◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

戦うことなく自落した武田氏城郭の最高峰・新府城

最終更新日:2015年5月16日

 

前回の記事はこちら

 

 要害城跡から元来た道を南下して武田神社(躑躅ヶ崎館跡)まで戻ってきました。

 

 ここで神社の前のお土産屋さん「かぶとや」でMさんへのお土産を買います。

 

 甲府に住んでいる人に甲府のお土産を渡すというのも何だか変ですが、逆に甲府に住んでいると地元のお土産なんか買わないと思うので良いと思います。

 

 あとは娘にも一品。

 

 そしてお酒コーナーを見ていると、大月の日本酒である「笹一」の武田二十四将ボトルを見つけてしまいました。

 

 笹一は以前、「たかお食堂」で知り合ったご近所さんにカラオケスナックに連れて行ったいただいたときに飲んだことがあり、とても美味しかったことと、また歴史物のボトルということで迷わず購入です。

 

 さて、そんなわけで、今度は韮崎市を目指します。

 

新府城諸元

 

概要

 

ふりがな しんぷじょう
別名  
住所 山梨県韮崎市中田町中条上野城山
史跡指定 国指定史跡(昭和48年<1973>指定) 史跡名称:新府城跡(しんぷじょうあと)
現況 史跡
規模/比高 東西約400m×南北約700m/東側:72m・西側:150m
目で見られる遺構 曲輪・空堀・土塁・枡形・丸馬出・三日月堀・出構
存続時期 天正9年(1581)12月24日〜天正10年(1582)3月3日(その後の天正壬午の乱では徳川勢が在陣)
城主・城代・関係者 普請奉行:真田昌幸 城主:武田勝頼
城攻めの記録 天正10年(1582)3月3日 織田軍の攻撃の前に自落

 

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第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2014年10月11日(土)
天候 晴れ
同道者 粟村さん
探訪ルート 【10月11日】 岩殿城跡 → 要害城跡 → 新府城跡
【10月12日】 甲府城跡 → 躑躅ヶ崎館跡 → 恵林寺 → 雲峰寺 → 景徳院

 

近世チックな雰囲気の城

 

 しばらく西へ向けて走って行き、韮崎の市街に近づくと、聳え立つ崖の壁面が向こうの方まで続いているのが前の方に見えました。

 

 あれが有名な七里岩ですね。

 

 『日本城郭大系』によると、七里岩は長野県との境である国界橋から韮崎までの釜無川左岸に約30kmも続く、高さ70m前後の急崖で、八ヶ岳火山の火砕流によって形成されたそうです。

 

 「七里岩ライン」(県道17号線)を走る車は、やがて崖の上に登ります。

 

 登った後、崖の上の平地をしばらく走り続けると、ようやく新府城跡が見えてきました。

 

 新府城跡の東側を走る「七里岩ライン」の右手にある駐車場に車をとめ、さっそく探索を開始します。

 

新府城跡

写真1 新府城跡

 

 道路に出て城跡を眺めると、北側に結構広めな水堀跡がめぐっていました。

 

新府城跡北側湿地帯

写真2 新府城跡北側湿地帯

 

 まさしく鉄砲戦に対応した広さで、広いところは50mくらいあり、これは近世城郭並の広さです。

 

 ただし、駐車場に立つ説明板によると、人工的な堀自体は郭の裾にある幅7mほどのもので、その外側は自然の湿地帯のようです。

 

 その湿地帯を見ていると、郭から湿地帯に向けて半島状に突き出した構造物があるのが目にとまりました。

 

新府城跡出構

写真3 新府城跡出構

 

 何だあれ?

 

 何か、古墳みたいだな。

 

 説明板によると、これは「出構(でがまえ)」と呼ばれる新府城にしかない珍しい遺構で、鉄砲陣地とも堀の水位を調節するためのダム的な施設とも言われていますが、実際のところは謎だそうです。

 

 「出構」は100mくらい向こう側にももう一つあって、上の写真にもチラッと写っています。

 

 さて、駐車場から新府城跡の登り口までは道路に歩道が無く、ビュンビュン走る車に轢かれないように注意しながら登り口に向かうと、結構高い石段が現れました。

 

新府城跡石段

写真4 新府城跡石段

 

 七里岩の上は平面なイメージがありましたが、ところどころに流れ山(丘)があって、新府城もそういった丘の一つにあり、標高は522mを測り、現在いる東側の比高差は72m、西側の裾釜無川河岸との比高差に至っては150mもあります。

 

 そのため石段も段数が多くて、途中2回ばかり休憩して、ようやく登りきるとそこには藤武神社の拝殿がありました。

 

藤武神社拝殿

写真5 藤武神社拝殿

 

 藤武神社は、勝頼が新府城を築城した際、本丸の東側から南側にめぐる腰曲輪に城内の鎮守として創建したのがはじまりです。

 

 そのためその腰曲輪は、「稲荷曲輪」と呼ばれるようになりました。

 

 現在の社殿は本丸にあり、腰曲輪から数段の石段を登るようになっています。

 

 本丸に登り、本殿を見てみます。

 

藤武神社本殿

写真6 藤武神社本殿

 

 本丸の北側には勝頼を祀る祠があります。

 

祠

写真7 祠

 

 その横には勝頼家臣の慰霊碑が並んでおり、名前を読んでいた粟村さんは、「これは全部長篠で死んだ家臣たちですね」と言いました。

 

 なるほど、さすが粟村さん。

 

 そう言われて一つずつ読み上げていくと、その通り、天正3年(1575)5月21日の「長篠の戦い」で討ち死にした家臣たちの慰霊碑でした。

 

 元亀4年(1573)4月12日に信玄が没して、勝頼が跡を継いでから2年後に起きたこの戦いで、勝頼は父以来の多くの家臣を失ったのです。

 

 本丸の周りは土塁で囲まれているのですが、土塁の上に登って北側を望むと、特徴的な形の高山が見えました。

 

八ヶ岳

写真8 八ヶ岳

 

 山には詳しくないので何の山か分かりませんでしたが、家に帰ってから調べてみると、八ヶ岳でした。

 

 確か中学の時に、八ヶ岳連峰の蓼科山(2531m)に登ったような気がします。

 

 ・・・ような気がします。

 

 記憶が怪しい。

 

 本丸は東西90m×南北120mで、面白いことに真ん中あたりには池跡のような窪地があります。

 

新府城跡本丸の池跡?

写真9 新府城跡本丸の池跡?

 

 さて、ではここで、現地の説明板の絵をお見せします。

 

新府城跡説明板

写真10 新府城跡説明板

 

 新府城はご覧の通り、西側を七里岩の絶壁で防御され、先ほども言った通り、その比高差は150m以上、そして東側は72mの比高差があり、北と南も東側と同様な比高差があるので、もの凄い要害の地にあります。

 

 『甲陽軍鑑』によれば、織田家の東進に備え、新たな拠点を築城する必要が生まれた時に、この地をすすめたのは信玄の娘婿の穴山信君です。

 

 新府城のすぐ北側は穴山という地名で、文字通り穴山氏の発祥の地ですが、穴山氏自体が南北朝時代までさかのぼると武田氏から分かれており、信君の父・信友も信玄の姉妹を嫁にしていて、穴山氏は戦国時代には武田氏の一族として家中で重要な地位を占め、他の一族が武田名字を名乗れなかったのにも関わらず、穴山家だけが武田名字を名乗れました(『武田信虎のすべて』所収「武田信虎の一族」)。

 

 ただし、新府城築城の頃には、すでに穴山氏は南部氏が去った後の河内地方(甲斐国南部の富士川沿い)を拠点としていました。

 

 さて、それでは城内をプラプラしながら、新府城の見どころの一つである、南側の「丸馬出」と「三日月堀」を見に行きましょう。

 

二の丸

写真11 二の丸

 

 右手に二の丸を見て、曲輪を降りて行くと、かなり広い曲輪に出ました。

 

 三の丸ですが、三の丸の真ん中には南北に土塁が走り、東西に区画を切っており、土塁の南側部分は、現在の通路部分が破壊されています。

 

土塁

写真12 土塁

 

 三の丸の南側には土塁で囲まれた枡形状の場所がありました。

 

 土塁に登って、上から枡形を眺めてみます。

 

土塁の上から枡形を見る

写真13 土塁の上から枡形を見る

 

 あの土塁の切れ目の向こうが、丸馬出ですね。

 

 行ってみましょう。

 

枡形

写真14 枡形

 

 馬出(うまだし)というのは、虎口(曲輪の出入口)の外側に土塁で一画を築き、出入口の防御力を高めた場所です。

 

 武田氏は馬出を囲む土塁を孤状にし、馬出を半円状にするのが特徴なのです。

 

 生れて初めて生で見る丸馬出、いいねえ。

 

 そして土塁に登って外側を見下ろすと・・・

 

 ありました!

 

 三日月堀です!

 

三日月堀

写真15 三日月堀

 

 写真だと全然分からないですが、三日月堀は今でも水を湛えていました。

 

 いやー、丸馬出と三日月堀、素晴らしい・・・

 

 それまで躑躅ヶ崎館を拠点にしていた勝頼は、迫りくる織田家の脅威に対抗するため、天正8年(1580)に新たな拠点城郭、つまり戦国大名武田氏の領国の首都を建築するための評定を開催しました。

 

 その結果、真田昌幸が普請奉行に任命され、翌天正9年2月15日から新府城の築城が始まったのです。

 

 「禰津晴雄家文書」の天正9年3月6日に勝頼が原隼人佑に充てた手紙によると、築城は昼夜兼行の突貫工事で進められたことが分かり、その中で勝頼は隼人佑に対して「きついと思うが非常事態なので何とか頼む」という意味のことを伝えています。

 

 そして9月にはほぼ完成し(『武州文書』)、12月24日に勝頼は新府城に入りました(『甲陽軍鑑』)。

 

 新しい甲斐国の府中(国の中心地)ということで、「新府」なわけですが、躑躅ヶ崎館も移転当時は「新府」と呼ばれていました。

 

 ここからも富士山が望めます。

 

富士山

写真16 富士山

 

 「勝頼もあの富士山を見てたんですねえ」

 

 そう言いながら、我々は感慨に耽ります。

 

 でも勝頼がこの城で過ごした時間はとても短かったのです。

 

 勝頼入城の翌天正10年(1582)の正月早々、木曾谷の木曾義昌が織田家に寝返りました。

 

 義昌は信玄の娘婿であるので、勝頼とは義理の兄弟となります。

 

 対織田戦線の最前線を守っていた親族の寝返りに驚愕した勝頼は、2月2日に嫡男・信勝や従兄弟の信豊らを率いて、信濃の上原城(長野県茅野市)に出張りました。

 

 一方、信長は3日に武田家討伐の陣触れを出し、11日には嫡子・信忠が岐阜を出陣します。

 

 すると勝頼をさらに驚かす事件が起きました。

 

 河内地方を守っていた一番の大身である穴山信君が謀反したという知らせが2月28日に届いたのです。

 

 勝頼は急ぎ、新府城へ戻ります。

 

 信君は侵攻してきた徳川軍に江尻城(静岡県静岡市清水区)を明け渡し(徳川勢の入城は5日)、3月2日には勝頼の弟・仁科盛信が高遠城で城とともに命を失いました。

 

 盛信は武田家滅亡の危機に際して、一族でただ一人気を吐いた男でした。

 

 新府城へ戻っていた勝頼は、危機的な戦況を受けて緊急評定を開きます。

 

 今後、どうするべきか。

 

 新府城築城の総責任者であった真田昌幸は、上野国(群馬県)にある自身の吾妻城に退くことを進言し、また一方で、寝返った信君と同様に家中で大きな力を持っている小山田信茂は、自らの領内にある岩殿城に籠ることを進言しました。

 

 その結果、勝頼は岩殿城へ向かうことを選択し、3日早朝に新府城に火を放つと、東へ向かいました。

 

 実質、新府城は3ヶ月も使われず、「自落」という形で落城したわけです。

 

 ではここで、さらに時計の針を少し巻き戻して、勝頼が新府城を失うまでの経緯を『武田氏年表』を元に、簡単にまとめてみたいと思います。

 

 新府城築城から遡ること4年、天正5年(1577)には、北条氏政の妹(桂林院殿)が勝頼の元に嫁ぎ、以前から続く北条氏との関係はさらに親密になりましたが、翌天正6年3月13日、越後の龍・上杉謙信が病死し、関東甲信越の政治情勢は急展開を見せることになります。

 

 謙信は後継者を決めずに死んだので、養子である景虎と景勝との間で上杉氏当主の座をめぐって内訌状態が惹起されました(「御館の乱」)。

 

 景勝は謙信の遺言と称し、春日山城本城に入城しますが、勝頼の妻の実家であり、同盟国でもある北条氏は、当然ながら自分の家から養子に行った景虎を支援し、また前関東管領の上杉憲政も景虎を支援、血筋の上からしても景虎が継ぐのが一番素直な状況において、景勝も引きません。

 

 勝頼は両者の対立を何とか収めようと、まず景勝と和睦した後、6月29日には越府(上越市)まで自ら出張りました。

 

 勝頼の仲介によって、8月20日には景勝と景虎が和睦しましたが、勝頼の留守を狙って駿河方面で徳川家康が蠢動したので勝頼は急いで帰国します。

 

 すると、景勝と景虎の対立が再開します。

 

 この頃、氏政は景虎支援のため上野と越後の国境に兵を出していましたが、氏政からすると勝頼が南へ向かってしまったので、「なぜ協力しないんだ?」ということになり、氏政は勝頼に対して不信感を募らせます。

 

 ただ、翌天正7年(1579)の年始には、勝頼と氏直(氏政嫡男)は互いに年賀を贈答しているので、決定的な決裂にはなっていませんでしたが、3月17日、ついに景勝が景虎の居る御館を攻略して24日に景虎が自害すると、武田と北条の関係は破綻します。

 

 8月になって、旧景虎派で、景虎滅亡後は北条氏に従っていた北条(きたじょう)高広が武田氏に服属し、9月には武田と北条との全面対決が始まります。

 

 北条氏はすぐに徳川家康と同盟を結び、それにより、「武田+上杉 vs 北条+徳川」という構図になりましたが、そうなると、西にいる最大勢力である織田氏の動向が気になるところです。

 

 家康は信長とは同盟を結んでいるので、そうすると当然ながら、勝頼も信長を警戒しないといけませんが、信長は基本的に中国地方の毛利氏への対策に力を入れており、またちょうど、当時は荒木村重が謀反をしていたり、相変わらず本願寺という強敵も抱えており、東には力を割けませんでした。

 

 勝頼は北条氏の背後を脅かすために、常陸(茨城県)の佐竹氏に使者を送り、両者は同盟を結びます。

 

 一般的なイメージでは勝頼は長篠の戦いで負けてから、どんどん滅亡に進んで行ったように思われていますが、この頃までは、積極的に兵を動かしたり、上述のような外交政策を展開したり、また武田家に服属してくる敵国の武将も結構いて、表面的には全然弱まった感じがしません。

 

 北条氏政も上野地方で武田にやられっぱなしだったので、「このままでは滅亡してしまうかもしれない」と真剣に心配しています。

 

 ただ、この後の状況をみると、かなり家中に無理が掛かっていたようで、また以前から言われている通り、家臣や一族のなかでも不協和音が響いていたようです。

 

 信長も荒木村重を片づけ、また勝頼と同盟を結んでいる本願寺との和平が進むと、徐々に武田氏討伐の準備を進めて行きます。

 

 その信長に対し、勝頼も同盟を結ぶために動きますが、へりくだって従属する態度を示した氏政と違って、あくまでも対等な関係を求めた勝頼に対し、信長は冷やかな態度を示します。

 

 4月には、信長をさんざん手こずらせていた本願寺がついに折れて、石山から退去、信長はいよいよ武田氏を滅亡させるべく動き出します。

 

 翌天正8年(1580)は、信長が直接武田氏に対して攻撃的なアクションを起こした形跡はありませんが、その間、信長は着々と勝頼滅亡に向けて計画を進めていたのです。

 

 そして、既述した通り、翌天正9年2月15日、真田昌幸を普請奉行とし、新府城の築城が始まったわけです。

 

 さて、七里岩ラインまで降りてきた我々は、来たときから気になっていた、道路を挟んで東側の窪地を見てみました。

 

 ここは「首洗い池」と呼ばれる窪地で、現在も水の流れがあります。

 

首洗い池

写真17 首洗い池

 

 南の方まで湿地は続いています。

 

湿地帯

写真18 湿地帯

 

 そして窪地の東側の山の裾には鳥居があります。

 

謎の鳥居

写真19 謎の鳥居

 

 しかし、上に行ってみても社殿はありませんでした。

 

 「この鳥居、何でしょうね?」と、我々は首をかしげます。

 

 そして、窪地に沿って走る細い道が、当時の街道でしょう。

 

戦国期の信州道

写真20 戦国期の信州道

 

 当時の街道はこのくらいの道幅でした。

 

 首洗い池を上から眺めます。

 

首洗い池を上から眺める

写真21 首洗い池を上から眺める

 

 街道は北にある駐車場の方に向かっており、その北側で現在の七里岩ラインに合流しています。

 

北へ延びる旧道

写真22 北へ延びる旧道

 

 自宅に帰ってきてから調べてみると、『武田勝頼のすべて』所収「武田勝頼と新府城」に、当時の甲州道は西側の崖の下を走っていたとあり、また、上記の道は原路と呼ばれる脇往還であることがわかりました。

 

 しかし不思議なのは、さきほどの鳥居がある山です。

 

 その山もいわゆる「流れ山」なのですが、もし攻め手が陣取ったら、新府城側からすると厄介なことになりそうです。

 

 その山も城域として取り込んでいたかどうかは、今のところ分かりません。

 

 粟村さんは昨年一緒に行った箱根峠近くの山中城を引き合いに出して、街道を挟み込む形で城郭を築いた可能性を示唆しました。

 

 この点については今度も留意します。

 

城めぐりのあとのビールは最高!

 

 さて、時刻は15時25分、約1時間の新府城跡探訪でした。

 

 それでは、Mさんの自宅のある甲府市内に戻りましょう。

 

 途中、やはり富士山が見えます。

 

富士山

写真23 富士山

 

 粟村さんは昔、中井貴一の「武田信玄」を見ていて、その時の信玄のセリフで、駿河側から見る富士山は尻丸出しで、甲斐から見る富士山の方が美しい、みたいなのがあったということで、印象に残っているそうです。

 

 なるほどそう言われると、駿河から見る富士山は裾野まで全部見れますが、こちらから見ると、前に低い山を従えて、裾野を隠しています。

 

 富士山が褌(ふんどし)をしていると考えると、こちらから見る富士山は「下」を隠しており、反対側の富士山はお尻を丸出しにしているということですね。

 

 いや、私はどちらから見る富士山も好きですよ!

 

 富士山は多摩地域からも見れますが、どういうわけか仕事で車を運転しているときも綺麗な富士山が見れると嬉しくなります。

 

 それは私だけじゃなくて、同僚のみんなもそうみたいです。

 

 さて、車は16時にMさんの自宅に到着。

 

 玄関のチャイムを鳴らすと、下半身裸のMさんが出てきました。

 

 あ、間違いました。

 

 上半身裸でした。

 

 私は5ヶ月ぶりに会いますが、粟村さんは少し前にも来ています。

 

 Mさんは平屋の一軒家に独りで住んでいます。

 

 「男の独り暮らし」というと、家の中が乱雑になっているイメージがあると思いますが、さすが掃除のプロだけあって、家の中は綺麗に掃除されていました。

 

 Mさんの家で少し休んだ後は、夕飯を食べに近所の「奥藤本店」に移動です。

 

 あ!

 

 カメラを忘れてしまいました・・・

 

 人気店ということで少し待たされましたが、席に通されると、まずはビールで乾杯。

 

 いつもながら、城めぐりの後のビールは旨い!!

 

 初めて食べた鳥もつ煮の丼も、めちゃくちゃ旨いです。

 

 甘辛いタレも最高で、レバーとかが好きな人であれば、これは絶対気に入ると思います。

 

 そして私のリクエストで馬刺しも頼み、甲府でのディナーを楽しみます。

 

 お腹一杯になったあと、コンビニで酒やつまみを買ってMさんの家に戻り、昼に買った「笹一」も開けたりして、結局就寝したのは2時です。

 

 Mさんは新天地山梨で色々と苦労しているようで、それに比べたら私なんかは随分、上司や同僚にも、またお客様にも恵まれているなあと思いました。

 

 というわけで、山梨の歴史めぐりの1日目も無事終わったのでした。

 

 

2日目の探訪記録はこちら

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『日本城郭大系8 長野・山梨』 磯貝正義ほか/著 1980年
  • 『新府城と武田勝頼』 山梨県韮崎市教育委員会/編 網野善彦/監修 2001年
  • 『武田勝頼のすべて』 柴辻俊六・平山優/編 2007年
  • 『武田氏年表』 武田氏研究会/編 2010年

 

第2回 探訪記録

 

現在構築中です!

 

探訪年月日 2016年2月20日(土)
天候
同道者 生源寺さん・西股総生先生・いなもとかおりさん・シロキチツアー参加の皆さん
探訪ルート 願成寺および武田信義墓 → 武田八幡神社 → 為朝神社 → 白山城 → 能見城 → 御名方神社堀 → 西城 → 新府城

 

 新府城の外郭かと言われている遺構群を見た後は、新府城に移動します。

 

 七里岩ラインを南下して行くと、新府城の森が見えてきましたよ。

 

新府城遠景

写真1 新府城遠景

 

 12時半に新府城の駐車場に到着、シロキチさんの車がありますが、まだ他に1台しか止まっていません。

 

 雨は相変わらず普通に降っていますが、しばらく車の中で待機していると、知らない間に車がたくさん集まっていました。

 

 13時に近くなったので車を出ます。

 

 こんな雨の中、20名以上も集まっており、皆さんお城が好きですねえ。

 

 見ると傘派の人と合羽派の人がいて、ハイブリッドの人もチラホラいますが、私と生源寺さんは合羽で装甲します。

 

 デジイチはこの雨で濡れて壊れたら嫌なので、コンデジを持って行きますよ。

 

 前回のツアーで知り合った、かもめさんもいらしていましたが、前回お話しした方はそれほどいらしていないです。

 

 西股先生にご挨拶して、「歴史群像読みましたよ。新府城は”館”だったんですね!」と言うと、西股さんは笑いながら「おっと、ネタバレはしないようにお願いします」と言ったので、私は西股さんが今日の話しをどういうふうに持って行くか一瞬で閃きました。

 

 ですので、「分かりました。黙ってます」と言って、皆さんと開始を待ちました。 

 

 さて、13時になりツアー開始。

 

 西股先生に率いられて最初に向かったのは城の北側です。

 

 東出構(ひがしでがまえ)を見ながら城の北西方向を目指します。

 

東出構の前を通過

写真2 東出構の前を通過

 

 前回来た時はこっち方面は歩いていないので何があるか楽しみです。

 

雨に打たれながら歩く城マニアたち

写真3 雨に打たれながら歩く城マニアたち

 

 さてここで、いきなり「出構」とか言われてもイメージが湧かない人もおられると思いますので、現地説明板の図を示します。

 

新府城跡説明板

写真4 新府城想定復元図

 

 図の上の方の水堀に対して半島状のものが2本飛び出ているのが分かると思いますが、それが出構で、2つあります。

 

 遠くの山が雨で煙っている感じもなかなか良いかもしれません。

 

雨で煙る

写真5 雨で煙る

 

 今度は西の出構が見えます。

 

西の出構

写真6 西の出構

 

 こちらは先ほどの東の出構よりも小振りです。

 

 水堀と説明板。

 

水堀と説明板

写真7 水堀と説明板

 

 北側の水堀を西から見ます。

 

北側の水堀を西から見る

写真8 北側の水堀を西から見る

 

 実際はこれ全部が堀というわけではなく、堀として構築されたのは幅6〜7mほどで、あとは自然の湿地帯です。

 

 城域の北西の隅にやってきました。

 

 こちらには枡形虎口があり、水堀で守られています。

 

人工的な堀

写真9 人工的な堀

 

 虎口の西側は七里岩の比高70mもの断崖になっていて麓を見下ろすとかなり高いですね。

 

比高70mの崖

写真10 比高70mの崖

 

 こちらの虎口は現在、補修&復元の最中で新しい土で盛られている箇所があります。

 

復元中の枡形虎口

写真11 復元中の枡形虎口

 

 ここで西股先生からの解説が始まりました。

 

 この虎口内の土塁は高さが3段階になっていますね。

 

段差のある土塁

写真12 段差のある土塁

 

写真13 この罠に注意!

 

写真14 この罠に注意!

 

写真15 この罠に注意!

 

写真16 この罠に注意!

 

写真 この罠に注意!

 

写真 この罠に注意!

 

写真 この罠に注意!

 

写真 この罠に注意!

 

写真 この罠に注意!

 















写真 この罠に注意!

 

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『【新装版】戦国武田の城』 中田正光/著 2010年

 

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西城

新府城

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甲斐国内の信濃国境に近い釜無川右岸にある白山城はいつ築城されたのか分からない城です。
地理的には戦国期には武川衆のテリトリーであったことから対諏訪家の戦略上必要で武川衆が守った城と考えることもできますが果たして・・・
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