◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

八王子市が誇る山城・浄福寺城

最終更新日:2015年5月13日

 

 中世城郭研究家の中田正光先生の名前を初めて知ったのは、確か15年くらい前、まだ三鷹に住んでいた頃だと思いますが、その頃に先生の著作『秩父路の古城址』と『埼玉の古城址』を吉祥寺の古本屋で偶然見つけて購入したのがキッカケだと思います。

 

 その後、他の中世城館関係の本でも引用などで名前を拝見していましたが、八王子に引越してきてから、八王子の出版社である揺籃社(清水工房)から『よみがえる滝山城 戦国の風雲をかけぬけた天下の名城』が出ているのを高尾の書店で見つけ、もちろん購入し、その後も先生の本を見つけ次第購入してきました。

 

 そしてちょうど1年くらい前から、急激に八王子の郷土史に興味が湧いてきて、それと同時にしばらく気にしていなかった戦国時代の歴史や城館への興味が再燃したので調査をしていたところ、揺籃社が出しているフリーペーパー『はちとぴ』に中田先生の講演のお知らせが載っていて、先々月の7月26日にそれを聴きに行ったわけです。

 

 そのとき先生が話の途中で、「詳しくは9月28日に加住市民センターで」とチラッと言ったのですが、講演の後に先生と少しお話しさせていただいた時にそれが何なのか聴くのを忘れてしまいました。

 

 そのため後日、加住市民センターへ行って9月28日のことを聴いてみると、先生が理事を務める「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」の主催で、中田先生と先生の友人である歴史作家・三池純正先生の講演があるとのことでした。

 

 加住市民センターでチラシをもらって帰ってきて、良く見ると、「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会 公式ブログ」のアドレスが載っていたので、早速アクセスしてみると、今度はそのブログが縁で「会」のノッチさんと繋がりました。

 

 そして「会」のブログを見ていると、滝山城跡の下草刈りのボランティアを募集しているとのことだったので、私も掃除の仕事をやっている関係上、下草刈りも経験した方が良いなあと思い、すぐに体験参加に応募しました。

 

 一方、「会」では今度、「八王子・3名城めぐり」という城跡探訪会を企画しており、浄福寺城跡・滝山城跡・八王子城跡を3日間に分けて探訪するとのことでした。

 

 そのため浄福寺城跡の事前踏査をやることになったのですが、スケジュールの都合で、上述の滝山城跡の下草刈りの日に浄福寺城跡の事前踏査が割り当てられ、私もノッチさんから誘っていただくことができ、今週の日曜日(9月21日)に浄福寺城跡へ行ってきました。

 

 うわー、凄くイントロが長い!!

 

 

探訪データ
探訪年月日 2014年9月21日(日)および28日(日)
天候 両日ともに晴れ
同道者 「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」会員のみなさん(および28日は一般参加者のみなさん)

 

浄福寺城跡概要
ふりがな じょうふくじじょう
別名 新城(にじょう)・千手山城・案下城・松竹城・由井城
住所 東京都八王子市下恩方町(しもおんがたまち)

史跡指定 八王子市指定史跡
現況 山林
規模/比高 東西約800m×南北約600m/約160m
目で見られる遺構 曲輪・堀切・竪堀・畝状竪堀
存続時期 戦国時代
城主・城代・関係者 大石氏・北条氏照
城攻めの記録 『新編武蔵風土記稿』によれば、大永4年(1524)に関東管領山内上杉憲政により攻撃を受けた(これについては検討の余地があり後述)
関連施設 麓に浄福寺

 

手に手にカマやノコギリを持った山岳武装集団に同行<9月21日>

 

 さてそんなわけで、待ち合わせ場所の「道の駅八王子滝山」に来てみると、遠目にあきらかにそれと分かる数人の集団がありました。

 

 近づいて行くと、初対面のノッチさんが出迎えてくれて、理事長や中田先生ほか皆さんにご挨拶し、人も集まり出発時刻になったということで、車に分乗して浄福寺城跡へ向かいました。

 

 10時前くらいに浄福寺城跡の麓にある八王子市恩方農村環境改善センターに到着し、参加した14名の人びとは長い柄のついたカマ(死神が持っているようなやつ)などで武装し、私も持参したカマを持って山へ向かいます。

 

 それらの武装の中で、もっとも威力があるのはノッチさんともう一人の方が手にしたエンジン付きの刈払機です。

 

 最初、ノッチさんは中田先生から「刈払機も持っていけ」と指示され、「え?マジですか?」とちょっとビックリしたのですが、「当たり前だよ」と先生は教え子にサディスティックな一面を見せたわけです。

 

 「教え子」というのはリアルな話で、中田先生は以前は小学校の先生をやっており、ノッチさんの担任だったのです。

 

 当時先生は、「城郭クラブ」を小学校内で主宰し、休日には近県の山城にクラブの生徒たちを連れて行っていたそうです。

 

 小学校で城郭クラブというのはなかなか渋いですね。

 

 ノッチさんは私より年上なんですが、私が小学生の時代でもまだ先生が休日にどこかに連れて行ってくれたり、生徒たちが先生の家にフラッと遊びに行ったりするのは普通でしたし、逆に先生が生徒の家に遊びに来て、一緒に夕飯を食べて帰ったりすることもありました。

 

 でも今はそれをやると問題になります。

 

 なんか、つまらない世の中になった感じですね。

 

 さて、城の大手と言われている登り口に来てみると、想像以上に草が生い茂っています。

 

大手

写真1 大手

 

 そのため、隣に民家があることもあって、ここで刈払機を回すのもはばかられたので、場所を変えて違う登り口から登ってみることになりました。

 

 なお、浄福寺城の東側の恩方第一小学校の北側に、上宿(うえじゅく)という小名(小字)が残っており、また、現在でも「川原宿」という交差点名が残っていますが、「川原宿」(「河原宿」と表記することもある)という小名もあります。

 

浄福寺城跡周辺地形図

写真2 浄福寺城跡周辺地形図

 

 『武蔵野歴史地理』では、上宿は旧宿で、河原宿が新宿であろうと推定しています。

 

 上の地図は大正10年側図の地形図です。

 

 その時点ですでに上宿の道は主要な道ではなく、現在の陣馬街道が太い道になっていますが、戦国期(中世)の頃は、上宿の道が「案下道」と言われる主要道でした。

 

 上図の「川原宿」の文字の「原」の部分で北浅川(案下川)を渡ってきた鎌倉街道は、案下道と一時的に同じ路線となって北東へ向かい、すぐに分岐して北西方向の辺名へ向かっています。

 

 その分岐後に案下道が北東方向に向かう場所には上宿遺跡があり、『新八王子市史 資料編2 中世』によると、浄福寺城が機能していたのと同じ時代と思われる幅4メートル・深さ1メートル以上の大溝が南北方向に約50メートルにわたり確認されており、居館跡の候補に挙げられています。

 

 しかし上宿遺跡が居館跡だとすると、城下から城下町を挟んでその向こうに殿様の居館ということになり、どうも不自然に思えるので、むしろ城下町(上宿)を守るために掘られた溝ではないかと私は思います。

 

 鎌倉街道から分かれ北東方向へ向かう案下道には、上図の範囲でも2ヶ所食い違いが見られますが、これは城下町特有の道の作り方で、勢い付いて侵入する敵の攻撃力を弱めて、防御しやすくするための構造です。

 

 上図の後町と呼ばれている場所は、中田先生は家臣団の屋敷地であったと考えており、通説では城主の居館も現在の浄福寺の場所にあったとされていますが(下記「余湖図」参照)、浄福寺は城ができるより前からあるので、むしろ後町のあたりに城主の居館があったのではないでしょうか。

 

 この地域で力を持っていた御嶽神社が後背部にあるのもそれを感じさせます。

 

 なお、上図でなぜ浄福寺城の城域が完全に入っていないのかというと、大正10年の2万分の1地形図では、ここより西側は残念ながら切れているからです。

 

 それではいよいよ山に入ります。

 

浄福寺城跡へ進入

写真3 浄福寺城跡へ進入

 

 『東京都江戸東京博物館研究報告 第6号』所収「戦国期「由井」の政治的位置」によると、こちらの道を大手道としていますが、中田先生は旧来言われている大手道(最初に侵入を断念した場所)がやはり大手道であろうと推測しています。

 

 浄福寺城跡は、標高356.4メートルの「千手山」にある主郭を中心に、そこから派生した複数の尾根のうちの南方向に2筋(西側尾根と中央尾根)、そして東(東側尾根)と北方向(北側尾根)の合計4つの尾根に防御施設を構築した山城で、比高は160メートルほどです。

 

 城域は東西約800メートル×南北約600メートルで、城の南側は北浅川(往時は案下川と呼ばれていた)が防御しています。

 

 ここでまず、中田先生が作図した縄張図(以降、中田図と記す)をご紹介します(先生より許可をいただいています)。

 

浄福寺城跡縄張図

写真4 浄福寺城跡縄張図

 

 そしてさらに、中田先生の図を補足する意味で、「余湖くんのホームページ」内の浄福寺城跡の鳥瞰図(余湖図)もご紹介します。

 

余湖図の浄福寺城跡

写真5 余湖図の浄福寺城跡

 

 山に入ってすぐに、地元の方の墓地(古い物は江戸期)があり、そこから上へは、いよいよノッチさんたちの出番です。

 

 刈払機で大きく草を刈りながら、他の面々はカマやノコギリで細かい部分の枝や草を切り、後続します。

 

 しかしここはいきなりかなりの斜面です。

 

 登りきると、なんと五輪塔や板碑が散乱している場所がありました。

 

中世の墓地

写真6 中世の墓地

 

 中世の墓地です。

 

 先生たちが散乱した五輪塔の復元にかかります。

 

復元作業中

写真7 復元作業中

 

 そしてとりあえず完成。

 

復元完了

写真8 復元完了

 

 五輪塔は全部で4基みたいです。

 

 板碑は、通常では秩父産の緑泥片岩を使って作るのですが、これは砂岩ということで、かなり古いものだということです。

 

砂岩でできた板碑

写真9 砂岩でできた板碑

 

 ちなみに帰宅後、『新八王子市史 資料編2 中世』を見てみたのですが、この板碑は市内出土の板碑の一覧に掲載されていませんでした。

 

 ここからさらに、ノッチさんたちが先頭に立って道を切り開いていきます。

 

道を切り開く

写真10 道を切り開く

 

 中世の墓地から上へは、なだらかな道が続きますが、それでも刈払機を使いながら歩くのは大変だと思います。

 

道が少しなだらかになった

写真11 道が少しなだらかになった

 

 先生も所々で熱心に解説をしてくれるので、歩みはゆっくりで、東側尾根の頂部の郭に着くともう11時25分になっていました。

 

東側尾根頂部

写真12 東側尾根頂部

 

 ここには階段状に郭が構築されており、かなり見ごたえがあります。

 

 なんか斜面を登り続けて、人工的な平場が現れるとホッとしますね。

 

 参加している方々もみなさん城好きなので、同じ趣味の方々と遺構について感想を話しながら登るのはとても楽しいです。

 

 また、先生の他にもかなり詳しい方もいるのでとても勉強になります。

 

 さらに尾根伝いに進むと、いよいよ東側尾根と北側尾根が合流する地点に近づきました。

 

東側尾根と北側尾根の合流部

写真13 東側尾根と北側尾根の合流部

 

 ここにも郭がいくつか構築されており面白いです。

 

 そして合流地点の平場につくと先生が「ここから北の尾根は今までの場所とは作り方がガラッと変わります」と言いました。

 

 正直、ここまで歩いた感じでは「チョロイもんだ」と思っていたのですが、このあと極度に大変になろうとは思っていませんでした。

 

 北側尾根の先端の郭までは、今までよりかなり深い堀が切られており、とくに降りるのが大変です。

 

 山歩きが慣れていない私は、結局この日は下り斜面で2回滑って倒れました。

 

 手にカマを持っていたので滑るとなお危ないですね。

 

 会の方々は70代くらいが一番多いようで、14名の参加者のなかで私は若い方から2番目みたいでしたが、みなさんかなりの健脚で、若い私がオロオロする始末です。

 

 そして12時半、ようやく北側尾根の先端に着きました。

 

 ここでは多摩地域で唯一と言われる、畝堀が見られます。

 

畝状竪堀

写真14 畝状竪堀

 

 写真だと全然分かりませんが、3本の堀がちょうど爪を掻いたように下へ向かっており、先生が言うには、もともとこの場所は平場で、そこに堀を3本掘ったということです。

 

 ところで、時刻も時刻なので、お腹が空いています。

 

 私も先生と同様、遺構を見ると異常に元気になるタイプなんですが、私の最大の弱点はお腹が空くとまったくダメになることです。

 

 でもここまで休憩無しのノンストップで、兵糧を摂ろうという気配はありません。

 

 お昼を気にする声もチラホラ聞こえてきましたが、先生は気にも留めず、中央尾根を見てみようと、皆を引っ張って行きました。

 

 しかしやはり、時間的に難しいということになって、主郭へ行ってお昼を食べることになりました。

 

 ところが、ここからがさらに大変!

 

 主郭へは近道をしようと思ったのか、藪漕ぎしながら急斜面を這いつくばるように直登したり、道なのか何なのか分からない崖っぷちを滑りながら歩いたり、いやー、きつい。

 

 昔、山の測量の仕事をしたときと同じくらい大変です(もちろん今日は重たい装備がないだけかなりマシですが)。

 

 さて、そんな感じで、ようやく主郭へ到着です。

 

主郭

写真15 主郭

 

 主郭の真ん中は一段高くなっています。

 

 登ると祠がありました。

 

主郭の祠

写真16 主郭の祠

 

 この場所は、人によっては櫓台だというのですが、先生は昔ここに千手観音が祀られていたのではないかと推測しています。

 

 私もそれに同意見です。

 

 そして、13時20分、ようやくランチタイムとなりました。

 

 コンビニで買って来たおにぎりが旨い。

 

 休憩を終えると、今度は頂部から真南に続く西側尾根を下って麓まで行きます。

 

 ここも滑りやすくて、かなり気を使いながら降りて行くと、途中の郭に片手で持つには大きめの石が散乱していました。

 

つぶて

写真17 つぶて

 

 これは防御に使われていた石だそうです。

 

 これを下に投げて敵兵を負傷させるのが目的です。

 

 こんな大きな石が当たったら大怪我しますね。

 

 また少し下ると、今度はお堂(観音堂)がありました。

 

観音堂

写真17 観音堂

 

 観音堂から先は浄福寺の墓地に繋がっており、お彼岸のため墓参の人がたくさんいますが、武装した集団が山からゾロッと降りてきて、皆さん怪訝な目をしています。

 

浄福寺

写真18 浄福寺

 

 そして最後にもう一仕事。

 

 先行して別ルートから降りた方から連絡が入り、やはり初めに行った草が生い茂っていた場所から登るのが一番良いということになり、隣家の方に話をして、草を刈らせてもらいました。

 

大手道を刈る

写真19 大手道を刈る

 

 近所の方たちの話によると、町会やPTAでここの草刈りをどうするか問題になっていたところだったそうで、我々が草を刈ったので「手間が省けました」と、とても喜んでくれました。

 

 あと、浄福寺城は別名を「新城」というので、私は浄福寺城は新しい城であって、他に古い城があったのではないかと思ったのですが、近所の方たちは皆さん「新城」のことを「にじょう」と発音していたので、もともとは「にじょう」という何かの意味がある名前で、後世になって「新城」という漢字が当てられたのではないかと思いました。

 

 にじょう・・・にじょう・・・、うーん、思いつきません。

 

 浄福寺城はもともとは「寺の城」として作られたようなので、「尼城」でしょうか・・・

 

 大石氏の2番目の城なので「ニ城(にじょう)」と名付けられたという説もあります。

 

 というわけで、初めての浄福寺城跡はとても楽しかったです。

 

 10月26日に浄福寺城跡めぐりの本番が行われますが、今回歩いたのを受けて、もっとソフトな感じにするということでした。

 

 でも、そうは言っても多分大変な感じになりそうです。

 

 さて、道の駅まで送ってもらった後は皆さんと別れ、高尾まで戻ってくると、「西海」で「角煮ラーメン」+「餃子」+「生ビール」という自称「黄金セット」を頼みました。

 

西海の「黄金セット」

写真20 西海の「黄金セット」

 

 やっぱり、城めぐりの後のビールは最高ですね!

 

 「西海」のアゴ出汁の優しい豚骨ラーメンもいつもながら旨い・・・

 

 なお、コンデジの電池が切れてしまったので、上の写真だけガラケーで撮りました。

 

 生を2杯飲んだのでちょっと金額が行きましたが、ちょうどポイントカードが溜まって500円引きになったのはラッキーでした。

 

 というわけで、また山城に行きたいです。

 

「八王子3名城めぐり 第1回 浄福寺城」当日<9月28日>

 

 前項で書いたとおり、今日は「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」が主催した、「八王子3名城めぐり 第1回 浄福寺城」の本番で、私はスタッフとしての参加です。

 

 参加者は予想を上回る42名の方が集まりました。

 

 それを会のメンバー16名で引率したわけです。

 

 9時半ごろに山に入って、主郭で40分くらい休憩を取って、13時半には麓に戻ってきました。

 

 参加者はシニアの方が多かったのですが(意外と女性も多かったです)、浄福寺城跡はかなりハードな山城であるのにもかかわらず、1人の落伍者あるいは怪我人も出ずに、無事に主な遺構を見学して麓まで戻ってくることができて本当に良かったです。

 

 途中の急こう配や危険個所は、安全担当のスタッフがロープを張ってくれたので、かなり歩きやすかったです(もちろん全員通過後に撤去しています)。

 

 さて、麓に戻ってきてからは、浄福寺の本堂に上げていただき、そこで住職さんから浄福寺の歴史などについてお話を聴くことができました。

 

 住職さんはとてもお話が上手で、また貴重な話も聴かせていただくことができたので、非常に楽しかったです。

 

 前項で述べましたが、中田先生は浄福寺城の主郭にはかつて千手観音が祀られていたと推測しており、そのため山が「千手山」と呼ばれるようになり、千手観音は後世になって中腹まで降りてきたと考えていますが、住職さんは、頂部の祠は金比羅神で、中腹の千手観音は当初からあり、さらに麓には白山神が坐していることから、それらが3つセットで祀られていたと考察しています。

 

 金比羅は戦いの神様であるのでそれを頂部に祀り、白山は観音の権現(神仏習合の時代に、仏様が仮に姿を現したものを権現と言った)であり、城主の大石氏は観音様を篤く信仰していたそうです。

 

 ちなみに、廿里町の白山神社は、大石氏がこのあたりを支配していた時代の享禄3年(1454)に加賀一の宮を勧請して創建された神社で、明応7年(1498)2月に再建され、天文22年(1553)に滝山城主大石左衛門尉綱周(北条氏照の養父)が社殿を造営したと伝わっており、『新編武蔵風土記稿』によると、かつては文永12年(1275)4月8日阿闍梨禅仁の銘がある本地仏十一面観音の板碑があったそうです(神主さんの話によると現在は所在不明)。

 

 なお、観音堂は前項の写真で見ても分かる通り、現在は小さなお堂なのですが、丸柱の太さから見て、それが当初の観音堂にも使われていたと仮定すると、住職さんは創建当初の観音堂はかなり大きな建物であったのではないかと推測しています。

 

 さらに、八王子には真義真言宗のお寺が多くて、そのほとんどが高尾山の末寺なんですが、浄福寺は近世には埼玉県吉見町の息障院(そくしょういん)の末寺だったそうです(現在は高幡不動と関係を持っているそうです)。

 

 息障院は行基開山伝説をもつ古いお寺で、境内は頼朝の異母弟・範頼の館跡と言われています。

 

 つまり源氏と縁のあるお寺なわけですが、浄福寺の寺紋も「笹りんどう」なのです。

 

浄福寺の寺紋「笹りんどう」

写真21 浄福寺の寺紋「笹りんどう」

 

 「笹りんどう」は清和源氏の氏紋とされています。

 

 家紋でもそうなのですが、まったく関係ない者が勝手に他家の紋を使うことは許されません。

 

 ですので、浄福寺は源氏とかなり繋がりの強いお寺のはずなわけですが、そこらへんの詳しいことはまだ分かっていないということで、住職さんも「興味のある方はぜひ研究してみてください」と仰っていました。

 

 いやー、こういう話は面白い!

 

 私も調べてみようっと。

 

 後日、『大石氏の研究』(『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』所収)を読んでいたところ、大石氏の城跡との伝承がある、あきる野市の二宮神社の境内から「笹りんどう」の屋敷瓦が出土したと記されていました。

 

 二宮神社の境内は二宮城跡の候補地の一つですが、現在では否定する見解が優勢のようです。

 

 二宮神社が城跡かどうかは別として、二宮神社と浄福寺が「笹りんどう」で繋がったことに驚きました。

 

 ですので、当初は「笹りんどう」と大石氏との関係を考えてみたのですが、浄福寺の創建は、『武蔵名勝図会』によると文永年中(1264〜75)で、大石氏の支配下になるよりもかなり前です。

 

 これについては、もう少し考えてみます。

 

 【追記】

 

 その後、府中市郷土の森博物館の学芸係長・深澤靖幸先生とお話しした時、上記の話をしてみたのですが、深澤先生は「笹りんどう」ではなく、「五三の桐」と見ているそうです。

 

 しかも、瓦に家紋を刻印するのは戦国時代になってからで、15世紀前葉の頃にはまだそういったことは行われていなかったそうです。

 

 さあ、謎はさらに深まりました・・・

 

浄福寺城の歴史

 

 大石氏史跡調査研究会が編集した『大石氏の研究』という本が西八王子の中央図書館にあるのですが(2010年に出た『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』にも再録されています)、それによると、古くから知られている「木曾大石系図」に、大石氏中興の祖とも称される信重が至徳2年(1385)に二宮の館から浄福寺の館に移ったとあるそうです。

 

 しかし、信重という人物は史料には現れず、実在したかどうかは怪しいです。

 

 近年では「木曾大石系図」に頼らずに、一次史料(リアルタイムの文書など)を使った大石氏の研究が進んでおり、『武蔵守護代大石氏に関する二、三の考察 ―信重・憲重を中心に―』では、信重の事跡は史料に現れる聖顕と道守の二代の事跡を合成して作られたと考察しています。

 

 おそらくそれが事実だと思いますが、そうだとすると聖顕の初見は康暦元年(1379)で、次代の道守は正長3年(1430)に死去しているので、浄福寺館(「城」ではないです)の構築は、至徳2年(1385)でも良いような気がします。

 

 ただ、聖顕と道守は、大石氏の嫡流である「遠江守家」の当主であり、彼らは広大な武蔵国のナンバーツーである守護代を務めていたので、普通考えれば、政治的な意味を持って、果たして下恩方の地に自らの居館を築くでしょうか。

 

 一方、『武蔵名勝図会』によれば、浄福寺城を築いた人物は、大石源左衛門尉と伝わっており、史料で確認できる最も古い源左衛門尉を名乗る大石氏の人物は道守です。

 

 ですので、道守が隠居してから何かの縁があった浄福寺のかたわらに隠居所を構えたと考えることもできますが、道守の墓所は埼玉県所沢市の永源寺にあるので、その可能性もなさそうです。

 

 また、系図上の人物である信重が浄福寺の館に移る前に住んでいたという二宮ですが、史料上で二宮城に居城していたことが確認できる一番古い人物は、「二宮道伯」で、道伯は庶子系である「石見守家」の人物です(時代的には道守と同世代です)。

 

 道伯と道守との系譜関係は分かりませんが、庶家である道伯が二宮近辺の支配を任されていたのは確実なので、道伯が案下道と鎌倉街道が交差する交通の要衝である浄福寺のかたわらに居館(統治のための出先機関)を構えた可能性はあります(二宮神社と浄福寺城跡は約8.5kmの距離です)。

 

 以上のことから、浄福寺「館」の築城者については、「木曾大石系図」に記載されているところの「信重が二宮の館から移った」という伝承を受けると、信重とされる実際の道守の命によって、二宮の道伯が浄福寺館を構築したと考えられ、その時期は15世紀の初め頃となります。

 

 ただ、15世紀の初めとなると、戦国時代の山城の建築ブームが始まるよりも前で、果たして現在見ることのできるような山城が築かれたかどうかは疑問です。

 

 『中世東国の領域と城館』所収「南北朝・室町期の本拠」によれば、南北朝時代から室町時代前半までの城は、合戦の際に臨時的に山の上に築いたり、平時に住んでいる居館の防御力を高めたりするのが普通だったので、浄福寺の周辺で合戦でも起きない限り、山城は築かれません。

 

 ですので、仮に15世紀の初めに浄福寺館が構築されたとしても、山の麓の居館だったはずです。

 

 さて、当初は山の麓の居館ということでスタートした浄福寺館ですが、享徳3年(1454<正確には新暦では1455年>)に享徳の乱が勃発して関東の戦国時代の幕が切って落とされると、他の地域と同じく戦乱に巻き込まれた可能性があるので、それが契機となって千手山に城作りが始まったのではないでしょうか。

 

 中田先生は、当初の城は主郭から西側尾根の部分にかけての部分だけだったと考えています。

 

 享徳の乱で、八王子地方でどのような戦いが行われたかは記録にないので分かりませんが、文明8年(1476)に「長尾景春の乱」が始まると、当地方は確実に戦乱に巻き込まれます。

 

 というのも、大石氏嫡流の「遠江守家」が主家である山内上杉氏を離れなかったのに対し、庶家の「石見守家」が景春方に付いたからです。

 

 「石見守家」の当主・大石石見四郎(道伯の孫)は、二宮城を持ちこたえることができず、葛西城(葛飾区)に移っています。

 

 もし浄福寺城が、前述の通り「石見守家」が二宮城から進出して築いた城だったとすると、浄福寺城はこの時に「遠江守家」によって奪われた可能性があります。

 

 しかし、浄福寺城が大石氏の本拠地になるのはまだ先の話で、『武蔵名勝図会』に記されている築城者である源左衛門尉については、『新編武蔵風土記稿』ではより具体的に大永年中(1521〜28)に大石源左衛門尉入道道俊が築いたと記されており、大永4年(1524)12月14日に山内上杉憲政によって落城させられ、そのとき浄福寺も被害を受け、城主道俊とその子・憲重は小田原まで逃げたと記されています。

 

 この大永年間というのは大石氏と北条氏との関係に関しては画期であると考えられ、山内上杉氏の重臣で武蔵国に勢力を持っていた大石氏が、武蔵に侵攻してきた北条氏綱に鞍替えした時期だと考えられます。

 

 それ以前、大石氏は柏の城(埼玉県志木市)を本拠にしていたのですが、北条氏に付いたことにより、浄福寺城に本拠を移し、現在見ることができる城の規模に大幅に改築したと考えられます(ただし、最終的な仕上げは北条氏の手も加わっています)。

 

 上述の大永4年に憲政が攻めてきたという話は、憲政では年齢的にあり得ない話となってしまいますが、北条氏に鞍替えした大石氏に対し、山内上杉氏が報復のために攻めてきたと考えて間違いないです。

 

 大永4年の1月には、北条氏綱は江戸城を落とし、山内上杉氏の一族である扇谷上杉朝興は一旦河越城を出て松山城へ後退します。

 

 氏綱は3月には岩付城(埼玉県さいたま市岩槻区)、4月には毛呂城(埼玉県毛呂山町)を落とし、破竹の勢いで武蔵を北上するかに思えましたが、それまで敵対していた山内上杉憲房と提携した朝興は、甲斐の武田信虎までも糾合して巻き返しを図り、6月に河越城を修復して本拠にすると、7月には岩付城を奪還し、10月には憲房とともに毛呂城を攻囲しました。

 

 毛呂城を攻囲された氏綱は、城を明け渡して後退し、両上杉氏と和睦します。

 

 上述の山内上杉氏が浄福寺城を攻撃したという話は、まさしくこの和睦の直後のできごとなのですが、山内上杉氏は和睦の期間中に大石氏に対して報復に出たのでしょう。

 

 そのためか、翌大永5年(1525)2月には、氏綱も軍事行動を起こし、岩付城を再び陥れています。

 

 扇谷上杉氏というと、北条氏によって駆逐された弱い旧勢力というイメージがありますが、朝興はなかなかの傑物で、あきらかに氏綱より合戦に強いです。

 

 そのため、天文6年(1537)4月27日に朝興が没するまで、10年以上氏綱はやられっぱなしで、本拠地の相模まで踏みにじられ悲惨な状況でした。

 

 ただその間、氏綱は駿河方面では善戦しており、鶴岡八幡宮の造営は積極的に進めていました。

 

 浄福寺城の北方約14.5kmの地点には、三田氏の本拠地である勝沼城がありましたが、三田氏も大石氏と同じ頃に山内上杉氏から氏綱に鞍替えしています。

 

 朝興が没して、嫡子の朝定に代わった後は、今度は極端に氏綱の勢力が強くなりますが、氏綱が朝興に対してグダグダだった10年以上の間、武蔵の西部では浄福寺城を拠点とした大石氏や勝沼城の三田氏が善戦していたようで、そちらの方面の敵である山内上杉氏の侵攻を食い止めていたようです。

 

 しかし、天文2年(1533)に、氏綱が鶴岡八幡宮の再建のために関東の諸氏に寄進を募った時には、大石氏は三田氏や平山氏とともにそれを拒否しているので、大石氏ら国衆の動向は、若干怪しい感じもします。

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『武蔵名勝図会』 植田孟縉 1967年(原著は1820年脱稿)
  • 『新編武蔵風土記稿』 「巻之百四 多摩郡之十六 下恩方村 浄福寺の項」 昌平坂学問所/編 1830年幕府に提出
  • 『武蔵野歴史地理 第五冊 八王子地方』 高橋源一郎 1972年(原著は昭和初め)
  • 『八王子市史 下巻』 八王子市史編さん委員会/編 1967年
  • 『大石氏の研究』 大石氏史跡調査研究会/編 1972年 (『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』<黒田基樹/編 2010年>に再録)
  • 『案下路をあるく』 案下路をあるく会/編 1976年
  • 「三多摩の城跡覚え書」 (『多摩のあゆみ No.10』所収) 倉員保海 1978年
  • 『多摩の古城址』 小幡晋 1978年(再版)
  • 『日本城郭大系5 埼玉・東京』 1979年
  • 『多摩丘陵の古城址』 田中祥彦 1985年
  • 「恩方浄福寺城に関する新考察」 (『多摩のあゆみ No.40』所収) 倉員保海 1985年
  • 「武蔵守護代大石氏に関する二、三の考察 ―信重・憲重を中心に―」 (『史学研究集録 十四号』所収) 岩崎学 1989年 (『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』<黒田基樹/編 2010年>に再録)
  • 「戦国期「由井」の政治的位置」 (『東京都江戸東京博物館研究報告 第6号』所収) 齊藤慎一 2001年 (『中世東国の道と城館』<2010年>に再録)
  • 『中世東国の領域と城館』 齋藤慎一 2002年
  • 「総論 武蔵大石氏の系譜と動向」 (『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』所収) 黒田基樹 2010年
  • 『東京都の中世城館』 東京都教育委員会/編 2013年
  • 『戦国の城は民衆の危機を救った』 中田正光 2013年
  • 『北条氏年表』 黒田基樹/編 2013年
  • 『新八王子市史 資料編2 中世』 八王子市史編集委員会/編 2014年
  • 『境界争いと戦国諜報戦』 盛本昌広 2014年
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