八王子城の外郭防御拠点の一つ・出羽山
最終更新日:2015年7月5日
まったくの偶然で、石平道人(鈴木正三)の墓を拝したあとは、本来の目標である出羽山に向かいます。
探訪データ
探訪年月日 | 2009年11月8日(日) |
---|---|
天候 | 曇り |
探訪ルート | 船田石器時代遺跡 → 船田古墳 → 石平道人(鈴木正三)墓 → 出羽山 → 刀匠武蔵太郎安國鍛刀之地 → 梶原八幡(梶原館跡) |
出羽山概要
ふりがな | でわやま |
---|---|
別名 | |
住所 | 東京都八王子市城山手1丁目 |
史跡指定 | なし |
現況 | 出羽山公園 |
規模/比高 | |
目で見られる遺構 | 土塁? |
存続時期 | 戦国時代 |
城主・城代・関係者 | 近藤出羽守助実? |
城攻めの記録 | なし |
関連施設 | 市内館町の浄泉寺は近藤出羽が開基で屋敷があったと伝わる |
本当に近藤出羽守の居城跡か?
行く手にこれまた、こんもりとした山が見えます。
今度こそ出羽山でしょう。
写真1 被写体は「しまむら」ではない
やっぱりそうでした。
公園に入って自転車をとめ、斜面を登り始めると、すぐに人工的な削り跡があります。
写真2 人工的な削り跡
頂部まで登ると、そこからは尾根状の細長い地形が続いています。
写真3 尾根状地形
少し歩くとその先端は、やや広い平場になっていました。
写真4 平場
この出羽山は落越遺跡の一部分で、出羽山の部分は「F地区」と呼ばれており、その発掘調査報告書である『落越遺跡U』には、居館部分は公園になるので発掘していないと書いてあります。
おそらくここが居館の中心部分でしょう。
入口には土塁らしき痕跡もあります。
写真5 土塁か?
ここの平場で公園は終わっており、西側から遠くを望むと八王子城が見えます。
写真6 八王子城跡の遠景
『落越遺跡U』によると、住宅地となった城山川の崖に沿った別の「Q地区」には、土塁状の地形がありましたが、人工的な土塁だと断言することはできないようです。
ところで、出羽山の場所は、地形的には西から東へ延びる船田丘陵の真ん中に位置し、その丘陵がちょうど八王子城の東側の巨大な土塁の役目をしています。
探訪の後、2014年に『新八王子市史 資料編2 中世』が刊行され、その記載を元に追記すると、探訪の際に見た平坦地は人工的な造成が確認されており、南側には人工的な枡形状地形もあり、さらには平坦地の西限には井戸状遺構もあるので中世の居館跡であることは間違いないようです。
また、出羽山ではありませんが、同じ落越遺跡の範囲内では、南側の長泉寺の裏手側で、現在は山が完全に削られて新興住宅地になっている場所に中世の塚が5基並立して作られており、往時から墓域だったようです。
さて、ひとしきり散策したあとは、自転車に戻ります。
西側の城山川に架かる橋は「出羽橋」と呼ばれています。
写真7 出羽橋
実はこの道は「おだわら道」と呼ばれる、後北条氏の首都である小田原から延々と北上してきた道です。
地元の八王子城研究の大家である前川實氏の『國史蹟 八王子城跡』によると、小田原から北上してきた道は、館町の浄泉寺(近藤出羽守屋敷跡)の横を通り、和田の寶泉寺(こちらも近藤氏の居館と伝わる)の前を過ぎた後、椚田丘陵を登り、狭間の十二社(さらにここも砦跡の可能性あり)の脇を通り、南浅川を渡った後、出羽山の東側の道路に繋がっています。
おだわら道は他にも、初沢城の脇を抜けて北上して行くコースもありますので、1本だけだったことはないのですが、出羽山の横を通過する道は、出羽橋を渡っていよいよ城内に入っていくわけで、やはり八王子城への交通を制御したり敵の侵入を防ぐ上では出羽山は重要な防御拠点であると考えられます。
上述のルート上で、浄泉寺から出羽山までの約3kmの区間には近藤出羽守の影が見えるので、前川氏は出羽守は八王子城の南面の防御を担っていたと考えています。
ところで、前川氏の『決戦!八王子城』は、天正18年(1590)6月23日の八王子城合戦における豊臣政権軍の動きを詳細に解説しているのですが、それによると大将の一人である上杉景勝の軍勢が午前2時頃に出羽山を陥落させたようです。
ただ、『武蔵陵とその周辺』でも述べられている通り、当地には江戸時代の初め頃、井上出羽という別の「出羽」がおり、井上出羽の名前から「出羽山」と呼ばれるようになったと考えることもできるので、果たして近藤出羽守が出羽山で上杉勢を迎え討ったかどうかは不明です。
出羽守は城山の最下方の「あんだ曲輪」で戦って討死しています。
近藤出羽守の諱は八王子では助実で通っていますが、他には綱秀とも伝わっており、「綱」は北条氏綱からの偏諱と考えられます。
出羽守は氏照領の北の最前線で、北条氏の下野支配の拠点となった榎本城(栃木県栃木市大平町榎本)の城代という非常に重要な任務も任されており、なおかつ同盟者であった伊達氏との外交も任されていました(取次先は片倉氏)。
出羽守は天正11年(1583)から所領宛行や寺領寄進など、榎本領の統治にあたり、「天福」という独自の印判の使用も許可されていたことから、かなり大きな権限を持っていたことが分かります。
榎本城も天正18年の豊臣政権軍の攻撃で落城しており、『日本城郭大系 4 茨城・栃木・群馬』によると、榎本城の近くの大中寺には近藤出羽守の墓があるそうです。
出羽守は八王子城で討死したはずなので榎本に墓があるのは不思議ですが、もしかすると助実は榎本城から八王子城の救援に赴く際に、息子の「出羽守」を榎本城に残したのかもしれず、事実、『栃木の城』によると、榎本では出羽守は「実方」という名前と伝わっていることから、この可能性は高いです。
ところで、ここ八王子にも何故か梶原景時の居館の伝承が残っています。
次は梶原景時の館跡と伝わる梶原八幡を訪れてみることにしますが、またまた偶然にも「刀匠武蔵太郎安國鍛刀之地」の石碑を見つけてしまったのでした。
【参考資料】
- 『新編武蔵風土記稿』「巻之百三 多摩郡之十五 下長房村」 昌平坂学問所/編 1830年
↑クリックすると国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページへリンクします - 『武蔵名勝図会』 植田孟縉/著・片山迪夫/校訂 慶友社 1967年(原著は文政3年<1820>)
- 『武蔵野歴史地理 第五冊』 高橋源一郎/著 有峰書店 1972年(原著は昭和3年<1928>)
- 『栃木の城』 下野新聞社/編 1975年
- 『日本城郭大系 4 茨城・栃木・群馬』 1979年
- 『日本城郭大系 5 埼玉・東京』 1979年
- 『落越遺跡U』 落越遺跡調査団 1992年
- 『武蔵陵とその周辺』 NPO法人地域生活文化研究所 2007年
- 『國史蹟 八王子城跡』 前川實
- 『決戦!八王子城』 前川實 2009年
- 『新八王子市史 資料編2 中世』 八王子市史編集委員会/編 2014年
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