高倉20号墳

最終更新日:2017年12月31日

 

高倉20号墳概要

 

ふりがな たかくらにじゅうごうふん
住所 東京都府中市美好町3-26

交通 京王線分倍河原駅下車、徒歩約10分
史跡指定 なし
現況 古墳
築造時期 不明
関連施設  

 

墳丘

 

形状 前方後円墳 前方後方墳 帆立貝式古墳 円墳 方墳 上円下方墳 双方中円墳 八角墳
築成 1段 2段 3段 4段 5段 不明
造出 あり なし 不明
規模 不明
墳丘高 1.4m (『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』)
葺石 あり なし 不明
埴輪 あり なし 不明
登頂 可能 不可能
陪塚 あり なし 不明

 

埋葬主体

 

 不明

 

周溝

 

 内径18.8m 幅4.3m前後 深さ68〜85cm 断面形は逆台形 (『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』)

 

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第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2012年3月30日(金)
天候 曇り
探訪ルート 高安寺 → 国鉄下河原線廃線跡 → 坪の宮 → 三千人塚 → 分倍河原古戦場跡 → 高倉塚古墳 → 天王塚古墳および八雲神社 → 浅間神社(美好町3-42) → 首塚 → 高倉20号墳 → 延文之板碑出土之地 → 御嶽塚 → 武蔵府中熊野神社古墳 → 武蔵府中熊野神社古墳展示館
同道者 なし

 

 

 もときた浅間神社の交差点に戻って、今度は西に行きます。

 

 そして確実な古墳を発見しました。

 

 

 四つ目ゲット!

 

 多分、高倉塚古墳の説明板がいうところの現存する4つの古墳は以上になると思います。

 

 ところで、高倉古墳群はいつごろの古墳なのでしょうか。

 

 パンフレットによると、高倉古墳群の築造時期は、古墳時代後期の6世紀から7世紀はじめごろで、一部には古墳時代中期(5世紀)以前にさかのぼる古墳もあるということです。

 

 5世紀・・・

 

 5世紀の日本、そして武蔵の国はどのような感じだったのでしょうか。

 

 当時、日本はまだ「倭国」です。

 

 5世紀というと、従来仁徳天皇陵ということになっていた、墳丘長486メートルという日本最長を誇る前方後円墳の大仙陵古墳(大阪府堺市)が5世紀の前半でも中葉に近い時期の築造です。

 

 大仙陵古墳は実は仁徳天皇陵ではないと多くの研究者は思っていますが、それどころか、『日本書紀』で書かれている天皇の系譜と、実際に存在する天皇(大王)級の大規模前方後円墳の数が整合しません。

 

 なので、実は5世紀の中央の状況も『日本書紀』を鵜呑みにしていいのか微妙なところです。

 

 微妙ではありますが、『日本書紀』にはその頃の天皇の話が豊富に載っていますので、その中から事実と思われることを抽出すればよいです。

 

 ところが、それがなかなか難しい。

 

 中国の史料には、日本(倭)から朝貢を求めてきたと書かれており、それが「倭の五王」として有名ですが、その記録は『日本書紀』には書かれておらず、本当にヤマトの天皇(当時は大王)が中国に朝貢に行ったの?朝貢に行ったのは実は九州の勢力じゃないの?などという人もいます。

 

 でも当時、ヤマトに天皇家(大王家)の朝廷があったことは事実です。

 

 5世紀の頃の武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県の一部)に関する文献史料は無いのですが、唯一といってよいほど貴重な武蔵国の状況を表す史料があります。

 

 それは埼玉県行田市の埼玉稲荷山古墳(墳丘長120メートル)から出土した鉄剣です。

 

 その鉄剣の銘文には、「辛亥年」とあり、通説ではそれは西暦471年のことで、古墳の築造はそれよりやや後と考えられます。

 

 鉄剣の銘文によると、この剣を作った乎獲居(オワケ)は、先祖代々「杖刀人首」(親衛隊長)として奉仕し今に至っており、獲加多支鹵(ワカタケル)大王が斯鬼(シキ)の宮にいたとき、天下を佐治したといいます。

 

 通説では、「ワカタケル」は雄略天皇(『日本書紀』では本名を大泊瀬幼武<オオハツセノワカタケル>)であるので、武蔵北部に盤踞していたオワケの一族は、天皇家に仕えていたということが分かります。

 

 5世紀に天皇家に仕えていたというのは、地方の有力者が天皇に仕える時期としてはかなり早いものと考えられます。

 

 というのも、前回の記事でも書きましたが、日本の各地方は6世紀から7世紀前半の国造(くにのみやつこ)の設置から本格的に中央に繋がれて行くからです。

 

 それまでは全国各地には地方の「王」のような存在がいた・・・

 

 そういう世の中で武蔵北部のオワケが天皇家に代々「杖刀人首」を出していたのは、興味深い事実であります。

 

 では、高倉古墳群のある武蔵南部はどうだったのか?

 

 5世紀代の武蔵南部は多摩川の下流域に行くと、ここよりも大きな古墳があります。

 

 野毛大塚古墳は帆立貝型前方後円墳で、墳丘長が82メートルあります。

 

 それが何を示しているかというと、ヤマト朝廷と関係があったのは、それら多摩川下流域の古墳の勢力で、5世紀のころの高倉古墳群の勢力は、その多摩川下流域の勢力を介して、間接的にヤマト朝廷と接触していたということです。

 

 しかしその一方で、大きな古墳が築かれなかった多摩川中流域の府中市域内の勢力は、実はすでにヤマト朝廷と結びついていて、ヤマト朝廷から政治的に抑えられる形で大型の古墳を築造することができなかったと考えることもできます。

 

 うーん。

 

 5世紀の武蔵国について興味は尽きないですが、次に行きましょう。

 

【参考資料】

  • 『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』 多摩地区所在古墳確認調査団/編 1995年
  • 現地説明板

 

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