分倍河原の合戦で討死した3000人を葬ったというのは事実か?三千人塚

最終更新日:2016年9月9日

 

三千人塚概要
ふりがな さんぜんにんづか
住所 東京都府中市矢崎1丁目

史跡指定
東京都指定史跡
史跡名:三千人塚
指定年月日:平成17年(2005)2月22日

 

探訪データ
探訪年月日 2012年3月30日(金)
天候 曇り
探訪ルート 高安寺 → 国鉄下河原線廃線跡 → 坪の宮 → 三千人塚 → 分倍河原古戦場跡 → 高倉塚古墳 → 天王塚古墳および八雲神社 → 浅間神社(美好町3-42) → 首塚 → 高倉20号墳 → 延文之板碑出土之地 → 御嶽塚 → 武蔵府中熊野神社古墳 → 武蔵府中熊野神社古墳展示館

 

凄い板碑に触れられる

 

 坪の宮で古代の武蔵に思いを馳せた後は、一気に鎌倉幕府の滅亡までタイムスリップしますよ!

 

 下河原緑道を南下し、途中の分岐点で左手に入り、少し進み「保育所前」交差点に出ると、また府中市の標柱がありました。

 

芝間道の標柱

写真1 芝間道の標柱

 

 ここを南北に通っている道を 「芝間道(しばまみち)」と呼ぶそうです。

 

芝間道

写真2 芝間道

 

 芝間という地名は『新編武蔵風土記稿 巻之九十二 多摩郡之四 本町』に、本町の小名として見えます。

 

 私は訪れたことがありませんが、地図を見ると芝間稲荷神社があります。

 

 芝間道を南下してすぐ、前方に塚らしきものが見えてきました。

 

  「三千人塚」です。

 

三千人塚

写真3 三千人塚

 

三千人塚の説明板

写真4 三千人塚の説明板

 

 この塚には、元弘3年(1333)の分倍河原の合戦で討死した3000人の遺骸を葬ったという伝承が昔からあったのですが、昭和30年に地元の郷土史家が掘ってみると、鎌倉時代から南北朝時代にかけての蔵骨器4個が出土したそうです。

 

 しかしよく掘る勇気がありましたね。

 

 大抵の場合、こういった塚を掘ると呪われると思われているのです。

 

 それはそうと、平成17年(2005)の調査によって、塚自体は江戸時代に造られたとものだと分かりました。

 

 まあ、もし3000人もの遺骨を埋めたとすると、大きさも相当バカでかくなると思うので、やはり昔から皆、「3000人は無いだろう」と思っていたと思います。

 

 しかし、なぜ「三千人塚」という伝承ができたのか。

 

 そのへんの民俗学的なところに興味があります。

 

 塚の上に生えている木は、「府中の名木百選」に選ばれている「三千人塚のエノキ」で、樹高は13.5メートルあります。

 

三千人塚のエノキの標識

写真5 三千人塚のエノキの標識

 

 さらに、塚の上には、多摩地域で最古の康元元年(1256)の板碑が立っています。

 

康元元年(1256)の板碑

写真6 康元元年(1256)の板碑

 

 板碑はこのままの状態では読めませんね。

 

 それでは次は、西に向かい分倍河原の古戦場跡に行ってみましょう。

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『新編武蔵風土記稿』「巻之九十二 多摩郡之四 府中領 本町」 昌平坂学問所/編 1830年
    ↑クリックすると「国立国会図書館デジタルコレクション」の当該ページへリンクします
  • 『武蔵名勝図会』 植田孟縉/著・片山迪夫/校訂 慶友社 1967年(原著は文政3年<1820>)
  • 『武蔵野歴史地理 第四冊』 高橋源一郎/著 有峰書店 1972年(原著は昭和3年<1928>)

 

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