武田氏滅亡後家康が勝頼らの冥福を祈り建立した寺・景徳院

最終更新日:2015年5月16日

 

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 雲峰寺で猫ちんと戯れた後は、本日最後の探訪場所である景徳院を目指します。

 

 

探訪データ
探訪年月日 2014年10月12日(日)
天候 晴れ
同道者 粟村さん
探訪ルート 【10月11日】 岩殿城跡 → 要害城跡 → 新府城跡
【10月12日】 甲府城跡 → 躑躅ヶ崎館跡 → 恵林寺 → 雲峰寺 → 景徳院

 

天童山景徳院で甲斐武田氏の滅亡に思いを馳せる

 

 途中、鳥居畑古戦場跡がありました。

 

鳥居畑古戦場

写真1 鳥居畑古戦場

 

 ここは、岩殿城への受け入れを拒否された勝頼の手勢が最後の戦いを繰り広げた場所です。

 

 新府城跡のページで、勝頼の元に氏政の妹(桂林院殿)が嫁いでから、新府城が落城するまでの経緯を述べましたが、その後の経過を『武田氏年表』を元に、簡単に述べます。

 

 天正10年(1582)3月3日、新府城に火を放ち都留郡を目指した勝頼一行は、その晩は柏尾(甲州市勝沼町)に宿し、翌日は駒飼宿(甲州市大和町日影)に泊まりました。

 

 同日、武田家臣で一番の実力者であった穴山梅雪は、徳川家康に対面しています。

 

 4日に泊まった駒飼宿は、郡内との境界である笹子峠まで直線距離で2.7kmの場所なので、おそらくそこで待機していたのだと思われますが、7日には頼みの小山田信茂が離反し、郡内へ入ることができなくなります。

 

 またこの間、同じく頼みにしていた同盟者・上杉景勝の援軍も信濃北部で織田勢を攻撃することはありませんでした。

 

 織田軍の滝川一益の軍勢が勝頼勢に襲いかかったのは11日で、その場所は勝頼一行が7日の時点でいたと思われる駒飼宿から直線距離で約2.8kmしか離れていない、上述の鳥居畑古戦場跡です。

 

 7日から11日までの間に、行こうと思えば大菩薩峠を越えて妻の実家である北条氏の治める武蔵へ行けたと思いますが、数年前までは仲が良かった北条氏とは今では戦闘状態になってしまっていたので、妻の実家を頼って落ちることもできなかったのでしょう。

 

 北条氏の領国に逃れることができないとすると、勝頼は完全に袋の鼠状態です。

 

 勝頼一行にとっては、人生で一番つらい5日間だったと思いますが、おそらくその間に死ぬ覚悟が整ったのだと思います。

 

 さて、勝頼一行を追いかけてきた織田勢は4000人。

 

 それに対して勝頼の周りを固める武将は、秋山光継・阿部勝宝・土屋昌恒・跡部勝資・小宮山友信(景徳院の説明板では友晴)らで、彼らに率いられた兵は数十人でした。

 

 かつて甲斐と信濃を完全に掌握し、上野や駿河にまで版図を伸ばした甲斐武田家の最期の姿です。

 

 小宮山友信は勘気を被って蟄居させられていたところ、勝頼の危機を知って無断で参陣、勝頼に許されて戦陣に加わっていました。

 

 ちなみに我が家の近所にある八王子市初沢町の高乗寺は、北条氏滅亡後、小宮山民部という武田の遺臣が中興開基したと伝わっていますが、民部と友信との関係をご存じの方がおられましたら、ご教示ください。

 

 古戦場を後にして、景徳院の麓に来ました。

 

景徳院の麓

写真2 景徳院の麓

 

 天童山景徳院は曹洞宗の寺院で、勝頼一行がこの地で自害した後に、徳川家康によって勝頼一行の供養のために建てられたお寺です。

 

 初代住職の拈橋倀因(ねんきょうちょういん)は、小宮山友信の兄弟と伝わっています。

 

 滝川勢に襲撃され、覚悟を決めた勝頼たちが切腹を済ませる間、家臣たちは100倍の織田勢と斬り結び、なかでも猛将土屋昌恒は、人が一人やっと通れる崖道に立ちはだかり、一人で1000人の織田軍を斬り殺したという伝説が残っています。

 

勝頼らの墓

写真3 勝頼らの墓

 

 中央の宝篋印塔が勝頼、右の五輪塔が北条夫人(桂林院殿)、左の五輪塔が嫡男信勝の墓です。

 

 勝頼は前年の終わりごろに元服したばかりの信勝に武田家の家督を継承させた上で、ともに切腹したという話が何かの小説に書かれていましたが、それが何を根拠にしたのかは分かりません。

 

 勝頼は本来であれば武田家を継ぐ人物ではなく、母の実家の諏訪家を継ぐ人物でしたが、長兄の信義が死に、次兄は盲目で養子に出て、三兄も死亡したため、四男でしかも妾腹でありながら、図らずも武田家を継ぐことになりました。

 

 以前は勝頼は武田家を滅ぼした愚将と評価されていましたが、近年の研究では客観的にその軍事的・政治的手腕を見ても、決して父信玄に劣っておらず、名誉が回復されつつあります。

 

 勝頼の嫡男でこの時16歳の信勝こそ、諱に「信」が付いていることからも本当の意味での武田の跡継ぎであり、上述の死の間際に勝頼が信勝に家督を譲ったという創作がもし事実だった場合、武田家は滅亡の瞬間、正統な跡継ぎによって継承され、先に逝っていた父・信玄以来の旧臣たちも、それを天から見守りつつ、ともに涙を流したことでしょう。

 

 そして、北条夫人は北条氏康の娘で、14歳で勝頼に嫁いできてこのときまだ19歳。

 

 北条夫人は実家へ逃げようと思えば可能だったはずですが、今でいえば未成年でありながら、嫁ぎ先に殉じました。

 

 勝頼ですら、まだ37歳でした。

 

 しかしこの戦の勝者である信忠や父の信長、それに勝頼を裏切った穴山梅雪も3ヶ月後には鬼籍に入るのですから人の運命は分からないものです。

 

 さて、景徳院は既述した通り武田家滅亡の後に建てられたお寺ですが、その後、2度の大火で焼失し、本堂は昭和52年(1977)の再建です。

 

景徳院本堂

写真4 景徳院本堂

 

 ただし、山門だけは火災に会わずに済み、天正16年(1588)に建てられたものが残っています。

 

景徳院山門

写真5 景徳院山門

 

 私がトイレに行って戻ってくると、粟村さんが景徳院のパンフレットをもらってきてくれていました。

 

 景徳院のパンフレットは100円しますが、所持金の危機に瀕していた私は、粟村さんにパンフレット代を出していただいてしまいました。

 

 景徳院の麓に流れる小川は、「首洗い池」と呼ばれ、勝頼らの首を洗った場所だと言われていますが、池という感じはしません。

 

首洗い池

写真6 首洗い池

 

 さて、時刻は16時。

 

 以上で本日の史跡めぐりは終了です。

 

 それでは、武州八王子を目指しましょう。

 

「八王子田田」で〆のラーメンを食す

 

 高速を使わずに2時間ほどかけて、八王子市内に帰ってきました。

 

 車中では、夜に食べるラーメンを何にしようか話します。

 

 夕飯に何を食べるか?という話ではなく、我々の間では、最初からラーメンを食べることが前提になっているのです。

 

 最近、西八王子に「田田(だだ)」という二郎系のラーメン屋がオープンしたので、そこへ行ってみようということになりましたが、店の前に行くとなんだか暗いです。

 

 え!日曜日はお休み!?

 

 そんなわけで、八王子の「田田」へ行くことにしました。

 

 途中、「荒井呉服店」の前で信号待ちになりました。

 

荒井呉服店

写真7 荒井呉服店

 

 ユーミンの実家ですね。

 

 私は今年、ベスト盤のCDを買って、ユーミンの音楽の面白さに目覚めました。

 

 さて、「八王子田田」に到着。

 

八王子田田

写真8 八王子田田

 

 ところがもう所持金が少ない!

 

 粟村さんに100円借りて、何とか食券を買うことができました。

 

 田田のラーメンは、ニンニクがたっぷり入り、しかも私は辛いタレのかかった白髪ネギもトッピングするので、食べた後、凄い臭いになります。

 

八王子田田のラーメン

写真9 八王子田田のラーメン

 

 なので、食べた後誰にも会わないことが分かっている日でないと食べることができないのです(ニンニクを入れないという選択もできますが、ニンニクなしではおそらく味が半減してしまうと思います)。

 

 しかも帰りに電車で帰る際は、なるべく人がいない車両に乗って帰り、実は翌朝になってもまだ臭うので、かなり美味しいのですが、リスクも高いラーメンです。

 

 でも、粟村さんも好きなので(そもそも初めて来た時は粟村さんに連れてきてもらった)、二人で非常に臭うラーメンを食べて帰りました。

 

 我が家の近くまで送ってもらい解散となりましたが、昨日・今日と粟村さんのお陰で非常に面白い史跡めぐりができました。

 

 

 行きたかった場所にも念願かなって行くことができましたし、また甲府のMさんが家に泊めてくれたので、それも助かりました。

 

 Mさんに関しては、昨日の昼と夜、そして今日の昼の3食をMさんのお薦めの店で食べたのですが、どれも安くて旨いという結果で、これまた感謝しています。

 

 粟村さん、また少し日が開くかもしれませんが、ぜひ第3弾もやりましょうね。

 

【参考資料】

  • 各寺院の現地説明板
  • 各寺院のパンフレット
  • 『古道 古甲州道 古富士道』 府川公広/著・丸岡啓之/監修
  • 『武田氏年表』 武田氏研究会/編 2010年

 

管理人は山梨県内では以下の歴史スポットも訪れています。

 

岩殿城 (大月市) ・・・ 甲斐郡内地方最強の城郭

躑躅ヶ崎館 (甲府市) ・・・ 武田信虎・信玄・勝頼三代の居城

要害城 (甲府市) ・・・ 信玄が生まれた躑躅ヶ崎館の詰城

甲府城 (甲府市) ・・・ 近世甲斐国の統治拠点

新府城 (韮崎市) ・・・ 戦うことなく自落した武田氏城郭の最高峰

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