◆日本史大戦略◆ 西関東・北東北の史跡を踏査し歴史を考察!

このページは管理人の知識整理用のメモです。
完成原稿でないのでお読みいただいてもあまり良く分からないかもしれません。

 

 それともう一点、本稿のタイトル『エミシの群像 −アテルイとその先人たち−』に刻まれているアテルイというのは誰かというと、アテルイは8世紀の終わりから9世紀の初め、ちょうど歴史区分でいうところの平安時代の始まりの頃に奥州の胆沢地方(岩手県奥州市)のエミシを率いていたリーダーだ。漢字では阿弖流為と書く。

 

 エミシの居住地は、少しずつヤマトに朝廷を置く倭国に侵食され、大化改新(645)の後からその浸食は露骨にされるようになり、やがて武力侵攻に発展したそれは「征夷」と呼ばれるようになるが、日本(倭国から国名を変えた)の朝廷の征夷(エミシ討伐)は、征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうのえのたむらまろ)の軍事作戦が画期とされる。というのは、奥州に侵攻した将軍は数多いが、そのなかで奥州各地に豊富な伝承を残しており古い神社の創建の由来にもたびたび登場するのが田村麻呂であるからだ。その事実は、いかに田村麻呂の同時代から後世に至るまでの影響力が大きかったかを物語っている。そしてその征夷で田村麻呂の最大のライバルになったのがアテルイである。アテルイは田村麻呂と戦ったあと、根拠地の胆沢から現在の盛岡あたりまでの広範囲のエミシを伴って朝廷に降伏した。アテルイらが降伏して上記の地域が日本領内になったことが、田村麻呂の武名を大きく高めた。アテルイなくして田村麻呂はないのである。田村麻呂のエミシ討伐と切っても切れない関係であるアテルイこそ、エミシのなかでもっとも著名な人物だといえるのである。

 

 アテルイに関しては、本稿の最後の方で再度述べようと思う。

 

 

第14回 伊治城の完成とウクハウの不気味な宣告

 

 神護景雲元年(767)10月15日の称徳天皇の勅によると、伊治城(これはりのき)が完成した。伊治城は現在の栗原市の一迫川と二迫川に挟まれた河岸段丘上に位置し、山道(陸奥国府から玉造・栗原、さらに北上川流域に延びた道)の蝦夷に備えるために造られた城だ。これにより、出羽方面は秋田城(出羽柵)・雄勝城の線が、陸奥方面は伊治城・桃生城の線が日本の北方の最前線となった。

 

 11月8日、出羽国の雄勝城下の俘囚400人余りが申し出て城に服属することを願い許可された。今まで朝廷に帰順した蝦夷は大勢いたが、「俘囚」という言葉が『続日本紀』に現れるのはこれが初めてだ。

 

 この月、陸奥国に栗原郡が設置された。「栗原(くりはら)」と「伊治(これはり)」は同じ場所を指しており、先月城が完成したのを受けて建郡したのだろう。これによって、現在の宮城県の最北部まで日本の領土となった。ただし、登米方面はまだだ。

 

 神護景雲3年(769)3月13日、2年前の12月8日に陸奥国の大国造(陸奥国だけの特例)に任じられていた道嶋宿禰嶋足(みちしまのすくねしまたり)の申請によって、陸奥国の多くの人々が姓を賜った。嶋足は蝦夷出身だが朝廷で出世し、在地の蝦夷たちにもすこぶる影響力が強かった。また、4月7日にも陸奥国行方郡の下毛野公田主(しもつけののきみたぬし)ら4人に朝臣の姓を賜った。

 

 11月25日、陸奥国牡鹿郡の俘囚(帰順した蝦夷)大伴部押人(おおともべのおしひと)が、「先祖は紀伊国の人だが陸奥国小田郡嶋田村に住み着き、その後蝦夷の捕虜となり数代を経て俘囚となったので、もとの公民に戻りたい」と言上し許可された。このようにもともと日本人だった者がいつのまにか蝦夷として扱われてしまうことがあったのだ。同様の例は、翌宝亀元年(770)4月1日にもあり、このときは黒川・賀美など11郡3920人の俘囚が申請をして許可されている。

 

 ところで、強硬な対蝦夷政策は、蝦夷に懸念の意を生じさせており、宝亀元年(770)8月10日には、蝦夷宇漢米公宇屈波宇(うかめのきみうくはう)が一族を率いて朝廷の支配下に入っていない本拠地に逃亡してしまった。使者を遣わして呼び戻そうとしたが、ウクハウは「同族を率いて必ず城柵を侵略しよう」と不気味な宣告をして戻らなかった。そこで朝廷は近衛中将兼相模守の道嶋宿禰嶋足を派遣して調査させた。しかし、この事件がその後どうなったかはわかっていない。この頃の海道地方の蝦夷は、嶋足の絶大なる影響下に入っており、もしかするとウクハウは「反嶋足」を標榜する蝦夷であり、それの意思表示のために朝廷から離反したのかもしれない。つまり、蝦夷内での派閥争いだ。なお、嶋足は延暦2年(783)正月8日に病死する。

 

 同じ年の9月16日、坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)が陸奥鎮守将軍に任命された。既述した通り、苅田麻呂は後に征夷大将軍となる田村麻呂(たむらまろ)の父だ。苅田麻呂の鎮守将軍在任期間は半年ほどだが、少年時代の田村麻呂が父について陸奥に来ていた可能性も否定できない。後に田村麻呂と戦うアテルイやモレも田村麻呂と同世代だと考えられるので、想像を逞しくすると田村麻呂とアテルイらの少年時代の交流を思い描いてしまう。

 

 翌宝亀2年(771)6月27日、渤海国の使節で青綬大夫の壱万福らが出羽国の賊地の野代湊(秋田県能代市)に着いた。ここでは能代を賊地としているが、斉明4年(658)4月の阿倍比羅夫の北国遠征の際に既に、渟代(能代)の蝦夷は帰順しているので、その後朝廷の統制が緩んで、再び蝦夷の独立状態になっていたのかもしれない。4年後の宝亀6年(775)には出羽の国府は南に移り、出羽国の領域は縮小される。

 

 10月27日、太政官の申請により、武蔵国が東山道から東海道に所属が変わった。

 

 11月11日、陸奥国桃生郡の牡鹿連猪手(おじかのむらじいて)に道嶋宿禰の氏姓を賜り、翌宝亀3年(772)正月1日には、陸奥・出羽国の蝦夷が朝賀に参列し、7月17日には今度は、陸奥国安積郡の丈部継守(はせつかべのつぐもり)ら13人に阿倍安積臣の氏姓を賜った。

 

 この頃、各地で不都合な事をした者が陸奥国に逃げ込んでそのまま陸奥国の戸籍に編入されてしまうということが起きていたらしく、10月11日、下野国が朝廷に取り締まり強化を言上した。

 

 翌宝亀4年(773)正月1日、昨年に続いて、陸奥・出羽国の蝦夷が朝賀に参列し、郷里に帰る際、地位に応じて位を授かり物を賜った。

 

 翌宝亀5年(774)正月16日、出羽の蝦夷と俘囚が朝堂で饗応された。陸奥国の蝦夷は参加していない模様だが、その陸奥方面ではこの年、蝦夷との間に深刻な亀裂が生じることになる。本拠地に帰ったウクハウの動静も気になるところだ。

 

 

第15回 「三十八年戦争」の勃発

 

 約半世紀の平穏を破って、また奥羽が合戦に巻き込まれることになった。宝亀5年(774)7月23日、光仁天皇が河内守紀朝臣広純(かわちのかみきのあそんひろずみ)に鎮守副将軍を兼任させ、陸奥国按察使兼陸奥守兼鎮守将軍大伴宿禰駿河麻呂(むつのくにあぜちけんむつのかみけんちんじゅしょうぐんおおとものすくねするがまろ)に、「すみやかに蝦夷を討ち滅ぼせ」と勅したのだ。

 

 その命から2日後の25日、陸奥国から「海道の蝦夷が桃生城を襲撃して、西郭を破った」との報告が入った。機先を制して蝦夷が攻撃を仕掛けてきたのだ。4年前に「同族を率いて必ず城柵を侵略しよう」と宣言した宇屈波宇(ウクハウ)の攻撃に違いない。この襲撃事件を契機として、後の世に「三十八年戦争」と呼ばれる戦乱が続くことになる。なお、桃生城はその後再建されていない。

 

 桃生城襲撃のあと戦火は拡大し、8月2日に光仁は坂東八国に救援部隊の出撃を命じた。

 

 8月24日には、鎮守将軍大伴駿河麻呂から朝廷に、「今は草が茂っており蝦夷に有利なので出撃は見合わせたい」と報告があり、それに対し光仁は、「以前は合戦をするといい、今度はしたくないと言ってきて計画に首尾一貫性を欠いている」と、深くとがめた。駿河麻呂は出撃したもののあまりにも蝦夷の勢いが強く、怖気づいたと考えられる。しかし、駿河麻呂はその後、光仁から叱咤されたことにより奮い立ち、遠山村(宮城県登米市か)に侵攻し、蝦夷を降伏させた。朝廷軍が遠山村に侵攻したということは、桃生城を攻撃したのは、遠山村に本拠地をもつ蝦夷であり、ウクハウの本拠地が遠山村だったと考えられなくもないが、ここでウクハウの名前が出ていないこともあり、むしろ駿河麻呂は朝廷へ良い申告をするために一番手短で攻略しやすそうな場所である遠山村を選んで攻撃したとも考えられる。そうするとウクハウの本拠地はもっと奥地ということになる。駿河麻呂の狙い通り、10月4日には光仁は使者を送り、駿河麻呂を表彰した。

 

 11月10日、陸奥国に大宰府と同様、漏尅(水時計)が置かれた。

 

 翌宝亀6年(775)になっても陸奥・出羽方面の蝦夷は騒動を繰り返す。

 

 9月13日、鎮守副将軍紀広純が陸奥介(陸奥国の次官)を兼任し、27日には駿河麻呂が参議に任じられた。

 

 10月13日には出羽国から、「蝦夷との戦いは継続されており、援兵を依頼し、国府を遷したい」との言上があり、光仁は相模・武蔵・上野・下野から兵を送った。出羽地方の蝦夷の勢いが余りにも強いので、現在の秋田市にあった出羽国府は庄内地方と考えられる河辺城に後退してしまう。

 

 昨年の蝦夷討伐で抜群の功績を挙げたとして、駿河麻呂以下1790余人に位階が授けられ、駿河麻呂は正四位・勲三等に、広純は正五位・勲五等となった。なお、駿河麻呂は翌宝亀7年(776)7月7日に死去する。

 

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第16回 蝦夷を討った蝦夷アザマロ

 

 宝亀7年(776)2月6日、陸奥国から、「来る4月上旬に兵士2万人を発動させて、山海二道の賊を討ちたい」との言上があり、出羽国の兵4000人を動員させ、雄勝の道から陸奥の西辺の蝦夷を討った。ところが、出羽国志波村の蝦夷は反逆して、朝廷軍は苦戦におちいり、5月2日には、下総・下野・常陸などの国の騎兵を発動して討たせた。志波村は現在の岩手県紫波町近辺だが、この当時は出羽国の管轄と考えられていたようだ。志波村はこの当時としては陸奥方面のもっとも深い部分にあたる。

 

 9月13日、陸奥国の俘囚395人を大宰府管内(九州)の諸国に分配し、11月29日にも出羽国の俘囚358人を大宰府管内や讃岐(香川)に分配し、そのうち78人は貴族などに与えられ賤民(奴隷)とされた。

 

 11月26日、陸奥国の軍3000人を発動して、胆沢(岩手県奥州市)の蝦夷を討伐させた。胆沢といえば、アテルイやモレらの統治下だが、時代的に考えて、このときは彼らの父親たちが胆沢の指導者をしていたかもしれない。

 

 翌宝亀8年(777)3月、陸奥の蝦夷が多く投降した。

 

 5月25日、相模・武蔵・下総・下野・越後から甲200領を出羽国の砦や兵営に送らせた。

 

 12月14日、陸奥国鎮守将軍紀朝臣広純(きのあそんひろずみ)が、「出羽軍が志波村の蝦夷と戦い敗れて退却した」と言上したので、佐伯宿禰久良麻呂(さえきのすくねくらまろ)を鎮守権副将軍に任じて出羽国を鎮圧させた。

 

 翌宝亀9年(778)6月25日、蝦夷討伐に軍功のあった、紀朝臣広純・佐伯宿禰久良麻呂・吉弥候伊佐西古(きみこのいさせこ)・伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)・百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)以下2267人に位を賜った。ここで初めてアザマロの名が見えるが、アザマロは蝦夷だ。朝廷に協力したアザマロは、栗原郡の蝦夷を率いて、一旦出羽方面へ出て、そこから北上、志波村の西側から奥羽山脈を越えて志波村の蝦夷と戦ったのだろう。もしかすると、アザマロのこういった実戦の経験が、のちにアテルイらに引き継がれることになるのかもしれない。

 

 12月26日、陸奥・出羽国の蝦夷20人を、唐客(中国からの使節)が来たときの儀丈兵にするために召した。

 

 宝亀11年(780)2月2日、陸奥国が、「雪の融けた時期に賊地に進軍して、覚?城(かくべつじょう)を築きたい」と言上した。それに対して光仁天皇は「覚?城を作って胆沢の地を獲得せよ」と勅を下した。また11日には、「去る正月26日に、蝦夷が長岡(宮城県古川市長岡)で放火を働いたので討伐したい」と言上し、許可された。覚?城跡の現在地は確定していないが、工藤雅樹氏は、宮城県大崎市の宮沢遺跡である可能性があるとしている。

 

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第17回 アザマロの叛乱

 

 またもや大事件が発生した。宝亀11年(780)3月22日、先に外従五位下に叙任されていた伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)が決起し、按察使兼参議で従四位下の紀朝臣広純(きのあそんひろずみ)を殺害したのだ。

 

 アザマロは俘囚の子孫である。初め事情があって広純を嫌っていたが、わざと広純に媚び仕えて信任を勝ち得ていた。アザマロは広純とともに道嶋大楯(みちしまのおおだて)に対しても恨みを抱いていた。大楯は同じ蝦夷出身にも関わらず、常日頃から呰麻呂を差別していたのだ。広純が覚?城(かくべつじょう)築城のために伊治城に入ったとき、大楯とアザマロも付き従っていた。アザマロはかねてからの計画通り、その機会に蝦夷の兵らの協力を得て、まず大楯を殺害し、ついで広純を殺害してしまった。このときアザマロは、大伴宿禰真綱(おおとものすくねまつな。3年前に陸奥介になっていた)を城外に放ったが、多賀城に帰った真綱は掾の石川浄足(いしかわのきよたり)とともに城から脱走し、城にいた兵も散り散りになり多賀城は無人と化してしまった。数日後、何者かの集団が多賀城に攻め込み、略奪放火をしたあと、いずこへともなく立ち去った。おそらくアザマロだろう。その後のアザマロの行方はわかっていないが、もしかするとアテルイなどの蝦夷の有力者のもとに逃亡して匿われたのかもしれない。多賀城の発掘調査の結果、このときの火災の跡とみられる痕跡がみつかっている。

 

 「アザマロ叛乱する」の報を受けた朝廷は、3月28日、中納言で従三位の藤原朝臣継縄(ふじわらのあそんつぐただ)を征東大使に、正五位上の大伴宿禰益立(おおとものすくねますたて)と従五位上の紀朝臣古佐美(きのあそんこさみ)を征東副使に任じ、翌29日、多賀城から逃げた従五位下の大伴宿禰真綱を陸奥鎮守副将軍に、従五位上の安倍朝臣家麻呂(あべのあそんやかまろ)を出羽鎮狄将軍に任じ、益立に陸奥守を兼任させた。このうち、紀朝臣古佐美はのちに征夷大将軍としてアテルイと雌雄を決することになる。

 

 5月8日、平城京や諸国にある甲600領を出羽の鎮狄将軍のもとに送ることにし、光仁天皇は、11日には出羽国に「渡嶋の蝦夷を懐柔するように」と、14日には坂東諸国や能登・越中・越後に「兵糧の準備をするように」と勅した。

 

 6月8日、出陣中の討伐軍に人事異動が発令され、百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)を陸奥鎮守副将軍に、多治比真人宇佐美(たじひのまひとうさみ)を陸奥介に任じた。おそらく3月28日に大伴真綱が陸奥鎮守副将軍に任命されたときはまだ多賀城から逃げたことが知られておらず、その後それが明るみになって更迭されたと考えられる。

 

 討伐軍は5月下旬に陸奥国府に進み、蝦夷を粉砕する予定だったが、2ヶ月経っても侵攻せずに、将軍らは光仁に叱責されている。

 

 征東使は、7月21日に甲1000領を請求し、22日には綿入りの上着4000領を請求したので急いで送らせた。

 

 同じ22日には坂東の兵士を徴発して9月5日までに多賀城に集結させることと、兵糧を8月20日までに軍営まで運ばせることを光仁が勅した。

 

 

 

 出羽国鎮狄将軍の安倍家麻呂らが言上するに、夷狄の志良須(しらす)や俘囚の宇奈古(うなこ)らが、秋田城が永久に放棄されるのか不安になっているという。それに対して朝廷は、俘囚が離反しないように多少の軍士を遣わして鎮守に当たらせ、また由理柵(由利柵)にも兵士を遣わして、互いに助け合って防御させるようにと伝えた。なお、由利柵の遺跡は発見されていない。

 

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第18回 狡猾な藤原小黒麻呂

 

 結局、征東大使藤原朝臣継縄(ふじわらのあそんつぐただ)率いる討伐軍はなんら戦果をあげることができず、宝亀11年(780)9月23日には藤原朝臣小黒麻呂(ふじわらのあそんおぐろまろ)が持節征東大使に任命された。事実上の継縄の更迭だ。

 

 しかし、数万余を集めた小黒麻呂率いる征討軍も駐留して動かない。まったく戦意が無いようだ。10月29日には光仁天皇が、「伊治城はいつになったら回復するのか」と、強い語調で勅した。

 

 12月10日、久しぶりに征東使からやる気のある奏上があった。それによると、2000の兵を遣わして、鷲座・楯座・石沢・大菅屋・柳沢などの五道を攻め取り堅固な砦を造り、蝦夷の要害を断つ作戦だという。12月27日には、陸奥鎮守副将軍の百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)から、「賊に囲まれて窮地に立ったときに、桃生や白河などの郡の神11社に祈ったところ囲みを破ることができたので、その11社を幣社に加えられるように」と申請があったので、10日の奏上のあと、実際に作戦が行われたようである。

 

 翌天応元年(781)正月10日、右衛士督兼常陸守藤原朝臣小黒麻呂に陸奥按察使を兼任させた。

 

 2月30日、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸などから穀10万石を陸奥の軍営に運ばせた。

 

 奥羽への遠征が継続される最中の天応元年(781)4月3日、光仁天皇が退位し、桓武天皇が即位した。光仁の跡を継いだ子の桓武も引き続き征夷を繰り返し、蝦夷に強硬な姿勢を貫くことになる。なお桓武は、皇太子時代に坂上苅田麻呂の娘(田村麻呂の姉妹)又子を夫人としている。

 

 5月7日、小黒麻呂に兵部卿を兼任させ、5月27日、大伴宿禰益立が任じられていた陸奥守に紀朝臣古佐美が任命された。

 

 6月1日に桓武が小黒麻呂に勅した内容によると、「蝦夷の伊佐西古(いさせこ)・諸絞(しょこう)・八十島(やそしま)・乙代(おとしろ)らは賊の首領で、一人で千人に匹敵する。小黒麻呂らは彼ら4000余人に対して討ち取った首級は70余人で、軍隊は解散してしまった。副使の内蔵忌寸全成(くらのいみきまたなり)か多朝臣犬養(おおのあそんいぬかい)を上京させ報告させろ」とあります。伊佐西古というのは、3年前の宝亀9年(778)に蝦夷討伐の軍功により位を賜った吉弥候伊佐西古のことで、アザマロと同様に叛乱したのである。そして驚くべきは征討軍が現地で解散してしまったことで、まったく異例なことだ。

 

 7月10日、小黒麻呂は民部卿に転じ、陸奥按察使はそのままだった。

 

 8月25日、小黒麻呂が帰京した。さきに征討軍が現地解散したことも驚きだが、もっと驚いたことは、ほとんど何の成果も出せなかった小黒麻呂の位が正四位下から正三位に上がったことだ。また、小黒麻呂の前に征東大使に任じられていて更迭された藤原継縄も9月3日には正三位に上がっている。朝廷の人事評価はいったいどうなっているのだろうか。

 

 6月1日の桓武の勅に名前の出ていた内蔵忌寸全成が9月8日、陸奥守に任じられた。また、6月1日の勅のときには小黒麻呂はほとんど成果を出していないと責められたが、9月26日にはどういうわけか、「小黒麻呂は到着するとすぐに軍隊を進めて奪われた諸々の城塞を回復した」といわれ、進軍しなかった大伴益立が従四位下の位を剥奪されている。これはどうやら、戦果が出なかった責めをすべて益立の責任にして泥をかぶらせたことのようである。小黒麻呂の狡猾振りが伺える。なお、小黒麻呂は藤原北家の祖房前の孫で、娘の上子は桓武の後宮に入っている。

 

 12月1日、内蔵全成が鎮守副将軍を兼任した。

 

 翌延暦元年(782)5月にも陸奥で兵乱があった。

 

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第19回 桓武の第一次蝦夷征討とアテルイ

 

 延暦元年(782)6月17日、春宮大夫大伴宿禰家持(おおとものすくねやかもち)に陸奥按察使と鎮守将軍を兼任させ、入間宿禰広成(いるまのすくねひろなり)を陸奥守に、安倍?島臣墨縄(あべのさしまのおみすみただ)を鎮守権副将軍に任じた。広成は武蔵国入間郡物部直出身で、天平宝字8年(764)9月の藤原仲麻呂の乱で愛発駅に入ろうとした仲麻呂を撃退するという功を挙げた人物である。墨縄も武蔵国出身だ。

 

 翌延暦2年(783)11月12日、常陸介大伴宿禰弟麻呂(おおとものすくねおとまろ)に征東副将軍を兼任させた。

 

 桓武天皇は延暦3年(784)6月10日から現在の京都府向日市・長岡京市・京都市西京区の地に新しい首都長岡京の造営を開始した。

 

 陸奥での蝦夷と朝廷の戦いは断続的に行われていたらしく、翌延暦4年(785)2月7日は蝦夷征討に参戦したとして、小田郡の大領丸子部勝麻呂(まるこべのかつまろ)が外従五位下を授かった。

 

 5月20日、百済王英孫(くだらのこにきしえいそん)が陸奥鎮守権副将軍に任じられた。英孫は9月29日には出羽守に転じる。

 

 11月25日、坂上大宿禰田村麻呂(さかのうえのおおすくねたむらまろ)が従五位下を授かった。後にアテルイらと戦う田村麻呂が歴史上に名前を見せるのはこれが初めてだ。そして田村麻呂の歴史上への登場と重なるようにして、翌延暦5年(786)正月7日、父の苅田麻呂が死去する。

 

 延暦5年(786)8月8日、蝦夷討伐の準備が開始され、兵の検閲と武具の点検がなされた。

 

 翌延暦6年(787)閏5月5日、陸奥の鎮守将軍の百済王俊哲がある事件に連座して、日向権介に左遷された。ある事件とは、どのような事件だったのだろうか。盛田稔氏は、同年発令の狄馬の密売を禁じる太政官符にそむいたか、あるいはそもそも俊哲が密売したせいで禁令が出されたのかもしれないと推測している。

 

 翌延暦7年(788)2月28日、陸奥按察使兼陸奥守多治比真人宇美(たじひのまひとうみ)に鎮守将軍を兼任させ、安倍?島臣墨縄(あべのさしまのおみすみただ)を鎮守副将軍に任じた。

 

 朝廷は坂東からでなく、東海・東山両道の諸国といった東日本全体から兵を徴発した。動員予定数は5万2800余人であり、翌年の3月に多賀城に集結するように定められた。

 

 多治比浜成、紀真人、佐伯葛城、入間広成が征東副使に。7月紀古佐美が征東大使。

 

 12月7日、桓武の蝦夷討伐が開始された。参議左大弁兼東宮大夫中衛中将の紀朝臣古佐美(きのあそんこさみ)が征東大将軍に任命され、節刀を与えられたのだ。古佐美率いる軍勢は、翌延暦8年(789)3月9日、多賀城から賊地へ攻め入った。「賊地」とは現在の胆沢地方と考えられる。この頃胆沢地方にはまだ郡や柵などは置かれていなかったので、征討軍からすると完全なる敵地だ。一方の朝廷軍に対抗する胆沢地方の蝦夷の指導者はアテルイとモレだったと考えられる。「必ず城柵を侵略しよう」と宣告したウクハウや、伊治城で叛乱を起こしたアザマロも参戦していたかもしれない。

 

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第20回 アテルイの類まれな軍略

 

 延暦7年(788)3月28日には、蝦夷征討軍は衣川を渡って3箇所に陣営を置いた。しかし、その後征討軍は1ヶ月動かない。桓武天皇は使者を発して叱責した。

 

 桓武の叱責の後、朝廷軍は重い腰を上げましたが、結果は惨憺たる内容でした。6月3日の紀古佐美の報告によると、戦いは以下のとおりです。

 

 副将軍入間宿禰広成(いるまのすくねひろなり)と左中軍別将池田朝臣真枚(いけだのあそんまひら)が、前軍別将安倍?島臣墨縄らと謀議して、三軍(前・中・後)で力をあわせ北上川を西岸から東岸に渡って賊を討つことにした。そこで中軍と後軍から2000人を選んで河を渡ったところ、アテルイの居所近くで蝦夷300人と合戦になった。蝦夷は敗走する。敗走する蝦夷を追って巣伏村に至ったところ、別の道から合流するはずだった前軍が蝦夷に阻まれ河を渡ることができず、中・後軍は孤立してしまった。そこに蝦夷軍800人が攻撃を仕掛けてきて、中・後軍は勢いに負け後退する。更に東の山から蝦夷軍400人が駆け下ってきて、中・後軍の背後を塞いでしまった。中・後軍は挟み撃ちにされ、別将の丈部善理、進士高田道成・会津壮麻呂・安宿戸吉足・大伴五百継ほか25人が戦死、負傷245人、北上川で溺死1036人、裸で逃れてきた者1257人という損害を被った。一方、蝦夷側の戦死者は89人だった。

 

 これは征討軍側の報告なので、征討軍に有利に述べている点があると思うが、その点を差し引いても、これはもう完全なるアテルイの勝利だ。

 

 アテルイは桓武天皇の軍隊を打ち破ったのだ。

 

 その報告に対する桓武の詔によると、征討軍の合戦は上級幹部級が指揮を取っておらず、下級幹部に任せきりだったのが敗因だ。桓武はそのように指摘する。

 

 その詔に対して古佐美は、「食料の運搬が困難だから」と言い訳をして、既に蝦夷は農耕の時期を失ったので、「待っていても滅びるので討伐軍を解散する」と言ってきた。

 

 それに対して桓武は、「将軍らはうわべだけを飾った言葉で、罪や過失を巧みに逃れようとしているのである。臣の道にそむくことこれ以上のものはない」と相当のご立腹だ。

 

 7月10日、また桓武の元に古佐美からの奏状が到達して、それに対して17日、桓武は古佐美らに対して、「今回の奏状と先月の奏状とを見比べて、戦果を上げたというのは、ほとんど虚飾である。恥ずかしいとは思わないのか」と切り捨てている。

 

 散々な目にあった古佐美らは9月8日帰京して、節刀を返した。

 

 9月19日、古佐美らの聴取が行われた。取り調べる側には、蝦夷討伐の経験者である藤原継縄や藤原小黒麻呂が出席した。古佐美や副将軍入間広成・鎮守副将軍池田真枚・安倍墨縄らは敗戦の責任を認める。総責任者の古佐美は罪を問わず許されたが、墨縄らは斬刑のところを官職・位階の剥奪、真枚は河に溺れた兵士を助けたので、官職のみの剥奪となった。総責任者の古佐美が処罰されていないのはおかしな話だ。

 

 このようにして、桓武の第一次蝦夷征討は終わった。

 

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第21回 桓武の第二次蝦夷征討とアテルイの受けた痛撃

 

 延暦8年(789)10月23日、巨勢朝臣野足(こせのあそんのたり)が陸奥鎮守副将軍に任じられた。野足は和銅2年(709)に蝦夷を征討した巨勢朝臣麻呂の一族だ。

 

 桓武は次の蝦夷征討に備え、翌延暦9年(790)閏3月4日に、諸国に命じて革の甲2000領を作らせ、29日には兵糧を準備をさせた。また、翌延暦10年(791)正月18日には、百済王俊哲と坂上大宿禰田村麻呂を東海道に、藤原朝臣真鷲(ふじわらのあそんまわし)を東山道に遣わし、兵士の検閲と武具の検査を行った。

 

 今回は前回の2倍の10万を徴発する。

 

 2月5日、さきの古佐美の征討軍に従って戦死した丈部善理(はせつかのべぜんり)に外従五位下を贈位し、2月21日には、陸奥介文室真人大原(ふんやのまひとおおはら)に鎮守副将軍を兼任させた。

 

 7月13日、桓武天皇の二度目の征討軍の人事が発表となった。征夷大使に大伴宿禰弟麻呂、征夷副使は、百済王俊哲・多治比真人浜成・坂上大宿禰田村麻呂・巨勢朝臣野足という面々だ。9月22日には、下野守の俊哲が陸奥鎮守将軍を兼任した。

 

 10月25日、東海道・東山道の諸国に命じて征矢34500余を作らせ、11月3日には坂東の諸国に命じて、兵糧を準備させた。もちろん蝦夷征討のためだ。なお、この記事が『続日本紀』の奥羽に関する最後の記述である。これからアテルイの活躍がもっと見られるかもしれないという惜しいところで『続日本紀』は終わっている。

 

 『続日本紀』に続く日本の3番目の正史『日本後紀』は残念ながら4分の3が失われてしまった。しかし辛うじて『日本紀略』や『類聚国史』などから逸文が収集され、復元が試みられている。以降はそれをもとに述べる。

 

 延暦11年(792)正月11日、陸奥国が「斯波村の夷胆沢公阿奴志己(いさわのきみあどしき)が「伊治村の俘らが妨害するために朝廷と連絡できないので、彼らの妨害を排除し、通路の確保をして欲しい」と要請してきたので、物を下賜して帰らせた」と言上してきた。それに対して朝廷は「夷狄の性格は虚言をはき不実であるから、今後は使いがきても定例の賜物以上の物を下賜してはならない」と指示した。阿奴志己は斯波村(岩手県紫波町)の蝦夷なのに「胆沢公」と名付けられている。これはアテルイらの勢力を南北から挟み撃ちにして、名目上胆沢を阿奴志己に任せるということだったのかもしれない。それと、伊治村のある場所は栗原郡に含まれるが、「村」とあることから栗原郡には蝦夷の村が存在し、アテルイらと同調し不穏な動きを見せていたのだろう。

 

 7月25日、桓武は「夷尓散南公阿破蘇(にさなのきみあわそ)が遠方から朝廷の徳化を慕っているので、軍士に迎接させ、威勢を示せ」と勅した。阿破蘇は現在の岩手県二戸市仁左平の蝦夷かもしれない。もしそうだとすると、朝廷の影響力が初めて糠部地方(いわゆる「戸」の地域」)にまで及んだことになる。

 

 10月1日、陸奥国の俘囚吉弥候部真麻呂(きみこべのままろ)と大伴部宿奈麻呂(おおともべのすくなまろ)が外従五位下に叙された。蝦夷を懐柔するのが目的だ。

 

 さきに桓武の命により護衛をつけられ上京していた尓散南公阿破蘇と、宇漢米公隠賀(うかめのきみおんが)・俘囚吉弥候部荒嶋(きみこべのあらしま)が朝堂院で饗応され、位を授けられた。隠賀は、宝亀元年(770)4月1日に北の大地に去り「同族を率いて必ず城柵を侵略しよう」と公言したウクハウと同じ宇漢米公ですが、ウクハウの子か孫の世代に当たる。

 

 閏11月28日、征東大使大伴宿禰弟麻呂が桓武に暇乞いをした。すなわち出陣である。翌延暦12年(793)2月21日には、弟麻呂に遅れること3ヶ月にして田村麻呂が出陣した。兵数は10万である。

 

 翌延暦13年(794)6月13日には、田村麻呂以下が蝦夷を征討したとあるので、アテルイとの決戦の主役は弟麻呂ではなく田村麻呂だった模様だ。

 

 今回はどのような戦いが行われたかは不明だが、10月28日の弟麻呂(ここでは征夷大将軍となっている)の報告によると、斬首457、捕虜150、馬の捕獲85、焼いた村75という戦果だった。もしこれが事実だとすると、朝廷側の被害がどの程度だったかは別として、アテルイは痛撃を被ったことになる。兵数の上では圧倒的に朝廷軍が有利だったが、前次はその圧倒的に有利な兵数をもってしても、アテルイを破ることができなかった。今次は、ようやく田村麻呂が指揮を執ることによって、その兵数を活かして戦うことができたものと思われる。また同日、桓武は平安京(京都)に遷都した。歴史教科書的には平安時代の始まりである。

 

 翌延暦14年(795)正月29日、弟麻呂が参内して桓武に節刀を返した。桓武の第二次征討の終了だ。

 

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第22回 征夷大将軍坂上田村麻呂出陣

 

 延暦14年(795)、昨年外従五位下に叙された俘囚の吉弥候部真麻呂(きみこべのままろ)とその子が、大伴部阿弖良(おおともべのあてら)に殺害され、阿弖良とその一族66人は、5月10日に日向国(宮崎県)に流された。

 

 延暦15年(796)10月27日、近衛少将の坂上田村麻呂が鎮守将軍を兼ね、11月2日、陸奥国の伊治城と玉造塞との間に馬家が置かれ、11月5日には、さきの蝦夷征討で功績をあげた上毛野朝臣益成・吉弥候部弓・巨勢部楯分・大伴部広橋・尾張連大食が外従五位下を授かった。

 

 11月21日、相模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・出羽・越後らの民9000人が陸奥国の伊治城所属となり、12月29日には、陸奥国の吉弥候部善麻呂ら12人が上毛野陸奥公の姓を賜り、翌延暦16年(797)正月13日にも数人が大伴宮城連の姓を賜った。

 

 11月5日、田村麻呂が征夷大将軍に任じられた。前回の征討でも実質的には総指揮官を務めていたようだが、今回晴れて名実ともに征討の総責任者となったのだ。
このとき田村麻呂40歳。
 延暦18年(799)2月21日、陸奥国新田郡の百姓弓削部虎麻呂とその妻丈部小広刀自女が蝦夷の言葉を習得し、妖言をもって蝦夷を扇動したとして、日向国へ配流された。

 

 12月16日の陸奥国からの報告によると、俘囚吉弥候部黒田とその妻吉弥候部田苅女、吉弥候部都保呂とのその妻吉弥候部留志女が野蛮な心を改めず、蝦夷の居住地へ往来しているというので、身柄を拘束して太政官へ送らせ、土佐国(高知県)に配流されることになった。

 

 翌延暦19年(800)10月28日、征夷副将軍が任命されたが誰が任命されたかは伝わっていない。

 

 翌延暦20年(801)閏正月14日、田村麻呂に節刀が下賜された。いよいよ桓武天皇の三度目の蝦夷征討が始まる。今回の兵数は4万人である。

 

 9月27日に田村麻呂から朝廷に報告が入り、それによると田村麻呂は蝦夷を討ち平らげたということだ。しかし残念ながら今回アテルイ・モレと田村麻呂がどのような戦いをしたかはまったくわからない。兵力では圧倒的に朝廷軍の方が上であり、しかも戦巧者の田村麻呂のことなので、アテルイたちは苦戦したことだろう。その後田村麻呂は帰京して、10月28日に節刀を返し、桓武の第三次征討も終わった。

 

 翌延暦21年(802)正月8日、征夷軍の軍監以下軍士以上の者に勲位が与えられた。

 

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第23回 アテルイ斬首さる

 

 延暦21年(802)正月9日、胆沢城(岩手県奥州市)築城のため、坂上田村麻呂が派遣されることになり、11日には駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野等の浪人4000人が胆沢城の柵戸とされることになった。胆沢地域への日本人(という言い方は適切では無く、正確には京都の朝廷の支配をうける人びと)の移住はこれが初めてだと考えられ、朝廷は蝦夷の支配地域にまたひとつ楔を打ち込んだことになる。4000人という大人数が胆沢に移住させられたことは、アテルイらにとっては驚愕に値したことだろう。また、13日には越後国の米と佐渡国の塩が雄勝城に送られることになった。

 

 そしてついに、アテルイ(『日本後紀』では阿弖「利」為と記す)とモレは、田村麻呂に降伏した。その報告は4月15日に朝廷に伝わった。アテルイらは戦いがこれ以上長引くと自分たちの部族の滅亡につながると考えて降伏したのだろう。また、相手が好敵手の田村麻呂ということで、信頼して我が身を預けたものとも考えられる。交渉は去年の合戦以来、水面下で行われていたかもしれない。
アザマロの叛乱から22年目であった。
 6月10日、田村麻呂がアテルイとモレを従えて帰京した。アテルイとモレは初めて見る都の賑わいに何を感じただろうか。

 

 しかし安堵も束の間、アテルイとモレは2ヶ月間監禁された挙句、8月13日に河内国(大阪府)の杜山で処刑されてしまった。

 

 当初、田村麻呂はアテルイとモレの助命を言上した。坂上家は代々の武門で天皇家に忠誠を尽くし、田村麻呂自身も高位にあり、女兄弟は桓武天皇の夫人でもある。なので、田村麻呂の発言には一定の重みがあったはずだ。しかし、ほかの公卿たちはこぞって助命に反対した。彼らは、「夷らは性格が野蛮で、約束を守ることがない。たまたま朝廷の威厳により捕らえた賊の長を、もし願いどおり陸奥国の奥地へ帰せば、いわゆる虎を生かして災いをあとに残すのと同じである」と言い放った。

 

 さて、ここまでお読みになった方々は、アテルイの最後があまりにも呆気ないと思い残念に思ったかもしれない。

 

 しかし今まで述べてきたことが「正史」の記すアテルイの全てだ。

 

 アテルイらのもっと生々しい動きは、奥州市の郷土研究家の方々がお調べになっていることと思うので、その方々の研究を是非知りたい。

 

 アテルイらエミシに対する侵略戦争を行い、東北を蹂躙した天皇以下の朝廷人に対する批判はここではしない。

 

 何が正義で、何が悪なのか。

 

 問題はそのような単純なものではないはずだ。

 

 ところで、現代でも世界中の戦争・紛争の原因になっているものに「宗教」がある。

 

 本稿でも少し触れているが、日本とエミシとの間に、宗教の違いがあったものと考えられる。

 

 日本は古代国家の完成とともに確立した神社信仰と、大陸・半島から来た仏教がミックスした宗教を信奉していたが、エミシはまたそれとは違う神々を信奉していたはずだ。「 第6回 阿倍臣の北方懐柔」で少しふれたアラハバキがそうなのかもしれない。

 

 日本とエミシは、文化の違いもあったが、精神のもっともコアな部分である「信じる物」の違いがあったわけだ。

 

 この点に関しては今後、歴史学にとどまらず民俗学にまで足を延ばして、時間をかけて謎を解いていきたいと思っている。

 

 以上、23回に渡ってエミシのアテルイとその先人たちについて正史をもとに述べてきたが、次回は最終回として、アテルイの没後、エミシはどうなったか、簡単にまとめてみようと思う。

 

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第24回(最終回) アテルイ以後のエミシ

 

 朝廷は胆沢城に続いて、さらにその北の現在の盛岡市に志波城の築城を始め、延暦22年(803)3月6日には、造志波城使となった坂上田村麻呂が桓武天皇に暇乞いをし奥州へ発向した。

 

 桓武天皇は4度目の蝦夷征討を目論みたが、藤原朝臣緒嗣(ふじわらのあそんおつぐ)の「征夷と首都建設をやめれば民を安んずることができる」との意見を聞き入れ、4度目の征夷を中止、延暦25年(806)3月7日、崩御した。70歳だった。藤原緒嗣の方は、その後奥州に派遣され、統治に力を発揮する。

 

 弘仁2年(811)正月11日、陸奥国に和我(北上市周辺)・稗縫(花巻市周辺)・斯波(紫波町周辺)の3郡を置いた。ついに現在の岩手県北上川流域は、県の南半分まで日本国の領土となったのだ。しかし、さらにその北に岩手郡が建てられるのはまだ先のことである。

 

 斯波にまで郡を置くことに成功した朝廷は、参議で正四位上の大蔵卿兼陸奥出羽按察使文室朝臣綿麻呂(ふんやのあそんわたまろ)・陸奥守で従五位下の佐伯宿禰清岑(さえきのすくねきよみね)・陸奥介で従五位下の坂上大宿禰鷹養(さかのうえのおおすくねたかかい)・鎮守将軍で従五位下の佐伯宿禰耳麻呂(さえきのすくねみみまろ)・鎮守副将軍で外従五位下の物部匝瑳連足継(もののべのそうさのむらじあしつぐ)らに陸奥・出羽の兵2万6千を率いさせ、爾薩体(にさったい。岩手県二戸地方・堀野遺跡)・幣伊(へい。岩手県沿岸部)を攻撃させた。その作戦では出羽守で従五位下の大伴宿禰今人が計略を立て、俘囚300余人を率いて蝦夷の不意を討ち、雪中を進攻して爾薩体の蝦夷60余人を殺した。

 

 幣伊・爾薩体方面で戦闘が続いていた最中の5月23日、大納言正三位兼右近衛大将兵部卿の坂上田村麻呂が死去した。54歳だった。朝廷は従二位を贈た。

 

 7月4日には綿麻呂らが「俘軍1000人を吉弥候部於夜志閉(きみこべのおやしべ)らに委ね弊伊村を襲伐するべき」と奏上しました。それに対して嵯峨天皇は14日に「わずかな軍勢で討伐に臨むと折角の好機を失う恐れがあるので、陸奥・出羽の俘軍各1000人を動員して、来る8・9月の間に攻めるのがよい」と勅した。

 

 7月29日の出羽国からの奏上によると、邑良志閉村(岩手県二戸市あたりか)の帰降した夷である吉弥候部都留岐(きみこべのつるき)が「私たちは爾薩体の夷伊加古(いかこ)らと長い間敵対してきましたが、伊加古らは兵を訓練して都母(つも。青森県上北地方か)に居住し、幣伊村の夷を誘って私たちを討とうとしています。兵糧をいただき、先制攻撃をしようと思います」と申し出てきた。朝廷は出羽国に都留岐を援助するように指示を出す。都母と幣伊が邑良志閉村を挟み撃ちにしようとしている状況から、ここでいう幣伊とは岩手県久慈市地方のことを指しているのかもしれない。当時の幣伊は現在の閉伊と違い、ほぼ岩手県の釜石以北の沿岸部全域を指していたように考えられる。

 

 その後綿麻呂らは9月22日に「兵糧を輸送する人員が足りないので、陸奥国の兵士1100人を補充して欲しい」と奏上して10月4日に許可された。

 

 この年(弘仁2年(811))の始め頃から続いていた爾薩体・幣伊方面の征討は十分な効果を上げたとして、12月13日には綿麻呂に従三位、耳麻呂には二階上げて正五位下、今人・鷹養には従五位上、足継には外従五位上を授けた。

 

 閏12月11日、綿麻呂は「官軍が一挙に攻撃を仕掛け、蝦夷の賊を全滅しました。そこで鎮兵は廃止して永く百姓を安楽にすべきです。志波城がたびたび水害に遭っているので、適当な場所に移す必要があり、新しい城ができるまで志波城を2000の兵で守り、新しい城ができたら1000人を残してあとは復員させましょう」と奏上し許可された。新しい城とは岩手県矢巾町の徳丹城のことだ。

 

 これで宝亀5年(774)の蝦夷の桃生城襲撃から38年に渡って続いてきた蝦夷と朝廷との「三十八年戦争」が終わりを告げた。

 

 しかしこれで奥羽に平和が訪れたわけではない。

 

 連年の凶作で、蒔く種籾も無かった出羽国では、ついに元慶2年(878)3月15日、夷俘が叛乱して、秋田城とその周辺の民家を焼いた。「元慶の乱」の発生だ。出羽国主藤原朝臣興世(ふじわらのあそんおきよ)は、ただちに鎮兵を動員し、諸郡にも軍勢を集めさせ、それを朝廷に上奏した。

 

 興世からの上奏は29日に届き、朝廷はただちに出羽と陸奥に対して対策を促しましたが、このときはまだ事の重大さが分かっていなかったようだ。また、当初は夷俘の叛乱と思われていたが、俘囚だけでなく、公民もかなり混ざっていたようである。

 

 興世は小野朝臣春水(おののあそんはるみず)と文室真人有房(ふんやのまひとありふさ)らに精兵を与え秋田城に入り合戦したが、勝負を決めることはできず、俘囚らの勢いは高まるばかりだった。

 

 4月4日にその知らせを受けた朝廷は、出羽一国では対処が難しいと悟り、具体的に陸奥の兵2000人を援軍に差し向けることにした。

 

 朝廷はこれで鎮圧できるものと思っていたが、叛乱はさらに深刻さを増していき、4月28日の興世からの上奏によると、600人で野代(能代)の営を守っていたが、1000人の賊に襲われ、500余人が殺害されたという。

 

 朝廷はついに、上野と下野にも兵を出させ、いまだに援軍を送らない陸奥に対しては、「すでに5回も指示を出したがまだか」と怒りの様子だ。陸奥では4月22日に、坂上大宿禰好陰(さかのうえのおおすくねよしかげ)が陸奥権介となっている。好陰は田村麻呂の曾孫だ。

 

 それでも不安を抑えられない朝廷は、5月4日、新人事を発表した。藤原朝臣保則(ふじわらのあそんやすのり)を出羽権守にし、清原真人令望(きよはらのまひとよしもち)を権掾に、茨田連貞額(まんだのむらじさだぬか)を権大目に任じたのだ。

 

 そもそもこの叛乱は、行政側の苛政が原因だと思われるが、その悪政を行ったのは、どうやら興世ではなく、その前任者のようだ。「藤原保則伝」によると、良岑近(よしみねのちかし)という人物がそれだと記されている。

 

 さて、新たに出羽権守に就任した保則だったが、彼は宝亀11年(780)に、アザマロが叛乱を起した際に征東大使に任命され、結局何もできずに更迭された藤原継縄の曾孫だ。保則は主に山陽道諸国の地方官として実績を上げ、それが買われ今回の人事となったのだ。

 

 5月7日には、玉作宇奈麿(たまつくりのうなまろ)が、賊2名を倒したが、自分も斬られ討ち死にした。宇奈麿はその姓からして、陸奥国の玉造郡の出身だろう。

 

 保則は出羽に赴任すると、辛抱強く寛大な政治を心がけた。保則の配下の小野春風(おののはるかぜ)も得意の「夷語(蝦夷の言葉)」を駆使して蝦夷の首領たちを説得して回る。その結果、叛乱も収まり、翌元慶3年(879)3月には、朝廷は征夷の軍を解散した。

 

 仁和2年(886)11月11日、出羽国で最上郡を分けて村山郡を設置した。

 

 一方の陸奥国では、高橋崇氏によると貞観13年(871)から延長5年(927)までの半世紀の間のいつ時かに、「国の縮小」が行われ、和賀・稗貫・紫波は、律令国家の領域とみなされなくなったという。

 

 その原因は北上川中流域以北の俘囚の勢力強大化であり、その流れがこの後の奥六郡(岩手県中部)の俘囚の司・安倍氏へと繋がって行くのだ。

 

 さて、そろそろ『エミシの群像 −英雄アテルイとその先人たち−』を終わらせようと思う。

 

 アテルイを破った坂上田村麻呂は、エミシの土地に日本の神々を移させ、宗教面からもエミシの同化を進めていった。

 

 また、日本人の多くがエミシの土地に移住させられるとともに、エミシの方も列島内の各地に散らばっていく。

 

 こうして、エミシはいつの間にか日本人に吸収され、蝦夷と言う言葉は「エゾ」と読まれるようになり、蝦夷地とは北海道を指すようになる。

 

 時間が経つことにより、東北の人びとは自分たちの血に何パーセントか含まれているエミシのことを忘れていく。

 

 上からの強制的な支配の押しつけに対して果敢に抵抗し、少なくとも一度は勝利を収めた英雄アテルイも伝説と化してしまった。

 

 しかし、東北の人びとはアテルイやモレ、ウクハウ、アザマロなどの名を忘れてはならない。

 

 彼らは、東北の地を愛し、血の汗を流して懸命に働いた郷土の先人たちである。

 

参考資料

 

書籍

 

・『日本書紀(上・下)全現代語訳』 宇治谷孟著/講談社
・『続日本紀(上・中・下)全現代語訳』 宇治谷孟著/講談社
・『日本後紀(上・中・下)全現代語訳』 森田悌著/講談社
・『日本歴史叢書2 蝦夷』 高橋富雄著/吉川弘文館
・『蝦夷 古代東北人の歴史』 高橋崇著/中央公論新社
・『蝦夷の末裔 前九年・後三年の役の実像』 高橋崇著/中央公論社
・『蝦夷の古代史』 工藤雅樹著/平凡社
・『古代東北と王権 「日本書紀」の語る蝦夷』 中路正恒著/講談社
・『日本史リブレット11 蝦夷の地と古代国家』 熊谷公男著/山川出版社
・『人物叢書 坂上田村麻呂 新稿版』 高橋崇著/吉川弘文館
・『みちのくの古代 蝦夷の世界』 大塚初重・岡田茂弘・工藤雅樹・佐原眞・新野直吉・豊田有恒/山川出版社
・『日本の歴史4 平安京』 北山茂夫著/中央公論新社
・『日本の歴史03 大王から天皇へ』 熊谷公男著/講談社
・『鹿角市史 第一巻』 鹿角市編/鹿角市
・『白鳥伝説(上・下)』 谷川健一/集英社
・『天翔る白鳥 ヤマトタケル』 小椋一葉/河内書房新社

・『北海道の古代2 続縄文・オホーツク文化』 野村崇・宇田川洋編/北海道新聞社
・『気候文明史 世界を変えた8万年の攻防』 田家康著/日本経済新聞出版社
・『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』 森博達著/中央公論社

 

Webサイト

 

・『J-TEXTS 日本文学電子図書館』
・『国造制の成立とその歴史的背景』 大川原竜一

 

 

 

 

日本はエミシを武力で征服するだけでなく、俘囚として自治権を認めていた。
 →日本が手にしたものは、エミシからの貢物。鷲や鷹の羽、昆布その他の海産物、熊・海獣の毛皮、砂金、馬
 →エミシが手にしたものは、地域で朝廷に源を発する公的権力を持っているという他のエミシに対する優位性。官吏の制服、貨幣などの威信財、鉄製の武器や農具、衣料品、米などの食料品、酒。
日本国によって死刑になったことが記録に残っているエミシはアテルイとその盟友モレだけである。

 

アテルイらは802年に降伏。
811年、和我・稗縫・斯波3郡建置。

 

エミシの江別文化はなぜ南に降りて来たのか?

 

反対にヤマト朝廷はなぜ北に向かったのか?
・8世紀から気候の温暖化が始まり、12世紀ころまで続いた。
・国際関係が悪化し北方を領土化して朝鮮・中国に備える必要があった。国防上の理由。朝廷にも自分の民を守る義務がある。

 

 

大化の改新の目的と東国・蝦夷との関係、調べる。
東国国司詔

 

なぜ、中大兄皇子らは変を起こしたか?目的は何か?蘇我政権では東アジア情勢に対応できないからか?

 

大化3年(647)の渟足柵、翌大化4年(648)の磐舟柵が作られた背景に朝鮮半島の情勢が関連していないか、調べる。とくに百済関係。高句麗。

 

 

644年から649年にかけて新羅との間に激しく戦争が行われた。はじめこそ一進一退であったが、徐々に金?信の率いる新羅軍に対して敗戦気味となり、649年8月に道薩城(忠清北道槐山郡)付近で大敗した。

 

新羅と唐が軍事同盟を結ぶ
唐は高句麗攻撃の失敗で失望が大きかった。このようなとき648年唐に新羅の使節団が到着した。後に武烈王(654〜661)になる金春秋である。百済、高句麗の攻撃で苦しんでいた新羅は唐と同盟を結び苦難を克服しようとしたのである。
新羅と唐の代表団は幾日も会議を重ねて新羅と唐が同盟軍を編成して百済と高句麗を倒そう。勝利すれば新羅は百済を、唐は高句麗を占領しようと約束した。唐の高宗は新羅の使節団を歓迎して盛大に歓送した。新羅は唐の文物を積極的に受け入れることも約束した。
新羅と唐の軍事同盟が成立してから東北アジアの情勢は急変した。百済と高句麗はその新しい情勢を知ることができず能動的に対処もできなかった。その上に国家内部の改革も十分に行うことができず2国は羅・唐同盟軍の侵攻にそれぞれ対抗しなければならなかった。

 

渟足柵、磐舟柵は改新政府の発案か、それとも前代の蘇我政権の政策の継続か?

 

アヤカスの581年、気候は寒冷か、調べる。
宣化天皇1年(536)に深刻な食糧難が記されている。この異変は世界中で30以上の古文書に見ることができ、世界的に天候に異変(寒冷化)があったことが分かる。536年の飢饉の影響でヤマト朝廷が仏教に飛びついた可能性がある。。

 

高句麗はすでに570年(欽明31年)から数回、国書をたずさえて日本海側の越に到り、倭国に修交を求めていた。(『大王から天皇へ』P.222)
高句麗が越に来たのとアヤカスらを招いたのは何か関係が無いか?

 

 

田道の頃。
5世紀、東アジアに寒冷化傾向はあらわれた。阪口豊氏は古墳時代から飛鳥時代までを「古墳寒冷期」と命名している。

 

 

日本書紀はいつ頃から書かれているか?
景行紀(巻七)はβ群で、β群の述作は文武朝の大宝令頒下以後。大宝2年(702年)

 

悪路王には大武丸(おおたきまる)と人首丸という弟がいた。
「あくろ」は地名。『悪路王伝説』P.117

 

延暦21(802)年正月7日、陸奥国の三神に階が加えられた。気仙郡の登奈孝志神、胆沢郡の駒形神、斯波郡の志賀理和気神。8世紀既に中央官人で有力な支配者たちがいた。上毛野公と一族の吉弥侯部らではないか。『東北の古代探訪』P.65

 

陸奥守の初見は上毛野小足。
上毛野小足 703 年任下総守(正五位下) 708 年任陸奥守(従四位下)

 

吉弥侯部→上毛野(下毛野)○○公
丈部→阿倍○○公
大伴部→大伴○○連 『蝦夷(崇)』P.83
名生館遺跡は丹取柵。『蝦夷(崇)』P.98

 

 

持統天皇3年4月8日、帰化してきた新羅の人を下毛野に住まわせた。
4年8月11日も同様。

 

堀一郎著作集〈第4巻〉遊幸思想と神社神道
武将の遊行伝説と民間信仰−坂上田村麻呂伝説攷

 

 4月8日と翌持統天皇4年(690)8月11日、帰化した新羅人が下毛野国に移住させられた。24年前にも百済の遺民2000人が関東に移住したが、関東地方に多数の朝鮮半島の人々が国家の政策のもと、組織的に移住していたことがわかる。朝鮮から移住した人びとの足跡はそれぞれの地域に深く刻まれることになる。

 

 司東真雄氏は、陸奥国の蝦夷は、本稿で述べられている蝦夷のほかにも、朝鮮半島から入国して無籍のまま移り住んでいた民との二種類があると述べている。

 

 少しさかのぼって霊亀元年(715)正月15日には、蝦夷と南嶋の人々77人が位階を授かっている。

 

 以前より朝鮮半島の人々の関東への移住は国家の政策のもと促進されてきたが、翌霊亀2年(716)5月16日には、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の高麗人1799人を武蔵へ移住させ高麗郡を置いた。高麗郡は現在の埼玉県南部中央域だ。

 

 8月24日、帰化した新羅人の僧などを武蔵国の未開発地に移住させ、新羅郡を建てた。後の新座郡、現在の埼玉県新座市周辺だ。2年後の天平宝字4年(760)4月28日にも新羅人131人が武蔵国に定住させられている。

 

 

・古代国家とエミシ
  第1回 エミシ登場 ヤマトタケル
  第2回 上毛野君田道の東北経略  上毛野君田道
  第3回 アヤカスの服属 アヤカス
  第4回 上毛野君形名の蝦夷討伐 上毛野君形名
・律令国家の北方政策T不比等以前
  第5回 朝廷の対蝦夷政策の転換 改新政府・郡山遺跡第T期
  第6回 阿倍臣の北方懐柔 阿倍臣
  第7回 紛争前夜 中央集権
・律令国家の北方政策U不比等以後
   第8回 巨勢麻呂の蝦夷討伐 709 元明女帝
   第9回 出羽国の建置と住民の移住 712 〃
720/8/3 不比等死亡
   第10回 按察使上毛野広人殺害 720/9/28 元正女帝
   第11回 大掾佐伯児屋麻呂殺害と多賀城築城 724/3/25に陸奥から知らせ    聖武になったばかり
    郡山遺跡、多賀城

729 長屋王の変
   第12回 奥羽直通路の開削 737 聖武
737 疫病で藤原四家死亡
   第13回 奈良時代中期の蝦夷情勢 740 広嗣の乱
752 大仏開眼会
757 奈良麻呂の乱
758 淳仁になったばかり  桃生城・雄勝城造営開始
764 仲麻呂の乱
   第14回 伊治城の完成 767 称徳女帝
770/8/4 称徳崩御
とウクハウの不気味な宣告 770/8/10
   第15回 「三十八年戦争」の勃発 774 光仁
   第16回 蝦夷を討った蝦夷アザマロ 776 光仁
   第17回 アザマロの叛乱 780 光仁
   第18回 狡猾な藤原小黒麻呂 780 光仁
・アテルイと坂上田村麻呂

  第19回 桓武の第一次蝦夷征討とアテルイ 桓武天皇と田村麻呂とアテルイ
  第20回 アテルイの類まれな軍略
  第21回 桓武の第二次蝦夷征討とアテルイの受けた痛撃
  第22回 征夷大将軍坂上田村麻呂出陣
  第23回 アテルイ斬首さる
   桓武天皇の野望と坂上田村麻呂、アテルイと悪路王伝説
・アテルイ以後のエミシ
  第24回 アテルイ以後のエミシ

 

 

蝦夷が縄文時代の文化を頑なに守る人たちだとしたら、稲作を受容した「田夷」は何だったか?
天平2年(730)正月26日、陸奥国が管轄下の田夷村の蝦夷が従順なので郡家を作りたいと申請し、許可された。
弥生文化に移行しなかったのは、生活上必要でなかったため。しかし「田夷」はなぜ発生したか?

 

倭あるいは日本の公民と戸籍から外れた人と戸に従属している奴婢を何と呼ぶ?日本人

 

蝦夷の定義
エミシと呼ばれた人びとは、日本列島古来の縄文時代から続く文化をかたくなに守り、弥生文化の流入を拒んだ人びとで、自らの国土の四周を蛮族が取り囲んでいるという中華思想の影響を受けていた朝廷によって意識的にカテゴライズされた人びとのことである。
・律令国家によって定義された人びと
居住範囲は?
文化は?
日本書紀に始めて登場する人びと。日本書紀が書かれた8世紀初頭の時点での概念では、東北北部に住む。

 

ヤマトタケルのときの蝦夷は?
ヤマト政権の国土拡張の伝説に、8世紀初頭で問題になっていた蝦夷を登場させた。
東北へのヤマト政権の国土拡張は本当に行われたか?
武甕槌・経津主は海沿いを攻略しているようだ
崇神天皇。四道将軍は、会津で落ち合っている。
崇神天皇の皇子。豊城入彦命の派遣。上毛野方面。

 

 

・日本書紀には東北に行ったとあるが古事記にはない
・しかし東北の神社に伝承が残っている
・田道の伝承も残っている
ヤマトタケルが上毛野を通ったのは、通過しただけ。

 

 

上毛野君田道のときの蝦夷は?
上毛野氏の領土拡張の伝説(家伝が日本書紀に採用された)。

 

アヤカスのときの蝦夷は?
蝦夷が毎年朝貢する画期となった。

 

上毛野君形名のときの蝦夷は?
上毛野氏の領土拡張の伝説(家伝が日本書紀に採用された)。

 

 

続縄文時代
続縄文時代(ぞくじょうもんじだい)は、北海道を中心に紀元前3世紀頃から紀元後7世紀(弥生時代から古墳時代)にかけて、擦文文化が現れるまで続いた時代で、続縄文文化に対応する。

 

『日本古代国家の北東北進出とエミシ』
不比等が権力を誇示する上でエミシの討伐は欠かせなかった。709年の蝦夷討伐を正統化するうえで過去のエミシ討伐の記事を集めさせた。
・ヤマトタケル
・上毛野君田道
・アヤカス
・上毛野君形名
エミシ討伐の始まりとして、日本書紀では日本武尊にエミシを討伐させたことにした。(古事記では東北まで攻めていない)

 

 

蝦夷概念ができたのは果たして6世紀か?
律令国家の誕生により概念が成立し、律令国家の解体により概念も消えていき、その残存が俘囚なのではないか。
蝦夷は日本書紀著述時に作られた概念か?
日本に小中華思想が芽生えてから以降の概念であるはず。
エミシは国として見られていなかった。倭王武が称した「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」に含まれていない。
倭王武が雄略天皇かどうかという根本的な謎がある。

 

エミシにとって日本とは何だったのか?
日本にとってエミシとは何だったのか?

 

エミシとは何か?
 縄文時代まで遡って日本人を考える
 弥生時代に朝鮮から渡来した人びとと混血を繰り返したのが、ヤマトの人。朝鮮人と混血しなかったのがエミシ。
 ・民族としてのエミシ
 ・概念としてのエミシ

 

中央で天皇や権力者の死があると蝦夷が活動を始める。

 

関東・南東北(国造が置かれた地域)にエミシはもともと住んでいたか?

 

ヤマトの異族討伐の相手がすべてエミシに入れ替わった?ツチグモは?
対エミシ政策が変わったのはなぜか?
1.朝貢させる
2.柵を設置
3.攻め込む
4.俘囚

 

ヤマトタケル伝承神社が東北に残っているのは何故か?
ヤマトの民が東北に移住した時に話が創作された?
地域住民はなぜそのような嘘をついたのか?
とすると、関東にもヤマトタケル伝承神社が多いのは何故か?
ヤマトの民が関東に移住する時に話が創作された?出雲の民の関東移住は知られているが、ヤマトの民に移住は知られていない。東海の人が群馬に入ってきている話は知っている。伝承だけ取り入れるということはあるのか?

 

そもそもヤマトタケルや田道は史実か?「歴史」と見てよいのか?
ヤマトタケルという個人の超人的活躍は虚構だとしても、ヤマトの将軍が関東や南東北にやってきて、ヤマトシンパを多く作り、国造にするという活動があったのは事実であろう。ただ、それらの将軍の名前が失われてしまったのはなぜか?四道将軍がそうか。『日本書紀』では四道将軍のあとにヤマトタケルが出てくるが、この前後関係にこだわる必要はないと思う。ただ、四道将軍は北東北には伝承が残っていない。ヤマトタケルの方が北に行っている。
武甕槌・経津主という個人はいなかった。同一人物である可能性がある。その神にされた人物は実際に関東地方に行っているのだろう。

 

武甕槌・経津主、四道将軍、日本武尊まで遡ると、歴史というより、民俗になってくる。「蝦夷」とは関係が希薄になるが、関東・南東北に縄文文化人がいたとすると関係してくる。しかし、関東・南東北は続縄文文化ではなく、弥生文化の範疇に入る。→4世紀から6世紀(古墳時代)の関東・南東北を調べる必要がある。
エミシとは国造時代にできた概念で、国造より北の勢力だとすると、関東・南東北にはエミシはいなかったことになる。やはりこの問題はエミシ問題とは別のテーマとなる。
国造より前は何だ?地域王国か?地域王国と国造の中間はないのか?

 

『日本古代国家の北東北進出とエミシ』は、エミシの問題を伝承や民俗でなく「歴史」の問題としてとらえる。
最初に前ふりと、エミシの概念(政治的、生物学的)を解説して、
1.朝貢させる
2.柵を設置(最前線にエミシの朝貢を迎える施設を造る。移民する)
3.攻め込む
4.俘囚
の段階を説明する。ただし、細かな時系列で紹介していくと平板な感じになり面白くない。年表の文章化は面白くない。章は上記の大きな塊にするが、内容はもっとテーマごとに書いていくようにする。

 

東北は朝廷により侵略された。
公民が移住してきて、俘囚と混血はあったか?
混血した場合、公民と俘囚のどちらかの立場を表明しなければならない。
混血した人間の代表者として、公民と俘囚の両方の利害を理解している者として奥六郡の胆沢郡郡衙(安倍頼時は鳥海柵で没している)の官人であった安倍氏が陸奥国府の在庁官人となり台頭してきたのではないか。安倍氏は中央出身という説もある。

 

じゃあ、現代の東北人は侵略されたエミシの末裔なの?
エミシはいつ消えたか?
四周を蛮族が取り囲むというイデオロギーが優先されたので、俘囚が公民化されるのはだいぶ後ではないか。
なぜ朝廷は俘囚料を出してまで俘囚を保護したのか?イデオロギーを維持するためか?
俘囚料を出してまで俘囚を保護した。897年各地の俘囚が奥羽に帰った。鎌倉時代は東国からやってきた武士と地元の有力者である土豪化していた俘囚は結婚したと考えられ、混血が一層進んだ。そのため支配層ではエミシの血は自然消滅したが、被支配層では鎌倉以降は混血は進まず、中世以降も温存されたのではないか。

 

 

なぜ柵を構築したのか?
四周を蛮族が取り囲むというイデオロギーが優先された。
『日本書紀』を読むと、大化3年(647)に渟足柵が設けられたときに、柵戸が置かれたとあるが、移民をさせることがそもそもの目的で、エミシの土地に住民を移させ、そこの住人であるという既成事実を作って、エミシの土地を占領しようとする計画だったのではないか。移住した人びとがすべて柵の中に住んでいたわけではなく、柵の周辺に集落を作って住んでいたと考えられる。移住した住民も武器を手にして自衛していただろう。
東北への移民は渟足柵・磐舟柵以前にも行われていた。
『日本書紀』を読むと、渟足柵が設けられたときに、柵戸が置かれたとあり、それが東北(越後も含む)への移民の始まりのように思えるが、郡山遺跡の近くには、郡山遺跡に先行する集落の遺跡があって、それは関東からの移住者の集落であると考えられているので、大化改新以前には、国家による東北への移住計画がすでに実行に移されており、そのあとに柵を作る政策が作られたのではないか。
そもそもエミシの土地に日本人が移住したのがトラブルの元になった。「古墳文化の北上」と表現するときれいな感じだが、文化の伝播に人の移住が含まれている場合は必ずトラブルが起きる。昭和の時代に満州に日本人が移住したときも、地元の人たちとトラブルを起こしている。国家ができる前の弥生時代にもトラブルは起きていたはずだが、古墳時代以降、国家が成立すると、国家の政策で移住した人びとは、国家権力を背負って「正統性」を主張したので、より一層横暴になったと思われる。
なぜ、朝廷は北東北を領地化しようとしたか?
国家の側からすると、税を納めてくれる国民は多い方がいいし、耕せる土地は広い方が良い。それに資源(動植物を含めて)も欲しい。それらが侵略の主な理由だろう。それに大陸から攻められる可能性を考えて、国防上北に領土が欲しかったとも考えられる。それとともに709年のエミシ征討は、権力を絶対なものにしようとする不比等の思惑も絡んでいる。
朝廷はどうして北東北を領地下に置くことができたのか。北海道側に別の国家はなく、北東北を取り合いになるという事態にはならなかった。しかし、競合が無かったせいかもしれないが、朝廷の北に延びる速度は決して早くない。北東北という地域をすべて領地化するのに、709年に武力侵攻を始めてから、百数十年はかかっている。それだけ日本の国力とエミシの力の差は隔絶していなかったということだが、朝廷はじっくり粘って時間をかけて少しずつ北東北を占領していったのだ。
エミシはあきらかに朝廷に反抗した。武力で反抗した。嫌がっていたのである。
なぜ武力をもって反抗するほど嫌がったのか?アテルイのころには国家的発想の萌芽があったのではないか。「われわれ」という意識。日本とは違う「われわれ」。
多くの人が殺され、多くの村が焼かれた結果、服従した。
なぜ服従したのか?日本とは違う「われわれ」という意識が芽生えながら、日本に服従したのは武力で負けたからか?戦国時代は民族的に日本人同士の戦いだったので、敵対した勢力同士の文化はそれほど違っておらず、武力で負けたほうはあっさりと降伏したりした。アテルイの頃になると、稲作をする「田夷」もいたが、やはり日本とエミシは文化が違っていたと考えられる。降伏することに文化を受け入れることが含まれているのなら、かなり抵抗されそうなので、田村麻呂は文化の押しつけはしないとアテルイに約束したのではないか。実際、朝廷はエミシが俘囚になったあとも俘囚の生活習慣は基本的に直さないでいる。
アテルイと田村麻呂の間にそういう取引があったか。しかしアテルイも他のエミシの部族長を説得するだけの力量があったということになる。ただし、すべての部族長が納得したわけではなく、納得せずその後も朝廷に刃向かったエミシが「悪路王」としての伝承として各地に残っているのではないか。
ただ、素直に服従していたわけでもない。しばらくの間、反抗的態度だった。
古代日本の対エミシ政策は、昭和の時代に帝国日本が大陸に進出する際の手本になったのではないか。ただ、エミシは国家の体をなしていなかった。アテルイの戦いを見てみると、部族連合の段階まで行ったと思われるので、国家成立までもう少しだった。中国が軍閥割拠であったのと状況は似ているかもしれない。

エミシ、満州と同じような歴史が繰り返されているということは、関東・南東北にもそういう歴史があったのか?
東海以西の勢力だけで関東を武力で統一した歴史の例は豊臣秀吉がそうだ。現実的には古代の日本でも同じようなことができそうだ。毛野の勢力がいくら大きくても、東海・近畿・中国・四国の勢力と戦ったら叶わないだろう。

 

エミシとは何か
・戸籍に入れる(公民化する)入れないはどこの線で分けたか?
・伝統的な国造のいる地域といない地域か?
709年の蝦夷征討から始める。不比等の野望。
・ヤマトタケルの東北遠征は8世紀に作られた話
・では田道は?
それまでの朝廷とエミシとの関係
・上毛野氏とエミシ
・アヤカス
・アベ氏の北方懐柔
奈良時代の対エミシ政策
桓武天皇・坂上田村麻呂、そしてアテルイ
アテルイ以後のエミシ
朝廷の俘囚政策

 

アイヌ語地名の謎
エミシとアイヌの関係
エミシは稲作をしていたか(古墳時代は寒冷だった)
エミシはいつからいたか
エミシはどこにいたか

 

 

前方後円墳の分布地域 胆沢
国造の分布地域 宮城県南部まで 会津にはない
柵の分布地域 正史には書いていないが最初は郡山遺跡か

 

 

アイヌの向こうにはオホーツク人が。4世紀、道北を占める。6世紀、南下して奥尻島を拠点とし本州へも交易にやってくる。アイヌと抗争か?『アイヌ学入門』P.51
4世紀、道北をオホーツク人に占拠されたアイヌは寒冷化して稲作が放棄され人口が希薄になった北東北に進出。この時期にアイヌ語地名が北東北に残る。5世紀後葉、古墳時代人が北上すると、6世紀には北海道に撤退。
大化改新以降の新政権の7世紀後葉、北東北太平洋沿岸の律令国家人(ただし、いわゆるエミシ)が北海道の南半、石狩低地帯に進出。農耕民。阿倍臣の北進の頃。同時期に太平洋側も進出したことは、7世紀には関東系の土器が宮城県まで出てくる。9世紀には移住も絶えてアイヌと同化。
647年、渟足柵。また、翌年、磐舟柵。新政権の施策。
13世紀のニヴフはオホーツク人の末裔。
P.72 ナイの分布は宮城県以北、北海道北部に分布、サハリン、ペツの分布は青森・秋田・岩手、北海道南部に分布、サハリンにない。
ナイが古いアイヌ語、4世紀の頃のアイヌの分布。ペツは5〜6世紀代。
P.273 9世紀後葉、多数の和人が青森に一気に入りこんだ。律令国家の威勢が岩手まで及んだ時期。陰陽師や修験者も入りこんだ。熊野修験は10世紀には北海道に入りこんだ。
P.300 5世紀代には金属技術を持った渡来系集団が製鉄技術と馬の飼育を伴って宮城へ進出していた。『古墳時代東国における渡来系文化の受容と展開』所収亀田修一「陸奥の渡来人(予察)」都立と町田にある
角塚古墳の被葬者の集落である中半入遺跡では、住民である律令国家人と渡来系の人びと、それにアイヌが交わっていた。
→一番肝心な、6・7・8世紀の北東北の状況は?6世紀にアイヌを北海道に追いやった和人は、どこから来た人か?関東か?南東北か?政府の政策によってか?それとも個人的にか?
全国を国造にしていた蘇我氏の時代は、北東北に国造がいないので、政治的に北東北には関与できていない。となると、上毛野氏か?アイヌを追いやったということは、その地を占拠したわけだが、国家の領域には入っていない。空白地?
7世紀末には急激に人口が増え、江釣子古墳群もできる。胆沢川、和賀川、豊沢川の北岸に古墳群がある。これはなぜか?川の北岸に墓域があるということは、そこに集落もあったはず。となると、南への防御を意識している。アイヌはすでに撤退しているとすると、築造者は誰か?
元々の北東北の住民は数が減ったところに内地から人が移住した。つまり、胆沢勢力はフロンティアの人たちが多いのでそれはケンカが強いのは当たり前。アメリカみたいなもの。
5世紀末に角塚古墳が築かれた頃は前方後円墳体制の末端に連なったが、その後、勢力を得て、国造体制には加わらず、独立の道を歩み、北方に版図を伸ばし、アイヌを北海道へ追いやる。そして、その末裔が8世紀のアテルイ。すなわち、エミシと呼ばれていた人たちは、律令国家の北側で、独自の版図を持って国家的様相を呈していたと考えても良いかもしれない。ただし、彼らは普通の日本人。ただ問題は、彼らの名前、アテルイ、モレ、ケアルイ、ウクハウなど。これがアイヌ語だとすると、アイヌがとっくに北海道に撤退した後に、アイヌ語地名は残っていたとしても、アイヌ語を操っていたことになる。元々は日本語をしゃべっていたはずなのに何故か?夷語は通訳を通さないと分からない。胆沢勢力がアイヌ語地名をそのまま使用し、言葉もヤマト言葉から変えてしまったのは、彼らの独特なアイデンティティを感じられる。
日本武尊の足跡の北限は一関。山を越えて胆沢までは行っていない。日本書紀では宮城くらいまでなので、そうすると国造体制のころの話となる。

 

蝦夷とは誰か?
蝦夷という名称の由来
これを押さえた上で、日本書紀、続日本紀、日本後記を元に時系列に解説。
俘囚について
武士の発生につながるか?被差別民につながるか?
アテルイの降伏によって胆沢地方は朝廷の支配下となったが、11世紀にはまた安倍氏が独立している。やはり10世紀が画期ではないか。
9世紀後半、宇多天皇の「寛平の治」。道真登用、遣唐使の中止。子の醍醐天皇は、三代実録。律令国家最後の輝き。
承平・天慶の乱で社会崩壊。
村上天皇の天暦の治で復活。
世の中的には末法思想。
11世紀の天皇は墓の場所さえ分からなくなった人も多い。
嵯峨朝以降、密教と道教が結びつき陰陽道・神道が発展、穢れを嫌ったため、貴族も狩猟をやめ、武士は冷たい目で見られるようになる。『武士像の創出』P.56

 

『新版古代の日本』
津軽地方では弥生時代前期から水田による稲作があった。対馬暖流の影響で夏期の温度は高い。宮城や福島でも中期以降、水田が見られる。岩手県は弥生時代に北上川沿いに集落が見られるがそれほど多くない印象。古墳時代前期・中期はさらに少ない。このころはまだ和人が北上する前でアイヌと原住民がいたはずだが、なぜ彼らの住居が見つかっていないのだろう。アイヌ語地名が山間部・海岸部に多く残っているから集落もその辺にあったのだろう。前期の遺跡である盛岡の永福寺山遺跡(山頂の集落)からは後北C2式土器と、後北式の墓壙群が発見されているというので、これは江別文化。アイヌの人々。後北式土器の分布する時期は、塩釜式期と南小泉式期(4世紀から5世紀代)。P.144

 

 

 

蝦夷問題
エミシとエゾの違い
蝦夷とアイヌの違い
蝦夷は関東にもいたか?
アイヌ語との関係
毛人との関係
毛人と毛野国との関係
蝦夷の土地に前方後円墳がある
記紀歌謡のエミシ
アザマロは日本語名。アテルイやモレやウクハウなどはどう考えても日本語ではない。
日本が小中華帝国になろうとして日本書紀を書いた8世紀前半、日本はどこまで版図にしていたのか?6世紀の後半ころまでは国造の範囲。日本書紀では日本は古来から小中華であったということを言いたいはず。

 

敏達天皇10年(581)のアヤカスらの服属は、宮城県域の蝦夷が国造になったことを言っているのではないか?アヤカスは日本語をしゃべっている。敏達のころは物部守屋がそのまま大連を引き継ぎ、蘇我馬子が大臣になった。

 

6世紀後半から北東北の人口が増えるが、つまり北東北への移民は何か政治情勢と関係があるのか?欽明のとき(在位539〜571)、蘇我稲目が大臣。

 

その後、大化改新のあと、城柵を作る。最初ぬたりの柵はいわふねの柵を作ったのは、蝦夷対策と言うよりも朝鮮対策ではないか。つきさらの柵の初見が658年でその次の出羽柵の初見は709年。この50年間で政府の方針が変わった。斉明天皇5年(659)唐に蝦夷を連れて行っている。この蝦夷は熟蝦夷であるので、国造の外の一番近いところ、宮城か山形の蝦夷。
672年天武即位。このころ朝鮮の脅威が去る。持統は690年即位。文武が697年に即位し不比等が活躍し始める。不比等になってから何かが変わった。鹿島神宮・香取神社と藤原氏の関係は?鹿島神宮と香取神社は蝦夷対策。

 

城柵を作って統治をしたのは、あきらかに倭国民以外の人間がいたからだ。しかしその人たちは、倭国人と同じような生活をしていた。国境線の向こう側に移住した人たちも多い。
国境線の向こう側に逃亡した人たちを討伐するには規模が大きすぎる。兵数に関しては誇張があるのではないか。

 

関東及び南東北は本当にヤマト朝廷に武力によって服従させれたのか?

 

エミシの初見は、『日本書紀』の神武紀で、
もともと日本語に「エミシ」という言葉があった。それは記紀歌謡に出てくるので、5世紀のころには「エミシ」という言葉があり、それは勇猛な人を意味していた。
5世紀にヤマト朝廷の人がわざわざエミシと呼んだ人びとはどの地方の人びとか?
エミシが東の人で勇猛だとすると、なぜ勇猛なことを知っているのか?戦った経験があったからか?
一方で、倭王武の上表文に毛人が出てくる。しかし毛人をエミシと訓じたかは分からない。
その後、飛鳥時代になるとエミシという言葉は「毛人」という字が当てられるようになり、蘇我毛人(『日本書紀』で蘇我「蝦夷」と表記されている理由は後述)など、人名にも使われるようになった。
それがなぜ小中華帝国を自負する律令国家によって東夷を現す「蝦夷」の発音となったのだろうか?
現代のアムール川下流やサハリンの住民のうち、トゥングース・満州系諸族はアイヌのことをKuiと呼び、ニヴヒはKuyiと呼んでいる。KuiあるいはKuyiと呼ばれている人びとは、元の時代には骨嵬、明代には苦兀、苦夷と表記されており、元の時代まで遡っても発音は同じであるので、さらに唐の時代まで遡っても同じであった可能性が高い。そのころ中国では、日本の北東に蝦夷が存在することを知っていたが、その蝦夷というのはKuiあるいはKuyiの音に字を当てたものである可能性が高い(蝦夷は「クイ」に近い「カイ」と読める)。
一方、日本では東方の人びとのことを古来からエミシと呼んでいたが、それは中国人が言うところの蝦夷(クイあるいはカイ)と風俗が似ていたので、蝦夷という語を輸入して、それをエミシと読むようにした。
蘇我毛人が『日本書紀』において蘇我蝦夷と表記されているのは、蝦夷という文字を遡って付けたからであろう。

 

では、「エミシ」という語自体はどのように生まれたのであろうか?

 

佐伯今毛人(さえきのいまえみし、養老3年(719年) - 延暦9年10月3日(790年11月17日))

 

 

「エミシは藤原氏の陰謀によって造られた「人造人間」だった!」

 

 

 

エミシの初見は、『日本書紀』の神武紀で、もともと日本語に「エミシ」という言葉があった。それは記紀歌謡に出てくるので、5世紀のころには「エミシ」という言葉があり、それは勇猛な人を意味していた。
5世紀にヤマト朝廷の人がわざわざエミシと呼んだ人びとはどの地方の人びとか?
エミシが東の人で勇猛だとすると、なぜ勇猛なことを知っているのか?戦った経験があったからか?
一方で、倭王武の上表文に毛人が出てくる。しかし毛人をエミシと訓じたかは分からない。
その後、飛鳥時代になるとエミシという言葉は「毛人」という字が当てられるようになり、蘇我毛人(『日本書紀』で蘇我「蝦夷」と表記されている理由は後述)など、人名にも使われるようになった。
それがなぜ小中華帝国を自負する律令国家によって東夷を現す「蝦夷」の発音となったのだろうか?
現代のアムール川下流やサハリンの住民のうち、トゥングース・満州系諸族はアイヌのことをKuiと呼び、ニヴヒはKuyiと呼んでいる。KuiあるいはKuyiと呼ばれている人びとは、元の時代には骨嵬、明代には苦兀、苦夷と表記されており、元の時代まで遡っても発音は同じであるので、さらに唐の時代まで遡っても同じであった可能性が高い。そのころ中国では、日本の北東に蝦夷が存在することを知っていたが、その蝦夷というのはKuiあるいはKuyiの音に字を当てたものである可能性が高い(蝦夷は「クイ」に近い「カイ」と読める)。
一方、日本では東方の人びとのことを古来からエミシと呼んでいたが、それは中国人が言うところの蝦夷(クイあるいはカイ)と風俗が似ていたので、蝦夷という語を輸入して、それをエミシと読むようにした。
蘇我毛人が『日本書紀』において蘇我蝦夷と表記されているのは、蝦夷という文字を遡って付けたからであろう。

 

東北地方をことさら異民族視する必要はない。漢民族と匈奴みたいに見ることはできない。若干文化は違うが、同じ日本列島で、しかも距離的にも遠くなく、途中難所らしいものもなく、普通に歩いて行けば行ける場所なので、異国にはなりようがない。
だから、関東地方の歴史を見れば、東北地方がどうだったかは大体分かると思う。
とくに南東北は関東と同じように朝廷の支配に入っていく。
4世紀には会津には日本海側から文化が入ってきて、前方後円墳が数代に渡り構築。確実にヤマトの影響下。
その後、仙台にも前方後円墳。
6世紀、国造も仙台あたりまでいた模様。
 国造は継体朝の施策か。継体は507年即位。
仙台の郡山遺跡
 7世紀中葉から8世紀前葉(おそらく724年)までの間に、I期官衙(地図)、それに続くII期官衙(地図)、II期と同時期の郡山廃寺(地図)が営まれた。
古川市大崎の名生館遺跡も最古のものは7世紀後半と推定
陸奥南部にも郡が次々と造られたが、それは元国造・伴造・県主ら。
このあたりまでの南東北の歴史は関東地方となんら変わることがない。
ただし、北東北は様相が違う。なぜか?
和銅元年(708)、朝廷は越後国内に出羽郡を設置。和銅5年(712)、国に昇格。
【画期】和銅2年(709)、巨勢麻呂の蝦夷討伐
 平城京遷都で多忙かつ非常にお金がかかる時期になぜ討伐か。当時の最高権力者は不比等。不比等の意図は何か?

 北東北に律令国家の領域を伸ばしたいのであれば、今まで関東や南東北に対してやってきたような政治的な方法でやっていけばよいのに、なぜここで武力発動か?それによって誰が得するか?
 武力を発動したということは、六国史には書いていないが、それまで外交的政治的に解決しようと散々やったのかもしれない。だとすると、外交相手となるような大きな勢力が北東北にあったということになる。ただ、考古学的にはそれは認められないようだ。
 その後、かなりの数(数万人規模)で、東国の住民を北東北に移住させている。
 ということは、元々の北東北の人たちは人数が少なくて開発が進まないからか。
 そして朝鮮人を関東に入れている。716年、高麗郡建郡。
 日本海側・太平洋側ともに海沿いに北上して湊に拠点を作っていたようで、養老4年(720)には渡島の津軽の津司が出てくる。
養老4年(720)9月28日、上毛野朝臣広人殺害。仕向けたか陰謀である可能性が高い。もしかすると、上毛野氏の力をそぐこととエミシに難癖をつけることの一挙両得を狙ったのかもしれない。7ヶ月後に帰還。ただし同時に隼人も叛乱している。
 神亀元年(724)佐伯宿禰児屋麻呂殺害。今度の朝廷の対応は普通なので、予期はしていなかった。この年、多賀城築城。国府が北進。北進したということは、支配領域が北に広がったということ。

 

 

 

***【7月30日(日) 歴旅やじきた楽校「古代東北の統治拠点・多賀城の魅力」】

 

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 次に本日の流れです。今日は2時間と言う贅沢な時間をいただいているので、少しゆっくりペースと言うか、途中休憩を挟んで進行していこうと思っています。第一部は多賀城の概要を、そして第二部は多賀城を歩くとなっていますが、今から多賀城へ行くとちょっと時間が足りなくなりますので、私が撮影してきた写真をお見せしながら多賀城の見どころを紹介したいと思います。15時半に終了予定です。それでは始めます。

 

2.主題
 2−1.多賀城の位置 8分
 これから多賀城の魅力について話していくわけですが、まずは場所ですね。皆さんこの地図を見てください。
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 はい、東北地方です。現在東北地方にはみなさん御存じの通り、青森・岩手・秋田・宮城・山形・福島の6県ありますね。多賀城は宮城県にあります。市の名前はそのものズバリ、多賀城市です。場所はここですね。仙台から直線距離で10kmくらいで働いている人の4割強は仙台市内に通勤しています。
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 「多賀城」という名前を自治体名にもってきた歴史は長く、1889年、明治22年の町村制施行のときに13村が合わさって「多賀城村」としました。地元の方がいかに多賀城を誇りに持っているかが分かりますね。もう127年も多賀城を冠した自治体名で、その間少しは仙台市との境界変更があったのですが、ほぼ領域はそのままなのです。
最近の平成の大合併のときにもそのままでした。いろいろな地域を見ていると、例えば太宰府市や岩手の平泉町(ひらいずみちょう)もそうですが、強力な史跡があるところは、合併しないでやったりしています。平泉町にいたっては現在では岩手県内でもっとも面積が狭く、しかも人口は8000人もいないのに独立を維持しているのです。多賀城市は観光客の数でいえば平泉には叶わないと思いますが、それでも多賀城を誇りにして大事にしている様子が良く分かります。
宮城郡です。宮城郡自体は1300年も前からあって、そもそも宮というのは天皇のいる場所ですから、宮城と宮崎と言うのはえらい名前なわけです。しかも宮殿とお城が地名に入っているわけですから、凄い地名ですね。
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ちなみに多賀城は特別史跡なんですよ。国指定史跡は全国に約1700カ所あます。皆さん、史跡の中でも別格である特別史跡は国内にいくつあるか知っていますか?【少し間】61箇所です。東北には6つしかなく、宮城県内では唯一の特別史跡です。多賀城の場合は、正式名を「多賀城跡 附 寺跡」といいます。「附」は何て読むんでしょうかね。これは「つけたり」と呼びます。それと、「日本三大史跡」というのがあって、平城京と大宰府と並び称されています。

 

 では、場所については分かったと思います。つぎに少しばかり前提となる話しをさせていただきます。
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2−2 多賀城とは何か 7分

 

多賀城、名前には「城」がついていますね。そのことから分かる通り、多賀城は「城」なのです。でも城と言ったら皆さんどんなものを思い浮かべるでしょうか。多くの方は、姫路城とか、先日被災してしまった熊本城のような天守閣のある江戸時代のお城を思い浮かべるかもしれません。はたまた、もう少しマニアになると、山の中を土を削ったり盛ったりして作った中世の山城を思い浮かべることでしょう。私もそういう中世のお城が大好きで、冬になると山城に向かいます。でも、多賀城というのはそれよりももっともっと古い、8世紀に作られた城なんです。今からもう1300年くらい前ですよ。その1300年前がどういう時代だったのか、時代背景についてはまたのちほどお話しします。ちなみに、お城が好きな方っていらっしゃいますか?実は多賀城は日本100名城に入っているんですよ。中近世の城以外では珍しいですね。
 多賀城は今では普通に「多賀城」というように「城」の字があてられていますが、文献上の初見となる『続日本紀』の天平9年(737)では「多賀柵」と記されています。柵も城も、「き」と発音し、7世紀後半の時点で、西日本の「き」は南九州の薩摩・大隅・日向以外は「城」、その3国と東日本の「き」は「柵」という字があてられて明確に分けられています。ただ、公的には8世紀の後半になるとどっちでもいいじゃん的な雰囲気になります。ちなみに、「柵」というのはその字の通り、木の柵で周りを囲っていたからですが、果たして多賀城が柵で周りを囲まれていたのかはのちほどお話しします。
 ここで多賀城はその名の通り城であることが分かりました。では、戦国時代や江戸時代の城は何のために築かれたでしょうか。単純に話すと、戦国時代の城は戦いのための城が数多く存在し、江戸時代の場合は一つの大名に城は一つというのが原則でしたので、大名の住居としてのほか領国の政庁としての役割がメインでした。では、多賀城は城は城でもどのような目的の城かというと、歴史用語では「城柵」と呼ばれ、かつ、「陸奥国府」でもあります。
 まず一つ目の「城柵」ですが、東北地方の城柵の場合は、それは朝廷が東北地方に進出する拠点とするとともに地元の蝦夷を支配するための拠点を指します。さあ、でてきましたよ、蝦夷が。蝦夷とはいったい誰なのでしょうか?実はこれについて第2回、8月27日に詳しく話しますので、今日はさらっと行きます。蝦夷というのは、単純化して言うと東北地方内で日本の統治が及ぶ範囲の外側に住んでいた人たちです。そのほとんどは我々と同じ日本人です。国家は政策によって北に領域を拡げて行くわけですが、それとは無関係に個人的に領域の外に行った人も沢山いるわけですね。開拓精神が旺盛な人もいれば冒険心のある人もいただろうし、ビジネスチャンスを求めて行った商人や職人、それに国内にいられなくなり逃亡した犯罪者も混ざっていたと考えられます。また、のちにアイヌと呼ばれる人たちも時期によっては北海道から南下してきており、そういう人たちも含まれていたと考えても良いです。
つぎに国府ですが、今に例えれば、国というのは都道府県のようなものなので、国府は都道府県庁のようなものです。つまり、陸奥の国の首都です。陸奥国府の場合は、他の国府と違ってそういった朝廷の支配に入っていない人たちに対して、
・饗給
・斥候
・征討
をすることが任務に入っています。つまり食事や支給品を与え、監視を怠らず、不穏な動きがあった場合は武力を発動してやっつける、というのが任務に含まれているのです。
陸奥の国は当時、めちゃくちゃ広かったのです。「国」という区画は、明治維新の廃藩置県まで使われるのですが、中世以降は現在の東北地方の太平洋側、つまり福島・宮城・岩手、それに青森は陸奥の国だったのです。
ただ、これも後ほど話しますが、多賀城が築かれた8世紀の段階では、まだ日本国の版図は岩手県まで伸びていませんでした。
【現在の東北地方と724年当時の東北地方の地図】

 

ここまでの話をまとめると、多賀城は8世紀に築かれた城で、陸奥国の国府だったということになります。
【11まとめノート】
多賀城は、8世紀に築かれた(城柵)で、陸奥国の(国府 )である。

 

 2−4.築城時の時代背景  15分

 

 皆さんが昔、といったら失礼ですが、学生のころに学んだ日本史の教科書を思い起こしてみてください。そこには東北地方のことが果たしてどれだけ書かれていたでしょうか。私の娘は今高校2年生なんですが、最近の教科書を読むと、昔よりかは地方の歴史のことが多く書かれており、私自身が高校生の時の教科書には、一応、多賀城と大宰府については少し詳しく載っていました。でも、そうはいってもやはり中央の政治動向が中心で、なおかつ「歴史なんかは近代史だけやればいい」とまで言い切る先生もいる始末で、そうすると古代の東北の歴史なんかは、ほとんどの人が興味を持つにいたるまでは行かないわけです。興味を持つ以前に、目に触れないわけですから。ですから、岩手で育った元奥さんも言っていましたが、日本史を習っても外国の歴史のように感じたということです。自分たちとは関係ない話だと思ったそうです。確かに中央の歴史、というか政治史から見ると東北の歴史は重要ではないかもしれませんが、当たり前のこととして東北にも昔から人が住んでいて、歴史が刻まれていたわけです。今日話しているのはその歴史の一コマですね。
 さて皆さん、年号はお好きですか?
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 歴史が嫌いなる原因の一つは、テストのために無理やり年号を暗記させられることのようです。私は子供のころから年号を覚えることに苦痛を感じたことのない変わった人間なんですが、皆さんはいかがですか?年号が大好きという方は手を挙げてください。【挙手】
やはり皆さんお好きでないようですね。でもここはちょっと我慢してください。
多賀城の創建年は、神亀元年、つまり724年です。先ほどから言っている通り、いまから1300年も前ですね。724年の頃にはどんな出来事があったでしょうか?ちょっと思い出してみてください。当時どんなことがあったのか、東北地方に対する施策を交えて羅列してみます。
701年 大宝律令によって国郡里制施行
708年 出羽郡建置許可
709年 史上初の蝦夷征伐
710年 平城京遷都
712年 出羽国建置
713年 全国の地名を「好字」2字に改める ある種酷い政策!
717年 里を郷に改称 この「国郡郷」がその後ずっと続く
718年 陸奥国から岩城・岩背国を分出
720年 陸奥国按察使上毛野広人殺害
721年 陸奥国按察使が出羽国も管轄する

724年 多賀城築城
726〜750 各国の国府が整備される
737年 奥羽横断ルートの開削
740年 藤原広嗣の乱。聖武天皇は平城京を放棄し恭仁宮・難波宮・紫香楽宮と転々とし平城京へ戻る。
741年 国分寺建立の詔

 

 これを上から順に一つずつ説明していくとおそらく皆さんはすぐに睡魔に襲われると思いますので、ポイントを解説します。
 712年に出羽国建置。出羽は陸奥と並んで、東北地方を二分する区画ですね。でも日本海側は歴史的には越の国の延長と考えられており、708年に越後国の中に出羽郡が置かれ、712年には陸奥国から置賜郡と最上郡を割いて出羽郡と合体させて「国」となりました。このことからも分かる通り、この頃は日本の領地が北へ拡大していく時代だったのです。ですから裏を返せば、それより北の東北地方はまだ日本ではなかったのです。
 ちなみに陸奥国がいつできたのかについては実は分かっておらず、712年に置賜郡と最上郡を割いたことが分かることからそれ以前であることは確実です。
 ところで、709年には史上初の蝦夷征伐とあります。なぜ蝦夷に対して、朝廷は軍隊を差し向けたのでしょうか。国家に不穏な人たちだと認定されたからです。北の大地でいったい何が起こったのでしょうか。709年の前の年には、出羽郡が建郡されていますね。つまり、その地はまた朝廷の支配が緩やかだったところ、完全に郡として行政に組み込まれてしまったのです。そうすると、他の地域の例から見ても、内地からの移民もやってきたはずで、当然ながら新旧の住民間で軋轢が起こるし、自由の地で生きていた人たちも公民に組み込まれてしまったら税を納めなければならなくなります。そういった不満が渦巻き、不穏な情勢となって中央軍の遠征となったのでしょう。
 しかし「続日本紀」に書かれた709年の遠征記事をそのまま鵜呑みにして良いのでしょうか?おっと、これは次回話します。
 そして本日の主題である多賀城、724年に造られました。多賀城は誰が造ったのかというと、大野東人という人で、これは驚くべきことなんですが、築城について『続日本紀』には記載がないのです。普通考えたらこれはおかしいですね。でも、なんで724年に造ったのかが分かるのかというと、重要文化財の多賀城碑というのがあって、そこに刻まれていることから分かります。
 では、724年に陸奥国の国府としての多賀城が築城されました。でも、陸奥の国自体はそれより前からあったわけですよね。そうすると、多賀城以前にどこかの場所に国府がないと行政ができないわけです。その場所はどこでしょうか?【挙手】多賀城の場所より北にあったと思う方?南にあったと思う方?はい、正解は南なんですが、北という考えも良いと思います。国家の領域は拡大と縮小を繰り返すので、多賀城以前に国の領域がもっと北まであった時期があっても良いと考えるのも歴史を楽しむ上で重要な発想だと思いますよ。

 

 2−5.初代国府は? 3分

 

 実は多賀城は2代目の陸奥国府で、それ以前は、現在の宮城県太白区郡山に最初の国府があったのです。多賀城の南西約13kmの地点です。
【地図を表示】
郡山遺跡と呼ばれているその遺跡は、使用時期が大きく2期に分かれ、U期の方が陸奥国府で、7世紀末頃に造られました。
地図で位置関係を見てください。なんで国府の場所を北へ移転したのでしょうか?【指す】
そうですね、国家の領地が北へ延びたからですね。7世紀末の段階では、郡山遺跡の場所が適切だったのが、その後朝廷は現在の宮城県の大崎地方まで進出を果たします。また、718年に、岩城・岩背国を分出させ、そうすると陸奥国の領域はどうなったか、地図をご覧ください。手元資料の1ページ目です。そうなると、郡山遺跡ではちょっと南になりますかね。多賀城に移すとバランスが良くなります。また、仙台平野と大崎平野という二つの肥沃な平野の双方に気を配れ、後述しますが塩竈を湊に使えることから海上交通へのアクセスも格段に良くなりました。当時の街道もこの場所を起点として、海沿いに向かう海道と内陸へ向かう山道に分かれました。

 

【まとめノート】
多賀城は2代目の陸奥国府で、初代は(    )市太白区郡山にある(   )遺跡である。

 

3.多賀城を歩く 35分

 

 どこの史跡でもよくあるのですが、遺跡というのはいろいろな時代が重層的に重なっている場合があります。多賀城の場合も大きく4期あり、古い遺構の上に新しい遺構が重なっていることが多いわけです。そうすると史跡公園として整備する際に、どの時代を復元するかが問題になってきて、実際、多賀城跡に行ってみると、場所場所で復元した時代が違うことが分かります。それを前提として説明していきますが、ぐちゃぐちゃにならないように注意してください。

 

3−1 地形と平面プラン 質問以外で6分半。
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 まず、多賀城の地形。この地図を見てください。当時のお役所というと代表的なのは平城京や平安京で、平らな土地に四角い区画で造るイメージがあると思います。ところが多賀城は北東の塩竈方面から伸びてきた丘陵の先端部分に主に乗っかっていて、しかも丘陵の上も平坦ではなく起伏に富んでおり、一番高い場所は標高が52mを数え、河畔の沖積地は3mほどなので比高差はなんと50mもあります。ご覧の通り、平面プランが真四角くないのは地形を上手に取り入れたからです。大きさ的にはだいたい900m四方と考えてよいです。
 さて、もしあなたが築城の場所の選定を任されたとします。その場合、この多賀城の位置はどう評価できますか?今までお話しした通り、多賀城は国府ですが、蝦夷が北の方面に住んでいます。その情勢を鑑みてどう思いますか?【指す】
 そうですね、蝦夷がいる方向の北側には加瀬沼があり、それが防御力を増しており、西側の川によってもそちら方面は守られていますね。では一番弱い方面をどっち方向だと思いますか?【指す】
 そうです。尾根続きの東側です。ただし、北東には後で話す通り国府の湊、つまり国府津であったと考えられる塩竈港があります。
 つぎに平面プランに着目して、外郭線をずーっと追ってみてください。それを見て何か気付くことはありますか?【指す】
 こんなに広い城なのに門が3つしかないのです。非常に閉鎖的ですね。門というのは、戦いの際に城を護るための一番重要な場所になり、攻め手は門を突き破って城内に入ろうと殺到します。ですから門が沢山あると、それだけ城内の兵士も分散することになって防御力が弱まり、敵に対してウェルカムと言っているようなものなのですね。
門は東と西と南です。北側は一番危険なので門を作る必要はありません。では、東は?実は東門を出て進むと、その先には塩竈の湊があるのです。塩竈港は、国府津と呼ばれる国府付随の湊だったのです。物流は陸と海、それぞれ利用しますね。
 多賀城は前述の通り広大で、長い時間をかけて整備もかなり進んでいますので、今日全部お話しするのは時間もないしまた複雑になるので、今日はポイントを絞って説明します。

 

3−2 門と築地塀 10分
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 ここは曹司域の北東側、東門の北側です。私は最初これを見たときに土塁だと思いました。中世の城館跡をたくさん見ているので土塁に見えてしまったのです。ところがこれは、「築地塀」の跡だったのです。
 「築地」これは何と読むでしょうか?
 東京の中央区の築地の場合は埋め立て地を築き固めたという意味で付けられた地名と言われています。でもこの場合は「ついじ」と呼びます。これは版築工法というやり方で作られる壁で、まず板で外側と内側の壁を作った後、その中に土を入れて築固めて作ります。今の姿からは想像できないですが、当時は4mもの高い壁だったのです。
【15表示】
 東門は奈良時代と平安時代で位置や作り方が異なっています。ご覧の通り、平安時代になると少しだけ西に後退するのです。
 現地には奈良時代と平安時代の両方が復元されていますので見るときは注意しましょう。
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まずは奈良時代ですが、創建時にはこのような棟木門でした。壁はさきほど行った築地塀になっており、描かれている人物の身長と比べてもかなり高かったのが分かりますね。でもこの時期にはまだ瓦は葺かれていません。なお、この時期の復元はありません。
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現地に復元されているのは第U期です。復元と言っても、柱が建っていた場所が分かるようになっているだけですが、最低限これだけでも当時の門の大きさが想像できますね。写真には柱が横に4つ、奥行きに3つあり計12本あります。柱が12本あっても八脚門と呼ばれます。八脚門とはこんな感じです。
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12本柱があってもまんなかの4本は屋根だけを支えているのではありません。この八脚門は門の中でも格式が高く、しかも瓦葺になります。この当時、瓦は超高級品で、こういったお役所や寺院にしか葺かれませんでした。しかも役所の中のすべての建物が瓦ぶきであったわけではありません。多賀城は約900m四方の築地塀の大部分が瓦葺だったので、それはそれは大変なお金が掛かっています。
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奈良時代の東門の場所から内部を見渡すと、向こうに平安時代の門の復元が見えます。

コの字型に築地塀の跡があるのが見えますね。
これを復元するとこんな感じなのです。
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櫓が両サイドにあって、その奥に門がある。これはかなりカッコいいですね。
780年に伊治公呰麻呂という人が反乱を起こした際に多賀城は燃えてしまったのですが、そのあとに復興されたのがこの形です。
【21表示】
この門をくぐるとこんな感じに道が続いていました。少し進むと左手に門がありました。
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ここも八脚門です。ここは曹司域のなかの区切りの一つで、この先にはお役人さんの仕事場がありました。
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ただこちらの壁は材木塀で屋根は板葺です。さすがに内部までお金はかけられないですね。
以上観てきたとおり、東門は奈良時代のものと平安時代の物が復元されていてかなり見応えがあるスポットで、ここの部分だけでも普通に国指史跡として遜色がありません。
つぎに西門ですが、西門は現状何も復元されていないので、3つ目の門である南門を見てみます。
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南門から南側には国府域と呼ばれる市街地が展開していました。なので当時の地元の人たちが普段から見ていたのは南門です。平城京でいえば、朱雀門ですね。往時はこのようになっていたようです。
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ここでは敢えて平城京の朱雀門の写真は見せませんが、辺境の地にもこのような立派な門を備えた役所があったなんて素敵じゃないですか?現地の説明板によるとこの門は復元の計画があるそうです。是非復元して欲しいですね。
ちなみに南門の近くには有名な多賀城碑があります。
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このような覆屋の中にあり、日本三大古碑の一つで重要文化財です。
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これは碑の一部分ですが、これが762年に彫られた文字だと考えるとロマンを感じますね。1254年前ですよ。多賀城碑は一時は偽物ではと言われていたこともあったのですが、現在では本物として決着しているようです。
さて次は、政庁部分を見てみましょう。

 

3−3 政庁部分
宝亀11年(780)伊治公呰麻呂の乱
 貞観の地震(869)を経て、11世紀中ごろまで

 

3−4 館前遺跡
次に館前遺跡を見ます。
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曹司域の南東の角から外に出て歩いて行くとすぐに見えてきます。少し高くなっている場所が遺跡です。
これは、パンフレットに建物の想像図が載っていますが、政庁正殿に匹敵する規模の建物のほか合計6棟の建物跡が見つかっており、9世紀頃の国司の邸宅かそうじゃないとしても何か重要な建物だったと考えられています。
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館前遺跡は国府多賀城駅の方から見下すことができます。
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ちなみになかなか良い鉄道の撮影スポットのような気がします。
館前遺跡は昭和55年に特別史跡多賀城跡附多賀城廃寺跡に追加指定されています。

 

3−5 多賀城廃寺
実は、この多賀城廃寺跡もかなり面白いんです。

 

3−5 周辺史跡

 

3−5−1.鹽竈神社
   国府には湊がある。国府津。塩竈津は国府の外港で今でも香津町という住所がありますが、それは国府津の当て字です。なお、七北田川は現在とは流路が違って、七北田川も海へ向かう重要な交通路でした。

 

3−5−2.アラハバキ神社

 

3−5−3.陸奥総社

 

 10世紀に延喜式という一種の法律書が書かれ、そのなかに公から経済的支援を受ける神社の一覧があります。それを延喜式内社、あるいは略して式内社と呼びます。
 国司のお仕事の一つにそういった国内の有力神社へ参拝することがあります。でも国司が忙しいためか、それとも単に楽したかったのか、両方の理由があると思いますが、そういった主要な神様を国府の近くに集めて祀っておけば、一気に参拝が済むという横着な方法を考えつきました。それを総社と呼び、各国にあるのですが、もちろん陸奥にもあります。陸奥国は国内で一番広大な国であるので、むしろ陸奥にこそあって欲しい制度ではないでしょうか。何しろ陸奥には式内社が100座もあるのです。
 陸奥の総社を訪れて圧巻だったのは、陸奥国内の式内社の名前がズラ―っと一覧された看板があったことです。
【写真】
これは神社好きには堪らないです。これを一つひとつ読んで行くだけで気持ちが高ぶってきます。
 ただし、本当にこの神社が総社であったかは実は確定ではないのです。この神社は何度も火災にあったりして、それを裏付ける資料は無いのです。古くから鹽竈神社を陸奥総社と考える説があり、『多賀城市史』でもその説を載せて慎重な書き方をしていますが、鹽竈神社の宮司さんは鹽竈神社は総社ではないと言っているようです。

 

 3−5−4.東北歴史博物館

 

 まあとにかく立派な外見の建物です。県立のレヴェルになると立派な建物がたまにありますが、なかなか素敵な佇まいです。
 敷地内には今野家住宅という江戸時代に建てられた古民家が移築されており、古民家好きの方はくつろげると思います。

 

 3−6.余話、南北朝時代の多賀城

 

歴史好きの方の中には、真実を求める方がいます。例えば邪馬台国はどこなのかはっきりさせたいとか。こういう問題であれば考古学の成果によってもしかしたらいつか回答がでるかもしれません。でも、例えば信長は光秀に殺されました。そのこと自体は史実と言えましょう。でも光秀が信長を殺した理由は光秀にしかわかりません。だれも他人の心の中のことは分からないのです。ですからそういった問題で絶対的な回答を求めたい方や、自分の意見を押し通そうとする方とは話したくないですね。そういった問題について、みんなであーだこーだと推測を出し合うのは楽しい作業だと思います。謀反を題材にすることが適切かどうかは別として、そういうことが歴史のロマンだと思うのです。

 

4.エピローグ 多賀城の謎 5分
   なぜ日本書紀に築城が書かれていないのか?  
   通常、城柵の名前には地名をもとにするが、この辺には「多賀」という地名は無い(残っていないだけ?)。
 多賀は「多珂」と書く場所もあり、「たか」よ読んだか。土地が高いの意味。多賀城の立地は丘。常陸国には多珂郡がある。多珂郡からの移民が地名を名付けたのか?
今日は「エミシ」を連発しましたが、そのエミシとは一体何なのでしょうか。次回お話します。

 

 

2016/8/7

 

『律令国家の北進とエミシ』

 

律令国家とは?
 蘇我氏の本宗家は有名な大化改新で滅んでいますね。645年です。ちなみに蘇我入鹿が暗殺された事件は「乙巳の変」と呼ばれており、大化改新と言うのはそれを契機として開始された一連の政治改革のことを言います。ですので、大化改新で蘇我氏が滅んだというのは正確ではなく、蘇我氏が滅んで大化改新が始まったというのが本当です。
 ということは、645年までは蘇我氏が政権を担っていたわけです。蘇我氏が天皇だったという説もあります。この頃はそもそも天皇という名称はなく、大王です。当時の大王が完全なる世襲制であったかどうかは分からないので、いろいろな可能性を考えるのが古代史のロマン、楽しいところだと思います。
 さて、そんな蘇我氏が政権を担っていた頃の地方はどうなっていたでしょうか。当時は国造という人が地方を治めていました。彼らは全国に約120人くらいはいたと考えられます。
 で、大化改新で発足した孝徳天皇の政権は中国の律令という法律を手本にして、新たな国づくりを開始します。それが一先ずの完成を見るのが701年の大宝律令の施行だとすると、50年少しの間、着々と国づくりをしていくのですね。そしてこれ以降、だいたい10世紀くらいまでの日本国家のことを「律令国家」と呼ぶのです。今日はその律令国家が東北地方に向かって版図を伸ばしていく過程をお話しします。
 律令国家が東北地方に版図を伸ばしていったということは、東北地方は日本ではなかったのでしょうか?さきほどお話しした、国造の時代、朝廷が力を及ぼしていた国造の最北は宮城県の亘理郡あたりまででした。つまり、今の仙台市まではギリ届いていないのです。それが大化改新を経て、律令国家となりつつある日本が、仙台以北に進出を開始して行くわけです。
 領土拡張というと帝国主義のようで何か嫌な感じがするでしょう。でも今日話している時代は古代です。今普通に日本の国の一部である東北地方が日本に組み込まれていく大事な過程を話すのです。
 で、何で律令国家が東北地方への進出を開始したのでしょうか。これはいろいろ考えられ、それら全部が要因だと思います。例えば、朝鮮との関係を言えば、当時力を付けてきた新羅が、もしかしたら海を渡って東北地方の日本海側に進出するかもしれない。それに先んじて取っておく必要があります。つぎに、資源。東北地方は非常に資源が豊富です。海洋資源、昆布や海獣の皮、森林資源、それに鉱物です。金が発見されたのはこれよりだい後の 年だと言われていますが、もしかしたら朝廷は金の存在を推測していたか、もっと勘繰ると実はすでに発見していたのではないかと思います。このように東北地方はとても豊かな大地だったので、内部的に力をつけてきた朝廷が北進を試みないわけが無いのです。

 

エミシとは誰か
 さて、今日のタイトルは「律令国家の北進とエミシ」ですね。律令国家についてと、それが北進を始めた理由について話しました。つぎに問題の「エミシ」ですね。エミシに対して非常に興味を持っている方は意外と多いようです。おそらく今日お集まりの方々もそうだと思います。
 私がエミシに興味を持った当初は、まず『日本書紀』を読みあさりました。その中で、大化改新以前の主なトピックについて話します。

 

 これを見て何か気付きませんでしょうか?共通のものは?
 そこに書かれている蝦夷は実は上毛野氏との関連が深いのです。上毛野氏は独自に東北進出を行っており、その記録が日本書紀を編集する際に資料として使われ、上毛野氏の事跡が日本国家の事跡として描かれているのです。上毛野氏とエミシとの関連についてはこれも一つのテーマになりますので、もしかしたら今後お話しする機会があるかもしれません。というか、話したいです。
でも今日は律令国家の北進がテーマなので、律令国家になった以降の話をします。
 そもそもエミシのイメージを日本書紀をもとに抱いてしまうと、面倒くさいことになるのです。日本書紀という書物はいったいどのような書物なのかというと、ふつうに説明すると「六国史」の一つ、そのトップバッターで、日本国の「正史」ということになっています。神話の話から始まって、天武天皇の奥さんの持統天皇までの日本の正史がつづられていることになっていますのが、読めばわかるとおり、とくに前半は荒唐無稽な話が続きます。戦後は、日本書紀は信ずるに足らずという風潮が起きて、研究者によってはまったくのフィクションだと判断した人もいました。ただ、その内容にも見るべきもの、つまり真実が書かれているのではないかと考える研究者も出てきて、内容をよく吟味して、資料として使えるかどうかしっかり判断したうえで史料として使うようになってきました。
 そこ描かれているエミシは、東北地方に住む朝廷の支配に服さない「まつろわぬ民」で、日本人とは習俗の違う野蛮人で、朝廷の討伐の対象でした。これは後で話す通り、ほぼフィクションなのですが、なぜそういう人たちとして描かれたかと言うと、日本書紀が書かれて時代の日本のお国事情が関係してきます。
 当時の日本は中国を中心とした東アジア社会において、中国とは対等な国を標榜する必要があり、日本も中華帝国にならって四方に野蛮人住んでおり、彼らは日本の天皇徳を慕ってやってくる存在で、また不穏な動きがあった場合は平定する対象である必要があったからです。四方の野蛮人と言うのは、北狄・東夷・西戎・南蛮で、『続日本紀』では、書き始めの頃に限って、東北地方のエミシを「蝦夷」と表記し、新潟方面のエミシを「蝦狄」と表記している。中国が異民族を呼ぶときの「北狄・東夷・南蛮・西戎」の影響だ。エミシも当初は日本海側は「蝦狄」、太平洋側は「蝦夷」の字が当てられていることから、北狄と東夷を意識したことは明らかです。そして日本書紀は当然ながら全文漢文で書かれており、対象読書は日本の貴族以外にも、中国や朝鮮の偉い人に呼んで欲しかったのです。そして、「あー、日本ってこんな凄い国なんだなあ」と思って欲しかったのだと思います。
 日本書紀の政治的意図についてはもっと話したいことがありますが、今日はここまでとします。
 で、日本書紀に描かれた蝦夷が虚構に近いものだとすると本当は何者なんでしょうか。蝦夷というのは、律令国家が支配する範囲の外側、この場合は東北地方ですが、そこに住んでいた人たちのことで、上述した日本のお国事情によってそこにたまたま住んでいた人たちは蝦夷という極めて政治的な名称で呼ばれてしまったのです。ですから当初はそう呼ばれた人たちは自分たちが蝦夷と呼ばれている何て知らなかったと思いますし、エミシという言葉自体が政治用語のようなものですから、おそらく朝廷の貴族しか知らなかったのだと思います。
 たまたまそこに住んでいた人たちというのは、何者なんでしょうか。異民族でしょうか。違います。我々と同じ日本人がメインです。なぜ支配の外側に行っていたかと言うと、フロンティア精神に溢れる人たちや、ビジネスチャンスと求めて行った商人、職人、犯罪者などです。また、アイヌも北海道から南下してきているので、アイヌの人たちもいたと思います。
 なお、エミシについては考えるべき問題が物凄く沢山あります。さらにもっと深く知りたい方は、今月の27日土曜日に、エミシを集中して2時間話します。エミシ特集です。今日はエミシについても話しますが、律令国家の北進もテーマでありますので、エミシについてもっと知りたい方は27日にいらしてください。

 

2.

 

 

 以上、律令国家とエミシについての解説が終わりました。ではここからは、律令国家が東北地方へ進出していく過程をお話しします。最初のトピックは、越の国、現在の新潟県に造られた、渟足柵と磐舟柵です。
 日本書紀によると、乙巳の変の2年後の647年に渟足柵が、翌年には磐舟柵が造られました。この「柵」とは何でしょうか。これは歴史用語では「城柵」と呼ばれているものです。城柵については先日7月30日の歴旅やじきた楽校でも話しました。簡単に言うと、蝦夷の土地を支配するに当たって、その拠点となる施設で、東北地方の場合は「○○柵」と呼ばれていました。文字通り、当初は木で作った柵で周りを囲まれていたと考えられ、軍事的な拠点であると同時に政治的な役所の役割を持っていた柵もありました。有名なのは陸奥国府でもある多賀城ですね。多賀城も当初は「多賀柵」と呼ばれていました。渟足柵と磐舟柵は東北地方ではありませんが、新潟市内も大きく見れば、東北地方の日本海側の続きと考えてください。乙巳の変から2年後にはそういった施設を作ってしまったわけで、それ以前の蘇我政権のときにはそういった話しは一切ありませんでした。乙巳の変から2年後と言うスピードでこういう事業を起こしていることから、孝徳政権の首班である中大兄皇子や藤原鎌足たちは、以前から東北地方に対して政策の腹案を持っていたはずで、とくに鎌足の息子である不比等のその後の政策から想像するに、鎌足が積極的に東北地方への進出を考えていたのではないかと思います。実際、東北地方の太平洋側には、タケミカヅチやフツヌシという神様が祀られていますが、タケミカヅチは藤原氏の本家である中臣氏が信奉している神です。
 さて、孝徳政権は今までになかった「城柵」の設置を始め、孝徳の次に皇位に就いた斉明天皇のときには、阿倍臣、また箇所によって具体的に阿倍引田臣比羅夫と出ていますが、阿倍氏が船団を率いて東北地方の日本海側を北上し蝦夷を懐柔します。もちろんここでいう蝦夷は日本の支配の及ばない北方において、実力でその地を治めることに成功した豪族のことで、彼らに対して阿倍氏は官位を授けたりしつつ、柔らかい言葉でいえば親睦を深めて行ったのです。一説には北海道まで行ったと言われていますが、実際、異民族である粛慎とは敵対して戦闘状態になっていますので、北海道まで行った可能性はあるのではないでしょうか。
 この北方探検がおこなわれていたは、日本書紀では658年から660年までの3年間です。なお、阿倍氏は北陸側に勢力を持っていた古代豪族で、このあと関東や東北にも勢力を延ばしてきますので、先述したように東国の最有力者である上毛野氏が東北地方での影響力を高め過ぎると都合が悪いので、それと競合させる必要もあってより朝廷寄りの阿倍氏を対蝦夷政策に抜擢したのかもしれません。
 さて、この頃、日本書紀には太平洋側の動きが記載されていないのですが、仙台市太白区にある郡山遺跡が築かれます。それがまったく「柵」であることから、渟足柵や磐舟柵が築造された頃、太平洋側にも郡山遺跡が築造され、対蝦夷政策が実施されていたことが分かります。こちらの太平洋側では上毛野氏が主導していた可能性が高いと私は思っています。
 孝徳、斉明と2代に渡って東北政策が進められましたが、その後しばらく東北地方に対しては積極的な動きが認められなくなります。その理由は、660年に百済が滅亡してから、日本国内も大変な騒ぎになっていたからです。663年には百済の旧臣たちを援助して半島へ出兵し、白村江の戦いが行われ我が国は敗北を喫します。当時の日本の軍隊は、各地の豪族たちの軍隊の寄せ集めで、日本海側を懐柔した阿倍氏や、おそらく太平洋側をやっていた上毛野氏も当然ながら半島へ軍勢を派遣しなければならず、東北地方に力を割いているわけにはいかなくなったのです。そして敗戦によって、唐の役人が多い時は2000人も日本へやってきます。イメージ的にはGHQですね。ただ、日本は唐の植民地になったわけではないので、GHQと言ってしまうのは言い過ぎですね。続いて、672年には壬申の乱というクーデターが起きて、天武天皇が乗っ取ります。日本は唐の脅威にさらされていたのですが、運よく新羅が唐に対して宣戦布告してくれたこともあり、天武天皇は天皇になることができ、もしかすると天武は新羅と結んでいたかもしれません。新羅の対唐宣戦布告と壬申の乱はあまりにもタイミングが良すぎます。実際天武政権以降は、新羅とは懇意になるからです。
 7世紀の第3四半期には郡山遺跡が築かれ、それから10年か20年後くらいには、朝廷の勢力は大崎平野まで伸びていることが分かります。というのも663年の白村江の戦いで捕虜になっていた、陸奥国信太郡の壬生五百足(みぶいおたり)らが707年に解放され帰国したとあるからです。663年の時点で信太郡はありました。かつての古墳時代に前方後円墳体制の実質的な最北端の地であった江合川沿いまで、朝廷は正式な版図としていたのです。ただし、大崎平野全体を支配下においていたと考えるのも早計で、部分的にまだら模様みたいな感じで支配地を伸ばしていったと考えた方がいいかもしれません。江合川南岸にある大崎の名生館遺跡は最も古い時期は7世紀半ば頃と推定されています。
 ここまで第一段階です。

 

 

 第二段階は、東北地方で戦いや役人の暗殺が多発し始める時期です。天武天皇亡きあと、その奥さんだった持統天皇、それに天武の孫である文武天皇、文武の母である元明天皇と複雑な継承劇で天皇家は継がれていき、天武天皇以降が血筋による皇位継承が行われるようになり、これ以降が本当の意味での万世一系と考えてよいと思います。それはそれとして、『続日本紀』によると、元明天皇の709年、史上初の朝廷による蝦夷征伐が行われます。その理由は陸奥・越後の蝦夷が、「野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に危害を加える」ということで、遠江(静岡県)・駿河(同)・甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)・越前(福井県)・越中(富山県)などから兵を動員し、左大弁巨勢朝臣麻呂(こせのあそんまろ)を陸奥鎮東将軍に、民部大輔佐伯宿禰石湯(さえきのすくねいわゆ)を征越後蝦夷将軍に、内蔵頭紀朝臣諸人(きのあそんもろひと)を副将軍に任じ軍隊を派遣しました。でもこの頃はちょうど平城京の建設時期で、お金がとても必要だったのでとんでもなくお金のかかる戦争に果たしてどれだけ力を避けたのか疑問です。兵隊を出した国々は東日本の国々なので、それぞれが自国の予算で兵隊を出し、都から出陣した巨勢麻呂らはおそらく幹部級の少数の軍隊で出陣し、各地の軍勢を集めつつ、名ばかりの征夷を行ったのではないでしょうか。相手だって数万もいるわけはなく、せいぜい100人くらいの蜂起であれば、1000人程度の軍勢を派遣すれば勝てないはずないと思います。ですのでこのときの征夷は、もちろん懲らしめる意味もあったのだと思いますが、むしろ朝廷の威厳を高めるためのイベント的なものだったかもしれません。翌年には平城京への遷都が控えていたわけですし、その平城京で非常にいい場所に邸宅を構える藤原不比等が自らの政治基盤を固める意味もあり、また戦いに行った将軍たちは帰還後官位が上がるわけですから、不比等が自分が可愛がっている子分達を昇進させるために行った征夷と考えることもできます。
養老4年(720)9月28日、陸奥国から女帝元正の朝廷に驚くべき報告が上がった。蝦夷が反乱して陸奥国按察使(あぜち)で正五位上の上毛野朝臣広人(かみつけののあそんひろひと)を殺害したというのだ。
神亀元年(724)3月25日に朝廷に届いた陸奥国からの知らせによると、海道(大崎から桃生・牡鹿を経て三陸方面に伸びた道)方面の蝦夷が反乱を起こし、大掾(国の三等官)で従六位上の佐伯宿禰児屋麻呂(さえきのすくねこやまろ)を殺害したのである。
 この年、多賀城築城。718年に陸奥国から石背国と石城国を分出させたことにより、郡山遺跡では南へんしすぎるということもあり多賀城へ移転。もちろん理由は他にもたくさんある。多賀城は北東側から伸びる松島丘陵の先端に築かれており、弱点はもちろん丘続きの北東側です。でもその先には国府津である塩竈湊があることから北東側は多賀城築城の時点では安全圏だったと考えてよいと思います。北東側というと牡鹿郡がありますが、そこの有力者である道嶋氏はのちに東北地方の出身者としてはもっとも出世するので、早くから道嶋氏が主導してその地を朝廷の支配地域にしていたと考えてよいと思います。
これまで、出羽国の最前線である出羽柵は、現在の山形県庄内地方にあったが、天平5年(733)12月26日に、秋田村の高清水岡(秋田市)に移転させられ、出羽国の範囲が北に拡充された。また、雄勝村に郡を建て、民を居住させた。なお、出羽柵は天平宝字元年(757)頃から秋田城と呼ばれるようになる。
天平9年(737)には、陸奥按察使大野朝臣東人(おおののあそんあずまびと)が、陸奥と出羽の直通路を貫通させたいと言上し、持節大使兵部卿藤原朝臣麻呂(ふじわらのあそんまろ。不比等の子で藤原四家のひとつ京家の祖)と、副使佐伯宿禰豊人(さえきのすくねとよひと)・常陸守坂本朝臣宇頭麻佐(さかもとのあそんうずまさ)らを陸奥国に進発させた。麻呂らは2月29日に多賀柵に到着し、東人と協議し常陸・上総・下総・武蔵・上野・下野の兵1000人を動員し工事を行った。ところが、それを知った蝦夷が疑いと恐れを抱いたので、蝦夷で遠田郡の郡領遠田君雄人(とおだのきみおひと)を海沿いの道に遣わし、蝦夷和我君計安塁(わがのきみけあるい)を山中の道に遣わし、蝦夷を説諭させた。そして勇敢な蝦夷を196人選んで東人に委ね、459人を玉造などの五つの柵に配した。麻呂らは残りの345人を率いて多賀柵を守り、宇頭麻佐は玉造柵(たまつくりのき。大崎市)を守り、大伴宿禰美濃麻呂(おおとものすくねみのまろ)は新田柵(にいだのき。大崎市田尻八幡)を守り、大掾日下部宿禰大麻呂(くさかべのすくねおおまろ)は牡鹿柵(おじかのき。東松島市赤井の赤井遺跡)を守った。
 2月25日、東人は多賀柵を進発し、3月1日には配下の紀朝臣武良士(きのあそんむらじ)らと兵や蝦夷を率いて色麻柵(しかまのき。宮城県色麻町近辺か)を発し、その日のうちに出羽国大室駅(山形県尾花沢市)に到着した。そこで出羽国守田辺史難波(たなべのふひとなにわ)と合流し、賊地に入り、道を開拓しながら進む。加美郡(色麻)から玉野(大室駅)までは160里、そこから先の比羅保許山(ひらほこやま)までは80里だ。東人が進んだのはここまでだったが、さらに雄勝村までの50里は二つの河を渡るという。
 今まで岩手県の内陸部に日本の影響力が及んだ形跡は、古墳時代(5世紀後半)の角塚古墳の築造以降しばらくなかったが、ここで和我君計安塁の名前が現れることから、この時点で和賀方面(岩手県北上市)まで朝廷の影響下に入っていたことがわかる。北上川の中流域もまだら模様に、朝廷に属する蝦夷とそうでない蝦夷が存在し始めたということだ。胆沢は起伏していないが、雄勝の建郡したこともあり、出羽側からのアプローチによって和賀はいち早く朝廷の指揮下に入った。また、前述の通り、宮城県の北部には、この時点で玉造柵・新田柵・牡鹿柵・色麻柵があったことも確認できた。

 

第3段階、本格的な戦いの日々。「三十八年戦争」の勃発。 約半世紀の平穏を破って、また奥羽が合戦に巻き込まれることになった。宝亀5年(774)7月23日、光仁天皇が河内守紀朝臣広純(かわちのかみきのあそんひろずみ)に鎮守副将軍を兼任させ、陸奥国按察使兼陸奥守兼鎮守将軍大伴宿禰駿河麻呂(むつのくにあぜちけんむつのかみけんちんじゅしょうぐんおおとものすくねするがまろ)に、「すみやかに蝦夷を討ち滅ぼせ」と勅したのだ。
 その命から2日後の25日、陸奥国から「海道の蝦夷が桃生城を襲撃して、西郭を破った」との報告が入った。機先を制して蝦夷が攻撃を仕掛けてきたのだ。4年前に「同族を率いて必ず城柵を侵略しよう」と宣言した宇屈波宇(ウクハウ)の攻撃に違いない。この襲撃事件を契機として、後の世に「三十八年戦争」と呼ばれる戦乱が続くことになる。なお、桃生城はその後再建されていない。
 桃生城襲撃のあと戦火は拡大し、8月2日に光仁は坂東八国に救援部隊の出撃を命じた。
宮城県から山を越えた岩手県側にはまた別の勢力がいました。その勢力はかなり大きかったので、朝廷はなかなか岩手県域に南から食い込むことができず、出羽方面から奥羽山脈を越えて、その勢力の北側である和賀や志和に手を伸ばしていました。その岩手県南方の勢力とはいったい誰の勢力でしょうか。それはかの有名なアテルイ率いる胆沢の勢力です。正確には三十八年戦争が勃発した時はまだアテルイの父か祖父の世代と考えた方がいいと思います。蝦夷の歴史を調べて行くと、この胆沢の蝦夷が史上最強だったのではないかと思います。
 780年、伊治公呰麻呂の叛乱。東北支配はグダグダになります。
 征討軍が発せられましたが、伊治公呰麻呂が退却したと考えられる伊治柵は回復できず、さらに征討軍は解散という異例の事態となり、もっと驚くのは何ら成果の上げられなかった征討軍の将軍たちの官位が上がっていることです。
 桓武天皇が即位し、積極的に征夷を推進。後に桓武天皇の治世を象徴する「征夷と造都」です。
 アテルイの降伏によりようやく長年進出ができなかった胆沢に朝廷の支配がおよぶ。胆沢城、志和城、徳丹城が築かれる。
 桓武天皇は4度目の征夷を中止し806年に崩御。
 811年には和賀・稗縫・斯波が建郡。でも岩手県北地域と青森県はまだ日本じゃないですよ。桓武天皇の征夷は終わりましたが、やはり朝廷は領土の拡張をしたくて、ついに岩手県北部の爾薩体や沿岸部の幣伊を攻め、弘仁2年(811)には文屋綿麻呂の建議で完全に征夷が終わり、長い「三十八年戦争」も終結しました。
 でもまだ青森県の南部地方には手が及んでいません。にもかかわらず、9世紀の後半から10世紀前半にかけて元々爾薩体と呼ばれた岩手県北部と、中部にある和賀郡などの支配が緩んでしまい、また日本の領地から外れてしまったようなのです。その頃には律令国家という体制自体が崩壊の一途をたどっており、939年には坂東で平将門の乱が起き、各地にあった律令国家の象徴であった国府や国分寺が衰退し、いよいよ時代は王朝国家へと流れて行きます。今日のテーマは律令国家ですので、王朝国家に遷り替わった以降の話はしません。王朝国家に移り替わった後の東北の歴史のトピックと言えば、奥六郡に安陪氏が台頭してきて11世紀には前九年の役が起き、つづく後三年の役の後には奥州藤原氏の100年に及ぶ支配があり、源頼朝率いる鎌倉幕府によってそれが滅ぼされるという形で歴史は続いて行きます。
 さて、本日の話はこれで終わりますが。お配りした資料の中に私のプロフィールが書いてありますが、そこにメールアドレスが書いてあります。インターネットができる方限定になって申し訳ないのですが、本日は質疑応答は設けませんので、もしご質問等がありましたらこの後でもいいですし、そこに書かれているアドレスにメールをいただけば、私の分かる範囲でお答えさせていただきます。それでは、本日はご清聴ありがとうございました。

 

8/30

 

 

第一章 前回のおさらい 6分
 前回は「古代東北の統治拠点・多賀城の魅力」として、陸奥国府多賀城とその周辺の史跡について話しました。
 多賀城というのは陸奥国の国府であるとともに城柵でした。国府というのは全国を六十余州に分けた「国」という行政区画の首都、今でいえば県庁のようなものです。そして城柵というのは、それ以前に朝廷の支配下に会った地方の首長である国造の支配地よりも北側、具体的には仙台平野よりも北に進出する際の拠点です。その地には本日の主題であるエミシが住んでいました。陸奥国の国司には他の国司には無い特殊な任務である、饗給・斥候・征討という任務がありました。ここで一点お詫びがあります。「饗給」のことを前回は「きょうきゅう」と発音しましたが、歴史用語としては「こうごう」と発音するのが正しいようです。済みませんでした。
 そして多賀城の見所などを解説したわけですが、今言ったエミシというのが何者なのかについては、日本書紀が編さんされた8世紀初頭の時点で、日本は中国と方を並べるべく頑張っていて、中国と同じように周辺に蛮族がいる設定にしたくて、当時たまたま北東北にいた人たちがエミシという極めて政治的な言葉で呼ばれるようになったのです。なので北東北に住んでいた人たちは自分たちがエミシと呼ばれていることなんて思ってもみなかったはずです。

 

 

補足:
当初、城柵のなかに一般人は住んでおらず、柵戸は城外に住んでいたが、伊治城のころには三重構造城柵が現れ、一般住民もその中に住むようになる。久米歌は天武朝の所産か

 

第二章 エミシとは誰か?再び

 

 

「蝦夷」という文字。江戸時代には、北海道のことを「蝦夷地」と書いて「えぞち」よ呼んでいたので、「えぞ」と「えみし」がごっちゃになっている方もおられると思います。今日はまず、えぞとえみしの違いから話しましょう。

 

エミシとは何かという研究は戦後間もない段階では、異民族説と日本辺民説があり、どちらかにはっきりさせようという形で論争が繰り返されましたが、現在では蝦夷とは政治的な用語で、実態は異民族と辺民の両方が混ざっていることが分かっています。

 

 

日本書紀の斉明天皇の記事によると、658年から3年に渡って阿倍臣が日本海側を北上して遠征していますが、その中には「陸奥の蝦夷」と「渡嶋の蝦夷」それに「粛慎」(しゅくしん・みしはせ・あしはせ)が登場します。まずはその中の一つ、陸奥の蝦夷は、前回でお話した北東北のエミシです。日本書紀を編さんした段階で、たまたま北東北に住んでいた人たちのことですね。前回、日本の領内にいたフロンティア精神が溢れる人やビジネスチャンスを求める商人、さらには領内にいられなくなった犯罪者などが国造の範囲よりも外側、つまり太平洋側で言えれば仙台平野よりも北側に進出したと言いました。では、彼らが進出した北東北の地域はそもそも「原住民」と呼ばれる人は住んでいたのでしょうか。

 

さらに時代をさかのぼると、約1万5千年前以降、日本は1万年も続く縄文時代という時代になります。当時、東北地方にはたくさんの人が住んでいました。そしてそのあと、日本列島の多くの地域は弥生時代という時代になります。稲作が普及した時代ですね。ここで一つ話しがずれますが、もしかすると皆さんは弥生時代になって日本中どこでもお米が取れるようになって日本人の主食はお米になったと思っているかもしれません。確かに、青森県には垂柳遺跡(田舎館村)や砂沢遺跡(弘前市)では水田の跡が見つかっており、紀元前の段階で稲作は行われていました。ところが、この後稲作は続いていないのです。北海道の稲作が始まったのは最近出るというのは想像できると思いますが、実は東北地方もとくに北部の方は稲作が定着するのは相当遅く、場所によってはようやく戦後になってから稲作ができるようになった地域もあるのです。岩手県北部に住む知人は、昔は一般人は米は食べられず、粟・稗そして蕎麦なんかを食べていたと言っていました。そば粉で作った蕎麦かっけというのをいただいたことがあるんですが、三角形に薄くそば粉を伸ばしたものに自家製のニンニク味噌を付けて食べます。地元の人は貧しい人の食べ物と卑下していましたが、初めて食べた私は美味しくてバクバク食べて知人の家族にビックリされました。紀元後、キリストが生まれて以降、北東北はどうなっていたか?あ、今キリスト、青森にはキリストの墓があるのです。話しがずれるので止めます。遺跡の数が激減。つまり人口が希薄になる。青森県の太平洋側には5世紀には進出しています。この人たちが、「たまたまたいた」人たちの主流派で、陸奥の蝦夷と呼ばれる人たちです。
次に、渡嶋の蝦夷ですが、この渡嶋というのはどこでしょうか。いくつか説があるようですが、北海道と考える人が多いようです。瀬川拓郎さんの『アイヌの世界』には、北海道と考える論拠が載っていて、それによると考古学的な見地から北海道と考えてよいといいます。その考古学的な見地とはなんでしょうか。
当時の北海道には縄文人の子孫が住んでいました。北海道の文化は稲作が無かったりして西日本とはあきらかに文化が違うので、弥生時代には移行せずに、本州が弥生時代になってからは、続縄文時代というくくりになります。便宜的に続縄文人と呼びますが、彼らが住んでいました。東北北部の人口が希薄になったのに北海道ではバリバリ人が住んでいるわけですね。それだけ北海道は豊かだということです。さらには北海道の先のサハリン、そこにはオホーツク人という続縄文人とは別の民族が住んでおり、4世紀以降、オホーツク人が北海道北部に進出してくるのです。そしてその影響もあって、北海道にいた続縄文人が津軽海峡を越えて東北北部に進出してきます。この続縄文人こそ現代のアイヌの先祖なんですが、続縄文人がそのまま近代アイヌに続いたかというとそれほど簡単な話でありません。近代アイヌには縄文人にも本土日本人にもいないハプログループYが含まれている。Yはオホーツク人の影響を考えられる。ただ、北東北に濃密に分布しているアイヌ語地名は、このときに北海道の続縄文人が付けた地名なのです。ちなみにまた話しがずれますが、よく縄文人の子孫がアイヌと琉球人という説を聴きますが、琉球人は8〜12世紀頃に本土から移住した人が優勢となり、元々の縄文人の子孫はマイノリティになり同化してしまったと考えられており、一方のアイヌには縄文系の形質と言語をより強く残しており、アイヌこそ縄文人の文化を色濃く残している唯一の民族といっても良いかもしれません。この辺りの日本人のルーツの話は、今クラツーでも「GEENツーリズム」というタイトルで宮田太郎先生が先頭に立って講座やツアーを開始しており、私もその企てに参加していますので、こちらに興味がある方は今後発行されるクラツーのパンフレットをよくよく見るようにしていてください。
話しを戻します。阿倍臣の遠征記事では渡嶋の蝦夷と粛慎が敵対関係にあり、阿倍臣は渡嶋の蝦夷に味方して粛慎を撃滅します。そのとき粛慎は弊賂弁嶋を拠点にしていたと書かれています。この日本書紀の話は考古学的にも整合性が取れていて、6世紀以降、オホーツク人は奥尻島に拠点を設けていたことが分かるので、蝦夷とは明らかに異質な粛慎という人たちはオホーツク人のことで、弊賂弁嶋は奥尻島と考えていいと思います。オホーツク人と北海道の続縄文人は緊張関係に会ったようで、戦いで戦死したと思われる人たちの墓も見つかっています。北東北に進出してアイヌ語地名を残した続縄文人は6世紀には北海道に撤退します。なぜ撤退したのかは、日本人が北上したからとも考えられ、5世紀には現在の岩手県奥州市に中半入遺跡というのが築かれ、それはまさしく豪族居館であり、また角塚古墳という列島最北端の前方後円墳も築かれます。北上川流域を北上して言ったんですね。絶対とは言えないですが、この角塚古墳の被葬者の子孫がのちのち、坂上田村麻呂と戦うアテルイかも知れず、こういった歴史的経緯からすると、アテルイは異民族でも何でもなく、先祖が関東地方かどこからか移住してきていただけなのです。

 

中国の古代史を読んだことのある方は、粛慎と聴くと春秋戦国時代のことじゃないかと思うかもしれません。それはツングース系の民族なんですが、なぜかそれよりも相当後に書かれた日本書紀でも粛慎という異民族を登場させており、それはさきほど言った通り、ツングース系の民族ではなくオホーツク人のことで、オホーツク人はツングースでもアイヌでもなく、現在は樺太南部や沿海州に住むニヴフと呼ばれる少数民族がその末裔と考えられています。
オホーツク人は北海道に撤退してきた続縄文人との勢力争いに負けたためか、9世紀末には大部分はサハリンに撤退します。ただ、道東には一部の人たちが取り残されたようで、12世紀末には擦文人に同化しました。おや、今度はまた擦文人という人が出てきました。でもこれは今日の主題から後の話でしかも北海道の歴史になりますので今日はお話しません。

 

アイヌからオロッコと呼ばれたツングース系のウィルタ。ウィルタ語。

 

ツングース系民俗で現在でも人口が多いのは満州族。歴史的に見ると高句麗や百済はツングース系といわれており、そうすると日本にも高句麗や百済の人たちは結構渡ってきているので、少し日本人にも混ざっているでしょう。

 

 

日本語とアイヌ語の同系関係は不明。なぜならば両者とも系統が分からないからだ。

 

 

エミシの語源
 日本書紀の来目歌に出てくる。

 

蝦夷と書いて、

 

10分

 

日本書紀がリリースされたのは720年ですが、おそらくその直後のことかと思われますが、役所で日本書紀の講読が行われ、そのときは蝦夷のことを「エビス」と読んでいるのです。
養老5年(721)の戸籍には孔王部衣比須がおりエビスという言葉が出ており、平安時代にも「エビス」と発音する人名が現れ、日本書紀リリース以降には「エミシ」と読むことはない。奈良時代には「毛人」や「蝦夷」という名前がたくさんある。両者とも「エミシ」と読み、人名にはまだ使われていた。ただ、日本書紀には「毛人」は一つも出てこず、エミシはすべて「蝦夷」で統一されています。
毛人の初見は、倭王武、雄略天皇であるのが定説になっていますが、その武が中国の皇帝に奉った上表文にこのようにあります。「東は毛人を征すること五十五国、西に衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐこと九十五国」ちなみに海北の九十五国は朝鮮半島の国々で、日本は4世紀の頃には朝鮮半島で高句麗と戦っています。ところで話しは少しずれますが、上述の東の毛人と西の衆夷を合わせると何国になりますか?そう。121国ですね。この数はとても重要なのです。雄略天皇より前の大王が、列島内にある121国を併呑させたということなのですが、有名な女王卑弥呼と邪馬台国の記述がある魏志倭人伝にも、「旧百余国」とあります。日本列島には元々100を余る国があったということなんですが、仮に邪馬台国の場所を奈良県とすると、東北南部から九州まで100を余る国があったことになります。そして、『先代旧事本紀』の「国造本紀」には、全国に135の国造が書かれています。さらにもう一つ、隋書「倭国伝」にも600年頃、軍尼(クニ)が百二十人とあります。これをまとめると、
・2世紀よりも前 百余国
・5世紀の雄略天皇より前 121国
・6世紀後半の国造の数 135
・600年前後 120
となり、日本列島は、弥生時代後半から大化改新までは常に100余の領域に分かれていたということになり、それが列島内の自然な区画でした。これが大化改新以降で令制国となり六十余国に統合されて、今は47都道府県です。

 

エミシはアイヌ語ではない
エゾはアイヌ語からきている

 

 

第四章 その後の蝦夷
 朝廷側に降ったエミシは「俘囚」と呼ばれ、列島各地へ移配された。移配は725年からはじまり、田村麻呂が事実上軍隊を指揮してアテルイと戦った794年以降に拡大し、総数は数千人から1万人以上か。移配先は全国44ヶ国におよび、税金から俘囚料があてがわれる。税金が免除されたり衣食を賜わったりしている。ある種の生活保護。差別。反乱を恐れていたので優遇措置を取ったのだが、反乱は多数起きている。ただし、その武勇をうまく使った例もあり、貞観11年(869)の太宰府からの報告には、新羅の海賊に対して正規兵は弱かったが、俘囚は一を以て千に当たる勢いだった。
 なぜ元々は主に関東から移り住んだ日本人なのにこうも違うのか。
 ・そもそも関東人自体が勇猛
 ・北の大地で数百年間生きてきたので強い

 

日本書紀P.29 佐渡島に粛慎が来ているが、佐渡島にオホーツク人の遺跡はないと思う。そうすると、粛慎の実態はオホーツク人と言いきれないのではないか?

 

大山説 欽明 → 敏達 → 蘇我馬子 → 舒明 → 蘇我蝦夷 → 蘇我入鹿
稲用説 欽明 → 敏達 → 蘇我馬子 → 蘇我蝦夷 → 蘇我入鹿 → 敏達の曾孫孝徳が奪還

 

 

 

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エミシの群像記事一覧

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 「第4回 「エミシ」という発音に悪意はあるか」で述べた通り、『日本書紀』に「エミシ」という言葉が現れるのは初代神武天皇のときですが、次に現れるのは景行天皇のときです。景行は12代目の天皇とされており、実在に関しては裏付けは取れないものの、『日本書紀』には以下のようなことが記述されています。 景行は、側近である武内宿禰(たけしうちのすくね)を北陸と東方諸国の視察に派遣します。武内宿禰は2年後に帰還...

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ただいま制作中! 『日本書紀』によると、敏達天皇10年(581)閏2月、蝦夷数千人が辺境を侵し荒らしました。この「辺境を侵し荒らした」というのは、やはりさきの上毛野君田道のときと同様、気候の寒冷化の影響による蝦夷勢力の南下によって倭国人と蝦夷の間で起きた摩擦のことかもしれません。 しかし理由はどうであれ倭国と蝦夷との間に紛争は起きました。そして朝廷はこの機会を蝦夷を服属させるチャンスと見ました。朝...

ただいま制作中! 『日本書紀』によると、舒明天皇9年(637)、蝦夷が叛いて入朝しなかったので、舒明天皇は大仁上毛野君形名(だいにんかみつけののきみかたな)を将軍に任じ蝦夷を討たせました。大仁というのは、推古天皇11年(604)12月に定められた位階制度の「冠位十二階」で上から3番目の位階なので、形名は地元の上毛野(群馬県)にあっては独立領主に近い立場にあり、それと同時に朝廷においては高位の貴族で...

ただいま制作中!日本書紀によると、乙巳の変の2年後の647年に渟足柵が、翌年には磐舟柵が造られました。この「柵」とは何でしょうか。これは歴史用語では「城柵」と呼ばれているものです。城柵については先日7月30日の歴旅やじきた楽校でも話しました。簡単に言うと、蝦夷の土地を支配するに当たって、その拠点となる施設で、東北地方の場合は「○○柵」と呼ばれていました。文字通り、当初は木で作った柵で周りを囲まれて...

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ただいま制作中! 和銅元年(708)、朝廷は越後国内に出羽郡を設置したが、それが発展し、和銅5年(712)9月23日、太政官の奏上により出羽国を置くことを許可した。そして10月1日には、陸奥国から最上・置賜二郡を割いて出羽国に附けた。3年前の佐伯石湯らの出羽方面の征討の結果、出羽方面の経営は安定し、建置へとつながったのだろう 翌和銅6年(713)12月2日、陸奥国に丹取郡を置いた。現在の大崎市附近...

ただいま制作中! 養老4年(720)9月28日、陸奥国から女帝元正の朝廷に驚くべき報告が上がった。蝦夷が反乱して陸奥国按察使(あぜち)で正五位上の上毛野朝臣広人(かみつけののあそんひろひと)を殺害したというのだ。さきの蝦夷征討は和銅2年(709)なので、それから11年にして重大な事件が発生したわけである。按察使は国司を監察する地方の高官だ。全国に按察使が置かれたのは前年の7月13日なので、設置後早...

ただいま制作中! また大きな事件が起こった。神亀元年(724)3月25日に朝廷に届いた陸奥国からの知らせによると、海道(大崎から桃生・牡鹿を経て三陸方面に伸びた道)方面の蝦夷が反乱を起こし、大掾(国の三等官)で従六位上の佐伯宿禰児屋麻呂(さえきのすくねこやまろ)を殺害したのである。さきの上毛野広人の殺害から4年しか経っていない。朝廷は4月3日、殉職した児屋麻呂に従五位下を追贈するとともに、7日、式...

ただいま制作中! これまで、出羽国の最前線である出羽柵は、現在の山形県庄内地方にあったが、天平5年(733)12月26日に、秋田村の高清水岡(秋田市)に移転させられ、出羽国の範囲が北に拡充された。また、雄勝村に郡を建て、民を居住させた。なお、出羽柵は天平宝字元年(757)頃から秋田城と呼ばれるようになる。 天平8年(736)4月29日、陸奥・出羽で功労のあった郡司と帰順している蝦夷27人に爵位が授...

ただいま制作中! この頃聖武天皇は、奈良東大寺の大仏を造立していたが、表面に塗る金をどう工面するか困っていた。ところが、天平勝宝元年(749)2月22日、陸奥国小田郡(宮城県遠田郡涌谷町)からはじめて黄金が貢進されたのだ。国内初の産金である。聖武は、内心では必ず金が手に入ると念じていたので、金がみつかったときの喜びは限りなかった。しかし、陸奥で金が発見されたことにより、朝廷の北への領土拡張欲が増幅...