出雲系の无邪志国造を祀る古社・坪の宮

最終更新日:2016年9月9日

 

坪の宮概要
ふりがな つぼのみや
住所 東京都府中市本町2丁目

管轄 大國魂神社
創建 不詳
史跡・文化財指定 なし
祭神 兄多毛比命(えたもひのみこと)

 

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第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2012年3月30日(金)
天候 曇り
探訪ルート 高安寺 → 国鉄下河原線廃線跡 → 坪の宮 → 三千人塚 → 分倍河原古戦場跡 → 高倉塚古墳 → 天王塚古墳および八雲神社 → 浅間神社(美好町3-42) → 首塚 → 高倉20号墳 → 延文之板碑出土之地 → 御嶽塚 → 武蔵府中熊野神社古墳 → 武蔵府中熊野神社古墳展示館

 

古代から近代までの歴史が息づく坂道

 

 下河原線の廃線跡に整備された下河原緑道を南下して、坪の宮を目指します。

 

 坪の宮は古代府中のロマンを秘めた重要な神社なので楽しみです。

 

 ほぼ真南に300メートルほど歩くと、坪の宮の社地は下河原緑道より一段低い左手にありました。

 

坪の宮

写真1 坪の宮

 

 おー!

 

 こぢんまりとしていますが、何か厳かとした空気を放っています。

 

社殿

写真2 社殿

 

 大國魂神社の摂社である坪の宮の祭神は、兄多毛比命(えたもひのみこと)で、『先代旧事本紀』によると、「无邪志国造(むさしのくにのみやつこ)」です。

 

 

 国造というのは、中央から任命された地方の長官で、その土地の有力者が任じられ、関東地方では6世紀に置かれたというのが定説です。

 

 それ以前の地方は、各地に「王」とも呼べるような有力者が割拠しており、彼らは中央のヤマト王権に協力して、ヤマト政権の一員として政権運営に携わっており、ほとんど独立的な勢力でした。

 

 そこに蘇我氏が政権の中枢を担うようになってから、地方への影響力を増すために、地方の有力者を国造といういわば地方公務員に任じて、少しずつ取り込んで行ったわけです。

 

 大化改新(645年)以降は、日本は徐々に律令国家としての体裁を整えて行くのですが、その過程で国造は地方の「国」の下に置かれた「評(こおり)」の幹部職員に置き換えられ、やがて「評」は「郡」という名称に代わり、そのまま郡の幹部職員として続く家系も出てきます。

 

扁額

写真3 扁額

 

 国造は全国にだいたい130くらい存在し(時代によって違うと考えられるが)、その中で後の武蔵国にあたる地域は3つに分かれており、その中の一つが「无邪志国造」で、系譜的には出雲の神の血を引く兄多毛比命が国造に任じられていたわけです。

 

 この坪の宮はその兄多毛比命を祀っており、『先代旧事本紀』では、第13代の成務天皇のときに定められたとありますが、成務天皇自体を実在と見るかは難しいところです。

 

 ただ、政務天皇のときに国造に任じられた人は多いので、実際そういった画期は存在したと考えていいと思います。

 

 つまりヤマト政権の地方への影響力が一気に高まった時期があったということです。

 

 それと、兄多毛比命が出雲系であるということも何かを示しているのでしょう。

 

 実際の血筋が出雲系ということでは無いとしても、古代においては政治的意図を持って血統でグループ分けがされるわけで、无邪志の国造が出雲系とされたことには何かの意味が含まれているはずなのです。

 

 なお、坪の宮のあるこの地は、武蔵国府の場所がまだ分からなかった時代には、国府の推定地の一つとされていましたが、このサイトでも以前からお伝えしている通り、現在では国府は大國魂神社の東側に展開していたことが分かっています。

 

坪の宮の横から北側の下河原緑道を見る

写真4 坪の宮の横から北側の下河原緑道を見る

 

 それでは、引き続き下河原緑道を歩いて、三千人塚を見に行きましょう。

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『先代旧事本紀 訓注』 大野七三/編 2001年

 

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