの神様を奉斎した可能性が濃厚です。

 

 江戸時代には徳川幕府より、なんと社領500石が寄進されました。

 

 ご、500石ですよ!

 

 普通は多くて数十石なので、これは破格であり、他にこれだけの社領を持つ江戸時代の武蔵国内の神社はパッと思い出せません。

 

 『武蔵名勝図会』によれば、500石のうち200石を神主である猿渡氏が取り、100石を神社の修繕料とし、残りの200石を禰宜以下の職員に配当していました。

 

 現在でも大國魂神社は猿渡氏が継承していますが、猿渡氏の先祖の盛正は、天正18年(1590)に、八王子城に籠り討死しています。

 

 つまり戦国時代には土豪だったわけで、江戸期になっても500石を得た結果、実質土豪レベルを維持したわけです。

 

 本殿は、東京都指定有形文化財ですが、囲ってあって見ることはできません。

 

本殿の囲い

写真7 本殿の囲い

 

 残念!

 

 大國魂神社の見どころのひとつは、広い境内に茂る巨木です。

 

 写真はどれも失敗だったので載せませんが、社殿の裏側の森にある巨木たちはなかなか立派で、巨木マニアにも十分喜んでもらえると思います。

 

 大國魂神社の樹木は昔から有名だったようで、大正年間に執筆された『武蔵野歴史地理』でも、「六所宮の老樹と古瓦」という項目が立てられているほどです。

 

 それと、重ねて言いますが、境内神社もたくさんあって、特に私の目を引いたのは以下の二つです。

 

 一つ目は、大鷲神社(住吉神社との合祀)です。

 

大鷲神社

写真8 大鷲神社

 

 祭神は説明板には書かれていませんが大鷲大神で、大鷲大神とは日本武尊(やまとたけるのみこと)のことです。

 

 私は以前からヤマトタケルを探究していますが、ここでもヤマトタケルに会えて嬉しいです。

 

 もう一つは、宮之刀iみやのめ)神社です。

 

宮之盗_社

写真9 宮之盗_社

 

 祭神は、天鈿女命(あめのうずめのみこと)です。

 

 アメノウズメは日本初のダンサーといわれ、芸能の神様であります。

 

 日本神話が好きな諸兄の中には、密かにアメノウズメのファンである人は意外と多いのではないでしょうか。

 

 ちょっとエッチな感じが魅力的なんですよね。

 

 天孫ニニギ一行が高天原(たかまがはら)から降りてくるときに、天の八衢(あまのやちまた)では、国津神(ニニギら外来の天津神に対する在来の神)サルタヒコがニニギ一行を待ち構えていました。

 

 サルタヒコは何のためにニニギたちを待ち構えていたのか。

 

 サルタヒコは、もしかするとよそ者であるニニギらを威圧して追い返そうと考えていたのかもしれません。

 

 サルタヒコは鼻が異常に長く、口の端は明るい光を放っており、丸くて大きな八咫鏡(やたのかがみ)のような目は赤酸漿(あかほうずき)に似ているという、見るからに異様な容姿をしています。

 

 そして恐ろしく眼光が鋭い。

 

 そのため、サルタヒコを見たニニギ一行は恐れおののきます。

 

 そこでニニギは、随従しているアメノウズメに「お前は眼力が優れている。行って奴の目的が何か聞き出してこい」と命じました。

 

 アメノウズメは大変魅惑的な女性の神ですが、肝も座っています。

 

 しかし、困ったことに人前ですぐに脱いでしまう癖を持っているのです。

 

 アメノウズメは、サルタヒコの前に立つと、乳房(推定では巨乳)を露わにし、下半身まで露出してサルタヒコを詰問しました。

 

 サルタヒコはアメノウズメの気迫と、そしてその色気に圧倒され、つい「道案内をするためにお待ちしておりました」と言ってしまいました。

 

 そして、ニニギ一行はサルタヒコの案内で無事に地上に着きました。

 

 以上が、『日本書紀』に記されたアメノウズメの活躍の一端です。

 

 ちなみに、サルタヒコとアメノウズメは、何とその後結婚するのです!

 

 さて、以上今日は武蔵国府跡と大國魂神社を探訪してみました。

 

 武蔵国府跡は奈良時代から平安時代前半の東国を想像する場所として、また大國魂神社は巨木が結構良かったので、巨木に会う場所としてまた来てみたいと思います。

 

参道

写真10 参道

 

 北側の鳥居を抜けて、慶安年間(1648〜52)から戦後までの甲州街道に戻ってきました。

 

旧甲州街道

写真11 旧甲州街道

 

 参道入口には巨木があります。

 

参道入り口の巨木

写真12 参道入り口の巨木

 

 それでは、府中から電車に乗って家に帰るとしましょう。

 

【参考資料】

  • 『新編武蔵風土記稿』「巻之九十二 多摩郡之四 府中領 六所社領」 昌平坂学問所/編 1830年
    ↑クリックすると国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページへリンクします
  • 『武蔵名勝図会』 植田孟縉/著・片山迪夫/校訂 慶友社 1967年(原著は文政3年<1820>)
  • 『武蔵野歴史地理 第四冊』 高橋源一郎/著 有峰書店 1972年(原著は昭和3年<1928>)
  • 『東京都神社名鑑 上巻』 東京都神社庁/編 1986年
  • 『日本書紀 上 全現代語訳』 宇治谷孟 講談社 1988年
  • 『新訂 江戸名所図会3』 古市夏生・鈴木健一/校訂 筑摩書房 1996年
  • 『神社辞典 新装普及版』 白井永二・土岐昌訓/編 東京堂出版 1997年
  • 『先代旧事本紀 訓註』 大野七三/校訂 批評社 2001年
  • 『府中市郷土の森博物館ブックレット6 古代武蔵国府』 深澤靖幸/編著 2005年
  • 「中世武蔵府中の誕生 −文献から見た画期としての一一世紀−」 小野一之/著 (『府中市郷土の森博物館紀要 第23号』所収 府中市郷土の森博物館/編 2010年)

 

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多磨寺跡

大國魂神社

【3月7日】
武蔵国府八幡宮

 

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