◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

鎌倉公方代々の大本営・高安寺<高安寺塁>

最終更新日:2016年9月8日

 

高安寺概要

 

ふりがな こうあんじ
山号・院号 龍門山等持院
宗派 江戸期まで臨済宗
創建 貞和4年(1348)
開山者・開基者 開基:足利尊氏
本尊 木造釈迦坐像
住所 東京都府中市片町2-4-1

公式サイト なし

 

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第1回 探訪記録

 

探訪データ

 

探訪年月日 2012年3月30日(金)
天候 曇り
探訪ルート 【2月28日】 馬場大門のケヤキ並木 → 多磨寺跡 → 大國魂神社
【3月7日】 武蔵国府八幡宮 → 武蔵国府跡 → ふるさと府中歴史館 → 称名寺
【3月30日】 高安寺 → 国鉄下河原線廃線跡 → 坪の宮 → 三千人塚 → 分倍河原古戦場跡 → 高倉塚古墳 → 天王塚古墳 → 首塚 → 高倉20号墳 → 延文之板碑出土之地 → 御嶽塚 → 武蔵府中熊野神社古墳 → 武蔵府中熊野神社古墳展示館

 

代々の鎌倉公方が有事の際の本陣として使用

 

 前回府中を探訪したのは3月7日でしたが、それに引き続き本日も府中を探訪します。

 

 本日は古代から中世までバラエティに富んだ歴史スポットをめぐりますよ。

 

 朝8時40分に家を出発し、目指すのは京王線の分倍河原(ぶばいがわら)駅です。

 

 分倍河原には9時20分に到着しました。

 

 分倍河原の駅前(バスロータリー側)には立派な銅像があります。

 

新田義貞像

写真1 新田義貞像

 

 新田義貞(にったよしさだ)像。

 

 この銅像はいつ見てもカッコ良い。

 

新田義貞像アップ

写真2 新田義貞像アップ

 

 躍動感にあふれていて、迫力もあるし、私の好きな銅像の一つです。

 

 ところで、分倍河原駅前にわざわざ銅像が建てられるほどの新田義貞という人はどのような人物でしょうか。

 

 新田義貞は、上野国新田荘(群馬県太田市周辺)の出身で、生年は分かっていませんが、永仁6年(1298)から正安2年(1300)の間に生まれたと考えられています(『人物叢書 新田義貞』)。

 

 河内源氏八幡太郎義家の孫義重が新田太郎と号し、その7代あとが義貞です(下記系図参照)。

 

頼朝・義貞・尊氏関係系図(『尊卑分脈』)

図1 頼朝・義貞・尊氏関係系図(『尊卑分脈』)

 

 新田家は義重以来鎌倉幕府の御家人(ごけにん)でしたが、初代義重が幕府を開いた源頼朝にあまり協力的でなかったことから代々幕府からは重用されてきませんでした。

 

 つまり、先祖代々不遇をかこっていたわけですが、新田家は義貞の代で歴史に残る大仕事をやってのけます。

 

 150年続いた鎌倉幕府を滅ぼしたのです。

 

 その鎌倉幕府を滅ぼしたときの戦いの一つが分倍河原の合戦で、それにちなんで分倍河原駅前に義貞の銅像があるというわけですね。

 

 さて、義貞像をじっくり鑑賞したので、次は分倍河原駅の東側にある高安寺に行ってみましょう。

 

 実は私はずっと高安寺に行ってみたいと思っていたのですが、まだ行ったことがありません。

 

 家から近いということもあり、いつでも行けると思っていたらとんでもない月日が流れていました。

 

 なぜそれほど高安寺に惹かれているかというと、33年前に出版された『日本城郭大系』に「高安寺館」という項目で、「城砦化された寺」として紹介されているからです!

 

 城砦化された寺・・・

 

 うーん、見てみたい。

 

 しかも寺の東、南、西には堀の跡もあるということです。

 

 まあ、空堀は宅地化の進行で消えた可能性が高いので期待はできませんが、とりあえず現地に行ってみましょう。

 

 南武線の踏切を渡って寺域に近づくと、南面は道路を作っている最中のようで堀の形跡はありませんが、人工的な高低差があります。

 

人工的な高低差

写真3 人工的な高低差

 

 いや、しかしこれは道路構築時に削ったっぽいなあ・・・

 

 でも、道路を作る前から高低差は存在していて、高安寺は南側の多摩川を見下す段丘の上にあって、ちょうど崖下を南武線が通っており、写真3の左側が高安寺のある台地で、右側は往時は多摩川の河原です。

 

 西側を見てみると、寺域のはずれにちょっとした雑木林のエリアがあります。 

 

雑木林

写真4 雑木林

 

 ここは西側の空堀の跡に違いない!

 

 宅地化で消滅したと想像していた空堀の形跡が残っていた・・・

 

 奇声こそ発しませんが、内心満面の笑みを浮かべます。

 

 しかし残念なことに、後日『東京都の中世城館』を見たところ、この場所は府中崖線が開析した谷で、空堀は図示されていませんでした。

 

 北側の旧甲州街道(江戸期から戦後までの甲州街道)に出ると、寺の北側からは連続した台地になっていることが分かり、北側にも往時は空堀があったと思われますが、現在はその形跡はまったくありません。

 

 旧甲州街道は東から西にかけて坂を下るようになっており、その坂を「弁慶坂」と呼びます。

 

弁慶坂

写真5 弁慶坂

 

 弁慶坂の由来は、高安寺境内に弁慶が使ったという伝承のある井戸があって(後で紹介します)、それにちなんで名づけられたということです。

 

 その坂の西には「弁慶橋」があったそうです。

 

 そこから1分しないで、高安寺の総門がありました。

 

高安寺総門

写真6 高安寺総門

 

 高安寺は、正式名称を龍門山高安護国禅寺といい、等持院と号し、貞和4年(1348)の創建で、等持院というのは足利尊氏の法号・等持院仁山妙義から取られています。

 

 高安寺の「高」も尊氏の改名前の「高氏」から来ているのでしょう。

 

 『新編武蔵風土記稿』によると、その当時は鎌倉建長寺の末で、寺域は総延長4里(約16km)を誇り、塔頭は10院、末寺も75院ありましたが、『風土記稿』が編纂された江戸末期には、二又尾村(現在の青梅市二俣尾)の海禅寺の末となっています。

 

 ちなみに尊氏は、鎌倉幕府が滅亡した後、政権を確立した後醍醐天皇と「すれ違い」があって、後醍醐を無視して室町幕府を作った武将ですね。

 

 上の系図で分かる通り、新田義貞や源頼朝と同祖です。

 

 境内に入ると、右手に山門が見えます。

 

山門

写真7 山門

 

 山門へ行かず、そのまままっすぐ行くと観音堂があります。

 

観音堂

写真8 観音堂

 

 足利家の家紋である「二つ引き」が眩しい。

 

二つ引き

写真9 二つ引き

 

 観音堂はもともと寺の西側の観音橋付近にあったのが江戸初期の大水に流され、享保年間(1716〜36)に現在地に再建されたと伝わっています。

 

額

写真10 額

 

 多摩地区で数少ない江戸中期の三間堂ということです。

 

 戻って、山門に向かいます。

 

山門

写真11 山門

 

 山門は明治5年(1872)の築造ですが、見た目はもっと歴史がありそうな重厚な門ですね。

 

龍門山

写真12 龍門山

 

 金剛力士像が睨みを効かせています。

 

金剛力士像

写真13 金剛力士像

 

 山門をくぐると右手に立派なクスノキがあります。

 

クスノキ

写真14 クスノキ

 

 「府中の名木百選」に選ばれているこのクスノキの樹高は13メートルあり、本堂に向かって左手にはこちらも「百選」である立派なヒヨクヒバがあります。

 

 「等持院」の額を輝かせている本堂が見えます。

 

本堂

写真15 本堂

 

 本堂は、享和3年(1803)の築造です。

 

本堂

写真16 本堂

 

 高安寺は、最初に「城砦化された寺」だと紹介しましたが、鎌倉幕府が滅亡して室町幕府ができたときに、鎌倉にも「鎌倉府」という関東を治めるための、いわば幕府の支庁のようなものができました。

 

 鎌倉府の初代は基氏といって、2代将軍義詮(よしあきら)の弟で、基氏の家系が代々「鎌倉公方」として関東を治めます。

 

 南北朝時代から室町時代にかけての関東地方は決して平穏でなく、合戦もたびたび起きていました。

 

 そして鎌倉公方が合戦に臨むときに、ここ高安寺を本陣にすることが多かったわけです。

 

  『高安寺と文化財』によると、鎌倉公方の高安寺出陣は12回にも及んだそうです。

 

 そういう事実から、『日本城郭大系』に高安寺が、「高安寺館」として掲載されたのも頷けるわけです。

 

 さて、境内の墓地に入り、奥の方に行くと、秀郷稲荷大明神があります。

 

秀郷稲荷大明神

写真17 秀郷稲荷大明神

 

 秀郷とは藤原秀郷のことで、「平将門の乱」(939〜40)を鎮圧した人物ですね。

 

 なぜ、秀郷の神社がここにあるかというと、実は高安寺は、冒頭述べた貞和4年(1348)の建立よりも前の歴史があったのです。

 

 伝承の域ではありますが、高安寺にはもともと秀郷の館があったとされています。

 

 秀郷が府中に居館を構える必然性はあまりない気もしますが、ともかく秀郷は府中市にも顔を出しているのですね。

 

 秀郷のあとの時代には、市川山見性寺が建てられたといいます。

 

 そして龍門山高安護国禅寺としてリスタートしたときには、足利尊氏が関わっているというわけです。

 

 神社の横からは、先ほど空堀の跡といった雑木林に降りられるようになっており、そこに弁慶の井戸があります。

 

弁慶の井戸

写真18 弁慶の井戸

 

 弁慶はこの井戸の水を汲んで硯の水として、大般若経を書写したと伝わっています。

 

 府中に弁慶の伝承があるというのも面白いですが、弁慶伝承は関東各地で散見できます。

 

 さて、そこの空堀跡の雑木林は、寺の境内より3メートルくらい低くなっています。

 

雑木林の段差

写真19 雑木林の段差

 

 この西側部分には古い地形図を見ると小流が描かれており、その流れとの段差が小さな崖になっています。

 

 それでは引き続き、府中市内を探訪しましょう。

 

 次は武蔵の古代史のロマンを秘める坪の宮へ向かいます。

 

【参考資料】

  • 『新編武蔵風土記稿』「巻之九十二 多摩郡之四 府中領 番場宿 高安寺」 昌平坂学問所/編 1830年
    ↑クリックすると「国立国会図書館デジタルコレクション」の当該ページへリンクします
  • 『武蔵名勝図会』 植田孟縉/著・片山迪夫/校訂 慶友社 1967年(原著は文政3年<1820>)
  • 『武蔵野歴史地理 第四冊』 高橋源一郎/著 有峰書店 1972年(原著は昭和3年<1928>)
  • 『日本城郭大系5 埼玉・東京』 新人物往来社 1979年
  • 『高安寺と文化財』 井原茂幸/著
  • 『人物叢書 新田義貞』 峰岸純夫/著 吉川弘文館 2005年
  • 『東京都の中世城館』 東京都教育委員会/編 戎光祥出版 2013年

 

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【3月7日】
武蔵国府八幡宮

高安寺および高安寺塁

国鉄下河原線廃線跡

 

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