◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

甲斐郡内地方最強の城郭・岩殿城

最終更新日:2015年5月16日

 

 お掃除の会社の先輩である粟村さんとは、昨年(2013年)11月23日に、「後北条氏勃興と終焉の城めぐり」と題して、静岡県内の山中城跡興国寺城跡韮山城跡をめぐってきました。

 

 そのあと第二弾をやろうと話していましたが、なかなか都合がつかなかったところ、今年の5月に、これまた先輩のMさんが甲府市内のお掃除の会社に転職したので、Mさんに久し振りに会いに行くのを兼ねて、一泊二日で山梨県内の史跡めぐりをすることにしました。

 

 Mさんは特段歴史に興味があるわけではないので、メンバーは私と粟村さんの二人で、夕方にMさん宅に到着すればよく、初日は大月市の岩殿城跡と甲府市の要害城跡、それに韮崎市の新府城跡をチョイスしました。

 

 

探訪データ
探訪年月日 2014年10月11日(土)
天候 晴れ
同道者 粟村さん
探訪ルート 【10月11日】 岩殿城跡 → 要害城跡 → 新府城跡
【10月12日】 甲府城跡 → 躑躅ヶ崎館跡 → 恵林寺 → 雲峰寺 → 景徳院

 

岩殿城跡概要
ふりがな いわどのじょう
別名  
住所 山梨県大月市賑岡町岩殿(にぎおかまちいわどの)

史跡指定 大月市指定史跡
現況 岩殿山 丸山公園
規模/比高 約1km四方/約280m
目で見られる遺構 曲輪・堀切
存続時期 戦国時代
城主・城代・関係者 城主:小山田信茂
城攻めの記録 落城伝説あり
関連施設 岩殿山ふれあいの館(城跡内に所在)
http://www.city.otsuki.yamanashi.jp/kanko/iwadonosan_fureainoyakata.html

 

念願の岩殿山登山を体験

 

 電車に乗って山梨に行くたびに、大月駅付近の北側にそびえ立つ岩殿城跡を見上げて、「いつかは登ってみたいなあ・・・」と思っていました。

 

 なので今日はせっかく甲府方面へ行くので、その途中にある岩殿城跡の頂上まで行ってみたいと思います。

 

 朝7時に高尾駅で粟村さんの車に拾ってもらって、高速を使わずに国道20号線(甲州街道)で大月を目指します。

 

 高尾山口駅の横を通り、圏央道の下をくぐって行くと、徐々に勾配が増して道路はいよいよ山道へ。

 

 そして貴布祢社のあたりからニョロニョロ道になってきて、高尾山の南麓の案内川沿いをさかのぼって行き、標高392メートルの大垂水峠(おおたるみとうげ)を越えると、神奈川県相模原市緑区に入ります。

 

 武蔵国から相模国に入ったわけです。

 

 ニョロニョロ道はさらに続き、ようやくそれが収まると、江戸時代の宿場町である小原宿があり、そこに現存する本陣を右に見て、相模湖駅の南口を通過、私は以前このあたりで土地家屋調査士の先生の元で働いたことがあるので、久しぶりに相模湖を見ると懐かしい気分になります。

 

 現在の相模原市緑区は、戦国時代は「奥三保」と呼ばれた地域で、北条氏と武田氏の勢力が入り乱れていた地域で、代表的な城郭としては、旧津久井町にあった津久井城が有名です。

 

 奥三保をしばらく走ると、今度は山梨県上野原市に入ります。

 

 いよいよ甲斐国に侵入です。

 

 しかし、甲斐国と一言で言っても、上野原市やこれから向かう大月市などの地域は、中世の頃は「郡内」と呼ばれ、甲府市を中心とした「国中(くになか)」とはまた文化的・歴史的にも違う地域なのです。

 

 郡内を中世の頃に治めていたのは小山田氏です。

 

 東京都町田市民の方は、「町田市にある小山田と何か関係があるのかな?」と疑問に思うかもしれませんが、まさしく町田市小山田が「名字の地」、つまり発祥の地なのです。

 

 埼玉県秩父地方に発祥した秩父平氏は、平安時代の終わり頃、荒川を下って現在の東京都内に進出してきましたが、その一環で現在の町田市小山田にも住みつきました。

 

 初代は有重といい、馬を担いで急崖を下り降りた伝説を持つ源頼朝の忠臣・畠山重忠の叔父にあたります。

 

 その後、いつの時期にどういう経緯で小山田氏が郡内に入部したのかは、未だ定説がありませんが、南北朝が合一した頃(14世紀末頃)には、郡内を治める大きな勢力となっていました。

 

 ただし、南北朝時代から勃興して戦国時代至る小山田氏が、秩父平氏に出自をもつ小山田有重の直接の子孫であったかどうかは不明瞭であり、『中世武士選書19 郡内小山田氏』 では、秩父平氏に出自を持つ小山田氏は南北朝時代に南朝に付き没落し、それに代わって藤原姓の小山田氏が北朝側として力を付け、平姓の小山田氏に取って代わったという仮説が述べられています。

 

 その小山田氏は、16世紀の初め頃までは武田氏と対等に渡り合っていましたが、永正7年(1510)の春に両者は和睦し、武田信虎の姉妹が小山田越中守信有に嫁ぎました。

 

 なお、「信有」という諱(いみな。本名のこと)の人物は3代続いており、越中守・出羽守・弥三郎というように親子で小山田氏を継承し、弥三郎の弟が最後の当主・信茂です。

 

 武田氏も小山田氏も最初は甲斐国内の豪族の一つに過ぎませんでしたが、武田氏は戦国大名として飛躍したのに対し、小山田氏は「国衆」という存在に留まりました。

 

 国衆というのは、以前は国人(こくじん)とも呼ばれていた存在で、とくに戦国大名同士の係争地域(国境付近)に存在し、戦国大名の勢力下にあって家臣ではあるものの、その地域の自治を認められていた存在です。

 

 国衆のなかには、戦国大名の勢力拡大によって、一家臣として完全に取りこまれてしまう者もいましたが、小山田氏は武田氏が滅亡する時点まで半独立を保ち、武田家中でも一種独特な存在感を醸し出していました。

 

 高尾駅を出発してから1時間20分ほど走って、ようやく右前方にあの特徴のある岩盤を露出した山が見えてきました。

 

 国道20号線の「高月橋」交差点を右折すると、岩殿山城跡の南に出ます。

 

岩殿城跡遠景

写真1 岩殿城跡遠景

 

 高月橋を渡ると駐車場がありました。

 

 粟村さんは学生時代に来たことがあり、今回もすんなりと駐車場に到着しました。

 

 車を降りて、国道139号線の左側を少し登って行くと、山への登り口があり、階段が上に続いています。

 

 8時30分、さっそく登山開始です。

 

 登り始めてすぐに冠木門が現れ、その横には説明板がありました。

 

岩殿城跡冠木門および説明板

写真2 岩殿城跡冠木門および説明板

 

 説明板によると、岩殿山には9世紀の末に天台宗岩殿山円通寺が開創され、10世紀初めには三重塔・観音堂・僧坊が立ち並び門前町が形成されたそうです。

 

 現在の地図を見ると、岩殿山の東麓に真蔵院がありますが、甲斐百八霊場によると、真蔵院は円通寺の別堂・常楽院の内庵だったそうで、円通寺は明治初めに廃寺となってしまい、現在は三重塔などの建築物の礎石が残っているとのことです。

 

 13世紀末には天台宗聖護院末として郡内地域を越えて影響力を持つに至り、修験道の中心地として栄えたということなので、岩殿山は修業の場としてはうってつけだったのでしょう。

 

 見上げると、岩盤が見えます。

 

岩盤を見上げる

写真3 岩盤を見上げる

 

 それでは頑張って登りましょう。

 

 つづら折りの石段を上がって行くと、富士山がちょうどよく見えるポイントがあります。

 

富士山

写真4 富士山

 

 今日は天候の関係ではっきり見えないのが残念です。

 

富士山

写真5 富士山

 

 真冬の空気の澄んだ日なんかは相当綺麗なんでしょうね。

 

 登り始めて10分で「岩殿山 丸山公園」の標柱が現れました。

 

「岩殿山 丸山公園」標柱

写真6 「岩殿山 丸山公園」標柱

 

 なにやら2階建の天守風な建物もあります。

 

岩殿山ふれあいの館

写真7 岩殿山ふれあいの館

 

 「岩殿山ふれあいの館」です。

 

岩殿山ふれあいの館

写真8 岩殿山ふれあいの館

 

 敷地内には塚のようなものがあります。

 

丸山

写真9 丸山

 

 丸山という名前の山で、山頂の標高は444.4メートルだそうです。

 

 ちなみに車を駐めた場所はだいたい標高350メートルくらいです。

 

 「岩殿山ふれあいの館」の開館時間は9時からで、まだ開いていないので帰りに寄ってみることにします。

 

 見上げると、まだまだ先は長そうです。

 

まだまだ先は長そう

写真10 まだまだ先は長そう

 

 登って行くと道が二手に分かれ、右側が山頂方面で、左側は「稚児落し」方面です。

 

 まずは山頂に行きたいので右手に行くと、今度は「揚城戸跡」がありました。

 

揚城戸跡

写真11 揚城戸跡

 

 ここには門を設置し防御していたらしく、横の岩に穴を穿った跡があります。

 

穴を穿った跡

写真12 穴を穿った跡

 

 「揚城戸跡」を内側から見るとこんな感じです。

 

揚城戸跡を内側から見る

写真13 揚城戸跡を内側から見る

 

 往時は道幅を人が一人通れるくらいに造っていたはずなので、ここで防御側に抑止されたら攻撃側は手も足も出ないように思えます。

 

 「揚城戸跡」の内側はちょっとした平場になっており、「番所跡」と呼ばれています。

 

番所跡

写真14 番所跡

 

 ここは防御側が待機する場所だと考えられています。

 

 そしてさらに登ると、礫岩の大露頭があって、記録には無いのですが「西の物見台」、あるいは修験者の修業場所と言われていました。

 

 しかし崩落の危険があったので平成11年に爆破して撤去したそうです。

 

 現在はその場所には近づけないようになっています。

 

西の物見台

写真15 西の物見台

 

 そしてその背後を振り返ると登り道は終わっており、平場が続いていました。

 

平場に出た

写真16 平場に出た

 

 ずっと登ってきて、こうして平場が現れると何だかホッとしますね。

 

平場

写真17 平場

 

 標識によるとここが岩殿山の山頂らしく、標高は634メートル、つまりスカイツリーと同じなわけです。

 

 麓の駐車場の標高は約350メートルなので、岩殿山って比高差が280メートルくらいあるんですね。

 

 駐車場からは50分くらい掛かりました。

 

 ちなみに、説明板には「最高所は本丸」とありますが、本丸はここよりもっと東側です。

 

 ここが岩殿山の山頂なのか、東側の本丸が山頂なのか、どっちか良く分かりませんが、それじゃあさらに東に行ってみましょう。

 

 すると城内で一番広い平場が現れました。

 

馬場跡

写真18 馬場跡

 

 「馬場跡」ということで、さすがにこんな山城で守備側が馬を使うということはないと思いますが、やはり城主や幹部級は馬を持っているので、馬は常に運動させていないといけないわけで、馬場は必要だったはずです。

 

 さらに進むと、「倉屋敷跡」があり、その先にもまだ道が続いています。

 

倉屋敷跡

写真19 倉屋敷跡

 

 確認はしていませんが、『日本城郭大系8 長野・山梨』によると、「蔵屋敷」(「倉」ではない)には、「亀カ池」と呼ばれる湧水があるそうです。

 

 山城は険阻であれば良いというわけではなく、水が手に入ることが絶対条件で、山城として取り立てられた山には、高所であるのにも関わらず、必ず湧水や井戸があります。

 

 湧水であれば、山城を選定する際に歩きまわって発見できると思いますが、井戸の場合は不思議です。

 

 なぜ、昔の人は、掘れば水が出る場所が分かったのでしょうかね。

 

 そして本丸にはすぐに到着しました。

 

本丸

写真20 本丸

 

 本丸には電波塔のようなものがあり、さらに東に進むと、深い空堀が現れました。

 

本丸東側空堀

写真21 本丸東側空堀

 

 藪が凄くて堀底に降りる勇気はありません。

 

 とりあえずこの辺りが城の搦手の防御ラインだと思うので、元来た道を戻ることにしましょう。

 

 なお、『日本城郭大系8 長野・山梨』によれば、我々が見た深さ13mの「一ノ堀」の外側に、もう一本深さ6mの「二ノ堀」があるそうです。

 

 それにしても山の上からの景色は素晴らしいです。

 

 東の方向を眺めると、眼下に桂川や中央フリーウェイなどが見えます。

 

東側の眺望

写真22 東側の眺望

 

 北側は山々が折り重なってずっと向こうまで続いています。

 

北側の眺望

写真23 北側の眺望

 

 南側には城下町と富士山。

 

南側の眺望

写真24 南側の眺望

 

 繰り返しますが、状況によってはかなり綺麗な富士山が見られるようで、大月市の「秀麗富嶽十二景」の「八番山頂」に選ばれています。

 

 さて、根本的な問題なのですが、岩殿城は果たして誰の持ち城だったのでしょうか?

 

 郡内を支配した小山田氏は、戦国時代の初めは「中津森」を本拠にしており、中津森の館というのは都留市金井にあり、大幡川の段丘崖に沿った、用津院から桂林寺までの一帯です。

 

 そこが当時の郡内地方の統治拠点だったわけですが、享禄5年(1532)、越中守信有が、同じ都留市内の谷村館(やむらやかた)に本拠を移しました。

 

 谷村館は平時の居館であるので、昔は合戦時に籠る詰の城が岩殿城であるといわれていた時期がありますが、谷村館と岩殿城は8kmも離れているため、今では谷村館の詰の城は、桂川の対岸にある勝山城だったというのが通説となっています。

 

 それでは、岩殿城はどのような位置づけであったのかというと、天正9年(1581)3月20日に、勝頼が荻原豊前に対して、岩殿城に在番衆の派遣を命じたことにより(『戦国遺文 武田氏編』 3523)、岩殿城は武田氏の直轄の城であったと考えられるようになりました。

 

 荻原氏は武田氏の直臣で、主として北条氏との国境方面の防衛を任されており、その荻原氏に岩殿城の防衛が任されたということは、岩殿城は勝頼の統治下にあったと考えられたわけです。

 

 岩殿城が武田氏の直轄の城であったという従来からの研究については、萩原三雄氏の「岩殿城の史的一考察」(『論集 戦国大名と国衆5 甲斐小山田氏』所収)に上手くまとめてあります。

 

 しかし、『中世武士選書19 郡内小山田氏』で述べられている通り、岩殿城周辺を小山田氏が支配していたのは明白です。

 

 小山田氏は武田氏の重臣ですが、既述した通り、それと同時に「国衆」と言われる半独立の領主でもあります。

 

 国衆が単体で、巨大化してしまった戦国大名北条氏と対決するのは非常に難しいので、『中世武士選書19 郡内小山田氏』 で述べられている通り、在番衆の派遣は勝頼による小山田氏への援軍と考えてよいと思います。

 

 さて、景色を満喫した後は下山しましょう。

 

 「稚児落し」方面への分かれ道まで戻ってくると、そっち方面もちょっと行ってみようということになりました。

 

 でも15分ほど歩いても道はどんどん下に向かって行く一方で、途中から眺めてみると、向こう側の山に登るには相当下へ降りた後にまた登ることになりそうです。

 

 しかも向こう側の山に登った後、そっち方面から下山すると駐車場が偉く遠くなりそうです。

 

 なので粟村さんと相談して、戻ることにしました。

 

 そしてまた先ほどの分かれ道に来ると、標識にQRコードが付いているのに気づきました。

 

標識

写真25 標識

 

 粟村さんがスマホでアクセスしてみると、どうやら稚児落し方面の登山道を行くと、最終的に駐車場に戻るまで2〜3時間は歩くことが分かりました。

 

 ちょっと今日は時間的に無理だなあ・・・

 

 評議一決で下山を続けると、多くの登山者とすれ違います。

 

 結構この山はハイカーに人気があるみたいですね。

 

 でも多分、歴史には興味が無い人も多いのではないかと思います。

 

 さて、その岩殿城の歴史についてですが、「岩殿山ふれあいの館」まで戻ってきて中を見学すると、2階に城主小山田氏について手短にまとめられた文章が掲げられていました。

 

 小山田氏の最後の当主である信茂は、武田家の最後の(実質的な)当主・勝頼を裏切った武将として有名です。

 

 勝頼が一族の木曽義昌や穴山梅雪に裏切られたり、弟の仁科盛信を失ったりして、もはや新府城を持ちこたえることが難しいと判断した際に、信茂は難攻不落である自らの岩殿城に籠って戦うことを勝頼に献策したのにもかかわらず、結局ドタンバで裏切って勝頼らを岩殿城に入れず、勝頼らは天目山で自刃して武田家は滅亡したというのが通説です。

 

 なので、信茂は戦国ファンからあまり好感を持たれていないようなのです。

 

 しかし、武田家を研究している粟村さんの話によると、裏切ったのは信茂本人ではなく、信茂が留守の際に城を守っていた家臣たちであって、帰着した信茂は家臣たちに幽閉されたと言っている地元の研究家もいるそうです。

 

 確かにそれも考えられると私は思っています。

 

 しかし信茂がどう、ということより重要なのは、郡内が織田家に付いたことにより、郡内は戦災に巻き込まれることが無く、住民たちは被害を受けずに済んだことです。

 

 もし勝頼を匿って一戦したとしたら、地域の人々はどんな酷い目にあったことでしょう。

 

 それを考えると、信茂あるいは家臣たちの決断は正しかったと考えることもできます。

 

 「岩殿山ふれあいの館」に掲げられた文書にもそういう意味のことが書かれているので、悲劇のヒーロー・勝頼に同情する気持ちも充分理解できますが、郡内に住む名も無い多くの人びとの命が助かったという事実に気持ちを向けることも大事だと思います。

 

 さてそんなわけで、次なる目的地、要害城跡を目指しましょう。

 

 

つづきの記事はこちら

 

【参考資料】

  • 現地説明板
  • 『町田市史 上巻』 町田市史編さん委員会/編 1974年
  • 『日本城郭大系8 長野・山梨』 磯貝正義ほか/著 1980年
  • 「小山田氏の本拠」 (『戦国の猛虎 武田信玄』所収) 堀内亨/著 2007年
  • 『武田氏年表』 武田氏研究会/編 2010年
  • 『論集 戦国大名と国衆5 甲斐小山田氏』 丸山和洋/編 2011年
  • 『中世武士選書19 郡内小山田氏 武田二十四将の系譜』 丸島和洋/著 2013年

 

管理人は山梨県内では以下の歴史スポットも訪れています。

 

躑躅ヶ崎館 (甲府市) ・・・ 武田信虎・信玄・勝頼三代の居城

要害城 (甲府市) ・・・ 信玄が生まれた躑躅ヶ崎館の詰城

甲府城 (甲府市) ・・・ 近世甲斐国の統治拠点

新府城 (韮崎市) ・・・ 戦うことなく自落した武田氏城郭の最高峰

恵林寺&雲峰寺&景徳院 (甲州市) ・・・ 戦国甲斐武田氏ゆかりの寺院

 

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