◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

夏侯惇ばりの武将を祀る御霊神社<鎌倉景政館跡>

最終更新日:2016年1月27日

 

 昨日の夜は寝るときに「明日は北大谷古墳に行こう!」と思っていましたが、朝目覚めると眠くて起き上がれません。

 

 そしていつものように昼まで寝てしまったのですが、昼食を食べたあと、なんだか時間を持て余してしまいました。

 

 そうだ、今日は日曜だから妻の電動自転車があいている。

 

 あれで近所を巡ってみよう。

 

 行きたい場所はすでに地図にプロットしてあるから、そこからチョイスだ。

 

 ・・・よし、近藤出羽守屋敷に行ってみよう!

 

御霊神社諸元

 

ふりがな ごりょうじんじゃ
別名 明神様
住所 東京都八王子市館町271-1

創建 天正9年(1581)以前
史跡・文化財指定 なし
祭神

鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)

境内神社 なし
公式サイト なし

 

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第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2009年11月1日(日)
天候 曇り
探訪ルート 鎌倉景政館および御霊神社 → 近藤出羽守屋敷および浄泉寺 → 椚田遺跡

 

 

思わぬところで鎌倉景政伝承に遭遇

 

 目指すは、ヨーカドーの裏側の御霊神社と浄泉寺のある場所です。

 

 数日振りの外出なので足がへなっています。

 

 そんな足ですが、電動なので何とかなるでしょう。

 

 目的地に行くには、丘をひとつ越えなければなりません。

 

 坂道を登っているとすぐに足が疲労します。

 

 この探訪に出かけた2009年11月は、うつ病による寝たきりの状態から回復しようと必死にもがいていた時期でした。

 

 しかし、本格的な回復には、なおも4年掛かることをこのときは知る由もありません。

 

 丘を越えたら湯殿川沿いの低地を走る北野街道を東へ進みます。

 

 目的地は川の対岸(右岸)なので、明神橋を渡り、まずは御霊神社へ向かいます。

 

 御霊神社の社殿は思っていたより大きく立派でした。

 

御霊神社

写真1 御霊神社

 

 向かって左側には由緒が書かれた立派な説明板があります。

 

 なになに、祭神は鎌倉権五郎景政だと!

 

 鎌倉権五郎景政(景正の表記の場合も多い)は、八幡太郎源義家に従って後三年合戦(1083〜87)に参戦、羽州金沢柵(秋田県横手市)を攻めます。

 

 しかし合戦の最中、敵が放った矢が右目に刺さってしまいました。

 

 ところが、顔面に矢を立てた景政は、自分を射た敵に矢を放ち返し殺害すると、そのまま闘い続けます。

 

 まさしく「三国志」の夏侯惇を彷彿とさせる働きです。

 

 この時景政はまだ16歳の若武者。

 

 景政の仕える八幡太郎も豪勇で知られていますが、その主に仕えるに相応しい武勇絶倫の男です。

 

 しかしさすがに闘い続けることはできず、やがて景政は仰向けに倒れます。

 

 それに気付いたのは朋輩の三浦平太郎為次。

 

 為次は景政を助けようと思い近づき、顔面に片足をかけて矢を抜こうとしました。

 

 すると景政は倒れたまま抜刀し、為次の草摺りを掴み刺そうとします。

 

 為次が「何をするんだ!」と驚くと、景政は「矢に当たって死ぬのは武士の本懐だが、顔を踏まれては我慢ならない。お前を殺して俺も死ぬ!」と言い放ったので、為次は改めて丁寧に手で顔を押さえて矢を抜きました。

 

 なんと伝承では、その景政の屋敷がこのあたりにあったそうです。

 

 我が家の近所に権五郎景政の館の伝承があったとは知りませんでした。

 

 鎌倉景政の伝承は各地にあるので、伝承は伝承として、神社自体の創建としては、慈眼寺村(元八王子)の御霊谷戸に祭られていた「御霊大明神」を天正9年(1581)以前に北条氏照の家臣近藤出羽守助実がこの地に移して祀ったのが始まりです。

 

 『新編武蔵風土記稿』によると、御霊神社は江戸時代には館村の鎮守となっており、同書に掲載の古文書から天正9年(1581)の時点で、すでに御霊神社が存在していることが分かります。

 

 昔は冬の神事として、景政の凱旋に由来するかがり火を焚く神事があったそうです。

 

 御霊神社が元々あったという御霊谷戸は、八王子城の城域で、その近くには梶原景時の館であったと伝わる梶原八幡があります。

 

 実際、鎌倉幕府の有力者であった梶原景時本人がその場所に居館を構えていたかどうかは分かりませんが、梶原八幡に残る棟札から15世紀の後半には梶原一族が元八王子あたりを治めていたのは確実です。

 

 そうすると、梶原氏はまさしく景政の後裔であるので、御霊谷戸に御霊神社を建てたとしても何ら不思議ではありません。

 

 では、なぜそれを近藤出羽守が自分の屋敷内に勧請したのでしょうか。

 

 出羽守の出自は不明ですが、氏照が小田原から移ってくる際に付き従った家臣と考えられるので、生まれは相州かもしれません。

 

 そのため、もしかしたら近藤家は鎌倉景政の流れを汲む家かとも考えました。

 

 いわゆる「鎌倉党」は景政を祖として崇めるので、出羽守が同族の梶原氏が祀っていた御霊神社を自分の屋敷内に遷したという発想だったのですが、『戦国武将合戦事典』によると、近藤家は藤原秀郷流と伝わり、その苗字から分かる通り近江国が発祥で、その子孫が伊豆・相模にも分派しており、相模の古庄郷司近藤太能成は、鎌倉幕府の草創期に活躍しています。

 

 おそらく出羽守はこの能成の子孫ではないでしょうか。

 

 ちなみに能成の子能直の系統は、戦国時代には九州豊後(大分県)で大名となった大伴宗麟に繋がっています。

 

 出羽守が秀郷流とした場合、なぜ御霊神社を勧請したかを考えると、出羽守が八王子にやってきてから娶った妻の出自が鎌倉党、もっと細かく言えば、梶原館の梶原氏だったと考えることもできます。

 

 外来した支配者が現地の有力者と婚姻して新たな土地での信頼獲得を目論むのは歴史的に見るとよくある話なので、今のところはこの可能性を述べるにとどめておきます。

 

 なお、出羽守の諱は八王子では助実で通っていますが、一方で綱秀とも伝わっており、「綱」は北条氏綱からの偏諱と考えられます(出羽守の経歴については出羽山のページで簡単に紹介しています)。

 

 さて、思わぬところで権五郎景政と出会ってしまいましたが、軽く驚いた後は、近藤出羽守屋敷である浄泉寺へ向かいましょう。

 

 日本人が死んだ人の祟りを恐れるようになったのがいつ頃からかは分かりませんが、ヤマトに朝廷ができて以来貴族同士の権力争いで多くの人たちが殺害されたり自殺したりしてきましたので、人間の感覚としては、政敵を葬った側もきっと後味は悪かったに違いありません。

 

 そういったある種の罪の意識が史料上に現れるのは平安時代になってからで、『日本三大実録』の貞観5年(863)5月20日の条には、災害の発生原因を「御霊」、すなわちこの世に怨みを残して死んだ人たちの祟りによるとし、京都の神泉苑でそれを鎮めるための御霊会が行われました。

 

 奇しくもその6年後の貞観11年5月26日には、2011年3月11日の東日本大震災と同様な規模だったといわれている「貞観地震」が起きていますので、都の貴族たちは戦慄したに違いありません。

 

 御霊神社でもっとも有名なのは京都の上御霊・下御霊神社でしょう。

 

 御霊神社は全国に展開しているのですが、当初から祭神がカッチリと決まっている神社ではなかったようで、いつの間にか「ごりょう」という呼び名が元で、各地で祭神が「ごろう(五郎)」に変わるケースが増えました。

 

 鎌倉にある御霊神社も、本来は「五霊尊」を祀っていましたが、鎌倉時代には「権五郎」景政一柱を祀る神社に変わってしまったのです。

 

 なぜ、各地の「ごろう」さんの中で景政が一番メジャーになったのかは分かりませんが、不思議なのは東北各地に景政が合戦の後、治療のために眼を洗ったと伝わる池や清水が多くあり、また東北から九州までの広範囲には景政が建立したとされる寺社や神木・塚が分布していることです。

 

 一体どうして、景政はこのように全国に伝承を残す人となって、また神として祀られる人になったのか、柳田國男の著書を読んでみても今一つ私は釈然とせず、今のところ答えを見つけられていません。

 

 

 

つづきの記事はこちら

 

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『新編武蔵風土記稿』「巻之百三 多摩郡之十五 柚木領 館村」 昌平坂学問所/編 1830年
    ↑クリックすると国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページへリンクします
  • 『武蔵名勝図会』 植田孟縉/著・片山迪夫/校訂 慶友社 1967年(原著は文政3年<1820>)
  • 日本城郭大系 5 埼玉・東京』 新人物往来社 1979年
  • 『柳田國男全集 6』所収「一つ目小僧その他」 柳田國男/著 筑摩書房 1989年
  • 『新装普及版 神社辞典』 白井永二・土岐昌訓/編 東京堂出版 1997年
  • 『戦国武将合戦事典』 峰岸純夫・片桐昭彦/編 吉川弘文館 2005年
  • 『相模武士 第1巻 鎌倉党』 湯山学/著 戎光祥出版 2010年
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