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飛来した将門の首が落下した場所に築かれた将門塚

最終更新日:2016年12月21日

 

将門塚概要

 

ふりがな しょうもんづか
別名 平将門首塚
住所 東京都千代田区大手町1-1-1

史跡・文化財指定 東京都指定旧跡(東京都指定旧跡)
指定日:昭和46年(1971)3月30日

 

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第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2011年8月29日(月)
天候 晴れ
探訪ルート 将門塚 → 江戸城常盤橋門 → 常盤稲荷神社 → 椙森神社 → 鎧橋 → 兜神社 → 鐵砲洲稲荷神社
同道者 なし

 

 私は八王子市民で、八王子市は東京都なのですが、近所の人びとは都心に行くのに「東京に行ってくる」と言います。

 

 そういうわけで、私も東京に行くことにします。

 

 日頃、全然身体を動かしていないため、このままだと歩けなくなってしまう心配があり、それを防ぐ意味と歴史好きの趣味を合体させて、都心をプラプラするという試みを始めるわけです。

 

 その記念すべき第1回目に探訪する場所は、それ相応の「霊力」が必要でしょう。

 

 生半可な史跡じゃダメだ。

 

 そう思って私が初日の一発目の探訪場所として決めたのは、平将門の首塚でした。

 

 「将門塚」の所在地は、都心も都心、大手町1丁目1番地1号なのだ!

 

関東の新皇、ここに眠る

 

 朝のラッシュアワーが終わって1時間ほど経った8時45分に家を出て、電車を乗り継ぎ、降り立ったのは大手町駅です。

 

 帝都高速度交通営団、いや、今は東京メトロですが、その大手町駅のC5出口を出て道を進むと、前方左手に将門塚の敷地と思われる空間がチラッと見えました。

 

 近接してみると目論見通り将門塚でした。

 

将門塚域

写真1 将門塚域

 

 敷地内に踏み込むと、隅の方に板碑のようなものが見えます。

 

板碑か?

写真2 板碑か?

 

 恐懼しながら近寄ると、やはり板碑でした。

 

将門塚

写真3 将門塚

 

 京で獄門にかけられた将門の首は、故郷の下総をめがけて飛んで行きましたが、途中この付近(武蔵国豊島郡柴崎村)に落下し、村人が塚を作って将門の首を葬ったといいます。

 

 首が空を飛んで行くーっ!

 

 想像するとなかなか凄まじい光景ですね。

 

 将門の首はどのような表情で飛んで行ったのでしょうか?

 

 やはり憤怒の表情でしょうか?

 

 まさか、半笑いということはないですよね。

 

 もちろん首が空を飛んだ話を信じる人はいないと思われ、将門の首級は獄門に一定期間晒された後、この地まで人の手によって運ばれてきたというのが真相でしょう。

 

 『史蹟 将門塚の記』によると、同じ千代田区内の九段北の築土神社には、将門の首級を京都から持ち帰った時に用いたとされる「将門の首桶」というものがかつて存在し、それが築土神社の神宝となっていました。

 

 しかし、将門の首桶は残念ながら先の戦災で焼失してしまいました。

 

 ちなみに築土神社には往時、衣冠束帯姿の将門の木造が御神体として安置されていたといいます。

 

 現在将門塚があるこの地には元々9世紀に創建されたと伝わる日輪寺があり、神田明神の前身である神田ノ宮(天平2年<730>創建)もありました。

 

 「将門塚」はその史跡名とは裏腹に、現在は塚はなく、写真3のとおり将門の墓と称される石灯籠と板碑が建っています。

 

 写真の板碑の後ろに石灯籠があります。

 

 塚自体は、大正12年(1923)の関東大震災による大蔵省再建のために削平されて消滅してしまいました。

 

 そのとき塚の中から石郭が発見されています。

 

 石郭!

 

 ということは将門塚は実は古代の古墳だったのでしょうか?

 

 いや、残念ながらその石郭は慶長ごろ(江戸初期)の徳川入府後のものであるということです。

 

 『郷土東京の歴史』によると、塚は当時この地にあった神田明神の御手洗池の南にあって、高さは約2間半(4.5メートル)、周囲約15間(27メートル)であったというので、大きさ的には最小の円墳くらいですが、周囲の長さの割には高さがあるので、富士塚のようにも思えます。

 

 なお、板碑は当時の物でなく近年造られたものです。

 

 古い板碑は徳治2年(1307)に他阿真教によって建てられたものですが、江戸時代にはすでに無く、文化2年(1805)に日輪寺の僧其阿(ごあ)が写していた搨本(とうほん)をもとに現在の板碑が造られました。

 

伝説の僧・他阿真教

 

 最初の板碑を建てて将門を供養した他阿真教は、藤原道長の後胤といわれ、一遍上人に師事してその法灯を受け継ぎ、諸国を行脚していた人物です。

 

 『史蹟 将門塚の記』によると、武蔵国までやってきた他阿真教が柴崎村に立ち寄ったのは嘉元元年(1303)のことで、そこで他阿真教が見たものは、疫病が蔓延して辛苦する住民の姿でした。

 

 将門塚は荒れ果て、疫病は将門公の祟りであると住民たちは恐れおののいていました。

 

 そのため他阿真教は、将門に「蓮阿弥陀仏」という法号を追贈し、塚を修築し丁重に供養したのです。

 

 するとどうでしょう。

 

 疫病が終息したではないですか。

 

 喜んだ住民は、日輪寺に他阿真教を留め置き、他阿真教は天台宗であった日輪寺を念仏道場(時宗)にしました。

 

 他阿真教は板碑を建立した翌々年の延慶2年(1309)には、安房神社の跡が荒廃しているのを悲しみ、社殿を修築し将門の霊を相殿に祀りました。

 

 それが現在の神田明神です。

 

 『史蹟 将門塚の記』では、「かんだ」は「からだ」のことで、将門の首のない体を埋めた山が「神田山(からだやま)」であると考えています。

 

 神田という地名は伊勢神宮に関連しているという説がありますが、「からだ」説もなかなか面白いです。

 

 なお、安房神社再生時、日輪寺も神田山日輪寺と改名されています。

 

 それと余談ですが、他阿真教は多摩地域における時宗遊行派の拠点となった八王子市川口町の河口山宝池院法蓮寺も開創したと伝わっており、他にも八王子市内には他阿真教が開創したと伝わる寺が2ヶ所ありますが(宝樹寺と西念寺)、『多摩のあゆみ 第二十五号』所収「八王子市川口町 時宗法蓮寺史の検討と多摩の時宗寺院」によれば、法蓮寺の本尊から見つかった胎内文書に、法蓮寺は永徳2年(1382)6月晦日の創建だと記されています。

 

 「八王子市川口町 時宗法蓮寺史の検討と多摩の時宗寺院」によれば、他阿真教は嘉元2年(1304)に草庵(のちの当麻道場金光院無量光寺)を結びそこに独住した以降は、以前のようにアクティヴに活動していないとして、それ以降の多摩地域にある他阿真教開創と伝わる寺は、開創伝承については事実でない可能性が高いと述べています。

 

 そうなると、上述の嘉元元年(1303)に柴崎村へやってきてから延慶2年(1309)に安房神社の跡を修築するまでの江戸との関わりにも疑問が生じますが、無量光寺は相模原市にあるので、あまりアクティヴに行動しなくなったとしても、元々行動派の人物なので、普通に千代田区や多摩地域までは来て活動していたと考えてよいと思います。

 

 さて、将門塚の周辺は現在はまったくのビル街と化していますが、人工的ではあってもこの一角だけ緑があり、あきらかに異空間になっています。

 

緑の異空間

写真4 緑の異空間

 

 昔は鬱蒼とした森であったそうです。

 

 将門塚はいまだに周辺の官吏やビジネスマンだけでなく関東一円の人びとから尊崇され、私が写真を撮っている短時間に、3名もの方々が訪れました。

 

 関東の「新皇」として君臨しようとした将門は、今では関東の守護神となっています。

 

 その将門の首塚に詣でて、今回の歴史探訪は開始となります。

 

 将門塚の次は江戸城常盤橋門です。

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『郷土東京の歴史』 川原進/編
  • 『史蹟 将門塚の記』 史蹟将門塚保存会/発行
  • 『多摩のあゆみ 第二十五号』所収「八王子市川口町 時宗法蓮寺史の検討と多摩の時宗寺院」 伊藤克己/著 1981年

 

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