◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

上野動物園の隣にある古代台東区の王の墓・摺鉢山古墳

最終更新日:2016年12月21日

 

摺鉢山古墳概要

 

ふりがな すりばちやまこふん
住所 東京都台東区上野公園5

交通 JR上野駅下車、徒歩約5分
史跡指定
現況 東京都上野恩賜公園
築造時期 5世紀後半あるいは6世紀初期
関連施設  

 

墳丘

 

形状 前方後円墳 前方後方墳  円墳 方墳 八角墳 上円下方墳
築成 1段 2段 3段 4段 5段 不明
造出 あり なし 不明
規模 全長約70m(現地説明板)
墳丘高 後円部約5m/前方部約m
葺石 あり なし 不明
埴輪 あり? なし 不明
登頂 可能 不可能
陪塚 あり なし 不明

 

埋葬主体

 

不明

 

周溝

 

不明

 

スポンサードリンク


第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2011年9月29日(木)
天候 晴れ
探訪ルート 三崎稲荷神社 → 太田姫稲荷神社 → 真徳稲荷神社 → 柳森神社 → 神田明神 → 妻恋神社 → 湯島天神 → 本郷城 → 境稲荷神社 → 五條天神社 → 摺鉢山古墳 → 下谷神社
同道者 なし

 

 五條天神社を出て、上野公園の中を歩きます。

 

 子供の頃は何度か上野動物園に来ました。

 

 私の幼少の頃は、パンダの「康康(カンカン)」と「蘭蘭(ランラン)」がいました。

 

 康康の「康」の字は、徳川家康からの偏諱です。

 

 まさか!

 

 もちろん冗談です。

 

 さて、次のお目当てである摺鉢山(すりばちやま)古墳を探してウロウロしていると、こんもりとした小山が見えました。

 

 そこ以外に小山は無いので、あそこが摺鉢山古墳でしょう。

 

摺鉢山古墳

写真1 摺鉢山古墳

 

 説明板が建っており、やっぱり摺鉢山古墳でした。

 

 摺鉢山古墳の頂には登れるようになっています。

 

摺鉢山古墳

写真2 摺鉢山古墳

 

 頂部はかなり削られており平坦で、ベンチが置いてあります。

 

 頂には昔は、さきほど訪れた五條天神社と清水観音堂があったといいます。

 

 摺鉢山古墳は5世紀後半(『東京の古墳を歩く』)あるいは6世紀初期(『東京の古墳を考える』)の築造で、5世紀後半というと、478年には倭王武(雄略天皇に比定される)が、中国の宋に対して、朝鮮半島の軍事総督権を要求しています。

 

 また、摺鉢山古墳の近い地域では、埼玉県行田市の埼玉稲荷山古墳から出土した鉄剣には、「乎獲居(オワケ)は、先祖代々「杖刀人首」(親衛隊長)として奉仕し今に至っており、獲加多支鹵(ワカタケル)大王(雄略天皇に比定)が斯鬼(シキ)の宮にいるとき、天下を佐治した」と銘記されており、そこには辛亥年(471年に比定)と記されています。

 

 5世紀後半というと、ヤマトタケルの東征から150年くらいあとになりますが、そのころには東京23区はヤマト朝廷の影響が相当濃厚になってきているということになります。

 

 往時は、上野公園の東側まで東京湾が入り込んでいました。

 

 そういう海を望む立地に摺鉢山古墳は築造されていたというわけです。

 

 摺鉢山古墳は、昭和59年に東京都教育委員会が測量調査をし、現存の全長は70メートル、前方部の最大幅は23メートル、後円部の径は43メートル、道からの高さは5メートルほどで墳頂の仮水準点は24.46メートルということです(『東京の古墳を歩く』)。

 

 そして、前方部、後円部ともに2段築成となっています(『東京の古墳を考える』)。

 

 なお、弥生式土器や埴輪の破片などが出土しているということです。

 

 また、上野公園内にはかつては、桜雲台古墳、蛇塚古墳、東京国立博物館表慶館古墳などの円墳がありましたが、すべて湮滅しています(表慶館古墳は表慶館を建てる際に刀などが出土しています)。

 

 つまり、上野公園は古代の権力者の墓域だったわけですね。

 

 古墳が築造されている場所を訪れて思うのは、そこがもし居住地だとしてもとても良い場所であるということです。

 

 おそらく、死者に対しても居心地が良く、なおかつ人目につきやすい場所で、地域住民が仰ぎ見ることができる立地を選んで古墳を築造したものを思われます。

 

 ところで、摺鉢山古墳に葬られた地域権力者にはどのどうな政治的背景があるのでしょうか。

 

 『日本書紀』によると、安閑天皇元年(534)に以下の事件が起きています。

 

 武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)とその同族の小杵(おき)が国造の地位を争って長年決着せず、小杵は上毛野君小熊(かみつけののきみおくま)に助力を求め、一方の使主は中央に直訴し、結果的に小杵は誅され、国造の地位は使主のものとなった。

 

 そして使主は国造の地位を確定できたのと引き換えに、屯倉(みやけ)を4箇所設置させられることになった。

 

 この事件について甘粕健氏は、6世紀以降、それまで武蔵国内の中心であった南部地域に100メートル級の前方後円墳が造られなくなり、北部に前述の埼玉稲荷山古墳など大きな前方後円墳が造られ始めていることから、武蔵南部は没落した小杵の勢力範囲で、北部は興隆した使主の勢力範囲であったという考えを示しています。

 

 この説が正しいとすれば、摺鉢山古墳の被葬者は、武蔵国南部が北部より優勢だった時代の最後のころの権力者となります。

 

 70メートルという大きさは、100メートル級には届きませんが、都内でも6番目ほどの大きさです。

 

 6世紀初期まで武蔵で一番の権力者は多摩川下流域におり、摺鉢山古墳の被葬者は、それに次いで隅田川右岸(西側)で最も勢力のあった地域権力者であるといえます。

 

 その人物はヤマト朝廷から見て多摩川下流の権力者の蔭に隠れてしまう存在でなく、直接ヤマト朝廷と結ばれていた地域権力者であったと想像できます。

 

 さて、墳頂から降りて、また上野公園の中を歩きます。

 

 すると女の子たちが並んで何やら記念撮影をしています。

 

 見るとバックにはせごどん(西郷隆盛)の銅像が。

 

 せごどんの銅像ってこんなに大きかったっけ!?

 

 久しぶりに見たら巨大でした。

 

 そういうわけで、そろそろ足が痛くなってきました。

 

 歩いている時間はまだ3時間少々なんですが、日頃あまり歩いていないので、すぐ足がおかしくなります。

 

 それでは次は下谷神社に行ってみましょう。

 

 摺鉢山古墳近辺は、江戸初期に寛永寺が創建された時にかなり近いが改変されてしまいました。

 

 しかしそれでも、明治時代にはこの台地上に古墳がいくつかあることは考古学者の間で知られており、埴輪片も地表面採取されていました。

 

 『台東区史』によると、昭和57年から3年間、初めてしっかりとした調査が実施され、摺鉢山古墳を含め、以下のように名称が付けられました。

 

  • 第一号墳 摺鉢山古墳
  • 第二号墳 桜雲台古墳(湮滅)
  • 第三号墳 蛇塚古墳(湮滅)
  • 第四号墳 表慶館古墳(湮滅)

 

 以上、現存するのは摺鉢山古墳だけですが、これらはまとめて「上野台古墳群」と呼ばれ、近辺の同様な立地の古墳群としては、上野台の台地上を北上した場所にある北区の赤羽台古墳群や、東京タワー直下の芝丸山古墳群があります。

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『台東区史 通史編1』 台東区史編纂専門委員会/編 1997年
  • 『東京の古墳を歩く』 大塚初重/監修 2010年

 

<< 戻る

現在地

進む >>

五條天神社

摺鉢山古墳

下谷神社

スポンサードリンク



 

ご意見・ご感想は、稲用章

inayouアットマークa.email.ne.jp

までお願いします。