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全国の国分寺の中でも研究が進んでいる武蔵国分寺

最終更新日:2016年9月10日

 

武蔵国分寺跡(僧寺伽藍中枢部)概要

 

ふりがな むさしこくぶんじあと(そうじがらんちゅうすうぶ)
住所 国分寺市西元町・東元町

史跡・文化財指定 国指定特別史跡
名称:武蔵国分寺跡 附東山道武蔵路跡
指定年月日:大正11年(1922)10月12日
追加年月日:平成22年(2010)年8月5日

 

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第1回 探訪記録

 

探訪データ
探訪年月日 2010年11月16(火)
天候 晴れ
探訪ルート 土師竪穴住居跡 → 本村八幡神社 → 国分寺仁王門 → 国分寺薬師堂 → 国分寺楼門 → 真言宗武蔵国分寺および万葉植物園 → 武蔵国分寺跡資料館 → 武蔵国分寺跡(僧寺伽藍中枢部) → 国分寺市文化財資料展示室 → 武蔵国分尼寺跡 → 旧鎌倉街道 → 伝祥応寺跡 → 

 

南に向かうと、金堂跡が発掘調査の途中でフェンスに囲まれていた。

 

写真1 京所道

 

写真2 京所道

 

写真3 京所道

 

 おや、何か向こうから「ニャーニャー」と声が聴こえて来たぞ。

 

 お、猫ちんだ!

 

猫ちん

写真4 猫ちん

 

 来る。

 

 近寄ってくる。

 

猫ちん

写真5 猫ちん

 

 甘えてくるが、「食べ物は持ってないよ」と言うと、「ケッ」というような顔をする。

 

なら、用はねえよ

写真6 なら、用はねえよ

 

 猫ちんが去って行ったので、次に七重塔跡を見てみる。

 

 

写真7 京所道

 

 七重塔は『続日本後紀』の記述によれば、承和2年(835)に雷によって焼失し、10年後に男衾郡(埼玉県比企郡)の前の大領(郡の長官)壬生吉志福正が再建を願い出て許可されたという。

 

 再建の件は、昭和39年の発掘調査の結果、実際にあったことが証明された。

 

 また、その後の調査で、七重塔の隣にもう一棟分の基礎工事の跡が見つかっているが、基礎工事だけで塔自体は建てなかった可能性もあるという。

 

写真8 京所道

 

写真9 京所道

 

【参考資料】

  • 現地説明板

 

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武蔵国分寺跡資料館

武蔵国分寺跡(僧寺伽藍中枢部)

国分寺市文化財資料展示室

 

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第2回 探訪記録

 

探訪年月日 2012年10月10日(水)
天候 晴れ
探訪ルート 東山道武蔵路(西国分寺地区) → 東山道武蔵路(旧第四小学校跡地区) → 土師竪穴住居跡 → 本村八幡神社 → 国分寺薬師堂 → 国分寺仁王門 → 真言宗武蔵国分寺および万葉植物園 → 武蔵国分寺跡資料館 → 武蔵国分寺跡(僧寺伽藍中枢部) → 国分寺市文化財資料展示室 → 武蔵国分寺参道口 → 武蔵国分尼寺跡 → 旧鎌倉街道 → 伝祥応寺跡 →  → 武蔵台遺跡公園<武蔵台東遺跡>

 

 第2回目のルポルタージュは、管理人のブログ「日本史大戦略 Side-B」内で公開しています。

 

「日本史大戦略 Side-B」内「武蔵国分寺」のページ

 

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第3回 探訪記録

 

 
探訪年月日 2016年5月8日(日)
天候 晴れ
探訪ルート 殿ヶ谷戸庭園 → 不動明王碑 → お鷹の道 → 武蔵国分寺跡資料館 → 真姿の池湧水群 → 武蔵国分寺跡(僧寺北東地域) → 武蔵国分寺公園寺域北辺溝 → 土師竪穴住居跡 → 本村八幡神社 → 国分寺薬師堂 → 国分寺仁王門 → 真言宗武蔵国分寺および万葉植物園 → 武蔵国分寺跡(僧寺伽藍中枢部) → 武蔵国分寺参道口 → 国分寺市文化財資料展示室 → 武蔵国分尼寺跡 → 旧鎌倉街道 → 伝祥応寺跡 →  → 武蔵台遺跡公園<武蔵台東遺跡> → 東山道武蔵路(旧第四小学校跡地区) → 東山道武蔵路(西国分寺地区) → 東山道武蔵路(恋ヶ窪地区)および姿見の池
同道者 東国を歩く会のみなさん
  • ヤマセミさん
  • S源寺さん
  • ヒラさん
  • さくみやさん
  • makotoさん
  • スーさん
  • こばやしさん
  • きしもとさん
  • いとうさん
  • 総勢10名!

 

 

 東国を歩く会で国分寺を訪れた時のルポルタージュは、管理人のブログ「日本史大戦略 Side-B」内で公開しています。

 

「日本史大戦略 Side-B」のページ

 

【参考資料】

  • 現地説明板

 

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真言宗武蔵国分寺および万葉植物園

武蔵国分寺跡(僧寺伽藍中枢部)

武蔵国分寺参道口

 

以下、管理人用メモ

 

1.国分寺 資料館に入る前に説明

 

 1−1.時代背景

 

  和銅3(710)、平城京に遷都。教科書的にはこれより奈良時代となる。

 

  神亀元年(724)2月、聖武天皇は24歳で即位し、足掛け26年にわたって在位することになるが、その人生は苦難に満ちたものとなる。神亀4年(727)、皇太子基王(もといおう)が誕生するが、翌年には夭折する。聖武は、すぐに親王の菩提を弔うため金鍾山寺(きんしょうさんじ)を建立し、良弁らを住持させ、この金鍾山寺がのちに総国分寺となり、良弁はその別当に就任する。

 

 天平元年(729)2月には、長屋王の変。長屋王は聖武にとっては父方の叔母さんの夫。政治的に藤原四兄弟と対立していたため、無実の罪を着せられ自殺させられた。

 

 その数年後から疫病が猛威をふるい出し、天平9(737)には重要な政治家である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が相次いで病没。長屋王を死に追いやって8年後の子ことである。政権は人的にも大損害を受け、急きょ橘諸兄を首班として政権の立て直しを図るが、天平12(740)に大宰府にいた藤原広嗣(房前の子)が諸兄政権を批判して反乱をおこし、聖武は平城京を放棄し、都を転々とするが、そんななか、741年に国分寺建立の詔となるのである。当時日本は六十余の国に区画されていたが、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を一つずつ創建するという物凄いプロジェクトが開始された。

 

 

 1−2.なぜ国分寺を造ろうと思ったのか?

 

 時代背景を知っていただいたらだいたい想像がつくかもしれないが、聖武天皇は愛する我が子や信頼していた伯父さんたち(=政権指導者)を相次いで無くし、列島中が疫病で困窮し、九州では叛乱が起きるなど、精神的にかなり疲弊しており、そのため仏に救いを求めたことは想像に難くない。聖武自身からするとそのような発願の意志があったと思われるが、公的に見ると国分寺は「国家鎮護」のために創建するとあるので、疫病や戦争でめちゃくちゃになった「国家」を「鎮」めることと、当時は新羅との関係が悪化していたため、万が一の新羅の攻撃から国を「護」る意図も含まれている。

 

 

 1−3.そもそも国分寺とはどんなお寺か?

 

 その名の通り、「寺」。実は正式ネームがある。金光明四天王護国之寺、法華滅罪之寺。寺と言うことは宗派はあるのか?良弁は華厳宗の僧で、東大寺は現在も華厳宗。総本山は奈良の東大寺が「総国分寺」とされている。金光明と法華はそれぞれお経の名前、四天王は、護国と滅罪はそれぞれ目的ということになろうか。

 

 

 

 では具体的に武蔵の国分寺はどのようなものだったのか、資料館を見学して確かめてみましょう。

 

 

 2.武蔵国分寺 

 

 

 2−1.いつ完成したのか? 僧寺北東地域で解説

 

 実は武蔵国を含め、全国の国分寺ともに具体的な完成年月は不明なのです。741年に全国に対して

 

創建の命令が出されましたが、どこも裕福でないのでそう簡単に造営は進まなかったようです。しかし武蔵については以下の証拠から創建年代を想定できます。国分寺の遺跡からはおびただしい数の瓦が見つかるのですが、そのなかに国内の郡の名前が書かれた瓦が出てきます。国分寺の造営に必要な資材は各郡も負担していたので、各郡は自分のところから持って行った瓦にサインをしているわけです。その郡名を見ていると新羅郡だけありません。新羅郡は武蔵国内の21個ある郡の中で一番最後に建置され、それは天平宝字2年(758)のことですので、それ以前には完成していたと考えられます。

 

 

 2−2.いつなくなったのか? 薬師堂の説明板の前で解説

 

 

 1333年、鎌倉幕府に反旗を翻した新田義貞は、鎌倉に向けて軍勢を進め、この地を通過する際に国分寺に放火したと伝わっています。その2年後、義貞は薬師堂を建立し、今建っているのは宝暦年間(1751〜63)に再建されたもので、再建と言っても250年くらいは経っているわけで貴重な建物ですね。

 

 ということは、鎌倉時代末期まで存続していたのかと言うとそこは微妙です。750年ごろに建てられてから、奈良時代はもちろんまだ大丈夫で、平安時代になりその半ばごろに起きた大事件である「平将門の乱」(939〜40)以降、国分寺と対になって語られることの多い国府が衰退してきます。それまで日本は、中国の律令を模範とした、いわゆる「律令国家」として歩んできて、戸籍を作って税金をとる仕組みを造ったり、国家事業をいくつも展開してきましたが、徐々に皇族を含めた中央の貴族や大寺社が国から給料や補助金を貰う以外に、直接個人的に収入を得る道筋を得ます。それが荘園です。東国にも荘園がバンバン広がっていき、創建当初の聖武天皇の熱意も聖武の死後、時代が下るにつれて醒めて行き、中央政府も国分寺の維持管理はどうでもよくなっていきます。発掘調査からは平将門の乱が勃発した頃には、境内を画する溝が埋められ始め、一般人の住居らしき竪穴式住居がだんだんと境内の中に造られ始めます。そして11世紀になる頃には衰退がさらに進んだことが分かりますが、文献から見てみると、吾妻鏡に建久3年(1192)の後白河法皇四十九日仏事に、浅草寺や六所宮(大國魂神社)とともに国分寺の僧が呼ばれているので、その時点では一応はまだ権威を残していたようです。ただ、それ以降はより一層縮小傾向にあって、義貞が放火したと言われる時点では、かなり小規模な寺になっていたと想像できます。つまり、さきほど資料館で見たジオラマのような堂々たる姿であったのは、だいたい創建から200年くらいの間と考えて良いと思います。最初はノリノリで造っておいて意外と早く飽きてほっぽってしまうのは日本人の特徴かもしれません。

 

 

 仁王門の下から明治時代の地図ではまっすぐ道が延びており、今の府中刑務所の中をつっきり、府中街道、中世の鎌倉街道まで約1.8kmの参道となっている。薬師堂が創られた後、少し復活したのかもしれない。

 

 

 

 2−3.なぜこの場所だったのか 金堂跡で説明

 

  詔では国分寺は「国の華」とされ、「好所」に造るように示されている。好所と言うのは、四神相応の地。北に玄武=黒=丘、東に青龍=青=川、南に朱雀=赤=湿地帯、西に白虎=白=道。もちろん国府に近いことも絶対条件。さきほど、八幡神社の石段を降りましたが、あれはただの石段ではないのです。国分寺崖線を降りてきたのです。つまり僧寺の境内はハケの上と下を両方利用して造られたのですね。後で話しますが、9世紀半ばにはリニューアル工事が行われ、その時にさきほどの石段の上あたりには北方建物と呼ばれている建物が建てられたのですが、かなり良い景色だったと想像できます。

 

 

 2−4.国分寺と言えばやっぱり「塔」 七重塔跡で説明

 

 

 お寺に行くとよく塔が立っていますね。塔は舎利と呼ばれる釈迦様の骨あるいは経典を納める施設で、本来であれば伽藍の中心だったのが、日本では仏様を安置する金堂が伽藍の中心となりました。武蔵国分寺には七重塔が立っており、その中に金光明経を納めたのです。ただし、全国の国分寺の中には五重塔だったと推定されるものもあり、すべてがすべて七重塔であったわけではありません。

 

 このように信仰の面からも非常に重要な施設ですが、なによりも惹かれるのは高層建築だということでしょう。高い建物は昔の人も今の人も大好きですね。スカイツリーにも金光明経を納めればこの帝都はさらに安泰になるのではないかと思います。

 

 高さは60mはあったようですから、これを初めて見た人は相当ビックリすると思います。また、各地を巡っている旅人や都や他の国から公的任務で来た役人は、遠くから塔が見えると、「国府ももうすぐだ」と思い最後の力が出たことでしょう。でも、地震の多いこの国でこれだけの塔を建てるのはかなりチャレンジングだったと想像され、「本当に建っていたの?」と疑う人が出ても仕方がありません。上野の国分寺ガイダンス施設で話した地元のガイドの方は、上野国の場合は結局塔は建てることができなかったと考えています。しかし、武蔵の場合は立っていたのは確実です。というのも、ここに書かれている通り、再建の記録があるからです。『続日本後記』承和12年(845)3月の条によると、男衾郡の前大領・壬生吉志福正が承和2年(835)に雷によって焼失した塔の再建を申請し許可されており、発掘の結果実際に再建されたことが分かっています。ちなみに、男衾郡は現在の埼玉県熊谷市や深谷市周辺で、古代の武蔵国ではもっとも栄えた地域で、福正は、名前からして朝鮮半島から帰化した人の子孫で、国分寺のリニューアルに巨費を投じただけでなく、何と二人の息子に今後課せれらるであろう一生分の税金を前払いしてしまったのです。相当のお金持ちですが、それと同時に相当の親ばかですね。でも多額の税金を納めたわけですから、良い人だと思います。

 

 

 9世紀中ごろにはもう一つの塔を造ろうとして工事したようですが、基礎だけで建物は建てられなかった可能性があります。

 

 

 なお、国分寺は先に言った通り、741年の詔によって正式に建立が始まったのですが、実はそのプレ期間のようなものがあって、どうやら4年くらい前から造られ始めたようで、当初は塔を中心としたプランで造られました。

 

 

 

 僧寺と尼寺を造る費用は、大林組が算出したところ約600億円で、国分寺市の3.5年分の予算になり、もし今安陪政権が国分寺を再建しろと命じたら国分寺市は破産します。

 

 

 

 

 

 

 

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