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国府を守護する神・武蔵国府八幡宮

最終更新日:2016年9月8日

 

武蔵国府八幡宮

 

ふりがな むさしこくふはちまんぐう
住所 東京都府中市八幡町2丁目33

創建 不詳
史跡・文化財指定 なし
祭神 誉田別命(ほむだわけのみこと)
境内神社 なし

 

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第1回 探訪記録

 

探訪データ

 

探訪年月日 2012年3月7日(火)
天候 曇り
探訪ルート 【2月28日】 馬場大門のケヤキ並木 → 多磨寺跡 → 大國魂神社
【3月7日】 武蔵国府八幡宮 → 武蔵国府跡 → ふるさと府中歴史館 → 称名寺
【3月30日】 高安寺 → 国鉄下河原線廃線跡 → 坪の宮 → 三千人塚 → 分倍河原古戦場跡 → 高倉塚古墳 → 天王塚古墳 → 首塚 → 高倉20号墳 → 延文之板碑出土之地 → 御嶽塚 → 武蔵府中熊野神社古墳 → 武蔵府中熊野神社古墳展示館

 

中世前期、東国ではまれな瓦ぶきの建物があった

 

 2月28日に初めて府中歴史探訪を行いましたが、1週間後、また府中に赴きました。

 

 少しずつ、府中の歴史を調べて行きます。

 

 このところ、なかなか好天に恵まれません。

 

 今日も天気は曇り。

 

 ただ、曇っていても出掛けるようにしないと、なかなか歴史探訪のチャンスがないです。

 

 気温は結構高めで、ダウンジャケットはさすがに必要なく、薄手の上着を羽織って出掛けます。

 

 今日は東府中駅まで行きます。

 

 東府中駅で降りるのは今日が初めて。

 

 駅を降りて通りを南に進み、最初の信号を右折し、住宅街をニョロニョロ歩きます。

 

 猫がいないか最大限に警戒しながら歩きますが、猫の姿は見られません。

 

 道なりに数分間歩いていくと、府中市の標柱が立っているのが見えました。

 

 見ると、「八幡道(やわたみち)」と書いてあります。

 

八幡道

写真1 八幡道

 

 八幡道の名前は国府八幡宮のそばを通ることに由来しているそうです。

 

 国府八幡宮――。

 

 そう、最初の目的地は武蔵国府八幡宮で、そこへ行くために府中から一駅向こう(高尾から見て)の東府中駅で電車を降りたのです。

 

 八幡道を少し進むと、前方が開け、社殿が見えました。

 

 武蔵国府八幡宮です。

 

武蔵国府八幡宮

写真2 武蔵国府八幡宮

 

 実は、武蔵国府八幡宮の歴史はまだ調べていないので分かりません。

 

 では、何故その来歴の知らない国府八幡宮に来てみたのかというと、坂詰秀一氏の予測によれば、国府八幡宮の近辺に多磨郡の郡家(ぐうけ)が存在した可能性があるというのです!

 

 645年の大化改新以降、中央政府は地方を掌握するために少しずつ制度を改めて行き、列島内は「国」(くに)という行政区画で分けることにして、683〜685年には、国境の画定事業が完了しました。

 

 現在の埼玉県の大落古利根川以西および東京都の隅田川以西、それに川崎市と横浜市の一部は「武蔵国」の領域となりました。

 

 そしてその「国」の下には、「郡」が置かれたのですが、武蔵国内には21の郡が置かれ、その中の一つが多磨郡(当時は「磨」の字を使用)で、その多磨郡の郡家、つまり役所がここにあったかもしれないのです。

 

 府中の市街地は相当な面積が発掘されているのですが、ここ国府八幡宮の境内はほとんどされていません。

 

 もっと掘れば何かが出てくるはずなので、今後の調査に期待ですね。

 

 さて、鳥居(二の鳥居)は北北東の方向にあり、一回鳥居の外に出てみましょう。

 

二の鳥居

写真3 二の鳥居

 

 そして改めて境内に入ります。

 

門から覗く

写真4 門から覗く

 

 興味深いことに、武蔵国府八幡宮は拝殿と本殿からなる通常の形式ではなく、門の向こうに小さな本殿があるだけです。

 

本殿

写真5 本殿

 

 多磨郡は武蔵国の郡の中でもっとも広い面積を誇りますが、その郡衙が国衙に隣接した場所にあったという予測は的を射ていると思います。

 

 国の幹部である国司は、中央から官人が赴任する形でしたが、郡の幹部には大化改新以前の国造(くにのみやつこ)や伴造(とものみやつこ)などの系譜である地元の有力者が採用されます。

 

 多磨郡の在地の有力者がこの地で公務についていたことを想像すると非常にエキサイティングじゃないですか!

 

 多磨郡の有力者、それはどのような人物だったのか。

 

 国や郡が実質的に置かれる8世紀初頭より半世紀ほど遡ると、府中市内の西側にある全国でもまれな上円下方墳の武蔵府中熊野神社古墳の築造時期にあたります。

 

 武蔵府中熊野神社古墳などの古墳はまた後日探訪しようと思っていますが、府中熊野神社古墳に葬られた人の2〜3世代以降の有力な人物がここで政務を見ていた可能性が高いです。

 

 いやー、想像だけが膨らんで行きますね。

 

 2016年に刊行された『府中市郷土の森博物館ブックレット17 よみがえる古代武蔵国府』によれば、近年の発掘調査の成果から、国衙の北西にある東西230m・南北190mほどの区画について、多磨郡家の可能性があるとしています。

 

 多磨郡家、早く見つかって欲しいですね!

 

 ところで、北北東に延びる参道は、途中京王競馬場線の踏切を渡ります。

 

国府八幡宮参道

写真6 国府八幡宮参道

 

 参道はここからさらにまっすぐと都道229号線(昭和31年<1956>までの甲州街道)まで延びており、道路沿いに一の鳥居と石碑があります。

 

 この探訪以来、国府八幡宮の歴史について時折調べてみたのですが、ほとんど情報が入ってきませんでした。

 

 ところが、他の調査をしているときに偶然国府八幡宮について書かれた文献を発見したので、現在分かる範囲で国府八幡宮の歴史について記しておきます。

 

 まず、都内の神社のカタログともいうべき、『東京都神社名鑑』には武蔵国府八幡宮の項がないので、なぜかな?と思っていたところ、『新編武蔵風土記稿』には、六所宮(大國魂神社)の末社として記されており、「国府八幡宮の中世瓦」によると、明治時代には境内摂社となり、現在も大國魂神社の所管社となっているそうです。

 

 国府八幡宮はその名前から分かる通り国府と関連した八幡宮で、通説的には聖武天皇が各国に一つずつ八幡宮を創建したと言われているので、そのときに武蔵国にも建てられた可能性がありますが、史料的にそれを証することはできません。

 

 八幡信仰は聖武天皇の時代というよりかは、平安時代になって一大ムーブメントとなるので、「国府・国分寺関係の神社」で太田亮氏が述べている通り、平安時代の創建と考えてよいような気がします。

 

 鎌倉時代になると、武家の棟梁である源氏以下の各武門が八幡神を篤く信仰したことから、各地の国府八幡宮の中には総社の地位を手に入れる神社まで出てきます。

 

 武蔵の国府八幡宮の場合も、鎌倉時代後期の「武蔵国衙年貢注文」(金沢文庫文書)に見えるので、その時期には確実に存在していました。

 

 中世になると国府は消滅の方向に向かいますが、国府八幡宮の威勢は落ちることなく、例えば東国において瓦ぶきの建物は稀少だったのにもかかわらず、国府八幡宮の境内とその周辺からは、「国府八幡宮の中世瓦」が著された2011年の時点で54枚も見つかっています(13世紀末から14世紀初頭が多い)。

 

 そのため、国府八幡宮は、深澤氏が「国府八幡宮の中世瓦」で述べているとおり、それなりの格式のある神社として、中世の時代も地域に君臨していたことが分かります。

 

 なお、諸国の国府八幡宮は国府から離れたところに創建されるのが通常で、むしろ国分寺に近い場所にあったりしますが、武蔵の場合は例外的に国府の隣にあります。

 

 また、江戸後期に記された『江戸名所図会』によると、古は社殿が立ち並び荘厳だったといい、明和年間(1764〜72)の暴風で樹齢1000年と目される老杉が倒れ、該書が記された時点ではその跡が残っているとあります。

 

 さらに、境内近くに「権の正(ごんのかみ)」という地名があったことも記されています。

 

 それではまた西へ向かい、武蔵国府跡を訪ねてみましょう。

 

【参考資料】

  • 『新編武蔵風土記稿』「巻之九十二 多摩郡之四 府中領 六所社領」 昌平坂学問所/編 1830年
    ↑クリックすると国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページへリンクします
  • 『東京都神社名鑑 下巻』 東京都神社庁/編 1986年
  • 『新訂 江戸名所図会3』 古市夏生・鈴木健一/校訂 1996年
  • 「国府・国分寺関係の神社」 太田亮/著 (『新修 国分寺の研究 第六巻 総括』所収 角田文衞/編 1996年)
  • 「国府八幡宮の中世瓦」 深澤靖幸/著 (『府中市郷土の森博物館紀要 第24号』所収 府中市郷土の森博物館/編 2011年)
  • 『府中市郷土の森博物館ブックレット17 よみがえる古代武蔵国府』 府中市郷土の森博物館/編 2016年)

 

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【2月28日】
馬場大門のケヤキ並木

武蔵国府八幡宮

武蔵国府跡

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