◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

短い時間で典型的な武田の山城が楽しめる手ごろな規模の白山城

最終更新日:2016年2月21日

 

 白山城に登ろうとして道を間違え、麓まで戻りました。

 

 でも、麓にお住まいの方から登山道を聴くことができたし、今度は大丈夫でしょう。

 

 多分・・・

 

白山城諸元

 

ふりがな はくさんじょう
別名 鍋山砦
住所 山梨県韮崎市神山町鍋山字城山

史跡指定 国指定史跡
指定日:平成13年(2001)1月29日
史跡名称:白山城跡(はくさんじょうあと)
現況 山林(冬場は非常に見学しやすいがクマに注意)
規模/比高 東西約100m×南北約150m/約200m
目で見られる遺構 曲輪・空堀・土塁・枡形・竪堀
存続時期 不明
城主・城代・関係者 青木信種か
城攻めの記録 なし

 

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第1回 探訪記録

 

探訪年月日 2016年2月20日(土)
天候 曇りのち雨
同道者 生源寺さん・シロキチさん・A井さん
探訪ルート 願成寺および武田信義墓 → 武田八幡神社 → 為朝神社 → 白山城 → 能見城 → 御名方神社堀 → 西城 → 新府城

 

やっぱり実際に現地で見るお城の面白さは計り知れない

 

 さっきのおじちゃんに教えてもらった方向に行くとこちらにもバリケードがありました。

 

 どうやらこの辺りにはバリケードの入口が沢山あるようなので、我々は最初に間違った場所からバリケード内に入ってしまったようですね。

 

 バリケード内に入ると、すぐに白山城を指し示す掲示がありました。

 

白山城を指し示す掲示

写真1 白山城を指し示す掲示

 

 こういう風に掲示していただけると探訪する側は非常に助かりますね。

 

 お、良い感じの道。

 

良い感じの道

写真2 良い感じの道

 

 まだまだみたいですね。

 

まだまだ登る

写真3 まだまだ登る

 

 これは遺構ではないです。

 

遺構はまだ登場しない

写真4 遺構はまだ登場しない

 

 木々の間から麓の景色がチラッと見えます。

 

麓チラリズム

写真5 麓チラリズム

 

 田んぼが良い感じですね!

 

素敵な田んぼ

写真6 素敵な田んぼ

 

 登り始めて10分、意外と早く遺構らしきものが前面に出現しました。

 

遺構出現!

写真7 遺構出現!

 

 持参した中田先生の縄張図を見ると、間違いなく城の北側を区切る横堀の下に来ていることが分かりました。

 

 本当はここで中田先生の縄張図をお見せできればいいのですが、「恥ずかしいからやめてくれよー」と言われてしまうので、とりあえず掲示は後日説得してからにするとして、まずはいつものごとく「余湖くんのホームページ」から余湖図を引用させていただきます。

 

図1 余湖図

 

 余湖さんは出典を明記すれば余湖図を自由に使っていいと仰っていますので、我々のようなWebで探訪記録を公開する者にとっては非常にありがたい存在です。

 

 我々は北側から登ってきたので、余湖図に見える北の横堀(斜面はそのまま竪堀となって落ちている)の前までやってきました。

 

 さっそく堀底に降りてみます。

 

馬出し北側の横堀

写真8 馬出し北側の横堀

 

 うーん、本日のファースト空堀。

 

 この堀は余湖図で「3」と書いてある馬出しを囲っているのですが、面白いのは図でもわかる通り西側部分の南側が行き止まりになっている点です。

 

空堀の行き止まりを見る

写真9 空堀の行き止まりを見る

 

 もし北側から敵が攻めてきて、竪堀を伝ったりして堀底に進入して来た場合、この先で立ち往生してしまい、「やべっ」と言っている間に頭上から石を投げつけられたり槍で突かれたりして殺戮されてしまいます。

 

 いいねえ。

 

 馬出しから行き止まり空堀方向を見ます。

 

馬出しから行き止まり空堀方向を見る

写真10 馬出しから行き止まり空堀方向を見る

 

 馬出しは北東の隅に虎口があり、枡形になっています。

 

馬出しの虎口を内側から見る

写真11 馬出しの虎口を内側から見る

 

 城域の東側は南北に細い帯郭がめぐっており、この東側には竪堀が一定間隔をおいて掘られていますが、東側の竪堀に関しては現在は上から見てもほとんど分かりづらくなっています。

 

写真12 城域東側の帯郭

 

 馬出しの中から主郭方面を眺めるとやや高低差があるのが分かりますね。

 

馬出しの中から主郭方面を眺める

写真13 馬出しの中から主郭方面を眺める

 

 でも実際は馬出しと主郭の間にはL字型の曲輪(余湖図の「2」)が存在して、見えているのは2曲輪なのです。

 

 2曲輪に通じる坂虎口を外側から見ます。

 

余湖図の「2」曲輪の小口を馬出し側から見る

写真14 余湖図の「2」曲輪の虎口を馬出し側から見る

 

 これは平凡な坂虎口ですので防御力は低いですが、防衛側が2曲輪と馬出しとを連絡する場合はスムーズにできますね。

 

 主郭と2曲輪の間の空堀を見ます。

 

主郭と2曲輪の間の空堀

写真15 主郭と2曲輪の間の空堀

 

 同じく反対側。

 

主郭と2曲輪の間の空堀

写真16 主郭と2曲輪の間の空堀

 

 ここでシロキチさんが面白いものを発見しました。

 

 2曲輪の馬出し側虎口に石積みの形跡らしきものを見つけたのです。

 

石積みの形跡か

写真17 石積みの形跡か

 

 なるほど、このあたりはやたら石が落ちていますね。

 

2曲輪の馬出し側虎口を外側から見る

写真18 2曲輪の馬出し側虎口を外側から見る

 

 以前訪れた甲府市内の要害城もそうですが、土塁の基部に石積みをすることがあるので、これはその形跡じゃないでしょうか。

 

 シロキチさん、よく気付きましたね。

 

 地面を掘らなくても良く見て歩けば地表面でも面白い発見があるものです。

 

 L字型の2曲輪を南へ向かって歩きます。

 

2曲輪を南へ向かって歩く

写真19 2曲輪を南へ向かって歩く

 

 主郭の東南側に開口している虎口の前に来ました。

 

主郭東南側虎口を外側から見る

写真20 主郭東南側虎口を外側から見る

 

 ここもきちんと枡形虎口になっていますよ!

 

 では主郭へ入りましょう。

 

主郭

写真21 主郭

 

 主郭の広さは大体30〜35m四方で標高は567mですので、麓の武田八幡神社との比高差は200mくらいあります。

 

 おや、主郭に誰かいますね。

 

 実は武田八幡神社でシロキチさんたちを待っているときに、複数の人影が山の方に入っていくのを望見できたのですが、どうやらその方たちのようです。

 

 今日の午後はシロキチツアーで新府城に行く予定ですが、事前にいなもとさんから、午前中に白山城に行く人がいるらしいので現地で会うかもしれませんよと教えられており、話しかけてみると、やはり午後から新府城に参加する方々でした。

 

 いやー、お互い良い城に目を付けましたね。

 

 本丸にある略図。

 

武田館要害城(白山城)跡略図

写真22 武田館要害城(白山城)跡略図

 

 この図に書かれている「殿小路」は、その名前からして麓の居館から山城へ登る道だと思いますが、では麓には誰が住んでいたのでしょうか。

 

 地元の伝承としては、武田氏の祖である信義の館に対する詰の城とされており、信義の館は山の麓から北東方向に直線距離で1.5kmの場所にあります。

 

 ただ、信義が生きたのは平安末期から鎌倉時代初期であって、当時は居館の裏山に詰の城を築くことはありません。

 

 平安末期に関東も内乱状態になったのは確かですが、当時は山城を築くことはありえず、普通に考えたらやはり戦国時代に初めて築かれた城と考えてよいでしょう。

 

 事実、現在見ることのできる遺構は明らかに戦国期のものです。

 

 それでは城主は誰だったかというと、説明板によれば信義のあとは武田一門の一条氏、そしてさらにその支族である武川衆の青木氏・山寺氏などの名前が伝わっているようです。

 

 青木氏は、韮崎市清哲町青木に居館があり自身の詰めの城を築くにはやや遠いので(直線距離で約3km)、青木氏が城主だったとしても自身の居館の詰めの城ではなく、武田家の戦略の一環として白山城が築かれ、その守備が青木氏に任されたと考えるのが素直でしょう。

 

 その線で行くと、『寛政重修諸家譜』に青木信種が「鍋山砦」を守ったと記されており、鍋山砦は地名からして白山城のことを指すと思われることから、この信種の在世中に白山城が武田家の戦略上必要になったことがあったと考え、それを考察してみます。

 

 信種は天文10年(1541)10月20日に死去したとあるので、それ以前にこの周辺が緊張状態にあったかどうかを調べると、享禄4年(1531)1月21日に、武田信虎の重臣飯富兵部少輔虎昌が、国衆の栗原兵庫や今井信元らを誘って主家に反し、それに信濃の諏訪頼重が同調し、4月12日(または3月12日)には白山城の目と鼻の先である塩川の河原辺で大規模な合戦が行われています。

 

 諏訪から甲斐に侵攻するには、釜無川左岸の幹線ルートを使うと思いますが、当然右岸を伝って侵攻することも考えられ、そうすると釜無川右岸に勢力を張る武川衆(ただし、武川衆の呼称が史料で確認できるのは永禄10年<1567>以降)がその防衛を任されることになります。

 

 すなわち、武川衆の筆頭である青木信種が白山城を守備した記録が残っていることから考えると、白山城の築城は信虎と諏訪頼重が敵対関係にあった時期だと考えることができます。

 

 ただ、もっと後の新府城に関連する城であると考える研究者もおり、もちろん最初の築城は対諏訪戦線が理由だとしても、その後も必要であれば使われるはずで、また武田が滅んだ後も使われた可能性もあります。

 

 この辺は私もまだ深く考察していないので、今後も調査を続けて行きたいと思います。

 

 なお、青木氏とともに名前が挙がっている山寺氏は青木信種のニ男信明が甲斐国巨摩郡山寺を領したことで山寺を称したのが始まりなので、地理的にも白山城とは関係が無いと考えられます。

 

 主郭は周りを土塁に囲まれているので、もちろん土塁に登りますよ。

 

 土塁の上から塁線を見るのも好きです。

 

写真23 土塁の上から塁線を見る

 

 我々が主郭に着いた頃には、先ほどの一行はすでに一通り見学が済んでいたようで、次の城へ寄ってから13時に新府城に合流すると言うと下山して行きました。

 

下山する同士たち

写真24 下山する同士たち

 

 ちなみに上の方々が降りて行く方向は今は通れるようになっているようですが、その左側に見れる土塁の切れ目が主郭のもう一つの虎口で、北側から登ってきた場合はそちらが主郭の出入口となります。

 

 土塁から眺める郭内もいいですね。

 

土塁から郭内を眺める

写真25 土塁から郭内を眺める

 

 それでは次に、主郭の南側にあるもう一つ曲輪に降りてみます(余湖図の「4」曲輪)。

 

4曲輪

写真26 4曲輪

 

 写真奥がやや高くなっていますが、一段高いところに小さな平場が設けてあります。

 

 実はここ現地に来てから気付いたのですが、ここから南西側の尾根伝いには南狼煙台があり、そちら方面から尾根伝いに白山城へ入ってくることができます。

 

 中田先生の縄張図を見るとそちらの尾根筋にも堀切があるようですが、おそらく上の一段高い平場には櫓が設置してあって、そうすると尾根伝いに一列縦隊で侵攻してくる敵に対して正面から一人ずつ射殺すことができます。

 

 尾根方面は今日は時間の都合で行きません。

 

 4曲輪の虎口を内側から見ます。

 

4曲輪の虎口を内側から見る

写真27 4曲輪の虎口を内側から見る

 

 早く南側の城域境界を見たい!

 

 少し降りてさきほどの4曲輪を振り返ります。

 

4曲輪を振り返る

写真28 4曲輪を振り返る

 

 写真でも何となく分かるかもしれませんが、道はつづら折りになっています。

 

つづら折り

写真29 つづら折り

 

 こちらは白山神社方面から登ってくる大手道で、さきほど言った「殿小路」につながる道なので、いわば城の正門方面です。

 

 でもここはまだ城域ですよ。

 

 そしてこのつづら折りの両側は竪堀でしっかりとガードされているのがまた素敵。

 

 お、城域の境界となる最南端の虎口が見えました。

 

最南端の虎口を見下す

写真30 最南端の虎口を見下す

 

 虎口を出て、城外から虎口を眺めます。

 

城外から虎口を眺める

写真31 城外から虎口を眺める

 

 私は「境界マニア」なので、こういった場所は大好きなのです。

 

 中田先生の縄張図でもこの虎口の外側にはなんとなく空堀っぽい表現があります。

 

おそらく空堀跡

写真32 おそらく空堀跡

 

 私もここには往時は空堀があったのではないかと思います。

 

 他の城でも空堀が埋まった後が帯郭のようになっているケースがよく見受けられるので、多分ここもそうでしょう。

 

 皆さんもようやく「境界」に降りてきました。

 

 さてここで時刻は11時。

 

 シロキチさんとA井さんは午後の準備のために早めに新府城へ行きたいということなので、白山城はここまでとして下山することにします。

 

 おっと、ここでついに降雨。

 

 しかもいきなりやや強めです。

 

 でも見学の間に降らなくてラッキーでしたね。

 

 下山途中、A井さんが「少し登っただけだと思ったけど意外と高いんだね」と呟きましたが、私も山城に登るとよく同じ感慨を抱きます。

 

雨に煙る麓の風景

写真33 雨に煙る麓の風景

 

 さて、スタート地点に戻ってきました。

 

 そもそもこの柵の中に入ってしまったのが間違いのもとだったのです。

 

この罠に注意!

写真34 この罠に注意!

 

 武田八幡神社から為朝神社へはこの柵の左側の細い隙間を通って行けたのです。

 

 このあたりはちょっと境内の案内表示が不親切かなと思いますが、楽しい城を見ることができたので結果オーライで遺恨は残しません。

 

 では、私と生源寺さんは新府城に行く前に、新府城北側にある外郭ラインを見に行くことにしましょう。

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『【新装版】戦国武田の城』 中田正光/著 2010年

 

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