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信玄が生まれた躑躅ヶ崎館の詰城・要害城

最終更新日:2015年5月16日

 

前回の記事はこちら

 

 岩殿城跡を出ると、今度は時間短縮のため中央フリーウェイに乗ります。

 

 さすが高速を使うと速いです。

 

 今日は3連休の初日ですが、下り方面に行く車は少なく、スイスイ進みます。

 

 小山田氏の勢力範囲である郡内から、何年か前に天井板崩落事故が起きた笹子トンネルを抜け、国中(くになか)へと来ました。

 

 高速を降りてしばらく走ると、そろそろお昼の時間が近づいてきたこともあり、お腹が空いてきました。

 

 私は今年、200杯くらいはラーメン・つけ麺を食べていますが、粟村さんもかなりのラーメン好きです。

 

 そのため、以前粟村さんがこちらに来た時にMさんに連れて行ってもらったという味噌ラーメンのお店「初志貫徹」に行ってみることにしました。

 

 

探訪データ
探訪年月日 2014年10月11日(土)
天候 晴れ
同道者 粟村さん
探訪ルート 【10月11日】 岩殿城跡 → 要害城跡 → 新府城跡
【10月12日】 甲府城跡 → 躑躅ヶ崎館跡 → 恵林寺 → 雲峰寺 → 景徳院

 

要害城跡概要
ふりがな ようがいじょう
別名 要害山城・丸山城
住所 山梨県甲府市上積翠寺町(かみせきすいじまち)
史跡指定 国指定史跡(平成3年<1991>指定) 史跡名称:要害山(ようがいさん)
現況 山林(登山道あり)
規模/比高 東西約650m×南北約150m/約215m
目で見られる遺構 曲輪・竪堀・堀切・土塁・石積み
存続時期 永正17年(1520)〜慶長5年(1600)?
城主・城代・関係者 城主:武田信虎・信玄・勝頼 在番:駒井昌頼(大永元年<1521>)
特記事項 ・武田信玄誕生の地
・熊出没情報あり
関連施設 要害山温泉(史跡とは無関係だが立ち寄り湯がお薦め)
http://www.yougai.co.jp/

 

「初志貫徹」で旨い味噌ラーメンを食す

 

 「初志貫徹」は街道からは見えなくて、ちょっと引っ込んだところにあり、あらかじめ情報を知っていなければまず見つけられない場所にあります。

 

 11時半に到着して店に入るとすでに満席で、5分くらい待たされた後、カウンターに通されました。

 

 まだ新しい綺麗なお店で、見たことが無い形の業務用エアコンがあって、「最新式みたいですね」と、どうしても掃除の話が出てきてしまいます。

 

 少し待つと、注文した味噌ラーメン(大盛)が出てきました。

 

初志貫徹の味噌ラーメン

写真1 初志貫徹の味噌ラーメン

 

 お、旨そうだ!

 

 スープの味は結構濃い目で、麺を大盛にしたのでライスは頼んでいませんが、これは確実にライスが合います。

 

 麺もモチモチしていて美味しいです。

 

 おろし生姜が載っかっているのが珍しいですね。

 

 一気に平らげて、お腹一杯幸せ気分で外に出ると、店の外には行列ができていました。

 

初志貫徹

写真2 初志貫徹

 

 あとでMさん(これまたラーメン好き)に聞いたところでは、やはり我々が住んでいる多摩地域と比べたら、どうしても美味しいラーメン屋は少なくて、そんななかで「初志貫徹」はかなり輝いている存在のようです。

 

 山梨県全体の人口が90万人もいないのに比べ、多摩地域は400万人もいて、八王子市だけでも58万人なので、人口から考えるとお店が少ないのも仕方がないと思います。

 

 また食べたいなあと、余韻に浸りながら車に乗り込み、次なる目的地である要害城跡を目指します。

 

要害城跡に登って気持ち良い汗をかく

 

 甲府市内を北へ進み、甲府駅の北から武田通りに入り、一直線に2キロほど北上すると、武田信虎・信玄・勝頼の3代の居城であった躑躅ヶ崎館跡、つまり現在の武田神社の境内にぶつかります。

 

 躑躅ヶ崎館跡には2004年4月18日に遠野のとらねこさんと来たことがあり、あれから10年経っているので最新状況を知りたいですが、今日は素通りします。

 

 結局、翌日少し時間があったので、ちょっとだけ探訪しました。

 

 躑躅ヶ崎館跡からさらに北へ2キロほど進むと、正面に見えてきた山を指して、粟村さんが「あれですね」と言いました。

 

要害山遠望

写真3 要害山遠望

 

 とりあえず、積翠寺(せきすいじ)の近くに車を駐めて外に出てみます。

 

積翠寺

写真4 積翠寺

 

 積翠寺境内に入ると、「機山武田信玄公誕生之寺」という石碑があります。

 

機山武田信玄公誕生之寺

写真5 機山武田信玄公誕生之寺

 

 説明板によると、万松山積翠寺は、古くは石水寺と表記され、行基開山伝説を持つお寺です。

 

 現在では臨済宗妙心寺末となっています。

 

 天文15年(1546)には、信玄が後奈良天皇勅使として甲斐へやってきた三条西大納言実澄や四辻中納言季遠らを迎えて、積翠寺で連歌の会を催し、その時の一巻が積翠寺に所蔵されているそうです。

 

 さて、要害城跡の入口はもう少し北ということで、車を「積翠寺温泉 要害」という旅館の近くに移動させました。

 

 「積翠寺温泉 要害」ってなんか凄く良い名前ですね。

 

 道路から「積翠寺温泉 要害」へ向かうと、左手に要害城の石碑と説明板が立っていました。

 

石碑と説明板

写真6 石碑と説明板

 

 よし、登り口発見!

 

 そんなわけで登ろうとすると、男女2人ずつの組が登り口で話し込んでいて、どうやら女の子の一人は登る気満々みたいですが、男の子が難色を示しています。

 

 そんな集団を尻目に我々は山へ入って行きます。

 

 さてここで、要害城のイメージを掴んでいただくために、「余湖くんのホームページ」から要害城の鳥瞰図を引用させていただきます。

 

余湖図・要害城跡

写真7 余湖図・要害城跡

 

 上図(余湖図と称する)は、『日本城郭大系8 長野・山梨』の縄張図と対応していますので、お持ちの方はそちらも合わせてご参照ください(もちろん、城郭大系の図はここに載せることはできません)。

 

 山頂は標高775メートルで、麓は標高約560メートルなので、比高差は215メートルくらいです。

 

 山頂から下へ向けていくつかの郭を造成し、竪堀で斜面の横移動を防いだ典型的な戦国の山城ですね。

 

 武田信虎は、永正16年(1519)に躑躅ヶ崎館を築き、本拠地を同じ甲府市内の石和館(川田館)から遷すと、翌年その詰城(つめじろ)として、「丸山」と呼ばれていたこの山に築城しました。

 

 この時代の領主は、平時は平地の居館に住んでいるのですが、敵に攻められたときに野戦が無理な場合は、その居館の背後の山にある詰城に籠城して戦うのが普通でした。

 

 要害城を築城すると、早速それが役に立つときが訪れました。

 

 築城の翌年(永正18年<1521>)に、駿河の国主・今川氏親の重臣・福島(くしま)正成が甲斐に侵攻してきたのです。

 

 このときなぜ今川氏が甲斐に兵を向けたのかというと、それ以前に甲斐南部の河内地方(富士川沿い)を治めていた穴山信風は今川氏に付いていましたが、甲斐国内の国衆が皆信虎に付いてしまったため、信風は今川家に差し出していた人質の息子・八郎を引き揚げさせ、信虎の下に付きました。

 

 これによって信虎の甲斐国統一が成ったのですが、激怒した今川氏親はその報復として、福島正成を大将として軍勢を甲斐に向けてきたわけです。

 

 なお、信風の孫が信虎の孫・勝頼から離反した信君です。

 

 正成軍の勢いはすさまじく、信虎妻・大井の方の実家である富田城は陥落し、信虎は念のため身重の大井の方以下を要害城に退避させ、自らは軍勢を率いて正成に対して討って出ました。

 

 明応3年(1494)正月6日生まれの信虎は、このとき28歳。

 

 14歳で家督を継いでからすでに14年経過しており、甲斐国内を統一した武将として自信をみなぎらせる意気軒昂な青年武将でした。

 

 さて、山に登り始めてすぐに、何と石積みがありました。

 

石積み

写真8 石積み

 

 おおっ!

 

 これは凄い!と思いましたが、帰ってきてから「余湖くんのホームページ」を読んでいたら、近年に登山道を整備する際に構築した石積みもあるそうなので、要害城跡の各所にある石積みのどれが往時のものでどれが最近のものか分かりません。

 

 さらに4分ほど登ると、岩が半島状に飛び出た場所がありました。

 

岩が半島状に飛び出た場所

写真9 岩が半島状に飛び出た場所

 

 下から登ってくる敵に対して攻撃できる位置ですが、どうやらまだここは城域ではないみたいです。

 

 そしてさらに8分ほど登ると、「竪堀」と記された標識が立っていました。

 

 余湖図の「A」の部分です。

 

 どうやらここから城域に入るみたいで、土塁もあります。

 

土塁

写真10 土塁

 

 登って行くとまたまた石積みがありました。

 

石積み

写真11 石積み

 

 そして今度は門跡に着きました。

 

2門

写真12 2門

 

 内側から見てみます。

 

2門を内側から見る

写真13 2門を内側から見る

 

 ここは余湖図の「2門」の場所です。

 

 手元には中田正光先生の『【新装版】 戦国武田の城』所収の縄張図がありますが、中田先生の図では「V’」の郭になります。

 

郭

写真14 郭

 

 土塁の横を通りさらに登ると、今度は「不動曲輪」と書かれた標識が出てきました。

 

不動曲輪

写真15 不動曲輪

 

 郭内に入ると、その名の通り不動明王がいました。

 

不動明王

写真16 不動明王

 

 登城道に戻り、一段上に上がるとまた門跡(余湖図の「3門」)があり、ここは石積みの土塁で防御されたかなり作りのしっかりとした門です。

 

3門

写真17 3門

 

 余湖図の「武者溜まり」から3段上の郭は、余湖図では何も記されていませんが、中田先生は「U郭」としています。

 

 引き続き、一つずつ郭を上がって行きます。

 

郭

写真18 郭

 

 それらの郭はどれもそれほど広くはなく、一つの郭は20〜30人くらいで守れるのではないでしょうか。

 

郭

写真19 郭

 

 郭から郭に上がる道の中には、とくに近年に整備されたときに造られたと思えるような防衛的な観点から見ると不自然な道もあります。

 

後世の道

写真20 後世の道

 

 このように郭の正面から直登する道は、まず怪しいと思って間違いありません。

 

 そんな道を登って行くと、余湖図の「6門」に来ました。

 

6門

写真21 6門

 

 ここの中は枡形になっています。

 

 上からは熊避けの鈴を鳴らしながらハイカーが降りてきましたが、こんな山に熊がいるんでしょうか?

 

 帰ってから中田先生たちに報告したところ、かつて先生たちが要害城跡を訪れた際に、熊の毛が樹木にこびり付いていたのを確認したということで、確かにこの山には熊が出没するらしいことを聴きました。

 

 いやー、恐ろしい・・・

 

 さらに一段上がります。

 

郭

写真22 郭

 

 そして余湖図の「8門」が見えてきました。

 

8門

写真23 8門

 

 それを抜けると、初めて広い平場が現れました。

 

主郭

写真24 主郭

 

 最高所は標高755メートルを数え、ここが主郭(本丸)です。

 

 郭内には、「武田信玄公誕生之地」と刻まれた石碑が立っています。

 

武田信玄公誕生之地

写真25 武田信玄公誕生之地

 

 さて、福島正成との戦いの際にここに避難してきた身重の大井の方は、籠城の最中、無事に男の子を出産しました。

 

 それが次男晴信、のちの信玄です。

 

 なお、信虎の長男は信玄より4歳上の竹松で、信玄が生まれた2年後に7歳で亡くなっています(『武田信虎のすべて』所収「武田信虎の一族」)。

 

 信玄が要害城の城内で生まれたことについて、史料的な裏付けはないのですが、余湖さんも仰っている通り、逆にそれを積極的に否定する資料もないので、素直にここで生まれたと思って良いと思います。

 

 ただ、山の中ではなく、麓の積翠寺で生まれたという説もあります。

 

 バブーの信玄。

 

 どんな感じの赤ちゃんだったんでしょうね。

 

 ちなみに、討って出た信虎ですが、正成に快勝して無事に帰陣し、生まれたばかりの息子の可愛い顔を見ています。

 

 主郭は結構広くて、東西は70メートル、南北は25メートルくらいあります。

 

主郭

写真26 主郭

 

 主郭は土塁で囲まれていますが、基底部に石積みが施された部分もあります。

 

 そしてここから先が搦手(からめて)、つまり裏口になるわけですが、まずは主郭の東側を守る堀が面白いのです。

 

主郭東側空堀

写真27 主郭東側空堀

 

 良く見れば分かりますが、堀の向かって右側側面に石積みがあるのです。

 

空堀内の石積み

写真28 空堀内の石積み

 

 これはかなり珍しい物ではないでしょうか。

 

 そして尾根を進むと、でっかい竪堀が現れました。

 

竪堀

写真29 竪堀

 

 これは凄い・・・

 

 粟村さんと二人で驚嘆の声を発します。

 

 写真だと分かりづらいですが、大きくて急角度な竪堀が下の方へ続いており、我々はとても降りる勇気を持ち合わせていません。

 

 そんな竪堀を見ながら尾根を歩いて行くと、少し小高くなっている場所が見えました。

 

物見台

写真30 物見台

 

 ここの入口にも「門跡」の標識があります。

 

門跡

写真31 門跡

 

 ここは余湖図の「F」の部分になり、物見台跡と考えられ、降りてみると斜面には竪堀が掘られています。

 

竪堀

写真32 竪堀

 

 そして物見台の基部には石積みが見られます。

 

物見台基部の石積み

写真33 物見台基部の石積み

 

 ここを通過するとまた凄い竪堀が現れました。

 

竪堀

写真34 竪堀

 

 写真だと分かりづらいですが、はるか下まで落ちているのです。

 

 怖い・・・

 

 でも中田先生は、縄張図を作成するために竪堀の一番下まで長さを測りに降りて行くそうで、縄張図作成の際は竪堀の調査が一番大変だと言っていました。

 

 いや、大変も何も、無理っす。

 

 大体、中世の城跡に行くと、大手正面よりもむしろ搦手の方にエグい遺構があるので、城跡に行った場合は是非とも搦手もしっかりと見学することをお薦めします。

 

 尾根はさらに先まで続いていますが、ここまでが城域のようで、そうすると東西の規模は約650メートルということになります。

 

 いやー、でかい山城ですね。

 

 だいたいここまでが登山道入口から約45分間の道のりでした。

 

 というわけで、下山しましょう。

 

 主郭まで戻ってくると、さきほど下で見た男女のグループが向こうから歩いて来ました。

 

 その中の女の子が積極的に集団を引っ張っているようでしたが、ここまで来たので戻ろうかどうしようか話しているようだったので、「この先に行くと凄いのが見れますよ!」と声をかけたら、女の子は「よし行こう!」と歩き出しました。

 

 そうしたら、男の子は私に振り返って、「ボクはここまで来てすでに心が折れそうです」と漏らしました。

 

 多分、普段山登りなんてしない子なんでしょうね。

 

 そしてもう一人居たはずの男の子はいませんでした。

 

 降りる途中、木々の隙間から甲府の町が見えますが、残念ながら鮮明には見えません。

 

甲府市街の眺望

写真35 甲府市街の眺望

 

 下まで降りて行く途中、やはり私も普段山歩きなんてしないので、ふくらはぎが痛くなってきました。

 

 一方、富士山にも普通に登る粟村さんは、慣れた足つきで降りて行きます。

 

 そんな感じで25分くらいかけて下山すると、さきほどのグループから脱落した男の子がベンチに座ってスマホをいじっていました。

 

 面倒くさくて登りたくなかったんでしょうね。

 

 でも少し歩いた方がそのポッチャリ体型も改善されるよ!

 

 とはもちろん言いませんでした。

 

 さて、時刻は13時半。

 

 次は今日の3件目の現場、新府城跡へ向かいましょう。

 

 

つづきの記事はこちら

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『日本城郭大系8 長野・山梨』 磯貝正義ほか/著 1980年
  • 『武田信虎のすべて』 柴辻俊六/編 2007年
  • 『【新装版】 戦国武田の城』 中田正光/著 2010年
  • 『武田氏年表』 武田氏研究会/編 2010年

 

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