◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

目で見ることができる古代官道・東山道武蔵路

最終更新日:2016年6月15日

 

現在構築中!

 

東山道武蔵路(西国分寺地区)

 

ふりがな とうさんどうむさしみち(にしこくぶんじちく)
住所 国分寺市泉町2丁目

史跡・文化財指定
名称:武蔵国分寺跡 附東山道武蔵路跡
指定年月日:大正11年(1922)10月12日
追加年月日:平成22年(2010)年8月5日

 

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第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2012年10月10日(水)
天候 晴れ
探訪ルート 東山道武蔵路(西国分寺地区) → 東山道武蔵路(旧第四小学校跡地区) → 土師竪穴住居跡 → 本村八幡神社 → 国分寺薬師堂 → 国分寺仁王門 → 真言宗武蔵国分寺および万葉植物園 → 武蔵国分寺跡資料館 → 武蔵国分寺跡(僧寺伽藍中枢部) → 国分寺市文化財資料展示室 → 武蔵国分寺参道口 → 武蔵国分尼寺跡 → 旧鎌倉街道 → 伝祥応寺跡 →  → 武蔵台遺跡公園<武蔵台東遺跡>

 

 国分寺の史跡は2年前にも探訪していましたが、そのとき見落とした歴史スポットもあったので、ぜひ再訪したいなあと思っていました。

 

 ところが、なかなか行くチャンスがなく、ようやく今日その機会が巡ってきました。

 

 朝の8時半に出発、中央線に乗って西国分寺駅に着いたのは9時過ぎです。

 

 今日は多分気温が上がるだろうと予想し、Tシャツの上に長袖を一枚着ただけで来ましたが、天候は曇りで風が若干あり少し寒いです。

 

 さて、今日はまずは、東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)の跡を目指します。

 

 場所はあらかじめ地図で確認済みなので、西国分寺駅の南口を出て東に向かい、おおよその見当を付けてウロウロしてみます。

 

 すると、何やら怪しい建造物が見えました。

 

東山道武蔵路覆屋

写真1 東山道武蔵路覆屋

 

 近寄ってみると、やはりそうでした。

 

 東山道武蔵路の跡です。

 

東山道武蔵路

写真2 東山道武蔵路

 

 よし!まずは一つ目の目標達成だ!

 

 ちょっと角度を変えて・・・

 

東山道武蔵路

写真3 東山道武蔵路

 

 でも説明板によると、これは遺構をそのまま丸出しにしているわけではなく、レプリカだそうです。

 

説明板

写真4 説明板

 

 この展示の南方向へは、団地の横の道を往時の道幅が分かるように色を変えて舗装され、それが先の方まで延びています。

 

伸びる道

写真5 伸びる道

 

 かなり長く延びていますね。

 

伸びる道

写真6 伸びる道

 

 途中にはまた立派な説明板が立っていますが、少し荒れている感じです。

 

説明板

写真7 説明板

 

 せっかくなので説明を一つずつ読んでみましょう。

 

「日本の古代道路」

写真8 「日本の古代道路」

 

 ちょっと補足しますと、大化改新というのは、645年の「乙巳の変」によって蘇我政権が倒れた後に行われた政治改革のことです。

 

 乙巳の変より前は、全国には国造(くにのみやつこ)という人びとが百数十いて、彼らが地方の首長で、東国の場合はまだ完全に朝廷の支配下となっていない国造がいました。

 

 蘇我政権を打倒して大王になった軽(かる)の治世(645〜654)に、「天下立評」が行われ、各地の国造は「評造(こおりのみやつこ)」、そして「評督(こおりのかみ)」という朝廷の地方官に任じられ、朝廷の地方支配が一段進んだのですが、大化改新ではとくに東国政策に力が入っています。

 

 なぜ地方で半ば独立を保っていた首長たちがいわば地方公務員化してしまったのかというと、当時の国際情勢が関連しており、倭国と懇意にしていた朝鮮半島の百済が弱体化し、いつ新羅や唐が日本列島に攻めてくるかわからない状況だったからです。

 

 外国からの脅威によって列島内は団結する必要が出てきました。

 

「東山道の概要」

写真9 「東山道の概要」

 

 またまた補足しますと、武蔵国は場所柄、最初から東海道に属しても良かったと思われるのですが、五畿七道が整備される以前の東海道は、三浦半島から房総半島へ渡り、そこから千葉県内を北上する道だったのです。

 

 通説では、その頃の東京都の東京湾沿岸は陸地化が進んでおらず、湿地帯だったので通行が困難だったからとも言われていますが、そうすると宝亀2年(771)に東海道に所属替えが行われているので、約100年の間に地形が改善されたことになります。

 

 ですので、武蔵国が当初東山道に属したというのは、何か政治的な匂いがしてくるのです。

 

「東山道武蔵路の検出状況」

写真10 「東山道武蔵路の検出状況」

 

「東山道武蔵路の保存と整備」

写真11 「東山道武蔵路の保存と整備」

 

 道路の色分けの表示は四小入口の交差点まで続いています。

 

 もう少し歩いてみましょう。

 

【参考資料】

  • 現地説明板

 

現在地

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東山道武蔵路
(西国分寺地区)

東山道武蔵路
(旧第四小学校跡地区)

 

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第2回 探訪記録

 

探訪年月日 2016年5月8日(日)
天候 晴れ
探訪ルート 殿ヶ谷戸庭園 → 武蔵国分寺跡資料館 → 僧寺北東地域 → 武蔵国分寺公園 → 寺域北辺溝 → 土師竪穴住居跡 → 八幡神社 → 国分寺薬師堂 → 真言宗武蔵国分寺 → 武蔵国分寺跡 → 国分寺参道口 → 資料展示室 → 武蔵国分尼寺跡 → 鎌倉街道 → 伝祥応寺跡 → 中世の塚 → 武蔵台遺跡公園 → 東山道武蔵路 → 姿見の池
同道者 東国を歩く会の皆さん(以下五十音順)
  • いとうさん
  • S源寺さん
  • きしもとさん
  • こばやしさん
  • さくみやさん
  • スーさん
  • ヒラさん
  • makotoさん
  • ヤマセミさん

 

 

東山道武蔵路のルポルタージュ(ダイジェスト版)は、管理人のブログ「日本史大戦略 Side-B」内で公開しています。

 

「日本史大戦略 Side-B」内「東山道武蔵路」のページ

 

 

 

4.東山道武蔵路

 

 

 4−1.時代背景

 

 今度は国分寺の時代よりも少し遡りますよ。国分寺はだいたい750年くらいに造られましたが、それよりも200年くらい遡って6世紀後半からです。まだ「日本」という国名もなく、天皇(すめらみこと)は存在せず、大王(おおきみ)が列島中枢を支配していた時代です。説明範囲 6世紀後半〜720年くらい

 

 6世紀後半は、中央では蘇我氏が力を付けてきた時代で、大王家も現在の天皇家のように代々その家が継げるようになっておらず、蘇我氏が日本の代表であった可能性がある。万世一系は建前ですので、真に受けないように。

 

 →これについては深く話すと長いので割愛。

 

 そのような蘇我氏が中央で権力をふるっていた時代、列島各地には北は宮城県南部から南は九州まで、国造という支配者が100以上いて、それぞれが中央と結びついていた。当時倭国は朝鮮半島に積極的に介入していたが、その軍隊は各地の国造軍により構成され、例えば現在の群馬県にいた上毛野氏には当時朝鮮で戦った話が家伝に記録され、それが720年にリリースされた日本書紀にも資料の一部として使われている。

 

  仏教が地方にも普及してきて、古墳の造営が終わり寺院を作り始める。

 

  このころには、普通に考えて国造の居館から都へ繋がる道や、国造同士を結ぶ道がすでにあったはずですが、詳しいことはあまり分かっていません。

 

  645年の乙巳の変で蘇我氏の主流が没落。ただし蘇我氏は滅びておらず、その後も中央の政治家として活動。

 

 孝徳天皇のときに天下立評。孝徳政府は地方をどうするかに相当力を使った。とくに東国に対しては、史上初めての積極的な政治介入ではないかと思われる。中央が地方統治に力を入れ出したのは

 

なぜか?

 

 660年に日本と仲良しだった百済が滅亡。663年には百済の遺臣を援助して渡海したが敗戦。

 

 日本ピンチ!

 

 新羅や唐の軍隊にいつ攻められるか分からなくなったため、国内は臨戦態勢に、西日本には城が築かれた。同時に唐の役人が複数回やってきて最大時は2000人規模。でも日本は植民地にはなっていない。672年の壬申の乱には唐の姿が見え隠れしている。天智と天武は兄弟とされているが、もしかしたら・・・ →これについても割愛。

 

 当時も今も、全国各地にいる軍隊を戦場へいち早く移動させるには道の整備が重要で、さきほどお話した「日本ピンチ!」な状況では、官道の整備は急務だったわけです。

 

 当時は中大兄皇子政権のもと、国造が「評」に置きかえられ、地方がより一層中央に取り込まれていた時期ですが、本来であれば各地の国造はそれに反発するところ、未曾有の国難に遭い、地方の有力者たちも中央に協力しないとやばいと思った。外圧があると国内がまとまるのは普通。

 

 

 4−2.東山道武蔵路とは?

 

 

 律令国家は列島を五畿七道という行政区画にした。五畿は畿内の5つの国で、それ以外を東海道や東山道といった七つの道にわけました。東山道に属する国は、近江、美濃、飛騨、信濃、上野、武蔵、下野、陸奥、出羽の9カ国。さらにそこを通る官道自体も七道と呼んでいます。つまり、東山道というのは行政区画の名称であるとともに、道の名前でもあるわけで、こういった同じ名称で複数の意味があるところが古代の用語の特徴の一つです。

 

 いってみれば、五畿七道は古代の高速道路で、想定される総延長は6300km。平成25年現在の高速道路の総延長は約9200kmなのでそれだけの工事を人力でやってしまったわけで、古代人の頭脳やスタミナには畏敬の念を覚えざるを得ません。道は丘があろうが谷があろうが、それらを切り崩したり埋めたりしながら極力直線になるように道を造って行ったわけです。先ほど見た中世の鎌倉道と比べても凄さが分かると思いますし、江戸時代の五街道も狭い道幅の曲がりくねった道だったわけで、これを全国に造ったということは、当時の日本が強力な国家、言いかえれば「帝国」であった証にもなります。

 

 しかもこの武蔵路は東山道の支路なのです。武蔵という国は当初は東山道に属していたため、東山道の本路から遠く離れており、都から伸びてきた東山道が上野から下野へ向かう途中、現在の太田市あたりで南に折れて、武蔵の国府まで来ていたのです。

 

 

 4−3.地方統治制度の変遷

 

 

 行政区画としての国は、その国境が確定したのが、天武天皇の12(683)〜14とされており、「国−評−五十戸(さと)」という3階層の制度ができました。のちに、「評」は「郡」表記となり、現在では「こおり」ではなく「ぐん」と呼び、まだ名前だけが残っていますね。「五十戸」は、「里」を経て「郷」表記となり、「国−郡−郷」という表記になったのが養老元(717) で、これがその後長く定着します。つまり来年、2017年は、「国郡郷」1300周年ですので、みなさん盛大にお祝いしましょう。

 

 ちなみに、国府を造る前に道を造っていたことから、上野国のように官道から外れた場所に国府があることもある。こちらの国府を含めた地方統治に関しては、今度府中を歩くときに詳しくお話します。

 

 

 4−4.どうやって道を伸ばす方向を決めたのか?

 

 

 東山道の場合、浅間山へ向かってまっすぐ伸びている区間がある。遠くに目立つ山がある場合は工事の際の目標にもなるし、また山には神様がいるので、いつでも神様が見守っていてくれるという安心感もある。

 

 

【参考資料】

  • 現地説明板

 

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真言宗武蔵国分寺

東山道武蔵路

 

 

 

 

 

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