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江戸初期の進歩的禅僧が眠る石平道人(鈴木正三)墓

最終更新日:2015年7月5日

 

前回の記事はこちら

 

 船田古墳で興奮した後は、団地の中の道を進みファミリーマートの角を右折。

 

 少し走るとこんもりとした山が見えました。

 

 きっとあれが出羽山公園でしょう。

 

石平道人(鈴木正三)墓諸元

 

ふりがな せきへいどうじん(すずきしょうさん)はか
住所 東京都八王子市長房町1258(長泉寺の所在地)

史跡指定 八王子市指定史跡
指定日:昭和31年(1956)7月28日)
現況 長泉寺内に安置
関連施設 長泉寺に石平道人の木造がある
関連サイト 八王子市ホームページ内「石平道人墓」のページ

 

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第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2009年11月8日(日)
天候 曇り
探訪ルート 船田石器時代遺跡 → 船田古墳 → 石平道人(鈴木正三)墓 → 出羽山 → 刀匠武蔵太郎安國鍛刀之地 → 梶原館および梶原八幡

 

偶然にも鈴木正三の墓を発見

 

 山の裾を走りながら、登り口を見つけようとしますが見つかりません。

 

 ちょっと路地に入ってみるか・・・

 

 ん、なんか史跡表示の説明板が見えるぞ。

 

 それはそれとして、長泉寺というお寺が見えますよ。

 

 地図で現在地を確認します。

 

 なんだー、ここは出羽山の隣の山か。

 

 で、さっきの説明板は何だ?

 

 なに、鈴木正三の墓だと!

 

市指定史跡 石平道人(鈴木正三)墓

写真1 市指定史跡 石平道人(鈴木正三)墓 (向かって右が正三、左が弟子の恵中)

 

 鈴木正三は三河国賀茂郡足助(愛知県豊田市足助町)の生まれで、鈴木家は松平家に仕え、正三は当初は「鬼作左」の異名を持つ本多作左衛門重次に属していました。

 

 大坂夏の陣では兜首を二つ取ったということなので、かなり武勇に優れた武将だったのでしょう。

 

 ところが、42歳の時の元和6年(1620)に遁世し、故郷足助にある石平山(愛知県豊田市山中町)に籠り、憤怒の形相で座禅を組む「仁王禅」を修業する毎日を送ります。

 

 その後、江戸で「二人比丘尼」を書き知名度が上がり、当地方の有力者であった井上出羽が招き、現在の多摩御陵の近くにあった萬松山堅叔庵で弟子の恵中とともに修業を続けました。

 

 井上出羽は堅叔宗固居士と号しているので、元々信心深かった出羽が自らの堅叔庵に正三を招いたのか、それとも招かれた正三が新たに堅叔庵を開き、その名前を出羽が道号として使うようになったのか、どちらかは分かりません。

 

 そして、明暦元年(1655)6月に77歳で没しました。

 

 正三は経済に対しても外国との貿易を視野に入れた進歩的な考えを持っていたようで、私は詳しくは知りませんが、現代の経済学者からもその発想が再評価されているようです。

 

 一方、正三が修業をした堅叔庵はその後、『新編武蔵風土記稿』が書かれた江戸の末期には長泉寺の持として存続していることが分かりますが、明治の初めに廃庵となります。

 

 ところが、昭和2年に大正天皇の墓所(多摩陵)が建設されることになり、石平道人と恵中の墓地がある堅叔庵の故地がその範囲に含まれてしまいました。

 

 そのため、現在地に改葬されたわけです。

 

 ちなみに、堅叔庵の故地は「庵の山」と呼ばれる、多摩御陵総門の手前右側の小高い丘がそれです。

 

 『武蔵名勝図会』には、江戸末期頃の堅叔庵の絵が載っていますよ。

 

 なお、玉鳳山長泉寺は、応仁元年(1467)に創建された臨済宗南禅寺派の寺院で、隣に仲良く並んである曹洞宗の長房山東照寺とともに、元は現在の多摩御陵の敷地内にあったのが移ってきたものです。

 

 さて、道に迷ったお陰で、鈴木正三と出会えました。

 

 それでは、今度こそ出羽山を見つけてみましょう。

 

 

つづきの記事はこちら

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『新編武蔵風土記稿』「巻之百三 多摩郡之十五 下長房村」 昌平坂学問所/編 1830年
    ↑クリックすると国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページへリンクします
  • 『武蔵名勝図会』 植田孟縉/著・片山迪夫/校訂 慶友社 1967年(原著は文政3年<1820>)
  • 『武蔵野歴史地理 第五冊』 高橋源一郎/著 有峰書店 1972年(原著は昭和3年<1928>)
  • 『武蔵陵とその周辺』 NPO法人地域生活文化研究所 2007年
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