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縄文時代の竪穴式住居跡が目視できる都内でも数少ない遺跡・椚田遺跡

最終更新日:2016年1月27日

 

前回の記事はこちら

 

 せっかく湯殿川沿いに来ているので、縄文時代の遺跡である椚田遺跡にも寄ってみよう。

 

椚田遺跡諸元

 

ふりがな くぬぎだいせき
住所 東京都八王子市椚田町

時代 縄文時代中期中葉〜後半および中期末葉、古墳時代
現況 椚田遺跡公園、宅地
観察遺構 住居跡
史跡指定 国指定史跡
指定日:昭和53年(1978)5月11日

 

第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2009年11月1日(日)
天候 曇り
探訪ルート 鎌倉景政館および御霊神社 → 近藤出羽守屋敷および浄泉寺 → 椚田遺跡

 

住居跡が地表面観察できる

 

 浄泉寺(近藤出羽守屋敷跡)を出て、北野街道を東進します。

 

 しばらく行ったところで、湯殿川の左岸の段丘上に上がらないといけません。

 

 さすがに坂がきついので、自転車を押して上がることにします。

 

 段丘に上がったあと、さらに東進中、喉が渇いたので自販機でコークを購入。

 

 もちろん「ゼロ」です。

 

 個人的にはゼロはこの手の人工甘味料系の中では味が良いほうだと思います。

 

 ただ、マックでハンバーガーを食べる時は、ゼロよりオリジナルの方がコクがあってハンバーガーに良く合いますね。

 

 コークを開けると、まるであらかじめ振っていたかのように、ボワーッと中身が噴き出してきました。

 

 あーあ、手がビショビショになっちゃったよ。

 

 コークを一飲みして辺りを見渡すと、すぐそこに公園がありました。

 

 「椚田遺跡公園」です。

 

椚田遺跡公園南側入口

写真1 椚田遺跡公園南側入口

 

 お、さすが国史跡。

 

 国史跡でよく見る格調高い標柱があります。

 

標柱

写真2 標柱

 

 単に「史跡」といった場合は、国指定の史跡で、古い標柱の場合は「史蹟」という字で掘られています。

 

 ちなみに東京都内の国指定史跡のなかで、縄文時代のものは7つしかなく、そのうちの2つが八王子市内にあるんですね。

 

 ここ椚田遺跡と、船田石器時代遺跡です。

 

 お、説明板も立派。

 

説明板

写真3 説明板

 

 このような説明板が3基設置されています。

 

 この辺一帯は、昭和50年(1975)に発掘調査がされ、公園になった場所は、発掘後に土を覆いかぶせて遺跡自体を保存しているので、公園の下には貴重な遺構が眠っているのです。

 

 縄文時代はその約1万年の間を、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期というふうに6つに分けますが、この遺跡は中期のもので、今から4500年ほど前の遺跡ですね。

 

 縄文時代のムラは、中央に広場をおいて、それを囲むように円状に家を建てます。

 

 「円卓会議」と同じように、円状に家を配置していることから基本的にはムラの構成員はみな平等であったと考えて良いと思いますが、平等ということは、逆にいえば皆と同じように労働したり祀りに参加したりしなければ大変な目に会うということでもありますね。

 

 また、椚田遺跡の場合、家は長年にわたり何度も作り直してムラを維持しています。

 

 公園の北西の隅には、竪穴住居と敷石住居の合計3棟が表面をコーティングされ、観察できるようになっています。

 

公園内

写真4 公園内

 

 敷石住居というのも作りとしては竪穴住居ですが、これの特徴は床面に平石を敷きつめているところです。

 

敷石住居跡

写真5 敷石住居跡

 

 『日本の歴史01 縄文の生活誌』によると、敷石住居は関東地方や中部地方を中心として縄文中期後半から後期初頭に流行したそうです。

 

 これは想像すると分かる通り、この上で住むのはあまり心地よいと思われません。

 

 ですので、何かしら祭祀に関係ある施設だと考える研究者もいます。

 

 敷石住居の正体はまだ判明していませんので、いろいろと想像するのも楽しいですね。

 

 この探訪から4年後の2013年に『新八王子市史 資料編1 原始・古代』が刊行され、さらにその2年後の2015年には『新八王子市史 通史編1 原始・古代』(以降『通史編』と称す)が刊行されたことにより、新たな知見を得たので少し補足します。

 

椚田遺跡の概要

 

 このページでは単に「椚田遺跡」と称していますが、それは国史跡としての正式名称で、遺跡としての名称は正確には「椚田遺跡群」という「群」になっていて、第T遺跡から第X遺跡までの5つの遺跡が含まれています。

 

 そのうち、第U遺跡は神谷原遺跡と称され、第V遺跡がここ椚田遺跡公園なのです。

 

 椚田遺跡群は高尾山塊から東に延びる丘陵の一つである椚田丘陵の上にあり、南は湯殿川、北は山田川の最上流部で現在は川はありませんが、往時はその流れによって画されていました。

 

 椚田第V遺跡は標高が161m、範囲は東西200m×南北150mで、今まで3度の発掘調査が行われています。

 

 最初は、昭和50年(1975)4月から翌年1月にかけての調査で、このときに3層の遺跡が重なる複合遺跡であることが判明しました。

 

 一番上の層では、古墳時代後期の住居跡が4棟見つかり、その下には縄文時代中期末葉の敷石住居跡が3棟と配石や埋甕遺構などが見つかり、最下層には縄文時代中期中葉から後半の竪穴住居跡が50棟とそれよりも古い竪穴住居跡が2棟見つかっています。

 

 その次の調査は昭和51年で、国指定史跡としての範囲を決めるために東限を調べており、それから29年後の平成17年(2005)には、水道管敷設のための事前調査が行われ、新たに5棟の住居跡が見つかるとともに環状集落の南縁が明らかになりました。

 

 さてここで、「中期末葉」とか「中期中葉から後半」といった、歯に物が挟まったような気持ち悪い表現が出てきましたね。

 

 そもそも縄文時代中期という時代は「新地平編年」によると、紀元前3520年から同2470年までの約1000年の期間があるので、その中で上記のようなニュアンスをよく味わって時代を想像してみてください。

 

従来の縄文集落のイメージは幻だった!?

 

 多分、縄文時代の集落というと、中央に広場があって、それを囲むように環状に集落が並んでいた様子を思い浮かべる方も多いと思います。

 

 私もこのページの本文ではそう書いています。

 

 ところが、そのイメージは実は一般的な集落の景観ではないということが分かってきました。

 

 というのも、確かに発掘された状態の遺跡を見るとそういった「環状集落跡」と呼ばれる形状になっているのですが、問題は見つかった建物がすべて同時代にあったわけではないことです。

 

 竪穴式住居の寿命は長くても10年とされ、『通史編』ではその耐用年数をもとに、100棟の竪穴式住居が見つかった宇津木台遺跡群D地区を素材として、検出された各住居が使われていた時代を綿密に考察した結果、驚くべきことに八王子市内には同時に5棟以上の住居が並んでいた遺跡は3ヶ所しかないことが判明しました。

 

 2015年3月31日に刊行された『通史編』が著されている時点で、市内の遺跡の数は1032箇所あり、そのうち縄文時代の遺跡は774箇所、さらに縄文中期は460箇所を数え、実に市内の遺跡の半分近くは縄文中期の遺跡なわけですが、その460箇所のうち(もちろん全てが集落遺跡というわけではありませんが)、たった3ヶ所しかムラらしいムラはなかったのです。

 

 ですからほとんどのムラは、住居が1棟か2棟建っているだけの、とてもではないですがムラとは呼べないものであり、それが縄文時代の一般的な集落の実態だったわけです。

 

 私はこれを知って非常にショックを受けたのですが、それと同時に従来の「定説」が破られたため面白くも感じました。

 

 このような定説を打ち破る論説を自治体史に掲載するのはかなり冒険だと思うのですが、それをやってのけた市史編纂の人たちに快哉を叫びたいです。

 

話はここで終わらず・・・

 

 ところが私はその後、もう一段階突っ込んだ説がチラッと頭に浮かんでしまいました。

 

 というのも、時代はだいぶ下ってしまうのですが、古墳時代について書かれた本である『東国から読み解く古墳時代』を読んだときに、榛名山の噴火によって降り積もった軽石によって集落が丸ごとパックされた状態で見つかった群馬県渋川市の黒井峯遺跡のことを詳しく知って、新たな疑問が鎌首をもたげてきてしまったのです。

 

 それは、「果たして縄文時代には平地建物はなかったのか?」という疑問です。

 

 黒井峯遺跡では、竪穴建物が5棟、平地建物が36棟、高床建物が7棟見つかっており、実に全建物の4分の3が平地建物なのです。

 

 平地建物の形跡である浅い溝や柱の穴はすぐに風化して跡かたもなくなってしまうので、従来の遺跡だと平地建物の存在すら知られていなかったのが、たまたまの自然災害が原因で遺跡として残りそれが見つかったわけです。

 

 ということは、私は縄文時代にも思いのほか平地建物はあったのではないかと空想してしまいました。

 

 わざと「空想」と表現したのは、今のところは古墳時代の上記の案件から類推するにとどまるからです。

 

 でも、もし平地建物があったとすると、例えば竪穴式住居2棟と平地建物8棟で、合計10棟というムラらしい景観ができあがりますね。

 

 ただし、『通史編』では、「縄文時代中期にあっては、竪穴形式の建物が一般的であることは揺るがない事実である」と断言しており、その可能性を完全に否定しています。

 

 果たして、本当に「揺るがない事実」であるのか。

 

 今後の研究の進展によってまた新たな事実が分かってくるととても面白いですね。

 

柄鏡形敷石住居について

 

 中期末葉には火山の噴火などによる気候変動によって、市内では終焉する集落が増えます。

 

 そしてそれと軌を一にして柄鏡形敷石住居が発生してくるのです。

 

 椚田遺跡の敷石住居からは石棒は発見されていないようですが、石棒は敷石住居から発見されるケースが多く、天候不順によって人びとの暮らしがきつくなってきた時代に、住居を敷石住居に替え、石棒を使った新たな祭祀が始まったということも考えられます。

 

 縄文時代後期には人口はさらに減って行ったようで、市内はほぼ無人のような状態になり、関東地方西南側は軒並み人口が減りますが、東京湾沿岸の集落は後期にも存続しており、そちらの方面はまだ普通に生活ができたようです。

 

 しかし、それにしても今日は日曜日だからかもしれませんが、近所の小学生などの来園者で賑わっています。

 

 ただ、遺跡は壊さないでね。

 

 あと、ゴミも捨てないこと。

 

 ここで発掘された土器は、八王子市郷土資料館にあるそうなので、今度行って見てみます(後日行ってみたら、椚田遺跡出土の土器が飾ってあった)。

 

 さて、このあとはもっと見たい場所がありますが、ちょっと走っただけで疲れ果ててしまいました。

 

 残存体力では他の遺跡へは行けません。

 

 今日はここで切り上げて、他はまた今度見に行くことにしましょう。

 

 

 

この次の八王子探訪はこちら

 

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『日本の歴史01 縄文の生活誌』 岡村道雄/著 講談社 2008年
  • 『新八王子市史 資料編1 原始・古代』 八王子市史編集委員会/編 2013年
  • 『新八王子市史 通史編1 原始・古代』 八王子市史編集委員会/編 2015年
  • 『東国から読み解く古墳時代』 若狭徹/著 2015年
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