鎌倉幕府滅亡!分倍河原古戦場跡

最終更新日:2016年9月9日

 

分倍河原古戦場跡概要
ふりがな ぶばいがわらこせんじょうあと
住所 東京都府中市分梅町2-59-4(碑が建っている場所)

 

スポンサードリンク


第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2012年3月30日(金)
天候 曇り
探訪ルート 高安寺 → 国鉄下河原線廃線跡 → 坪の宮 → 三千人塚 → 分倍河原古戦場跡 → 高倉塚古墳 → 天王塚古墳および八雲神社 → 浅間神社(美好町3-42) → 首塚 → 高倉20号墳 → 延文之板碑出土之地 → 御嶽塚 → 武蔵府中熊野神社古墳 → 武蔵府中熊野神社古墳展示館
同道者 なし

 

立派な石碑に遭遇

 

 三千人塚から中央自動車道のガード下の道に出て、西に進みます。

 

 15分くらい歩くと、梅が並んで植えられているゾーンに来ました。

 

ガード下の梅ゾーン

写真1 ガード下の梅ゾーン

 

ガード下の梅ゾーン

写真2 ガード下の梅ゾーン

 

 梅も今は散っていく過程ですが、まだ少しは鑑賞できます。

 

少し遅いがまだ咲いている

写真3 少し遅いがまだ咲いている

 

 そういえば、分倍河原の「分倍」は「分梅」とも表記するんですよね(現在の住所表記でも「分梅町」があります)。

 

梅

写真4 梅

 

 少し進むと、「新田川分梅公園」に入ります。このあたりが、分倍河原の古戦場の跡といわれています。

 

新田川分梅公園

写真5 新田川分梅公園

 

 公園の端に石碑がありました。「分倍河原古戦場」とあります。

 

分倍河原古戦場碑

写真6 分倍河原古戦場碑

 

 立派な石碑ですね。

 

分倍河原古戦場碑

写真7 分倍河原古戦場碑

 

分倍河原古戦場の説明板

写真8 分倍河原古戦場の説明板

 

 元弘3年(1333)5月8日、上野国新田荘(群馬県太田市)で挙兵した義貞は、鎌倉に向けて進軍し、小手指ヶ原の合戦(埼玉県所沢市)で、長崎高重・桜田貞国を打ち破り、続いて久米川の合戦(東京都東村山市)でも勝ち、ついで分倍河原の合戦に移りました。

 

 幕府側は北条泰家を大将として向かわせ、新田軍は一度は敗れ後退します(このとき武蔵国分寺が放火され焼失したと伝わっています)。

 

 しかし、義貞勢は援軍を受けて反撃し、幕府軍を大破、そのまま鎌倉に攻め込み、22日鎌倉は落城。東勝寺で北条高時以下の一族だけでも283人が自害し、鎌倉全体で自害した数は6千人を超えたといわれています。鎌倉幕府が滅亡したのです。

 

新田川分梅公園

写真9 新田川分梅公園

 

 現在は静かな住宅街になっているこのあたりで、679年前、壮絶な戦いが行われたのですね。

 

 さて次は、いよいよ府中市内の古墳にアタックしましょう。

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『人物叢書 新田義貞』 峰岸純夫 2005年

 

<< 戻る

現在地

進む >>

三千人塚

分倍河原古戦場跡

高倉塚古墳

スポンサードリンク



 

ご意見・ご感想は、稲用章

inayouアットマークa.email.ne.jp

までお願いします。