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武蔵七党の一つ横山党の拠点か?都旧跡横山党根拠地

最終更新日:2015年10月23日

 

 

探訪データ
探訪年月日 2009年11月10日(火)
天候 曇り
探訪ルート 八幡八雲神社 → 横山党根拠地および横山神社 → 大久保石見守長安陣屋跡 → 信松院および松姫尼公墓 → 八王子市郷土資料館

 

横山党根拠地
ふりがな よこやまとうこんきょち
別名 横山党館
住所 東京都八王子市元横山町2丁目

史跡指定 東京都指定旧跡
現況 八幡八雲神社

 

あり得ない史跡?

 

 八幡八雲神社境内には横山党の祖小野義孝を祀った神社もあります。

 

横山神社

写真1 横山神社

 

 こちらは建保年間(1213〜19)の創立だそうです。

 

 東京都はこの場所を「指定旧跡」としていますが、その名前が良い。

 

 「横山党根拠地」です。

 

 ちなみに、『日本城郭大系』には「横山党館」として載っています。

 

 横山党根拠地というと、まるで「党本部」がここにあったようですが、そういう意味ではありません。

 

 ただ、横山氏の祖である義孝の居館があったという言い伝えがあるだけです。

 

 地形的には、約500メートル北側に浅川が流れていて、館の周辺はおおむね平坦な地であり、要害性ありません。

 

 現在は辺りは完全に市街地化されており、遺構は残っていません。

 

 八幡八雲神社があるこの周辺、すなわち八王子駅北口と浅川に挟まれた地域は市内の中心地ですが、不思議なことに原始・古代・中世前期の遺跡が一つもないのです。

 

 江戸時代から開発が進んでいたため、遺跡があったとしても現在の市街地の下に埋まっているかもしれませんが、それにしても最近の開発でも一つも見つからないというは不思議です。

 

 そう考えると、浅川の氾濫源で人が住める地域ではなかったと考えて良いと思うので、この場所に小野義孝の居館があったという説は信じられません。

 

 どのような経緯で小野義孝を祀る神社が創建されたのかは分かりませんが、私は横山党の根拠地は、滝山城のある加住丘陵の方ではなかったかと考えています。

 

 滝山城が機能していた戦国時代後期には、現在の左入町交差点の西側辺りが横山と呼ばれていました。

 

 歴史的に見て八王子駅北口が町になり始めたのは、元横山町2丁目の大義寺が創建された南北朝時代で、大義寺の西側の道路は、中世の頃は「古川越道」と言って、川越方面に向かう幹線道路でした。

 

 大義寺は新義真言宗のお寺で、古川越道を北上すると大義寺創建の少し後に創建された同宗派の龍光寺があり、多摩川を渡ると昭島市内でも屈指の古寺である阿弥陀寺があり、大義寺の住職の話ですと、当時の「偉いお坊さん」が教線を拡大して行ったということです。

 

 なお、『新編武蔵風土記稿』によると大義寺は龍華山と号し、現在の西寺方町にある宝生寺の末で、八幡神社(現在の八幡八雲神社)の別当寺です。

 

 さて折角なので、西の方にある大久保長安陣屋にも行ってみましょう。

 

 

 

つづきの記事はこちら

 

 

【参考資料】

 

以下、管理人用メモ

 

横山神社

 

健保年間(1213〜19)の創建ということですが微妙。

 

 

八王子の歴史を探る上でキーとなる地名には、由井とか川口とかありますが、この横山というのも非常に重要です。横山は現在の市民の方々はよく知っている通り、八王子駅の北口に横山町と元横山町がありますよね。

 

 でもなんで、2種類あるのか。

 

 実は戦国時代の頃までは八王子駅北口辺りは横山村という一つの村だったのです。

 

 それが江戸時代になって町づくりをしたときに、現在の国道20号線、つまり甲州街道の沿線にいわゆる「八王子横山十五宿」を作り、甲州街道の沿道部分に横山宿を作ってしまったのです。

 

 そのため、沿道から離れた北側部分が元横山村という名前になり、反対の南側、これまた新設された十五宿の一つである寺町の向こう側が新横山村となりました。

 

 つまり、江戸期の横山宿ほか十五宿の一部が現在の横山町、元横山村が元横山町、新横山村が万町・台町ほか。

 

 そうすると、横山という地名は元々ここにあったように思えますが、今向かっている滝山城の城下にも横山という地名があるのです。

 

横山というと、万葉集にも歌われている通り、多摩丘陵のことを指すのが一般的だと思われていますが、べつに多摩丘陵も横山で全然構わないのですが、もし今のこの景色からビルなどの建物をすべて取っ払って、加住丘陵をイメージしてみてください。加住丘陵だって立派な「横山」なのです。ですからこれは自説ですが、加住丘陵のあたりも横山と呼ばれていたのではないでしょうか。横山党の分布範囲を見ると、八王子を起点にして多摩川を下って行く方面と南の相模方面への二つの流れが見え、やはり本拠地はこの辺りなので、そうすると横山党の本拠地は加住丘陵が見えるここにあったと考えても良いのでしょうか。しかし不思議なことに、現在の八王子駅北口から浅川までのこの空間は、原始・古代・中世前期の遺跡がまったくないのです。ゼロなのです。江戸時代の初めに町づくりをした際にすべて破壊されてしまったと考えることもできますが、駅前をこれだけ開発しているわけですから、少しは何かが出ても良いとは思いませんか?それがゼロなのです。『多摩文化19号』所収「横山党の居館について」清水成夫著によれば、甲州街道のバイパス工事の際に、この辺りを掘ってみたところまったく遺跡は見つからず、しかも場所によっては50cmも掘ると砂利が出て来たそうです。横山党が活躍した時代の主要幹線である鎌倉街道山之道からも遠いですね。

 

 

 

『大石氏の研究』(P.12)を読んでいて面白い記述を見つけました。阿伎留神社の旧記によると、滝山城は元々は横山城と呼ばれ、横山氏代々の居城でした。永禄元年に氏照が居住し、横山城と呼ばれていたのを「湍山城」と改名したとあります。この「湍」という字は、「タン」、「セン」と音し、白川静先生の『字通』(P.1058)によれば、2000年近く前の中国の漢字字典である「説文解字」に「疾き瀬なり」とあります。阿伎留神社旧記をどの辺まで信用して良いか分かりませんが、滝山城は元々湍山城と書いたとすると、元々は「たんやま」と発音したのか、水がたぎっている様子から、「たぎやま」と音した可能性があり、それが「たきやま」となり「滝山」の字に変わったのかもしれません。現在の丹木という住所は「たぎ」から「たんぎ」になったと考えられます。「瀧」という集落も元は「湍」から来ているのでしょう。

 

 

もし横山氏の本拠地が滝山城近辺にあったとしても、平安末期から鎌倉初期の段階で、山の上に居館を設けることは考えられません。阿伎留神社旧記によれば、応永29年の兵乱以後は、二宮に居た大石遠江入道が居城したと言います。大石遠江入道とは、山内上杉家のもとで伊豆守護代を務めた法名「道守」のことだと考えられ、その後武蔵守護代も務めています。遠江家の居城は二宮ではありません。応永29年の兵乱というのも応永23年(1416)の上杉禅秀の乱のことかもしれませんが、29年にも記録に残らなかった地域的な争いがあったのかもしれません。

 

 

横山神社に祀られている義孝は、長保6年(1004)に武蔵国横山荘に住し、地名を取って横山と称したのが、横山氏の始まりだといいます。その父か祖父の代に小野牧別当小野諸興がいるが、『群書類従』の小野系図に諸興の名はないです。小野諸興という歴史上で重要な人物を系譜に載せていないということは、諸興とは関係ない系統だが、小野郷にいた小野一族の流れで、中央の小野氏とは関係ないかもしれない。

 

 

武蔵名勝図会では古八王子道に鳥居が描かれている。

 

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